「ホワイト」で退職?

最近若い人を中心に、あたかも世の中の動きと逆行するような現象が起きているそうです。2022年12月19日付けのネットニュース(テレ朝news)で次のようなニュースが報じられました。

「最近、企業などに勤める若手社員が「仕事がゆるすぎる」「職場がホワイトすぎる」という理由で、退職するケースが増えている」というのです。同ニュースによれば、若手社員4分の1以上が上司などから叱られた経験がないのだそうです。

 上司からすると、これだけパワハラやブラックな職場が問題になっているのですから、できるだけ優しく接するとか、褒めて育てようとするのも当然だと思います。

 また、部下が早々に辞めてしまえば、自分の管理能力を問われることにもなりかねません。上司や先輩がかなり、気を遣った結果「ホワイト」な職場になったのでしょう。

 でも、このニュースが本当であるなら、そうした気遣いが仇になったことになります。

 どうも、若い人は意外と何も言われないと不安になるようです。世の中は転職ブームです。終身雇用が期待できなくなった現代では、今の会社がずっと自分を雇ってくれるとは限りません。また、今の仕事が本当に自分に合っているかどうかもわかりません。

 そう考えると、いずれ迎える転職のときのために、今いる会社で身につけられるスキルやノウハウをたくさん身につけておきたい、それがキャリアアップにつながると思うわけです。これは、自分を成長させたいという前向きな姿勢です。とても健全な発想だと思います。

 その点、あまりにホワイトな職場は、叱られて嫌な思いをしたり、パワハラの被害を受けたりすることは少ないでしょう。その代わり、自分が成長していることも実感しにくくなります。このままこの会社にいたら、ほとんど成長できないかもしれないという思いが、退職につながるのでしょう。

 この記事は、社会人に関する内容ですが、子どもたちにも共通するところもあると思います。子どもたちも自分が今日、何ができるようになったか、何を知ることができたかを実感したいと思っています。優しい先生は、「不適切なかかわり」をする先生よりははるかにいいでしょうが、できること、わかることを増やしてくれない先生は物足りないと感じるに違いありません。

 子どもが家に帰って、「今日はこんなことができるようになったよ」と嬉々として、家の人に報告するような授業ができればいいなあと思います。

 いずれにしても、成長する喜びを得たいと願うのは、大人も子どもも同じなんだと思うと、何だかうれしくなりました。

(作品No.191RB)

処分されないという悲劇

同窓会の帰りでした。招待していた恩師がわざわざ私のところにやってきてこう言いました。

「とにかく、徹底的に職員を守れよ」

 その恩師は、私がそのとき教頭として小学校に赴任していたことを知っていました。そして、ちょうど、ある臨時講師が何度も児童への暴言を続けることを受けて、校長と協議した結果辞めてもらう決断をした直後でした。その恩師は元県教委の要職についていた人です。もしかしたら、今回の臨時講師の件も知っていたのかもしれません。とにかく、迫力のある目で私を圧倒してきました。「職員を守ってこその管理職だ」と私に知らしめたかったのでしょう。

 私は、かなり残念な思いがしました。あれだけ信頼していた恩師がもうすでに時代遅れの感覚を持ち続けていることを感じたからです。

 かつては職員を守るというのは、事を大きくせずに穏便に済ませるという意味でした。そのことによって、その職員の職歴に傷をつけることがなく、管理職としても職員をあたかも家族のように守ってやったという満足感が得られたのでしょう。

 でも、今はその考え方は仇にしかなりません。

 昨日(2022年12月17日)、読売新聞オンラインで次のような記事を見つけました。タイトルは「保護者から相次いだ苦情、体罰の訴え軽視した元小学校長「責任感じている」…中1男子が自殺」。体罰を繰り返す教員に校長が何度も指導したにも関わらず、態度を変えることがなく、ついに生徒が自ら命を絶ってしまったことについて、当時の校長が取材に応じたという記事です。

そこでは、「音楽の授業で子供の腹を殴ったのでは」と保護者から訴えがあった際に、「腹筋を使うようにという指導」との元教諭の説明を信じ、市教委には体罰ではなく「不適切な指導」として報告するに留めたとあります。

 また、児童、保護者を対象に体罰の有無を尋ねるアンケートでは、複数の保護者が元教諭の体罰があったと証言しているにもかかわらず、市教委に報告すらしていませんでした。

 その上、元教諭は問題行動が多かったために担任から外されていたのに、元校長はそうした引き継ぎも受けていながら、6年生の学級担任にしています。「希望したのが彼だけだった。不安はあったが、指導で徐々に変わっていた」というのです。

 この元校長が、のために大ごとにすると面倒だと考える事なかれ主義者だったのか、いわゆる「親分肌」タイプの校長として「職員を守ろう」とした結果のことだったのかは、この記事からはわかりません。

 当該教員は「元校長から指導を受けた覚えはない」と主張していますが、元校長は何度も指導したと話しています。こういうところから推察すると、元校長の中に、昔ながらの「職員を守る」という意識があり、指導の内容が厳しさに欠けた可能性を否定することはできないと思います。元校長の指導が「とりあえず指導しました」というアリバイづくりくらいのレベルだったのではないかと勘繰られても仕方ありません。

 私の勤務していた学校にも同様の不適切教員がいたことがありますが、どんなに保護者が真剣に訴えてきても絶対に事実を認めることはありませんでした。その教員は過去に市の教育長から児童へのセクハラをもみ消してもらった経験があり、事実を認めなければ処分されないという確信があったのだと思います。

 こうした悲劇を生み出さないためには、最初の体罰や問題行動に対して第三者による事実確認や、公的な処分を行うべきです。「守られる」のが当然だと思っている教員の意識を変えるためにも、たとえ非情だと言われても校長は事を公にし、処分も辞さない方向で対応すべきです。職員を守ろうとして子どもの命を奪ってしまったら、何のために校長をやっているかわかりません。仮に、早い段階でこの職員が公式に処分されていれば、このような悲劇は起こらなかったと思います。

 本人が事実を認めない場合、確たる証拠があるわけではないため、対応は慎重に進める必要があるでしょうが、校長としては毅然とした姿勢を周囲に示すべきです。SNSがこれだけ広がっている時代です。隠そうなんて考えても、保護者の間であっと言う間に情報が広がります。ときには、動画を取られていることもあるのです。そんな時代に、職員を守るために事を穏便に済ますことなどできるはずはありません。

 それに、こうした不適切な教員に対して校長が「守る」姿勢を見せれば、その他の真面目な教員を守ることができなくなります。被害を受けた児童生徒の学級担任にも過酷なほどの負荷がかかります。学級担任として、受け持っている子どもが命を落とすほどショックなことはありません。精神のバランスを崩してしまうことも十分あり得ます。

 教員の中にも、まだまだ「守られる」のが当たり前の権利のように思っている人がいます。先述の私の学校でのケースでも職員鍵で堂々と「管理職が職員を切り捨てるようなことが許されていいのか」と怒気を強めて訴える人もいました。そういう人の意識を変えるためにも、できるだけ早期に、目に見える形で公にする方向で対処すべきです。

 こうした事案は、事実を確認するだけでも膨大な時間がかかることも考えられますが、方向性が処分も辞さないという毅然とした対応であることが被害者に伝われば、最悪の事態防止に大きな力になるはずです。

 かつて、私と同期の校長が職員会議で次のように言ったそうです。

「子どもは死ぬんですよ。私たちよりずっと死との距離は近いんです。そのことを頭に入れて関わってください」

 まさにその通りです。中途半端な対応は子どもを殺してしまう可能性があります。その危機感を、すべての教員が持たなければなりません。

 (作品No.190RB)

講義式の授業が批判される本当の理由

新しい学習指導要領が始まって数年が経過し、主体的・対話的で深い学び(いわゆるアクティブラーニング)が少しずつ学校現場に浸透しつつあります。新型コロナウイルス感染拡大の影響で思うようにできないことも多々ありますが、子どもがこれらの力を身につけるために、小集団活動を積極的に取り入れ、話し合い活動を活発化させようと取り組む事は、変化の激しい社会を生き抜く子どもを育てるために非常に重要なことです。

 一方、講義式による一方向的な授業展開は、アクティブな授業の対極にあるものとして否定的に語られることが多くなりました。明治の学制発布から続けられたこの授業形態は、今では知識を注入するだけの詰め込み教育の典型として揶揄されるようになったのです。

 ただ、なんとなく私には違和感が残ります。

「たとえば私は授業中、絶対に生徒を当てないと決めているんです。ペアワークもさせません。そういうのが苦手な子が一定数いるので。ただ私の話を聞いて、英語に興味をもってくれればいいと思っています。最初の授業でそう話すと、みんな安心してくれます」1)

 これは、東京にある目黒日本大学高等学校通信制課程の先生の話です。この先生は、生徒たちに発言や発話を促すことすらしないそうです。それは「受け身でもいいから、英語を楽しいと思ってほしい」と願ってのことだといいます。最近の通信制高校には、かなりの割合で中学校時代に不登校を経験した子がいます。そうした子の多くは、活発に発表や意見交換をするのが苦手で、「いつ指名されるか」「指名されてわからなかったらどうしよう」と他の子以上に考えてしまう傾向があります。だから、あえて発言を求めず、発表も強制しないことを宣言した上で授業をするのです。

 公立の小中学校と高校、それもスクーリングでしか体面で授業をしない通信制高校とでは条件が大きく違うので単純に比較はできませんが、私たちが注目すべきなのは、この先生が目の前の生徒の個性や心の状態に応じた授業展開を考えていることです。この学校でもアクティブな授業を行うことは不可能ではないでしょう。けれども、中学時代にそうした授業についていけずに不登校になった生徒に強引にアクティブさを求めてしまえば、せっかく入学した通信制高校も続けるのが嫌になってしまいます。

 講義式の授業が批判される本当の理由とは、教師のペースで一方的に授業を進めてしまうことによって、目の前の生徒一人ひとりの個性や理解度が視野に入らなくなることにあるのだと思います。

 そもそも主体的、対話的で、深い学びというのは必ずしも活発な意見交換の場だけで培われるとは限りません。この先生の授業によって、それまで緊張感や自己嫌悪の感情が邪魔をして授業に集中できなかった子たちが、自分で考え、教科書の文言と懸命に対話し、深く思考することができる環境が整うのであれば、それでいいわけです。

「活動」はあくまでも主体的な学習のための手段です。アクティブラーニングの成果は、一人ひとりの個性(性格など)と理解度を通して個々に違った形で表れます。それを十分に発揮できる環境をいかにつくり出すかを考える方がはるかに大切です。

 例えば、小集団での人間関係によって「活動」が一部の子どもにとって苦痛な場となっている場合には、柔軟にグループを編成し直すことも必要でしょう。また、グループ内での発言は少なくても、振り返りを書かせることは「深く」考えている子に表現の場を与えることでもあります。ときには(本人の了承を得て)そういう子の意見や答えの出し方などを全体に紹介する機会を設けることで、子どもは自信を持つこともあると思います。私たちには、知識を伝えるだけでなく、環境を含めて授業をコーディネートすることが求められています。

(作品No.189)

1)おおたとしまさ(2022)『不登校でも学べる 学校に行きたくないと言えたとき』集英社新書、p349

福祉と学校教育

学校教育の世界はいま大変な状況です。いじめや不登校への対応はもとより、次々と降ろされてくる教育改革によって、仕事の量が年々増え続けています。その上、保護者からの理不尽な要求への対応もあります。

 また、近年では、教員による不祥事や「不適切なかかわり」がマスメディアで毎日のように報じられます。そのたびに、文科省や教育委員会は新たな取組を学校現場に求めてきます。不祥事を起こす教員に非があるのは当然ではありますが、ほんの一握りの教員の蛮行によって、締め付けが厳しくなり、報告書の類はさらに増えていきます。

 このような状況の中にあって、教員は疲れきっています。

 教員は、子どもと接し、その成長ぶりを身近に感じることが最大の喜びです。いまも昔もそのことに変わりはないと思います。ところが、最もやりがいのある仕事が十分にできない状況に追い込まれているのです。

 それでも教員の多くは少しでも子どもたちの成長を支えようと必死で頑張っています。

 いまこそ、子どもとかかわる以外の教員の業務を大幅に削減しなければ、単に教員不足となるだけでなく、子どもたちの将来にも悪い影響が生まれてしまうでしょう。

 私は、教育、特に学校教育をこの苦境から救うには福祉の充実を行うべきだと思います。格差社会の中で、貧困にあえぐ家庭に余裕はなく、親も必死で働いているのに子どもと寄り添う時間を確保できていません。子どもは、長い時間親から引き離され、やっと帰ってきた親にいろんなことを聞いてもらい、甘えようとしても親は家事に追われ、何より疲れ切ってじっくりと話を聞く余裕がありません。虐待の多くはこういう環境によって生まれます。 

 子どもは純粋です。そしてけなげです。どんなに親に邪険にされようとも親を見限ることはしません。特に、小学校低学年くらいの子にそんな選択肢はありません。じっと我慢するしかありません。むしろ、疲れている親に気遣い、欲しいものも欲しいと言えず、抱きしめて欲しい気持ちも抑えています。自分のために必死になって働いていることを子どもは十分理解しています。

 けれども、さみしい気持ちややるせない気持ちを家庭の中でため込んだ子どもたちが、学校に来て集中して学習に取り組めるはずはありません。なかには、些細なことで友だちに暴力を振るってしまったり、先生に悪態をついてしまうこともあるでしょう。現状ではそれを受け止めるのは教員しかいません。

 福祉がもっと充実していれば、そういう子どもたちの鬱憤はかなり減るでしょう。本来福祉でやるべきことが十分にできていないために起こる問題さえも、学校は引き受けているのです。

 私は、福祉関係で働く人を悪く言うつもりはありません。福祉の仕事をしている人も限られた予算と人員の中で精一杯努力されていることは十分理解しているつもりです。

 学校の教員を増やすことも急務だとは思いますが、福祉に関わる人の増員もそれ以上に重要だと思います。

 福祉の充実というと、子育て支援としていくばくかのお金を支給するイメージがあります。それも大切ですし、現状十分な措置がなされていないことを考えれば、さらに充実させる必要があるでしょう。本当なら、子どもが小学校を卒業するまでくらいは親のどちらかが働かなくても(あるいは学校に行っている間のパート程度でも)十分に生活できるような施策が必要です。しかし、それはいまの日本ではほぼ不可能でしょう。

 それならば、せめて子どもたちに自由に過ごせる場所と時間を与え、相互に育ちあう環境を整備することが必要だと思うのです。福祉はそこに焦点をあてるべきです。

 子どものことはすべて学校に任せようとするから、学校はどんどん疲弊していくのです。広い場所を用意し、子どもをそこで自由にさせることはできないものでしょうか。教員が関われば「教育」をしなければならなくなります。また、現在行われている放課後児童クラブは、狭い部屋に大勢の子どもがひしめき合っています。狭い空間は、それだけで子どもにとって大きなストレスです。 

 企業の体育館などを開放するなどによって、広い場所を確保し、福祉に関わる人員を増やせばそんなに無理なことではないと思います。

 体育館なんて何も遊具がないじゃないかという人もいるでしょうが、子どもは遊びの天才です。場所と自由さえあればいくらでも自分たちで遊びます。遊び道具は、ボールを何種類か用意してやれば充分です。

 安全の確保の問題も懸念されるかもしれません。でも、それに固執すればするほど子どもは大人の目からは自由になることはできません。学校では教員によって制御され(必要な制御だとは思いますが)、放課後児童クラブでは安全確保のために細かい規則によって縛られています。それは、大人が決めたルールです。安全・安心とそれを保障する責任を追求することが悪いとは言いませんが、それは子どもたちの我慢によって成り立っているのです。子どもはもっと遊びたいはずです。

 いまの子どもたちに必要なのは、さまざまな鬱憤を思い切り発散させる場所と時間なのです。

 近年では、教育系の大学を中心に学生を学校現場に送り込んで経験をさせる「インターンシップ」制度を導入しているところが増えていると言います。即戦力を期待するのも結構ですが、将来教員になろうと考えている学生に、子どもをより深く知ってもらうには、確保した場所と時間の中で子どもと一緒に遊ぶ方がよほど有益だと思います。

 そもそも、学校現場に赴任すれば日々の業務は自然に身につきます。教育の本質は、こどもの中にあるはずです。むしろ、下手に学校現場を経験させることで「こんなにブラックなのか」と驚愕し教職をあきらめてしまう人も出てくるかもしれません。

 極端な話だと思われたかもしれませんが、個々の家庭が経済的な面で追い詰められている状況では、どんなにすばらしい教育施策を打ち出しても根底から崩れ落ちてしまいます。

 思い切り遊び、思い切り甘える。大人が子どもたちに用意すべきなのはこの二つを実現できる環境なのです。

(作品No.188RB)

放課後児童クラブが抱える問題

「放課後児童クラブ」が全国的に定着しています。今では、保護者が働くためには必須の制度です。小学校に上がるまでは、保育園やこども園に預けられますが、それ以上の年齢になると預かってくれません。かといって、例えば小学校1年生の子を一人で家に帰らせるのは、このご時世非常に心配です。

そこで、児童クラブに預けることになるわけです。しかし、この児童クラブの実情や子どもの気持ちというのは、意外と一般に知られていません。

まず、子どもたちは、学校ではそれなりに素直に過ごしていても児童クラブにいるときはまったく違った顔を見せます。豹変すると言ってもいいでしょう。

例えば、支援員が何か大切な連絡をしようとしてもまったく聞こうとせずに騒ぎ続け、少し厳しく注意するとふてくされます。女性の支援員に「うるさい、クソババー」など叫ぶのは日常茶飯事。下級生を殴ろうとしている子を注意すると「殺すぞ、ボケ」と支援員に言い放つ子。なかには、「あんたら、ボクらがおるから金もらえてるんだろ、ボクらにもっと感謝しなよ」と逆ギレする子。他には、気に入らないことがあると持っている水筒を支援員に投げつけたり、「私外遊びに行ってくるから、その間に先生、私の宿題しておいて」という子もいます。支援員が宿題をしている子のプリントをのぞき込むと「気安く見るんじゃねえ」と叫んだりする子もいます。理由もなく支援員の足を思い切って蹴ってケガをさせる子さえいます。

近年は、保育園などでの大人の「不適切なかかわり」が問題としてニュース等で報じられますが、今あげたような子どもの行動は、ほとんど報道されることはありません。子どもは守られるものであって、少々わがまま勝手な言動をしても、それを何とかするのが支援員の仕事だろうということでしょうか。

そういう子どもたちに対しても、支援員は子どもへの暴力や暴言、恫喝まがいのことは決して許されません。しかも、支援員というのは特別な資格が必要な職ではありません。一定の研修は受けますが、具体的な対処法までは沿言えられないままに現場に立つ人も少なくないのです。なかには、過去に保育園や幼稚園で経験を積んだ人もいますが、どちらかと言えば少数派です。

つまり、子どもの扱いについては素人といってもいいわけです。何の資格も求めない制度そのものに問題があるとは思いますが、資格を求めると十分な支援員の確保が難しくなります。現在、保育園やこども園でも人手不足が深刻になっている状況を考えれば、児童クラブの支援員に何らかの資格を条件づけるのは現実的ではないでしょう。

多くの自治体では、少し前から児童クラブの先生の呼称を「指導員」から「支援員」に変更しました。支援というのは「優しい」言葉です。子どもに寄り添うと言う意味では、「指導」よりも「支援」の方がいいに決まっています。

でも、子どもたちの中には(大人の入れ知恵だとは思いますが)、それを逆手にとる子もいます。「支援員に子どもに命令する権利はない。そんなことも知らないの!」と平気で文句を言ってきます。低学年の子がそういう態度を示すのです。

子どもたちを管理し過ぎるから、反発が生じるのだという人もいるかもしれません。でも、考えてみてください。冒頭にあげたような暴言を口にする子や指示を無視する子が多数いる中で、一定の管理なしに子どもの安全が守れるでしょうか。

子どもたちを自由にさせておけば、些細なことから喧嘩が始まります。口喧嘩くらいならかわいいものですが、最近の子は、結構平気で相手の顔面をグーで殴りつけます。今にも殴りかかろうとする子を前にしたら、時には大きな声で厳しく制止することも必要になります。

しかし、そういう「指導」は「支援」の域を越えているとして、保護者からのクレームが入ったりもするのです。もし、子どもが大きなケガでもしたら、支援員が責任を問われます。

まさに、支援員にとっては、なす術がない状況で日々奮闘しているのです。その上、多くの自治体では、国の定める最低賃金レベルの時給で雇用し、昇給もほとんどない状態です。もう少し本気で待遇改善をしなければ、そのうち支援員不足によって児童クラブが運営できなくなることになるでしょう。

雇用の促進をいくら叫んでも、雇用を根本で支えている児童クラブが崩壊すれば、親は十分に働くことができず、貧困の問題はさらに深刻化するでしょう。

国や自治体は、子育て世代への支援をさらに充実させ、支援員の待遇改善を早急に実施すべきです。

それにしても、どうして、こんなに子どもたちは児童クラブで荒れてしまうのでしょうか。そこには、親に甘えたい盛りの時期に、親と引き離されてしまうさみしさがあると思います。

子どもたちは、そんなさみしさを抱えながら、学校で緊張感を持って生活し、放課後にはさほど広くない児童クラブの部屋に閉じ込められるわけです。子どもたちは別に児童クラブに来たくて来ているのではありません。大人の事情で来ているわけです。それがやむを得ないということは、子どもは子どもなりに理解はしています。けれども心情的には抑えきれないものがあるに違いありません。

子どもは、社会情勢などとは関係なく、とにかく親に甘えたいわけです。そして、十分に甘えた経験があるからこそ自立への歩みをすすめることができるのです。

児童クラブに通う子どもはみんな、親がいつもより早くお迎えにきてくれるとすごく喜びます。また、いつもはおばあさんがお迎えなのに、今日はお母さんが来てくれるというだけでテンションが上がるのです。「ママがもっと早く帰れる仕事をしてくれないかなあ」とつぶやく子もいます。

近年では、一人親家庭も増えています。そういう場合は、0歳から保育園に預けることも珍しくありません。子どもはが十分に親に甘えられる時間は年々減っています。

子どもの立場からすれば、せめて小学校の低学年くらいまでは親が毎日働かなくてもいいくらいの社会保障制度が必要なのかもしれません。それができないなら、子どもたちだけの自由な時間を確保する工夫がなされるべきです。

 そのためには、児童クラブはもっと広い場所を準備する必要があるでしょうし、子ども同士のトラブルに寛容である社会の土壌が必要となります。非常に難しい問題だとは思いますが、支援員が「指導」せざるを得ない今の状況では、子どもたちの気持ちは荒れ、支援員や周囲の子に鬱憤を晴らすしかありません。

 児童クラブの中には、その日のスケジュールをできるだけ子どもたちの話し合いで決めているところもあります。そういうところでは、高学年の子が低学年のこの面倒をよくみてくれるそうです。自分たちが決めた予定だから、気持ちが前向きになるのでしょう。

 教育の場でもなく、保育の場とも言えない児童クラブには、子どもたちを取り巻く社会の矛盾がそのまま表れています。その矛盾の一番の被害者は他ならぬ子どもたちです。子どもの気持ちに、大人の事情は通用しないのです。

(作品No.187RB)

千年を支える礎石

家を建てるときには、まず基礎を固めます。最近はコンクリートで基礎を作るのが通常の方法です。その上に柱を立てるのですが、柱を載せただけでは安定しないのでボルトなどで、柱と基礎をしっかりとつなぎます。私は門外漢なので、詳しいことはわかりませんが、それでも自分の家を建てるときには、どんな基礎を作っているのかを確認にいきました。

 この基礎がしっかりしていないと、地震などの災害のときに家が大きなダメージを受けやすくなると思ったからです。

 当然のことながら、コンクリートの面と、柱の断面は同じように水平(まっ平)になっているでしょう。もし、どちらかに凸凹があれば、その分接地面積が減って、いくらボルトでつないでも不安定になってしまうでしょう。

 ところが、法隆寺が建立された千三百年前の時代は、そうではなかったというのです。

 「法隆寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔など、ふんだんな檜を使って堂塔の復興や再建を果たした最後の宮大工棟梁」1)といわれる、西岡常一氏の話です。

当時の建造物の基礎は礎石(そせき)と呼ばれる石を使用していました。できるだけ平らな面をもつ石を使ったのでしょうが、その石の表面を平らに削ることはしなかったといいます。まず、その石の重心を見極めて、最も柱をしっかり支えられる場所を探します。そして、その礎石の面に合わせて柱となる檜の断面を合わせて加工したのだそうです。

 こういう方法を「ひかりつけ」というのだそうですが、この「ひかりつけ」によって大きな地震にも耐えられる強度が保たれたといいます。

 そして、信じられないことに、地震で多少、礎石と柱がずれたとしても時間がたてばもとに戻るのだそうです。つまり、建物自体が自分の力で元の安定した状態に戻すというわけです。これは驚くべきことです。こういうことを、当時の宮大工はすでに知っていたというのです。

 なぜ、柱を石の上に載せるだけでボルトのようなものでつながなくても、千年を越える間びくともしない強度が保たれたのでしょうか。

 西岡氏によれば、それは「遊び」があるからだそうです。ボルトとコンクリートを密着させると、ある一定の負荷に対しては強さを発揮しますが、強く結びついている分、建物にもその衝撃がそのまま伝わってしまいます。しかし、「ひかりつけ」工法だと礎石の上で柱が微妙に動いてずれるわけです。それが緩衝となって建物に伝わる衝撃を和らげるというのです。

 近年のビルなどの建築は耐震構造から制震構造へと進化し、ビルの内部に制震ダンパーと呼ばれる装置を組み込み、地震の際にその揺れをダンパーに吸収させることで地震が建物に与えるダメージを軽減する工法が採用されることが多くなったようです。まさに、「ひかりつけ」と同じ発想です。このことに千年以上前に、当時の日本人はすでに気づいていたのです。

 この話は、学校教育にも通ずるものがあると思います。

 かつて、「神戸連続児童殺傷事件」や児童生徒の殺傷事件が相次いて起こったとき「ゼロ・トレランス」方式を生徒指導に取り入れようとする動きが起こりました。

「ゼロ・トレランス方式(ゼロ・トレランスほうしき、英語: zero-tolerance policing)とは、割れ窓理論に依拠して1990年代にアメリカで始まった教育方針の一つ。「zero」「tolerance(寛容)」の文字通り、不寛容を是とし細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行う方式」(ウィキペディア)

 つまり、校則を厳格に適用し、一切の例外を認めない指導です。それは、まったく「遊び」を許さないやり方です。

 日本でも、文部科学省も導入を検討していた時期もありますし、実際に取り入れた学校も多くありました。しかし、その厳格さのあまり発祥の地であるアメリカでさえ批判が強まって、ゼロ・トレランス方式は長くは続きませんでした。

 いま、社会は多様化が進んでいます。その中で、学校はまだまだ古い体質が残っており、さまざまな場面でその矛盾が表面化しています。

 学校に理不尽な要求をする保護者は、モンスターと言われたり、クレーマー扱いされたりすることもありますが、その中には多様化を受け入れきれない学校の姿勢に起因するものも少なくないように思います。学校に「遊び」が少ないことが保護者にとってみれば不満の対象になるのでしょう。

 「遊び」の少ない教育は、どうしても子どもたちの個性を軽視してしまいます。この個性につながる話として、冒頭の西岡氏は次のように述べています。

「飛鳥建築や白鳳の建築は、棟梁が山に入って木を自分で選定してくるのです。それと「木は生育の方位のままに使え」というのがあります。山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、(中略)生育の場所によって木にも性質があるんですな。山で木を見ながら、これはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻じれているから左捻れのあの木と組み合わせたらいい、というようなことを山で見わけるんですな。」2)

 南側の木が強いからといって、そうした木だけで千年もつような建造物は作れません。柔らかい北側の木の細工がしやすいという特長も欠かせないのです。

 子どもも同じです。それぞれに違った成育歴を持ち、一人ひとり違った個性があります。それを尊重しないゼロ・トレランスが長続きしないのは、当然の結果でしょう。

 これからの学校は、どんどん進んでいく多様化の中で柔軟な姿勢を持ち、さまざまな個性を生かせる体制に変えていく必要があるでしょう。

 そのためにも、教員にもっと余裕を持たせる国レベルの施策が求められるのです。

(作品No.186RB)

1)西岡常一(1994)『木のいのち 木のこころ』(草思社、巻末筆者紹介欄より)

2)前掲書、p16

褒めるということ

教員にとって、子どもをどう褒めて、どう叱るかは永遠の課題だと言われ、古くて新しい問題です。

中学校の教諭時代、私のクラスにMさん(2年生男子)という子がいました。口数は少ない子でしたが、非常にまじめな子でした。特に、掃除の時間では、周りの子がどんなにサボっていても、いつも黙々と掃除に取り組んでいました。

ある日、私は教室の真ん中で、周囲に聞こえるようにMさんを褒めました。

「Mさんは、いつ見ても手を抜かずにがんばってるなあ」と。

その瞬間、信じられないことが起こったのです。普段温厚で怒りをあらわにすることなどまずなかったMさんが、突然、ほうきをその場に投げ捨て、教室の隅で座り込んでしまったのです。その顔には「怒り」ともとれる表情が伺えます。状況から考えて、私が褒めたことが原因だというのは理解できましたが、それでもなぜこうなったのか、若かった私にはまったくわかりませんでした。

その日の放課後、家庭訪問をしてMさんのお母さんと話をしました。そのとき初めてMさんの気持ちがわかりました。お母さん曰く、

「あの子は、ものすごくまっすぐな性格でね。もうちょっと融通がきく子になってほしいと親の私でさえ思うことがよくあるんです。今日、帰ってきて話してました。自分はやるべきことをやっていただけなのに、あんな褒められ方をしたら、褒められるためにやっていることになってしまうって。そういう子なんです。」

子どもは褒められて喜ばないはずはないという私の思い込みが、Mさんの誇りを傷つけてしまったのです。

私たちは、子どもが何かよいことをしたら褒め、良くないことをしたら叱ります。それはそうした評価を積み重ねることによって子どもに少しでも正しい行動がとれるようにという教員の願いでもあります。そして、基本的には叱るより褒めることの方が大切だと思っています。でも、褒められる側に立った褒め方でなければ、私のような失敗をしてしまうことになります。小学校の低学年なら、ほとんどの子はみんなの前で褒めてやれば喜びますが、思春期真っ只中の子に同じように褒めても効果があるとは限りません。

冒頭のMさんのケースで言えば、失敗の最大の原因は、私に「邪(よこしま)な」考えがあったからです。私は、Mさんを利用して、他の子に「真面目に掃除しろ」というメッセージを送ろうとしたのです。これでは、本当に褒めたことにはなりません。私の邪な考えをMさんは即座に見抜いたのです。

子どもを褒めるときに大切なのは、その子が今何を考えているのか、どういう個性を持っているのかを踏まえておくことだと思います。当然、発達段階も視野に入れなければなりません。そして、発達段階は単純に年齢で決まるものではありません。そうしたことが頭にあれば、私の失敗は防げたと思います。Mさんのような子には、掃除時間以外にさりげなくMさんにだけ伝えるべきだったのです。

さて、ここで「褒める」」についてもう少し深く考えてみようと思います。

アドラーによれば、

「「ほめる」のは、相手が自分の期待していることを達成したときです。言ってみれば条件つきののごほうび。逆に期待に応えられないと、ほめるどころか失望を表現されて勇気がくじかれる可能性もあります。」1)

となります。

褒めることが「条件つきのごほうび」だとすると、私たちが考えなければならないのは、その「条件」が子どもにとって本当に価値のあることかどうかということです。私たちは得てして深く考えずに「これは良いことに決まっている」という常識にとらわれがちですが、これだけ社会全体に多様化が進んでいることを考えれば、いつまでも同じ価値が通用するかどうかはわかりません。また、私たちが正しいと考える価値は生きていても、そこから派生するさまざまな考え方が生まれていてもおかしくはありません。私たちは、社会の価値観の変化に積極的に目を向けなければならないと思います。

また、アドラーは

「人と比べて「ほめる」と、必要以上に他人との競争を気にするようになります。」2)

とも言っています。冒頭の私の失敗の原因は、まさにここにあります。

最終的にアドラーが大切にしたのは、「褒める」よりも「勇気づける」ことです。

「勇気づける」とは、あくまでも言葉を受ける側の立場に立って、その人の行為そのものを認めることで、その人の意欲を引き出そうとするものです。決して、結果だけを「褒める」のではありません。

例えば、テストで100点を取った子に「よく頑張ったね」と褒めたり、何かの大会で優勝した子を「すごい」と称えたりしますが、こういう数値や客観的な結果で表すことができるものは、簡単に他と比較できてしまいます。褒める側にその気がなくても受け止める側からすると、今後も他者と比較することで承認欲求を得ようとしてしまいます。

 100点を取って、褒めてもらおうと先生のところに飛んできた子には、100点を褒めるのではなく「あなたは、授業中にいつもしっかり話を聞いていたよね。それが素晴らしいんですよ」と、行為を確認することが大切だということです。そして、そういう認め方をするためには、普段から子どもの様子をしっかり見ていることが必要になります。

 行為を認めるということは、その子をまるごと承認するということです。だから、自尊感情は継続するとアドラーは言います。

東京都の私立中高一貫校、栄光学園の数学教員である井本陽久氏は、長い教員生活で紆余曲折した結果、ある時期から「子どもを叱らない」と決めたそうです。その代わりに子どもの存在を丸ごと受け入れようと決意して、今やカリスマ教師とまでいわれるようになりました。

栄光学園は、毎年東大合格者数がベスト10に入るほどの進学校ですが、井本氏は栄光学園だけでなく国内外の児童養護施設でも成果を挙げています。決して、学力の高い子や環境的に恵まれたこだけと関わっているわけではないのです。

私は、カリスマといわれる教員と同じようにしなければいけないとは考えません。そもそも、その人が本当にカリスマだとしたら、滅多にいないからこそカリスマなわけで、だれでもすぐに真似できるようなレベルならだれもカリスマとは呼ばないでしょう。また、中途半端なカリスマ(実際一部の人からしか認められていないカリスマも存在します)はかえって他の教員がやりにくくなることもあります。

でも、子どもを叱らなくても学力をつけることに成功している人がいることもまた事実です。井本氏の授業では全員が自ら進んで学習に取り組んでいると言います。

おそらく井本氏の子どもへの関わり方は「褒める」から「勇気づけ」に進化した結果生まれたものではないかと思います。

そのまま真似をする必要はないと思いますが、「勇気づけ」というキーワードを頭にいれておくだけで、子どもたちはきっと、いきいきとした表情を見せてくれるようになるでしょう。

そうなれば、教員の暴言や、不適切なかかわりなどとはまったく無縁の空間が、そこには広がっていくと思うのです。


1)永藤かおる著・岩井俊憲監修(2017)『図解 勇気の心理学 アドラー超入門』(ディ スカバー・トゥエンティワン、p36、中段)

2)前掲書、p36、下段

(作品No.185RB)

私見 「学校体験」の功罪

ベネッセ教育情報サイト(2022,11,10)は、文科省は令和4年度に実施した教員採用試験(以下、教採)の倍率をまとめています。それによれば、小学校の倍率は、2019年度で2.85倍だったのが、2022年度には、2.55倍に下がっており、57の道府県・指定都市のうち4分の3が3倍を下回ったとのことです。さらに、42の道県府、17の市県では1倍台にまで落ち込んでいます。

中学校は昨年度に比べると若干増加(0.3%増)していますが、2017年に7.4倍であったことを考えれば、2022年度の4.7倍というのは楽観できる数値ではありません。

 こうした事態を受けて国や自治体ではさまざまな改革案が出されています。そのうちの二つを取り上げて、私見を書いてみました。

 まず、教採の実施時期を早めるという改革についてです。一般企業の採用試験は教採よりも早い時期に行われてきたため、先に優秀な人材が奪われてしまいます。そうことを防ごうとする改革で、すでに実施した自治体もあります。

 しかし、これは本当に効果的なのでしょうか。早く採用が決まった人が、その後に一般企業から内定をもらって辞退する人がどの程度出るのかが気になるところです。

 これまでも、教採合格後に一定数の辞退者がいたわけですから、先に教採を実施しても辞退者が減るとは限りません。受験者が増えた分だけ辞退者も増えたのでは意味がありません。一般企業への就職を第一希望とする人にとっては、教採の時期に関わらず「滑り止め」でしかないのですから、実際に教職に就く人を増やせるかどうかはやってみないとわかりません。

 次に、文科省が力を入れようとしている改革に学生の「学校体験」の推進があります。教育新聞編集部(2022年2月21日)によれば、

「教員の養成・採用・研修の在り方を議論している中教審は2月21日、合同会議を開催。文科省は教職課程を見直すたたき台を提示し、教職課程の学生が大学3年後期か4年前期に学校現場で行う現在の教育実習を取りやめ、学校体験活動の活用を通じて、学生が学校現場での教育実践を段階的に経験する方向性を打ち出した。「理論と実践の往還を重視した教職課程」への転換と位置付けている」

 と、あります。文科省には、現行の教育実習制度を学校体験にシフトさせようとする考えているようです。

 この改革は、早くから学校現場を知ってもらい、受験生(学部生)の不安を取り除くとともに、実際に採用された後もスムーズに学校現場に馴染めるという効果を期待してのことでしょう。

 けれども、この改革は両刃の剣です。学校現場が魅力的であればこそ有効ですが、そうでない場合は逆効果になりかねません。

冒頭のベネッセ教育情報サイトによれば、早朝ボランティアなど勤務時間外の業務を体験することによって、逆に「自分には務まらない」と感じたという、実際に学校体験をした学生の声を挙げています。「やっぱり学校はブラックだった」と感じてしまったのでしょう。

 また、根本的な問題として、学部生が年に何度も学校現場に行くことで、もともと「学校しか社会知らない」若者が、これまで以上に閉じられた社会経験しか持てなくなってしまうのではないかという危惧もあります。あくまで私見ですが、学校に体験に来るような時間があるなら、海外旅行で見聞を広げるとか、学校以外のボランティア活動に従事するとか、学校では経験できないことをした方が、厚みのある教員になれるのではないかと思います。

 小中学生は、学校以外の社会を知りませんし、学校外の人とのかかわりも少なくなっています。これからの教員には、授業の技術だけでなく子どもたちを学校外の人たちとどうつなげるかが求められます。

 そもそも学校現場のことは、赴任すれば嫌でも覚えます。最初の数か月は、学校体験の効果があるかもしれませんが、長いスパンで考えると採用される側から見てもメリットは少ないのではないかと思います。

 教採の受験者を増やすためには、こうした小手先の変更では大きな効果は期待できないと思います。それよりも、国レベルで学校現場の働き方改革をもっと具体的に示す方が効果的だと思います。ブラックと言われる学校現場の状況を、学校体験で知られて「やっぱりブラックだ」と思われてしまえば、何のための改革かわかりません。

それなら、「今はブラックかもしれないけれど、数年後には、これだけ解消しますよ」という、具体的な方針を強くアピールする方がよほど効果的です。受験生が「えっ、ウソ!」とびっくりするようなインパクトのあるものを、国や文科省には打ち出してほしいと思います。それが、学生の希望につながります。

 例えば、現在文科省が進めている「不登校特例校」を、将来的にはすべての公立小中学校のスタンダードにするなんて方針はどうでしょうか。

 そうすれば、授業の時間数も減らすことができますし、児童生徒が自分の興味・関心・能力に合わせたカリキュラムを自分で組むことも可能になります。当然、教員は本来の業務に専念できる時間が確保できるでしょう。不登校も減ると思います。

 教採を受ける人が減っているのは、教員になりたいと思っている人が減っているからではないと私は思います。なりたいと思っていても一歩踏み出せないのは、学校の教育制度や働き方への不安が邪魔をしているからです。

 教採受験者の多くは、もともと教育に関心があり、子どもたちと触れ合うことが好きな人たちです。そうでなければ、教採が選択肢の一つに入っていないはずです。

今最も大切なのは、学生に「自分にもできるかもしれない」という希望を与えることです。

 (作品No.184RB)

幸せ行きのチケット

初めて、養老孟司さんの講演を聴きました。テーマは「しあわせに生きるために」。

養老先生というと、どちらかというと歯に衣着せぬ物言いをするというイメージがあったのですが、講演ではまったく違いました。85歳というご高齢であることもあるのかもしれませんが、とても落ち着いた話し方で、いつ始まっていつ終わったのかわからない感じがしました。かといって不快な感じはまったくなく、実に自然体なお話でした。

講演全体の中で、先生が言わんとされていたのは、人間が文明の発達によってさまざまな形で自然を管理しようとしてきたが、結局はそのしっぺ返しがいま起こっている。自然保護というけれど、そもそも自然なんて人間が保護できるものじゃない。南海トラフのような大きな地震も自然です。そんなもの保護できるはずがない。

世の中で幸せに生きていくために大切なのは、自分のことは自分でする(自立する)ことと、それに満足する(自足する)ことだということでした。

演が予想よりも早く終わったので、先生が「何か質問は?」と聞かれました。

たくさんの質問が出たのですが、最後の質問がとても興味深いものでした。その質問は「先生は、今の教育をどう思われますか?」

という、ごく普通の質問だったのですが、私はよくぞ聞いてくれたと思いました。しかも、先生の回答が素晴らしかった。先生曰く、

「学校では、子どもに遊ばせてやればいいんですよ。勉強なんてやめてね。フリースクールがやっているみたいに。なんか最近の教師は教育制度を維持するために仕事しているみたいになっています。子ども時代が幸せでなければだめですよ。先生の仕事は、子どもと関わることでしょ。もっと関われるようにしないと。

あと、体を使う教育をすべきでしょう。今は、子どもが遊べる環境がない。それを大人がつくらなきゃいけない。ただ、今の先生が遊んだ経験が少ないのが気になりますが。

遊ばせてもらった子は、その恩を感じて、人のために役に立ちたいと思うようになりますよ」

まさに、本質を突いていると思いました。公立の学校が「遊べる」場になるためには、受験体制や学歴重視、エリート教育などを根本から見直す必要があるでしょう。そういうものにしがみついている限り、公立学校の魅力は生まれません。

さすがに、授業を全部やめてずっと子どもを遊ばせるのは現実的に無理だとは思いますが、それでも最近では所謂「一条校」でもカリキュラムを柔軟にして、子どもたちが時間割を自分で決められるようにするなど、子どもの自己決定を最優先する学校が注目されるようになっています。文科省の「不登校特例校」なども、かなり柔軟です。

自分で考えて、自分でさまざまな問題やトラブルを解決する力を子どもたちにつけるには、一つ一つ教師が指示を出したり、禁止事項をたくさんつくったりするこれまでのやり方では、限界があります。

指示や禁止は、安全、安心を第一に考えてのことでしょうが、転ばぬ先の杖を大人が前もって準備し過ぎるのは、子どもたちから自立する権利を奪っているのかもしれません。

受験や成績で縛りつけて、必要以上に安全・安心な学校を維持するために命令や指示ばかりをくり返し、「最近の子どもは指示待ちばかりで、何も自分からやろうとしない」と嘆くのは、天に唾を吐くのと同じです。

これからの学校は、子どもたちが自分で決められる場面を少しずつ増やしていくことが大切です。受験や目で見える評定ばかりを重視しても、社会自体がもうそんなものを求めていないかもしれないのです。

そういう意味では、どこの学校に進学しようが、難関大学に入ろうが、幸せ行きのチケットは手に入らないでしょう。子どもたちに大切なのは「自分が大切にされた」という経験です。それは、子どもたちを「信じて任せる」場面を増やすことで生まれるものだと思います。

(作品No.183RB)

退職生活と不登校

退職して一か月ほど、まったくの無職の期間がありました。収入はなくなりましたが、時間だけは有り余るほどありました。最初のうちは、自分のしたいことを好きなだけできる喜びで満ち溢れていました。私の場合、辞めたらブログを立ち上げたいと思っていたので、その手続きやブログに載せる文章を書くことで、一日があっという間に過ぎていきました。

 でも、しばらくすると自分一人で活動することになんとなく違和感を覚えるようになりました。毎日、楽しいのですが、自分だけでやっていることには、どんな意味があるのだろうという葛藤のようなものが生まれたのです。

別に何かの試験に合格しなければならないわけでもないし、上司に課せられた仕事があるわけでもないのですから、自分が楽しければそれでいいと言えばいいのですが、それでも、何となく落ち着かないのです。それは、ある種の罪悪感に近いものでした。

 しかも、その罪悪感は自分に向けられた罪悪感とは少し違うのです。何か、人としてもっと根源的なもののような気がするのです。大げさかもしれませんが、それは生命体として生まれ落ちた時からもっている「何か」であるように感じたのです。説明できない直感のようなもので、怠惰を否定する社会の規範から生まれるような表層的なものではなく、何かにせっつかれるような気分なのです。

 そして、最近思い始めたのが、こうした私の感覚は、ひょっとしたら不登校の児童生徒の心情にも同じようなものがあるんじゃないだろうかということです。彼らの精神状態は、私のようにのんびりと過ごす老人の気分とは、その深刻さにおいてまったくレベルが違うものだとは思いますが、それでも共通点はあるように思うのです。

周知のとおり、不登校は年々増え続けています。実数はもちろんですが、これだけ少子化が進んでいることを考えれば、その増え方は尋常ではありません。今や中学校ではクラスの中で5~6人はいる計算になるといいます。

 ただ、逆の見方をすれば、他の34~35人は登校できているのです。それが、不登校の子にとってみれば、非常につらいことなのです。なぜなら、大半の子が当たり前にできていることが自分にはなぜできないのかという罪悪感がそこに生まれるからです。

 不登校の子どもにとって、世間は非常に気になる存在です。いくら「あなたはあなたのままでいいんですよ」と言われても、納得できません。むしろ、そんなことを言われたら「見放された」と感じてしまうでしょう。つまり、自分以外の「声」が頭の中で大きな声を上げて自分を否定していると感じてしまっているのです。自分の中にある「世間」が、自分を「何をやっているんだ」「もっとしっかりしろよ」とせっついてくる。それが、彼らの感じる最も重い重圧となるのです。

 私の抱いた感覚も、レベルこそ違え、自分の外側から「お前のやっていることは、本当に自分の人生にとって有益なことなのか」という「せっつき」の声が、つかみどころのない罪悪感を生み出しているのです。共通するものがあると感じたのは、どちらも「せっつかれる」感覚があるからです。ただ、私の場合はたとえ「せっつかれて」もその先にあるものは、自分のやりたいことをどうするかという希望へとつながるものです。それに対して不登校の子への「せっつき」は、自分を完全に否定されていると感じる「せっつき」です。そこが大きく違うところです。

 最近、不登校について書かれた本をいろいろと読みながら願うことは、自分の外から聞こえてくる「声」も、いつか必ず自分の中に蓄積されていくエネルギーによって、少しずつ小さなものになっていき、いずれはそれが自分の生きる指針となるということに気づいてほしいということです。

その気づきを得るのは、子どもだけではなかなか難しいでしょう。学校に「普通」に通っている子が、何も自分よりも偉いわけではない、同じ価値を持った人間なのだと思える環境を大人はつくっていくべきです。

 今、学校は、多くのことを背負いすぎています。それが、教員の疲弊につながっています。しかし、問題はそれだけではないのです。学校が、たとえ善意であったとしても、過剰に多くのものを抱え込んでしまったが故に、学校から外れたときに、自分には何も残らないのではないかと子どもは錯覚してしまうのです。

学校の相対化は必ずしも歓迎できるとは思いませんが、それでも、胸を張って既成の学校以外を選択できる社会の空気みたいなものが必要です。それには、ホームスクールも含めて、フリースクールなども、その学習内容に応じて学校として認めていかなければ、不登校の子どもの苦しみは消えません。国も「不登校特例校」(このネーミングもセンスがないと思いますが)を設置していますが、選択肢として市民権を得るには、まだ数が少なすぎます。

 また、既成の学校が選択肢の一つになることに拒否反応を示す教員は多いと思います。でも、苦しんでいる子どもを放置してまで、今の学校だけを学校とすることにどれだけの意味があるのかと思います。

 子どもたちに、多くの、そして「正規」の選択肢を与えることができれば(社会的に用意できていれば)、最初の学校に合わなかったとしても、しばらく休憩すれば身近にある別の学校に手を伸ばすことができます。それは、自分の罪悪感を消すための行為ではなく、積極的に「生」を求める行動としての選択になると思うのです。

とはいえ、私は、いわゆる新自由主義者が訴える(すでに実施されている)学校選択制には賛成できません。それは、必ずしも苦しんでいる子どもを救うために有益であるとは思えないからです。この制度には、学校を競争原理によって学校の質を向上させようとする意図が透けて見えます。競争は必ず結果を求めます。誰の目にも明らかな数値としての結果を学校に求める危うさが伴います。

不登校の子どもは、競争原理に決して馴染むことはないでしょう。比較や競争に耐えられないからこそ学校に足が向かないのです。

そこには、彼らを追い込んでいる「声」が大音量となって響いている気がしてならないのです。

(作品No.182RB)