制度疲労という難問への挑戦 その2

学校の制度疲労を克服するために大切なことの一つに、高校入試のあり方があります。

H県とS県では、高校入試に用いる調査書の考え方が180度違います。

まず、H県は本年度末の入試から、調査書の内容を大幅に削減する方針を示しました。各教科の評定以外は、部活動の成績や特別活動(生徒会)などの記録、欠席状況も記載しないとしたのです。そのうえで受験生には、自己表現を課します。プレゼンテーションなど生徒独自の工夫も受け入れるようです。

H県はもともと調査書そのものを不要なものと考えているようで、かねてから文部科学省に廃止の許可を求めてきたのですが、学校教育法施行規則という「法の壁」に阻まれて実現できないでいました。そこで、今回学業成績以外は姓名などの基本事項と学習の評定だけに記載事項を限定したのです。

対照的なのがS県です。読売新聞(11月1日付)が報じたところによれば、S県立高校では、部活の実績や生徒会活動などを点数化するそうです。本年度の進学説明会で明らかにしたとのことですから、本年度末の入試から導入するのでしょう。

ちなみに、学力テスト500点に対し、調査書の点数配分は、成績評定が210点、特別活動(部活動や生徒会活動など)に上限67点を配し、その他(英検2級以上、囲碁・将棋各四段以上など)としている。特別活動のうち生徒会活動については、生徒会長と副会長に限定しており、部活動については全国大会・県大会への出場、入賞、優勝などとされています。

(私の知るところでは、S県では各学校で比率が違うようです)

 さて、入試を実施するにあたって欠かせない条件とは何でしょうか。

 さまざまな点が挙げられると思いますが、ここでは、二つだけ取り上げます。

一つは公平性です。特定の受験生に不利になるような基準で選考することは許されません。公平性を担保するには、入試の合否を決める基準をあらかじめ公表することが必須です。内容は違っても、いずれの場合も問題はないように思います。ここには書きませんでしたが、H県も配点について公表しています。

もう一つが、中学校での学習活動を阻害する内容になっていないかということだと思います。そんなこと、入試に関係ないと言う人もいるかもしれませんが、入試で何が問われるかは、中学校の授業や特別活動に大きな影響を与えます。五教科の学力テストを課している点では両者共通していますが、それ以外のところでは大きく違います。どちらが中学校の教育にとって有益かという視点は欠かせません。

一見、特別活動や部活動などを合否判定に用いるS県の高校の方が、中学校での生徒の頑張りを広く視野に入れているという点で妥当性が高いように感じます。しかし、本当にそうでしょうか。

例えば、生徒会活動について言えば、生徒会長と副会長にならなければ原則加点されません。他の各員会の委員長レベルではだめだという根拠がよくわかりません。また、加点されるとなると、いざ生徒会長に立候補しようとしても周囲から「入試のためだろう」というやっかみが入り、立候補しにくくなるという事態が生まれるかもしれません。そもそも、生徒会活動は入試のためにするものではありません。その辺をどう考えているのでしょうか。

特別活動について研究している、ある大学教授に「特別活動というのは、絶対にこれだけはやらねばならないという制約がないからこそ、意義のある活動ができる」と聞いたことがあります。所謂「ひも付き」ではないところが、特別活動の良さだというわけです。体育祭のプログラムや合唱コンクールの楽曲には、制約がありません。そもそもそれらをやらなければならないという規制はありません。自由度が高いからこそ、そこに創意工夫が生まれるのです。純粋な活動を保障するなら、入試とは完全に切り離した方がリーダーである生徒会長ものびのびと活動できるのではないでしょうか。

部活動についても、全国大会出場などが挙げられていますが、個人でも団体でも同じように扱うのでしょうか。総じて団体競技の方が勝ち上がるのが難しいものです。団体競技は一人の思わぬミスによって上の大会に進めなくなることもあります。ミスをした生徒が、試合後も自責の念を長く引きずることのないように願うばかりです。生徒会活動と同じく、部活動も、勝つためだけにするものではありません。そもそも、全国大会や県大会といった大きな大会への出場は、生徒が成長するために必要な「手段」であって教育的な「目標」ではありません。生徒は「目標」と考えているかもしれませんが、顧問までが結果を「目標」や「目的」にしてしまえば、負けた瞬間に生徒に何も残りません。また、勝ち上がれなかったチームや個人を心からねぎらえる気持ちが育つとは思えません。

私の狭い知見によるものかもしれませんが、どちらかというとH県方式の方が入試のやり方としては妥当だと思います。もし、S県が生徒会活動や部活動を入試に結びつけることによって活性化しようと考えているとしたら、まさに本末転倒です。生徒同士が、互いに疑心暗鬼になる場面が増えるだけです。

(作品No.182RB)

 

児童生徒理解とは何か

以前から、生徒指導は「生徒理解に始まり生徒理解に終わる」と言われ、子どもの言動や振る舞いを細かく観察するのはもちろん、家庭環境、成育歴などできるだけ多くのことを情報として知っておくことが大切であるとされてきました。今でも、その基本は変わっていないと思います。

1981年(昭和40年)に当時の文部省が示した『生徒指導の手引き』では、生徒理解の対象を「能力」「性格」「興味」「要求」「悩み」「交友関係」「環境条件」など、かなり広い範囲に求めています。また、2010年(平成22年文部科学省)の『生徒指導提要』にも、次のような記述があります。

「児童生徒を多面的・総合的に理解していくことが重要であり、学級担任・ホームルーム担任の日ごろの人間的な触れ合いに基づくきめ細かい観察や面接などに加えて、学年の教員、教科担任、部活動等の顧問などによるものを含めて、広い視野から児童生徒理解を行うことが大切です」(p.2)

でも、いずれの記述も「生徒理解とは何か」について、直接説明しているわけではありません。いくら「多面的」「総合的」に「広い視野」から理解せよと言われても、私たちは児童生徒のすべてを理解することはできません。なぜなら、人は日々変化するものだからです。変化を続けるものを完全に理解することは理論上不可能です。それを「いつか、すべてを理解することができはずだ」と考えてしまうと、教師は何かあったときに「もっと理解できていれば」と悔やむことになります。

結論を言えば、「生徒理解」とは、児童生徒によって「この先生は、自分のことをわかってくれている」と感じる瞬間のことをいうのだと私は思っています。いや、それは方向が違うだろうと思われるかもしれません。でも、そう感じるのは私たちが「教師が生徒を理解する」という意識が強いからだと思います。

 教師がいくら児童生徒のことを十分に理解していると思っていても、子どもの方が「もっとわかってほしいことがある」と思っていれば理解したとは言えないでしょう。そもそも人が人を「完全に」理解するということ自体が不可能なのですから、大切なのは、一から十まで理解することではなく、まずは「私はあなたを理解しようとしていますよ」というメッセージを児童生徒に届けることです。

 そのメッセージを伝えるためには「相互作用」が必要です。多くの会話を交わし、一緒に作業するなどして、互いが互いをわかろうとし合える関係をつくることです。例えば、教師がAさんに言葉をかければ、その言葉によってAさんの物の見方や考え方に影響を与えます。つまり、厳密に言えば、Aさんは教師の言葉かけによって微妙に変化しているのです。その変化したAさんが、今度は教師に何かしらの反応を返します。それを受けて教師はAさんの新しい面を見つけます。そのとき、教師の方もAさんに対するイメージに微妙な変化が生まれます。これが「相互作用」であり、その繰り返しによってAさんは「先生は自分のことをわかろうとしてくれている」と感じるようになります。そして、最終的に「わかってくれる」という信頼関係につながります。

成育歴や家庭環境、交友関係を知ることはこうした「相互作用」が、より自然に進めるために重要なのです。

抽象的な書き方になりましたが、結局「児童生徒理解」とは、相互に分かり合おうとする関係のことをいうのだと思います。教師が教師の判断で「この子はこういう子だ」と結論づけた時点で「相互作用」は停止し、子どもはどんどんわからない存在になっていきます。

(作品No.96AB)

PTA問題を考える

最近、小中学校のPTAに対する「異議申し立て」が多くなっています。都道府県の中には、全国組織である日本PTA全国協議会からの脱退を決めたところもあります。毎年納入が実質義務化されている割に、その成果が実感できないからでしょう。

 そもそもPTAの起源はどこにあるのでしょう。このことについて日本PTA全国協議会のホームページには次のように示されています。

「日本のPTAは、米国教育使節団報告書から始まった」ものであり、「アメリカは、日本社会の徹底した民主化を図るため、戦後いち早く教育専門家を派遣し、その基盤となって社会を支えてきた教育について抜本的な改革を進めようとした。」「使節団は、昭和21年(1946年)3月に来日し、早くも4月7日に報告書を発表し」この中で、PTAに関し次のようにふれている。」

「教育といふことは、言ふまでもなく学校のみに限られたことではない。家庭、隣組その他の社会的機構は、教育において果たすべき夫々の役割を持っている。新しい日本の教育は、有意義な知識をうるために、できるだけ多くの資源と方法を開拓するよう努むべきである。」と、教育に果たすべき家庭の役割の重要性をうたっている。」

「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)はこうした基本方針を元に、一般成人に対して民主主義の理念を啓蒙することが、新生日本の政治基盤形成上、あるいは占領政策の目的達成上不可欠の要件であるとして重視し、そのための有効な方途としてPTAの設立と普及を奨励する方針を掲げた。GHQの方針を具体的に推進したのは、中央においてはCIE(民間情報教育局)、地方にあっては地方軍政部であった。CIEは文部省を通じて、全国的にPTAの指導、・支援を行ったが,地方では、地方軍政部の指導が大きかった。地方軍政部は制度的にはアメリカ太平洋陸軍総司令部に属するが、実質的にはGHQの下、地方段階で占領政策の実施に当たり、その状況を監視する機関として機能した。

任務の中には、民主的に創設され行動する専門協会とPTAの発展をはかること、PTA会合のために学校施設の利用を促進すること、が掲げられており、地方での実地のPTAの普及・指導に大きな役割を果たした。」(下線は引用者による)

 長い引用となってしまいましたが、ここに記載された内容には「努むべき」という表現でもわかるように、あくまでも「努力義務」だったと解釈するのが妥当でしょう。しかし、戦後すぐの段階でアメリカに盾突くようなことはできるはずもなく、全国の学校にPTA組織が広がったことは容易に想像できます。

 「努力義務」には強制力がありません。PTAの組織をつくることも、そこに加入することも任意であるわけです。この任意性が、PTA離れの背中を押しています。

つまり、PTAが任意の団体であるにもかかわらず、実質的には強制的に入会させられることに理不尽さを感じる人が増えてきたということです。多くの学校では今でも入会届すら求めていないでしょう。入学したら自動的に会員になるのが常識のようになっています。

それでも、PTA会員になってよかったと思えるとか、入会して当たり前だという共通認識があれば、問題にはなりませんが、今は、そのどちらもが揺らぎ始めています。それが、PTA問題の中核です。

例えば、PTA活動を行うには中心的となる役員を決める必要がありますが、共働きが増え、専業主婦の人が減ったことによって、PTA役員として決められた会議や行事の準備に駆り出されることが物理的に無理であったり、苦痛と感じたりする人が増えています。中には、PTAの会議に出席するために仕事を休まなければならないことも起きてきます。給与支払いが時給計算となるパート勤務などの場合は、特に拒否反応が強くなって当然です。近年の貧困化問題を考えても、家計に影響が出てしまう役員にはなりたくないというのが本音でしょう。また、親の介護などで夜の会議に出席できない場合も考えられます。

それでも役員は決めなければならないわけですから、そこに何らかの無理が生じます。学校によっては立候補者がいなければくじ引きによって強制的に決めるところもありますし、選挙の結果をもって有無を言わせず決定するところもあります。そうなると、決められた方は、押しつけられたと感じることになります。学校によっては、学級懇談会を開き、引き受けられない理由を表明できるようにしているところもありますが、これもなかなか難しい。どこまでを妥当な理由として認めるかという基準がはっきりしないからです。PTAの規約に詳細な基準を示している場合もありますが、それでも、他の人の前で家庭の事情を表明しなければならないとなると、かなりの苦痛です。「そんなこと理由にならないでしょう」という周囲の雰囲気の中で、泣きながら訴えざるを得ない人もいます。

また、個人情報保護法を盾に理詰めで抵抗する人もいます。個人情報はそれを求める者(組織や団体)が利用目的をあらかじめ対象者に明示することが義務づけられています。そのため、PTAが個人情報を得るためには、PTAが利用目的を明らかにしたうえで、独自に情報を収集するべきであるというわけです。PTAの活動を行うために学校から個人情報を得るのは漏洩に当たり、違法行為だという主張です。

PTA活動はこれまで、学校や教育委員会では十分に対応できない学校運営上の事柄を陰で支える役目をしてきました。登校時の児童生徒の安全を守るための見守り(立ち番)活動や公費では対応できない費用の捻出(備品購入を除く)などはそれにあたります。

また、PTA役員は保護者の代表として保護者の意見を学校運営に反映させる場としての機能を果たしてきたことも見逃せません。価値観が多様化する中にあっては、気づかないうちに学校と保護者の間の感覚のズレが大きくなってしまうこともあります。そんなとき、PTA会長や本部役員を通して学校に申し入れを行うことができるわけです。

そういう意義があることについて、これまで学校は十分に説明してきたでしょうか。PTAは学校が責を負う組織ではないとはいえ、どこか、PTAは「あって当たり前」、「保護者であれば会員になって当たり前」という意識があったことは否めないのではないでしょうか。もしかしたら、「最近の親は、学校に世話になっているという感謝の気持ちがない」と嘆いていた部分もあるのかもしれません。そうした姿勢が、社会の多様化や私事化の影響を受けて露わにされた結果、会員になりたくないという人が増えている原因の一つとなっているのではないかと思います。

対策としては、任意であることを前提にしながらもPTA会長や学校長が積極的にその意義を訴えることが、まず、第一でしょう。そして、組織のあり方を柔軟に考えることも必要です。

例えば、入学説明会において新入生の保護者に向けてPTAの存在意義を説明し、同意書を提出してもらうようにすることも考えられます。「そんなことをしたら、PTAに入らない人が増えて活動ができなくなる」という人もいるかもしれませんが、このまま何もしなければ、おそらく、今後数年から10年くらいの間に、さらに入会拒否が増えていくだけだと思います。今なら、まだ多くの人の賛同は得られると思います。先手を打つためにもすぐに実行すべきでしょう。

また、PTA活動をエントリー制にすることも考えられます。すでにある小学校では実践に移しているそうですが、行事や各種の取組ごとに協力者を募るというやり方です。これなら強制感は軽減されるでしょう。活動に協力する人が少なければ、意思を表明した人数で実行可能なことを考えればいいのです。

 ただ、このやり方は入会の任意性の問題を解決する手段とはなりません。根本的に改善しようとするなら、思い切ってPTAの看板を外し、「保護者会制度」にするという方法もあります。そもそもPTAの「P」は保護者、「T」は教員ですから、「保護者会」とすることで、学校から独立した組織であることが明確になります。そうすれば、活動は保護者が主体的に決めることができます。また、保護者である限り自動的に入会させられても違和感は軽減されるでしょう。小規模の学校では、創立当初から実施しているところもあります。

ともあれ、今、PTAの本質が問われています。PTAにしかできないことは何かについて、学校、教育委員会も含めて考え直す時期を迎えていることは確かです。

(作品No.181RB)

鳥の親心二つ

今から15年以上前のことです。知り合いとゴルフをしていたときティーアップをしようとしたら、不自然な飛び方をしている鳥が目に入りました。天敵にでも襲われたのか羽に傷を負っているようで、いまにも墜落しそうにフラフラと飛んでいます。パニックを起こしたようなすさまじい鳴き声も出しています。私は「大丈夫ですかね」と後ろにいたAさんに声をかけました。Aさんは、森林伐採のプロです。Aさんは、笑いながら言いました。「あれはわざとやっているんです」。

Aさんによると、これは鳥類の一部に見られる「偽傷」(ぎしょう)と呼ばれる行動で、翼を骨折して飛べないようにふるまったり、傷を負って飛べないでいるかのような動作をしたりして、巣への侵入者の注意を引き、卵やひなから外敵を遠ざけようとする行動なのだそうです。その話を聞いて、もう一度「演技」している親鳥を見ていました。「演技」をやめてまっすぐにどこかへ飛び去る姿を見た瞬間、私は、ただただ感動しました。

 もう一つ。

「親鳥は、巣立ちの時が近づくと、雛鳥にエサをあげなくなります。そうなると、おなかが空いてくるので、雛鳥も自分で飛んでエサをとりにいかざるを得なくなります。」(松尾英明2022『不親切教師のススメ』さくら社、p159)

鳥の種類にもよるのかもしれませんが、鳥は子どもの自立を促す方法を本能的に知っているというわけです。

 さて、人間の場合はどうでしょう。近年(と言ってもかなり前からですが)家庭の教育力が低下していると、まことしやかに指摘する人がいます。本当にそうなのでしょうか。

 教育社会学者の広田照幸氏は、1937年(昭和12年)の柳田國男の講演記録を根拠につぎのように指摘しています。

(柳田は)「親は教育の担い手としては「無力」であり、家庭は「教育の主たる管理者」ではなかった、というのである。「昔は家庭が責任をもってしつけや教育をちゃんとやっていた」という、今のわれわれが抱くイメージとちょうど逆のことが語られているのである」1)

「家族が直面していた多くの問題の中で、子供の問題は、優先順位が高くなかった。ましてや、子供のしつけや教育の問題は、簡単に無視できる程度のものだった。(中略)ろくに野良仕事もしないで子供のしつけや教育に時間をかける嫁がいたら、村中の笑いものになったはずである。(中略)乳幼児期における母親とのスキンシップが大切だとも考えられていなかったし、子供の成長や成功を自分の自己実現の一部とみなすような観念も希薄であった。」2)

 つまり、私たちがよく耳にする(あるいは口にする)「最近の家庭の教育力は低下した」という言い方は正しいとは限らないということなのです。

そういえば、高齢者の方から「昔は家に帰って、今日は先生に叱られたと親に不満を漏らすと“お前がわるいことをしたからだろう”と逆に厳しく叱られるから、学校で叱られたことは家では隠していた。」という話を聞くことがあります。言い換えれば「最近の親はなんでもかんでも学校に文句を言うが、昔は家でしっかりしつけていたものだ」というわけです。  

しかし、広田氏の指摘に当てはめれば、学校のことは学校に任せっきりにしていたというわけです。だから、ことさらに文句を言う必要もなかったのです。ただ、柳田國男が講演をしたころは、家庭よりも地域の「若者衆」などと呼ばれる地域組織の制約が厳しく、今と比べると地域には圧倒的な教育力(強制力?)は存在していたようです。そこで、若者は村独自のルールを叩き込まれたわけです。でも、それは「家庭」が子どもに教育しなくてもよかったことの裏付けにはなっても、家庭に教育力があったという根拠にはなりません。

このように考えてくると、今の家庭は教育力が衰退したのではなく、むしろ教育し過ぎ(子どもに関わりすぎ)なのかもしれません。些細なことでも学校にクレームをつけてくる親が増えたと言われますが、それは、親の子どもに対する関心が高まりすぎて「気になって仕方がない」からなのだと思います。かつてのように、子育てやしつけの優先順位が低ければ、親にとって子どもの言い分など「どうでもいい」ことと考えても当然です。だから、まともに受け付けなかったわけで、そのことを今の高齢者の方は「厳しくしつけられた」と振り返っているのかもしれないのです。そういえば私も、小さいころにはよく「子どもは黙ってろ」とか「大人の話に入ってくるな」と、一方的に叱られたものです。

昔の大人は、子どもを子ども扱いすることで、逆に子どもは冒頭二つ目に挙げた雛のように早く一人前の大人になりたいと思えたでしょう。でも、子ども時代は面白くないことや理不尽な扱いに耐えなくてはいけない面も多々あったと思います。逆に、今の子どもは、親がかまってくれます。子どもの訴えを聞いて学校に乗り込んでくる姿は、どこか冒頭一つ目の「偽傷」する親鳥に見えないこともありません。子を守るための必死の行動なのです。ただ、それによって子どもは一時的には平穏に過ごせるかもしれませんが、自立するタイミングを失いやすくなります。

親の対応の仕方は、社会全体の価値観や環境の変容にも大きな影響を受けます。昔のような接し方をすれば子どもは自立できるという単純な問題ではありません。昔、存在した「若者衆」のような地域社会の「受け皿」はもうないのですから、本当に効果を上げようとすれば、社会全体を昭和の初期に戻さなければいけません。そんなことはできるはずがありません。結局は、社会の現状に合わせて最適なものを模索するしかないのです。

今、学校に求められることは、子を思う親の心を十分に尊重した上で、子どもの自立を促すには何ができるかを考えることでしょう。社会の状況など現状を考えれば、子どもを見守りながらも、少しずつ子どもにかける手を引いていくことが必要です。

そして、最も大切なのは、どのタイミングで「偽傷」する親鳥になるか、どのタイミングでエサを与えない親鳥になるか、それを保護者とともに考えていく姿勢だと思います。

(作品No.180RB)

  1. 広田照幸(1999)『日本のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、p25)
  2. 前掲書、p28

「習っていない漢字はひらがなで書く」は意味あるか?

初めて小学校に勤務(教頭)したとき、どうも腑に落ちないことがありました。先生が「習っていない漢字は使わない」ということでした。確かに、習っていない漢字は読めないでしょうが、黒板に書くときに読み仮名を書けばいいだけのことではないかと思ったのです。私は、中学校で長く授業をしてきましたが生徒がすでに習っているかどうかなど、あまり意識したことはありませんでした(新出漢字は必ず1時間かけて覚えさせましたが)。

時々、各教室の授業を見させてもらっていましたが、教員が黒板に習っていない字を書くと、子どもの中から「先生、その漢字まだ習っていないよ」と声がかかります。指摘を受けた教員は「ああ、そうだったね」といって、わざわざ消して平仮名に書き直しているのです。

例えば、「登校」とかくとき、「登」という字を習っていないと「とう校」と書きます。しかし、こうした熟語は全体のフォルムも大切なのです。大人が、「とう校」というフォルムを見ると、かなりの違和感があります。どのみち、習うのですからそのまま「登校」と書いて、読み仮名を大きく横に書いてやればいいのではないかと思います。熟語の本来の姿を早くから見せた方が、日本語特有のフォルムがイメージしやすくなり記憶にも残りやすいと思うのです。また、ノートに写させるのなら「読み仮名を付けた感じはひらがなでもいいよ」と一言添えればいいだけです。

そうすることで先生の負担も大幅に減ります。先生が習っていない漢字を書けないとなると、どの漢字を何年生で習うかをすべて頭に入れておかなければなりません。ベテランの先生ならまだしも、新任の先生にはそれだけでかなりの負担になるでしょう。

その上、早い段階でできるだけ多くの漢字を見せることで、子どもたちは、自然に覚えるでしょう。わざわざ6年生で習う漢字だからといって、それまで目に触れさせないようにするのは、漢字を習得させる上でもマイナスなのではないかと思います。極端に難しい漢字でなければどんどん目に触れさせてやればいいと思います。

公立小学校教諭で多数の著作のある松尾英明氏は、

「「習った字しか黒板に書かない」を忠実に続けていると、配当表にある漢字以外は一切読めないということになる。」(『不親切のススメ』さくら社、2022、p34)

と指摘しています。

漢字は、読めるよりは読めた方がいいに決まっています。学習指導要領も、最低限必要なこととして学年別配当表を示しているわけですから、その学年で習うべき漢字を扱わないのは問題でしょうが、上の学年の漢字を覚えてはいけないなどと言っているわけではありません。松尾氏は低学年であっても「漢字のクイズ」として、河馬、駱駝、縞馬、土竜など絶対に読めないような漢字を示すこともあるそうです。実際に示すときには、「今日は、哺乳類シリーズだよ」など、テーマを設定する(これが考えるヒントとなります)そうです。子どもたちは、「普通はできないけど、できる子はすごいよ」という課題はとても好きです。

熟字訓までいかなくても、日常的によく耳にする漢字くらいは、学年配当表を気にすることなく、黒板や自作プリントに使ってやればいいと思います。その方が、漢字に興味を持つようになっていくと思います。毎日、決められた漢字を書き写すような宿題などしなくてもきっと書けるようになると思います。見たことのある漢字は、書くことへの抵抗も軽くするものです。

最低限のルール(学習指導要領に定められた内容)さえはずさなければ、いくらでも工夫することはできると思います。こうした思考は、学校の無駄をなくし、効率的な授業を構成するためにも大いに駆使すべきです。

(作品No.179RB)

不登校はマイノリティか?

「不登校は、もはやマイノリティとは言えない」

先日某市の市長が、ある研修会の開会挨拶で述べた言葉です。その市長は、自分の市内の不登校の人数を具体的に挙げながら、不登校児童生徒が急増していることに危機感を表明しました。全国でも不登校児童生徒の数は上昇の一途です。文部科学省が10月27日に公表した「問題行動・不登校調査」(全国の学校を対象。2021年度実施)によれば、「病気や経済的理由などとは異なる要因で30日以上登校せず「不登校」と判断された小中学生は24万4940人」で過去最多となっています。最も多いのが中学校で、中学生全体の4%を越えています1)。これは、コロナ禍の影響を差し引いたとしてもかなりの数です。「不登校」を単純に「問題」とすることには抵抗を感じますが、学校に行けないことによって多くの子どもたちが、悩み、苦しんでいることは確かです。市長が危機感を口にするのも無理のないことでしょう。

それにしても、4%というのは、かなりの数です。全校生徒500人の中学校なら20人が不登校となっていることになります。この規模の中学校の全校の学級数は13クラスあまりですから、各クラス1~2人いることになります。しかも、これはあくまでも平均値ですから、学校によっては3~4人くらいいても不思議ではありません。

ただ、見方を変えれば96%の中学生は登校できているのです。この96%の子どもたちはなぜ登校ができているのでしょうか。実は、それを考えることが不登校現象の根本的要因に迫るために欠かせない視点なのです。現在曲がりなりにも登校できているすべての子どもが、楽しく、充実した学校生活を送っているとは限りません。もしかしたら、大半の子は「グレーゾーン」に入る「不登校予備軍」なのかもしれないのです。

「グレーゾーン」とは、森田洋司氏が『「不登校」現象の社会学』(1991年、学文社)において、登校している子どもたちの学校に対する結びつきの強さ(ソーシャルボンド)は、個々に違っており、いつ不登校になってもおかしくない子どもが一定数いることを明らかにしたものです。そうした子どもたちは、学校に対する弱い絆しか持ち合わせていません。それが何に由来するのかを知ることが、すでに不登校になっている子どもたちへの支援策にもつながるのです。

こうした状況の中、教員は誰もが、不登校を減らすために全力を尽くしています。学級担任が密に連絡をとり、家庭訪問をし、スクールカウンセラーなどの専門家の力を借りながら、校内でのケース会議を開いて対応を協議するなど、可能な限りの対応を行っています。それでも、不登校生徒は増え続けています。なぜか。それは、多くの場合、学校の対応が不登校児童生徒に限られてしまっているからです。それが、対応の基本であることは確かです。また、一定の効果も上げてきたのも事実です。でも、対応を不登校の子にだけに限っていても状況を大きく変えることは非常に困難です。誤解を恐れずに言えば、それはある意味で「対症療法」にとどまっていると言わざるを得ません。つまり、不登校の要因を子どもの「個人」の中にのみ求めようとしては、根本的な要因に迫ることはできないのです。このことは、先に挙げた森田氏が約30年前に、すでに指摘していることです。

不登校に至った理由は、さまざまです。一人ひとり違うと言ってもいいくらいです。でも、大きな共通点があります。それが学校に対する抵抗感です。

その抵抗感の由来が、自分自身の気質の問題であるのか、教員に対するものなのか、友だちに関することなのか、あるいは学級というシステムそのものに対するものなのかは、生徒によって違うでしょうが、どの子にも学校に対する「抵抗感」は存在するのです。もし、何の抵抗感もないのであれば、おそらく登校できているでしょう。重要なのは、その抵抗感は、現在登校できている生徒たちの中にも存在しているということです。だからこそ、登校できている子がどういう理由で登校できているかを細かく分析し、学校に対してどのようなイメージを持っているのかを把握しておく必要があるのです。全校生徒にアンケートを定期的にとったり、教育相談の機会を増やしたりしながら、ぎりぎりのところでかろうじて踏ん張っている子どもたちから学ばなければなりません。そうした子が、今現在、学校に対してどんなことを感じているか、それを把握することがすべての生徒を救うことになるのです。

不登校の原因を登校できない子の中に求めても限界があります。なぜ学校に行けないかを明確に説明できる不登校生徒は多くありません。本人にもよくわからないことが多いのです。何だかよく分からないけれど教室が怖いと感じる子もいますし、何のために学校に行くのか分からなくなっている子もいるでしょう。いずれにしても、体が学校に向かなくなってしまってからでは、本人に冷静に自分を分析しなさいと言ってもできるはずがありません。

だからこそ、「予備軍」の生徒に教えてもらわないといけないのです。そのための第一歩として、瀬戸際に立っている生徒を見つけ出さなければなりません。そのとき初めて学校には、これまで見えていなかったものが見えてくるはずです。学校と生徒をつなぐ力、つまりソーシャルボンドのどこが弱くなっているのかが見えてくるのです。

一部の生徒を除いて、生徒は学校が楽しいと感じられれば学校に来ます。そう思えない生徒に、何がそう思わせてしまっているのか、私たちは謙虚に目を向けなければなりません。

こうしたことを進めれば、これまでの学校の常識を根本から見直さなければならない壁に当たるかもしれません。でも、それを恐れていては、おそらくこれからも教員は増え続ける不登校の対応に忙殺されていくでしょう。しかも、それは「本丸」ではない可能性が高いのです。もし、そうだとすれば教員はただ疲弊するしかありません。

持って回った言い方になってしまいましたが、結局は教員を始めとする学校関係者が、学校のあり方を根本から見直す覚悟をするしかないのです。不登校はもはや単なる「学校不適応」の枠組みではとらえられなくなっています。「不適応」と考える視点は、不登校の苦しみを最終的に個人の責任に委ねてしまうでしょう。なぜなら、「不適応」という言葉が学校が絶対的に正しいという意識によって支えられているからです。「正しい」学校には、適応すべきだという姿勢からは、自分たちのあり方や学校のあり方に目が向けられることはありません。

全校にアンケートをすれば、学校が混乱するだけだと思うかもしれません。解決しようのない問題が出てきたらどうするんだという人もいるかもしれません。でも、だからこそやるべきなのです。そこを避けているうちは、言われのない苦しみを一身に受けてしまった不登校の児童生徒を救うことはできないでしょう。そして近い将来、不登校がさらに増え、抜き差しならない状態になってしまったら(今でも十分深刻ですが)、学校の先生には任せておけないとして、公設民営化などによる市場原理の波に吞み込まれてしまうかもしれません。すでに公立学校離れは進んでいます。それは、必ずしも都市部に限ったことではありません。そうなれば、教育格差は今以上に広がります。そこに、教育の本質は残されているのでしょうか。

冒頭の市長の言う通り、もはや不登校はマイノリティではありません。「グレーゾーン」を含めれば、学校に抵抗感を抱く子どもたちは、すでにマジョリティなのかもしれないのです。

(作品No.178RB)

「考える」子どもをどう育てるか

小学校の教頭だったころ、中学年の習字の授業を初めて担当したときのことです。授業開始直後、一人の児童が前にやってきて「先生、半紙を忘れてきました」と私に伝えるのです。それまで中学校の授業しか経験のなかった私は、何が言いたいのかよく分かりませんでした。しかも、半紙を忘れたという事実を報告したあと、その場(教卓のすぐ近く)にじっと立ったまま何も言わないのです。要は、「私はどうしたらいいんでしょう。先生、指示をしてください」というわけです。私は、その子にあえて「で、どうするの?」と(優しく)尋ねました。

すると、その子はすごく驚いた様子で困惑しているのです。その姿を見て、またびっくりしました。おそらく、その子は先生にそういう言い方をされたことがこれまでなかったのでしょう。これまでの先生なら、多少のお説教を聞かされた後、予備の半紙をもらうとか、今日は誰かに借りて明日借りた分を返しなさいといった具体的な指示を受けていたのだろうと思います。つまり、その子は忘れ物をしたときはこうするものだということをそれまでに学習していたので、自分のやるべきことはやったと思っていたのです。それだけでなく、黙って隠していることを考えたら自分はきちんと対応できたという満足感さえも持っていたのかもしれません。とにかく、長年中学生を相手にしてきた私にはその子の表情や態度にかなりの違和感を抱きました。もちろん、子どもには何の責任もありません。それまでの指導にその子は忠実に従っているだけです。

私が、しばらく授業でそういう対応を続けていると、子どもは「忘れ物をしたので〇〇君に借りることにしました」と言うようになりました。別に都度の報告はいらないよとは思いましたが、突っ立っているだけのことを思えば、忘れ物をした自分はどうすればいいかを自分で考えて、授業が始まる前に友だちに交渉して忘れ物を確保しているのですから、大きな進歩です。社会に出ても、大事な会議で筆記用具を忘れたり、資料の一部が抜けていたりすることはあるでしょう。そんなときに、途方に暮れているようでは会社から「使えない奴」と思われても仕方ありません。臨機応変な対応が求められるのです。

ちょっと内容は違いますが、最近、インターネットのニュースで宿題の功罪が問われるようになりました。全員に同じ宿題を一律に課すことは非効率的であるだけでなく、一人ひとりの子どもにとって本当に必要な学習になっているのかを問われているのです。最近では多くの子が学習塾に通っていますから、塾からも宿題が出されます。そうなると、子どもにとってはかなりの負担になるわけです。まあ、学習塾は家庭で行かせているのだから家庭の責任であると言えばそれまでです。でも、本当にこれが必要なの?と思わせるような宿題を出されると不満を持つ子が増えても仕方ありません。本来一人ひとりに合った内容と量を考えて宿題とした方が、効果的なのは明らかです。

ただ、実際に一人ひとりに違う課題を出すとなると先生は大変です。ただでさえ「超」がつくほど忙しいのに、個々の理解度に合わせた宿題を準備する時間など捻出できるはずはありません。それに、一人ひとり課される量が違えば子どもは「不公平だ」と不満を持つでしょう。個々にレベルの違う宿題を準備し、しかも量までほぼ同じにするなど現実的に不可能なことのように思えます。

しかし、一律に出される宿題に無駄が多いのも認めざるを得ません。例えば、10個の新出漢字を覚えさせようとして、一つ一つ書き方(止め方や、はらいなど)、漢字の意味などを説明した上で、「10個の漢字をすべて10回ずつノートに書いてきなさい」という宿題を出したとします。漢字の得意な子は、もう授業中にマスターしてしまっています。それなのに、家で100字書かなければなりません。逆に漢字が苦手な子は10回ずつ単純に書き写すだけで頭に入るかどうか怪しいものです。教育はもともと予測不可能なものだと言う人もいる(広田)くらいですから、どのような宿題を出しても(宿題を出す前に)その効果を図ることは不可能です。とはいえ、先生の多忙化などの問題がクリアできるのなら、一人ひとりに見合った宿題を出す方が、子どもの力を伸ばすには効果的であることは明らかです。となれば、いかに教員の負担を最低限にとどめ、効果的なアイデアがあれば実行しない手はないことになります。

ここに一冊の本があります。タイトルは『不親切教師のススメ』(さくら社)。著者は公立小学校教諭の松尾英明氏。2022年8月に出されたばかりの本ですが、インターネットを中心に話題になっているので、すでにお読みになった方もいるでしょう。これは、宿題の出し方だけでなく、真に子どもの主体性を伸ばすにはどうすればいいかについて書かれた本です。いわゆる「指示待ち人間」ではなく、自分でやるべきことを見つけて前向きに学習に取り組めるようにするためには、教師が懇切丁寧に指導をすることはかえって仇になるという指摘です。目次をざっと見ただけでも「「楽しい授業」をやめる」「習字の掲示をやめる」「「してあげる」をしない」など、非常に刺激的です。私も、かねてから学校の先生や保護者は「転ばぬ先の杖」を出し過ぎると感じていました。ちょっと考えれば、自分で解決できることなのに周囲の大人が「失敗」しないように「お膳立て」をすることで、できるはずのこともできなくなるだけでなく「何で先に行ってくれなかったの」と文句ばかりを言ったり、自分は何もせず、ふんぞり返って「次、何するの」と偉そうに聞いてくる子どもを育ててしまっている可能性もあるのです。

反論もあるでしょう。「不親切な指導」なんかしたら、ただでさえうるさいモンペから、さらにクレームがくるじゃないかという見方もあるでしょう。宿題をもっとたくさん出してくれないと子どもは遊んでばかりになって困るという保護者もいるでしょう。けれども、私たちは保護者のために授業をしているのではありません。子どものためにしているのです。もし、子どもが家で自分から宿題や勉強をするようになったら、保護者も何も言わなくなるはずです。

そんなうまい話があるものかと思われるでしょう。私もそう思っていました。けれども、『不親切教師のススメ』には実に簡単な方法で、教師の手間もかからず、しかも一人ひとり違う宿題が出せるアイデアが紹介されています。つまり、授業中に小テストを実施し、子どもに赤で「〇つけ」をさせる。宿題は、自分の間違った問題をもう一度やることとし、家では青で丸つけをさせる、という方法です。これなら、理解度に合わせた宿題となります。

授業中の取組として秀逸なものとしては、蓑手章吾氏が示した「自由進度学習」というシステムがあります(『自由進度学習のはじめかた』学陽書房、2022、初版は2021)。教員が教室の前で説明するのは最初の10分程度で、後は各自が自分で決めた「めあて」について自学し、最後に「振り返り」をさせるという授業形態です。教師の説明時間が少なくなれば、その分一人ひとりに直接助言する時間が増えます。教師の机間指導は忙しくなりますが、個々の理解度は非常によくわかるやり方です。最初はあえて「めあて」を低く設定する子がいます。すでにできることを「めあて」にすれば楽だからです。そうすれば「振り返り」で「完璧にできた」と報告できます。しかし、蓑手氏はそういう子に「残念だったね」と声をかけるそうです。そして、今度は、「ぎりぎり達成できない「めあて」」を設定するように指示するのです。十分な机間指導によって、個々の理解度はよくわかっているからこそできる指示です。ほとんどの子はしばらくすると「ちょうどいい」目標設定ができるようになると言います。低学年では難しいかもしれませんが、高学年ならどの学校でも十分に実践可能だと思います。また、一人一台のタブレットが配布された今なら、学習アプリを使えば一人ひとりにプリントを印刷して配布する必要もありません。

周知のとおり、これからの教育は一方的に伝えられる知識をできるだけたくさん記憶するだけでなく、自分で考え、自分で判断する力の育成が求められています。顕著な経済成長も望めず、終身雇用制もほぼ崩壊してしまった現代社会において、ただ受け入れるだけの姿勢では、社会の中で生き抜くことは困難です。ここに挙げた方法なら、受験用の学力を確保しながら、自ら自分を成長させることができます。

それでもなお、そんなことは特別な条件のもとでしかできないと思われる人がいるかもしれません。先に挙げた蓑手氏は千葉大学教育学部附属小学校勤務の経験があります。「ほら、やっぱり特別な人じゃないか」と思うかもしれません。確かに、大学の附属小学校は、一般の公立小学校とは環境は違うでしょう。しかし大切なのは、こういう取組を自分の学校にあてはめて、何かできることはないかと考えることだと思うのです。本に示された内容をそのまま真似をする必要はありません。それぞれの学校がそれぞれの特徴があるわけですから、そのまま取り入れても成功するとは限りません。だから、できることから始めればいいのです。一番良くないのは、「あれは特別だ」と考えて何も変えようとしないことです。

そして、最も大切なことは、授業のやり方にしても、宿題の出し方にしても安直にスキルだけを取り入れようとしないことです。そこに、本来の学校のあり方とは何かを考える視点、大げさに言えば、教育とは何かという「哲学」的なことを考えないで始めると、どこかで行き詰まると思います。「哲学」に照らして、自分の学校や学級には何が必要なのかを考え、子どもの何を伸ばそうとするのかくらいは明確にした後に、できることから始めることが大切だと思います。とりあえずやってみようという精神も捨てがたいものはありますが、長く定着させるには、保護者や同僚にしっかりと意義を説明できる「構え」は欠かせないと思います。

(作品No.177)

拠り所探し

かつて、教職に就いて10年目の32歳のとき、近隣の大学に二年間内地留学させてもらいました。そのころの私は、学級経営も部活動もそれなりにはできるようになっていましたが、どうも説明しがたい違和感を抱くようになりました。こちらが熱意を持って真剣に訴えても生徒に「伝わっている」という実感が得られず、その空気感が教室に広がらないのです。暖簾に腕押し状態となることが多くなりました。そして、これは生徒に何か変化が起こっているのではないかと思うようになりました。端的に言えば、目の前の生徒が何を考えているのかがわからなくなってきたのです。

そんなある日、担任していた数人の生徒が、数日後に迫った夏季大会(部活動)に参加するかどうかを教室で友だちと相談し合っているのを目にしました。その子たちは控え選手でしたが、それでも3年生にとっては最後の大会です。参加しないってあり得ないだろうと私は思いました。教室には他の生徒も大勢いましたし、もちろん私もいました。こっそり相談するのではなく、堂々と、そして冷静に選択しようとしているのです。特に彼らが部活自体に不満を持っているわけではありませんでした。また、今のように部活動の加熱が問題になるようなことはほとんどなかったころの話です。その様子を見て、私の違和感は確信に近くなりました。何か得体のしれない大きな変化が起こっている、そう直感しました。ちょうどその頃、都市部での公立中学校離れが話題になっていたこともあり1)、私の違和感は次第に危機感に変わっていきました。私は変化の正体を見極めたいと思い、内地留学を決めました。

 内地留学の大学では、実にいろんなことを経験させてもらいましたが、最も「きつかった」のは、修士論文を仕上げるために何百ページもある専門書(日本語翻訳版)を何冊も読まなければならないことでした。とにかく難しくて、1ページ読むのに一週間くらいかかることもありました。ひどいときには一行読むのに一日かかることさえありました。それでも十分に理解することは困難でした。「本当にこれは日本語なのか」と思うくらい、私にとっては高いハードルだったのです。

しかし、ゼミの先生に指導助言を受けながら読んだ専門書の内容を根拠に研究を続けた結果、中学生の価値観は、外見上のファッションや持ち物に対する意味づけに教師と大きな差があったものの、人としてどうあるべきかという点については多くの共通点が見出されました。その研究は学校現場に復帰した後、生徒指導を中心にさまざまな場面で判断の拠り所となりました。不思議なことに、その拠り所の効果は年数を重ねても目減りすることなく、むしろ高まっていったのです。

近年の大学(学部)には、大学在学中に早くから学校現場ですぐに役立つような授業を増やす傾向があるそうです。学校現場に体験に行かせる「インターンシップ」的な実習(教育実習とは別枠)を単位認定し、積極的に実施する大学もあります。確かに、即戦力であることは学校現場にとってはありがたいことですが、何か違うような気がします。

教育社会学者で日本大学文理学部・大学院文学研究科教授の広田照幸氏は、自身の「教育の社会学」という授業の初回に次のように学生に話すそうです。

「私のこの授業は、採用試験にも対応していないし、教員になってすぐ日々の仕事に役立つものでもありません。でも、教員になってしばらくやっていくと、それまでのやり方でうまくいかなくなって行き詰まったり、どう考えればいいか分からないような事態に直面したりすることが、きっとあると思います。そのときには、私がこれから話をする講義の中の理論や概念や現状分析を思い出してみて下さい。考えをめぐらせるための材料が見つかるかもしれません。」(広田照幸(2019)『教育改革のやめ方』岩波書店、p188)

大学の教育がどうあるべきかなどと偉そうにいうつもりは毛頭ありませんが、大学には大学にしかできないことがあるはずです。即戦力となることを期待するあまり、学生が汎用性の高い拠り所を得る機会が奪われているとしたら、それは悲劇だと思います。学校現場は多忙です。一旦赴任すれば専門書を読むような時間はありません。また、読もうとしてもそうした本は相応の専門知識がないと理解できません。それはもう読解力の域をはるかに超えています。専門家のいる大学だからこそ読めるのです。

教員にとって熱意は欠かせないものです。しかし、熱意を十分に活かせる拠り所を持たなければ、これだけ多様化が進んだ社会に対応することは困難です。熱心に関われば関わるほど生徒との意識のズレが大きくなることもあります。現職となった先生には専門書を読む時間はないでしょうが、専門書でなくても教育に関する意義深い本はたくさんあります。専門書をわかりやすく解説している本もあります(漫画すらあります)。それらを入口にすれば、短い時間で「拠り所探し」は十分に可能だと思います。

「すぐに現場で使えるものは、すぐに使えなくなる」(前掲書、p181)。広田氏の指摘は的を射ています。

1)NHK教育プロジェクト・秦政春(1993 初版1992)『公立中学校はこれでよいのか』NHK出版(ネットなら数百円で買えます)

(作品No.176RB)

最近のSNS事情

チート1)、アカバン2)、クレクレ3)、代行屋4)・・・。若い人なら知っているのかもしれませんが、私は初めて聞く言葉ばかりでした。実はこれは、先日参加した講演会5)で聞いた言葉です。演題は「子どもを取り巻くSNSトラブルの現状と対処法について」、講師はNIT情報技術推進ネットワーク株式会社代表取締役篠原嘉一氏。最新のSNS事情を豊富な具体例を挙げながらテンポよく話される講師にぐいぐい引き込まれました。まあ、SNSに弱い私は話の半分くらいしか理解できませんでしたが。

冒頭に挙げた言葉は、オンライン上での「法的に問題のある行為やそれに対する処置」です。驚いたことに、これらに関わる小学3年生以下の子が急増しているそうです。トラブルの低年齢化は加速度を増しています。少し前、子どもがゲームに多額の課金をすることが問題になりましたが、課金の場合、最終的に保護者の口座から使ったお金が引き落とされるので、比較的早い段階で発覚します。しかし、最近では子どもたちがインターネットやSNSを使って「自力でお金を集める」ことができるのだそうです(これも違法行為です)。自分のスマホを持ち、自分の部屋(個室)があって自分でお金を集められるとなると、保護者もなかなか気づくことができないでしょう。子どもがゲームで使うお金をSNS上で提供する人は、それが違法行為であることを知っています。そして、提供した金銭が一定の額に達すると突然保護者に返金を要求します。しかも「子どもさんが違法行為をしていますよ」と脅して高額な金銭を要求することもあるそうです。

こういうことが起きるのは、子どもたちがリアル(現実社会)とバーチャル(仮想空間)の区別がつきにくくなっているからではないかと思います。講師の篠原氏も、近年スマホ決済が増えて、店舗でお釣りを受け取るという体験をしたことがない子どもが増えていると指摘されていました。現金には確かな手触りがあります。手にしたお金を使えば減っていくのが目で見えます。そうしたリアルな体験によってどのくらいのお金でどんなの物が手に入るのかを実感することができます。しかし、ネットのバーチャル空間では画面の数字が変化するだけです。そこには、紙幣の手触りも硬貨の重みもありません。

今、バーチャルの世界はどんどん広がっています。その流れは、もはや止めることはできないところまできています。今回の講演は青少年補導委員対象の講演でしたが、子どもがこれだけバーチャルな世界に生きている現状にあっては、リアルな世界で行っている日々の挨拶運動や補導活動にどれほどの意味があるのだろうさえ思ってしまいます。

でも、講師の篠原先生は最後にこう話されました。

「結局、子どもを守るために一番大切なのはアナログな人間関係なのです。子どもは、リアルな関係で愛情を感じた相手を裏切るようなことはしません。親子関係が良好であれば親を裏切ってはいけないと思うし、毎朝「おはよう」と挨拶してくれる人が自分のことを気にしてくれると感じれば、そういう人を裏切ってはいけないと思うようになります。」

 大人が常に、子どもにとって「信頼」に値するリアルな存在であるかどうかを意識することは、現状に対する特効薬にはならないとしても、必ず子どもに一定の「歯止め」をかける力になると思います。

1)コンピューターゲームで本来と違う動きをさせる違法行為。               2)オンラインのサービスで、運営者からユーザーアカウントを削除され利用を停止されること 3)オンライン上で金銭やそれに相当するものを他人からもらう違法行為。          4)ゲームのアカウントを渡してレベルを上げること。(いずれも、講演での説明に若干の加筆をしたもの。)                                   5)令和4年度 県青少年補導委員大会・研修会(令和4年10月26日)

オンリーワン

世界には一人として同じ人間はいないという意味で、すべての人はオンリーワンだと言われます。ただ、オンリーワンはナンバーワンに比べてわかりにくいものです。オリンピックで金メダルを獲った人や、何かの大会で優勝した人は誰の目にも明らかにナンバーワンであることがわかりますが、オンリーワンというのは、どこかつかみどころのなさを感じます。

それでもオンリーワンという言葉は魅力的な響きを持ちます。そこに、すべての人にはそれぞれに違った個性があるのだから「そのままの自分でいいんだ」という優しさが含まれているからでしょう。同時に、他の人と比べることの虚しさも教えてくれます。

でも、オンリーワンは直訳すれば「ただ一つ」という意味です。もし、自分の中に他の人にはない「ただ一つ」が見つけられなければ、自分はダメな人間じゃないのかと感じてしまうこともあります。思春期を迎えた子どもが、そういう自信のなさのために自己肯定感を下げてしまうことも少なくありません。この悩みは大人が考えている以上に深刻なもので、中には家に閉じこもってしまうケースもあるといいます。オンリーワンの個性を「持ちたい」と思っているときはいいのですが、「持つべきだ」という規範として受け止めてしまうと一種の圧力となります。この点について社会学者の土井隆義氏は次のように指摘しています。

「個性的な存在たることに究極の価値を置くこのような社会的圧力の下で、彼らは、自己の深淵に隠されているはずの潜在的な可能性や適性を見出そうとあせり、絶えざる焦燥感へと駆り立てられています。」(土井隆義2004『「個性を煽られる子どもたち』岩波ブックレットNo.633、p38 下線は引用者による)

思春期の子どもは「自分は何者なのか」と自問します。そのとき、「こうありたい」とか「こうあるべきだ」という自分像と、現実の自分とのギャップに悩みます。思春期の子どもが気難しくなりやすいのは、そういうギャップが解消できないもどかしさによって気持ちの波が激しくなるからでしょう。所謂アイディンティティ(自我同一性)確立に関わる悩みです。

さて、ここで一つの矛盾に気づきます。オンリーワンという概念に従って「ただ一つ」であることを実感しようとすると、必然的に他者との比較が必要になってしまうのです。自分の個性が「自分にしかない」ことを証明しようとすれば、比較対象となる他者がいないとできないからです。アイディンティティの問題で悩む子に「あなたらしく生きればいい」と言ってもなかなか伝わらないのは、そう言われた子が、自分らしさを(土井氏の指摘する)自分の中にあるはずの「潜在的な可能性や適性」に見出そうとしてしまうからです。つまり「個性」が自分の内側(生まれ持った資質など)のどこかにあるはずだと思ってしまうのです。しかし、そもそも人間は他者なくして「個性」をつくることはできません。オンリーワンという概念は非常に魅惑的ですが、個性をつくり上げるために欠かせない「他者」の存在を薄めてしまう危険性もあります。

他者と自分を比較して、劣等感を抱いたり、優越感に浸ったりするのは愚かな行為だと思います。しかし、世の中に自分と他者を比べないで生きられる人がどれほどいるのでしょうか。ましてや、子どもなら無意識に比べてしまっても責めることはできないでしょう。

私たちは他者と自分を比較することを「良くないこと」として否定するのではなく、その比較の仕方によっては、自分の「個性」を形成する大切な作業になりうると伝える方が、よほど説得力があると思うのです。「あなたの苦しみは、かけがえのない自分をつくるために必要なことなんですよ」というメッセージをどう伝えるかが大切なのではないかと思います。

そもそも、何に、どう悩むか、それも自分らしさの一つなのですから。

(作品No.97BA)