タテ・ヨコ・ナナメ

夏休みの終わりごろ、いつも考えていたのは「始業式に子どもは来てくれるだろうか」ということでした。

 8月の最後の週あたりに「中学生が自ら命を絶った」というニュースが報道されたりすると、もう気が気ではなくなります。正直言って「こんな報道はやめてほしい」と何度も思いました。報道の自由が大切なのは百も承知ですが、こういう報道に(あお)られて追随する子がいたらどう責任を取ってくれるのかとさえ思いました。そして、瞬時にいろんな子の名前や顔が頭に浮かんでくるのです。最後は「学校には来られなくてもいい、生きていればそれでいい。生きていれば何とかなる」と祈るような気持ちになります。

「2022年の一年間に自殺した日本の若者(小学生から高校生)は514人に上り」、国は今年4月に発足した「子ども家庭庁」(以下、家庭庁)に「自殺対策室を設置」し、6月には「こどもの自殺対策に関する関係省庁連絡会議」(以下、連絡会議)が「こどもの自殺対策緊急強化プラン」を取りまとめ」ました1)

 すでに学校には、スクール・カウンセラーやスクール・ソーシャルワーカーなどの専門家が配置され、児童生徒の心のケアをしてもらえるようになりました。しかし、「周りの大人がこれだけクモの糸を垂らして、『相談してね』と呼び掛けても、子どもは来ない、来ることができない」2)状況が続いています。24時間365日誰でも無料・匿名で利用できるチャット相談窓口「あなたのいばしょ」(NPO法人)理事長の大空(こう)()氏によれば、寄せられる相談内容の多くが学校に起因したものだといいます(学校の責任だという意味ではありません)。

 大空氏は家庭庁の連絡会議に有識者の立場で参加し、自殺対策の課題として「スティグマ」からの回避を挙げています。一般に「スティグマ」は烙印という意味ですが、ここでは「思い込み」に近いと考えた方がいいでしょう。大空氏は次のように指摘します。

「『相談することは恥ずかしい』『相談したら負けだ』『大人にはどうせ分かってもらえないじゃないか』と子どもたちは思っている」「スティグマは文化なので、仕組みや教育で変えられる部分もあると思うが、いくら相談の受け皿を増やしても、この部分が変わらない限り難しい。」3)

 私たちがいくら子どもに寄り添おうと努力しても「文化」としてのスティグマの前には、いかにも無力です。なぜなら、「文化」には必ず「規範」が含まれ、社会的規範は「世間の常識」に繋がるからです。『相談することは恥ずかしい』『相談したら負けだ』という子どもの声は、「辛くても自分が頑張らなければ何も解決しない」という社会的規範(当たり前とされていること)は、子どもに大きなプレッシャーとなることがあるのです。つまり、「世の中で当たり前だと言われていることが自分にはできない。当たり前を決めているのは大人だ。だから大人がわかってくれるはずがない。」と思い込んでしまう、それが「スティグマ」の正体です。

 教育に指示や指導は欠かせません。でも、そのために子どもは教師との関係を「タテ」の関係と捉えがちです。そして「タテ」の関係は変えることのできない「規範」であると思い込み、適応できない自分を追い詰めてしまいます。その状態を緩和するのが、「ヨコ」や「ナナメ」の関係です。「ヨコ」とは「子ども同士」の関係、「ナナメ」とは家庭や学校以外の大人との関係(例えば地域の人や各種相談機関の相談員など)のことです。特に現代では、「ナナメ」の関係は学校が意識して機会を作らなければ自然発生的に築かれるものではなくなっています。

 人が本音で相談できるのは、自分をまったく知らない人であることが多いものです。だから、普段の様子が知られていない「ナナメ」の関係の相手には、何の利害関係も上下関係もなく安心してすべて話せるのです。  

 例えばゲストティーチャーの招聘は、第三者との出会いを生み出すきっかけになるかもしれません。また、「あなたのいばしょ」のような相談機関を紹介することによって、「ナナメ」の関係にある大人が社会の規範としての文化を柔軟に理解していることに気づくかもしれません。そうした気づきが、子どもを救うこともあるのです。

 これから起こり得るすべての悲劇を防ぐことはできないのかもしれません。でも、学校という枠組みをほんの少し緩やかにするだけで、どの学校にもできることはあると思うのです。

 ちなみに大空氏は、「2学期の始業式を朝からやらなくてもいいのではないか」と述べています。実際に可能かどうかはわかりませんが、要はこのくらい柔軟な発想が必要だということなのです。

1) ~3) 2023年8月22日教育新聞デジタル「子どもの自殺対策 「あなたのいばしょ」の大空幸星さんに聞く」

参考)NPO法人「あなたのいばしょ」ホームページ:https://talkme.jp/

(作品No.230RB)

36年後の「ベル」

以前、このコラムで子どもの目覚ましについて書きました。いつか鳴らすだろうという願いを持って、子どもたちに一つひとつ目覚まし時計を渡すのが教師の本分だと。それと同時に大事だと思うのが、「良い思い出」をつくってやること、そして、その仕掛けをすることです。

 思い出が「良い」ものになるのは、そこに必ず自分が認められたという実感が伴うからです。認める相手は教師でも友だちでも構いません。教師によるたった一言が、ずっと後までその子を支えることもありますし、学校におけるさまざまな行事で友だちと協力し合う中で互いに良さを認め合えることもあるでしょう。

 そして、「良い思い出」と「目覚まし」は連動していると思います。認められたという「良い思い出」の中で学んだことは、誰かから受け取った「目覚まし時計」なのだと思います。ただ、ベルが鳴るのは卒業して何年もたった後のことが多いので、私たちは滅多にベルの音を聞くことはできません。

 でも、先日そのベルの音を聞いたのです。正確に言えば、ある子がずっと前にすでに鳴らしていたことを知る機会に巡り合えたと言った方がいいでしょう。

 昔、ある問題行動を起こした子を元気づけるために、その子と仲の良かった子に「何か元気づけてやるアイデアはないか」と持ちかけたところ、「仲の良い何人かでボーリングに行きたい」と言うので、休みの日に5~6人で出かけることにしました。ボーリング場では、問題行動に関してはいっさい触れませんでしたが、当の本人は私の意図に気づいていたようです。また、一緒に行った仲間も、いつも以上に楽しく盛り上がろうとしてくれていました。

 それから36年後、同窓会で当時の子たち(と言ってもすでに50歳になっていましたが)と再会しました。そのとき、一人の子が私に「先生あの時はほんとにうれしかったんです」と頭を下げに来たのです。一緒にボーリングに行ったうちの一人でした。こんなに時間が経っているのに覚えていてくれたことに私は感激しました。少なくとも彼にとって「良い思い出」になったのだと思うと感無量でした。もし、私が考えている通り「良い思い出」と「目覚まし」が連動しているとしたなら、彼は私の渡した「目覚まし」をどこかで鳴らしたということになります。

 他にも、同じ理由で釣りが好きだという子と一緒に近くの港に行ったこともあります。釣りの経験がまったくなかった私に、その子は餌のつけ方からポイントの探し方まで丁寧に教えてくれました。それでもまったく釣れない私を見て笑っていましたが、最初の一匹が釣れたとき思い切り喜んでくれたのを覚えています。親の愛情を感じられないでさみしい思いをしていた子でした。彼もどこかでベルを鳴らしてくれていたらどんなにいいかと思います。

 今回は何か自慢話のようになってしまって恐縮です。同窓会の出来事があまりに嬉しくて書かずにはいられませんでした。ご容赦ください。

 とにかく子どもたちは、「特別なこと」や「プラスアルファのこと」が大好きです。今のご時世、私と同じことをすればコンプライアンスの問題や安全管理の面で問題があるでしょうから、お勧めはできません。

 でも、ごく普通の学校生活の中で、ほんのちょっと「特別感」を出すことは、工夫次第でできるのではないかと思うのです。それがベルを鳴らすきっかけになるに違いありません。

(作品No.229)

本物の音

先日、佐渡裕さんが指揮するコンサートに行きました。私はオーケストラや管弦楽に特別興味があるわけではないのですが、家族がチケットを申し込むときに「あなたも行く?」と訊かれて思わず「行く」と言ってしまったのです。当日になって面倒くさくなって「行く」と言ったことを半ば後悔していました。私は、まあこんな機会は滅多にないので、一度くらいは聴いてみてもいいかと自分を納得させなければなりませんでした。

 しかし、始まってすぐに私の気持ちは大きく変わりました。まるで音楽のわからない(音楽がわかるという言い方がいいのかどうかわかりませんが)自分がぐいぐい引き込まれていきました。

 そこで奏でられる「音」は、音の周りを何か柔らかくふわふわした温かい何かで包まれているように聞こえてきました。これは、おそらく生の演奏でないと感じられないものだと直感しました。

 特に、若干20歳で佐渡さんから「天才」と認められた谷口朱佳さんの演奏は圧巻でした。私は今まで演奏というのは、演奏者が楽器を使って音を出すものだと思っていた(常識的にはその通りです)のですが、彼女の演奏する姿を見ているとそうではなかったのです。

 まるでビオラに当てられた弓が意思をもって自ら動いているように見えたのです。弓に擦られたビオラの弦とビオラ本体が一つになって自らを表現しているように見えるのです。

 楽器の個性を最大限に生かし、作曲家の表現したかったことを余すところなく音に託すためには演奏者は脇役のようになるのです。これが本物の本物たる所以(ゆえん)なのだと思うと沸き起こってくる感動を抑えきれませんでした。

 谷口さんは3歳からヴァイオリン、14歳からビオラを始めたとのことですから、かなりの年月をかけて努力を積み重ねたに違いありません。だからこそ本物の「脇役」に見える境地に達することができたのでしょう。

 教育は本質的にある程度の強制がさけられない営みです。必要な知識や技能を身につけさせるためには、何もかも自由にさせるわけにはいきません。また、本当の意味で子どもの個性を伸ばすためにも、あるいは人として基本的に身につけなければならないことを伝えるためにも一定の規律は必要です。けれども、最後の最後は子どもの「自ら前に進む力」を信じるしかありません。

 教育者の最終目標は、子どもの「脇役」になることなのかもしれません。演奏者から「脇役」に少しずつシフトしていくことの中に、教育者の大きな喜びが含まれているような気がします。

 ともあれ、あのとき「行く」と言って本当によかったと思いました。

(作品No.227)

危機管理の基本

初めて管理職として勤務した年の10月末の休日、突然私の携帯電話が鳴りました。電話は校長先生からでした。「まだ、はっきりしたことはわからないが今警察から電話があって、職員が現行犯逮捕されたらしい。悪いがすぐに学校に詰めてほしい。それからいつでも職員を集められる準備だけはしておいてくれ」

 耳を疑いました。しかし、残念ながらそれは事実でした。その日の朝、本校職員が盗難で逮捕されたのです。これはとんでもないことになる、そう直観しました。

 すぐに、窓口を一本化するため(電話に出るのは教頭の私だけとするため)校内の電話すべてに「電話には出ないでください」と書いた紙を貼りました。

 明日の日曜日には、町の行事が本校で予定されていました。町内の指定区域から大勢の人が集まってくることになっています。職員室のある校舎が耐震工事のため全面シートに覆われていたことで外から中を見ようとしても見えなかったのは不幸中の幸いでした。万一マスコミが近くに来ても校舎の中を覗かれることはありません。もう一つ、事が起こったのが土曜日であったことも助かりました。子どもが登校するまで時間があります。何とか休日のうちに保護者への説明会ができました。

 夕方には全国にニュースが流れました。それから約24時間後に保護者説明会を開くまで、一体自分は何をすればいいのか混乱するばかりでした。校長不在のときにどんな電話がかかってくるか、何と答えるか、必死に考えました。そして、昨年まで勤務していた県教委で受けた危機管理の基本についての講義を思い出しました。

 まず、いつ何があったかを細かく記録すること。私は大学ノートを放さず常時手元に持ち、校長との連絡やマスコミからの電話などを時刻とともに懸命にメモしました。こんなときによくそんなことをする余裕があったなと思う人もいるかもしれませんが、記録を取ることは説明会の進行に役立っただけでなく、記録を取ることで気持ちが落ち着く効果もありました。何をしていいのかわからない私にとって精神安定剤のような効果をもたらしたのです。

 それから電話対応について。特にマスコミには、可能な限り本当のことをいうことが大切だと教わりました。隠そうとすればするほど、しつこく聞いてきます。こちらの言うことが信用できないと思うと質問が際限なく細かくなります。こういうとき、対象者の年齢とか何年生の担任だといった客観的な事実、特に学校として把握していないはずがないことまで隠そうとする管理職もいるそうですが、それは相手に「学校が事実を隠蔽しようとしている」と理解しかねません。誠実に答える方が余計な混乱を生まなくてすむということです。わからないことや、校長でないと答えられないようなことは、校長が帰ってくる時間を相手に告げて、その頃にまた電話してほしいことを告げておくことで相手に誠意が伝わります。電話をかけてくるマスコミの人も仕事としてやっているのですから、誠実に対応すれば結構誠実に反応してくれます。

 実際、校長不在のときに某新聞社から電話がありました。年齢、名前の漢字、所属学年、校務分掌などを聞かれるままに答えました。その新聞社の記者は最後にこう言いました。「教頭先生も大変ですね。頑張ってください」

 名を名乗らない苦情電話もありました。「どう責任をとるつもりだ。詳しいことを話せ」とかなりの勢いです。それには「保護者会で説明させていただきます」と言い通しました。最後に電話の主は「本当にしっかりと説明しないと承知しないぞ」と脅すように言って電話を切りました。弱い立場にある者に堂々と攻撃を仕掛ける人を前にして、逆に私は冷静になれました。こんな弱い者いじめしかできない人間をまともに相手にする必要はないと思ったからです。

 昔は不祥事が起こったときに、管理職、特に校長はその事実をいかに世間に出さないかを最優先に考えていました。それが、当該職員を守ることだと信じられていたのです。しかし、SNSがこれだけ普及している現在、隠そうとするほど炎上します。不祥事そのものも問題ですが、隠そうとした姿勢の方が厳しく追及されるのです。

 危機管理の基本は「誠実さ」です。起こってしまったことは取り返しがつきません。ならば、してはいけないことをしたときには大人でもしっかりと誠意をもって謝罪しなければならないのだという姿を子どもたちに見せることが、教育者としての務めだと思います。

(作品No.227)

言葉は、辛抱強い生き物

「言葉は、辛抱強い生き物だと思う。そのときは聞き流されても体のどこかに住みついて、ある日、突如として姿を現す。」(星野富弘)

何気なく言った言葉が、言われた人間の心の中に長くとどまり、あるとき突然姿を現す。教師にとってこの言葉は強烈です。私たちは子どもを否定する言葉を「体のどこかに」植え付けないように細心の注意をしなければいけないと思います。でも、逆に突然姿を現した言葉がその子を勇気づけるものであれば教師にとってこれほどの喜びはありません。子どもたちの心の支えになるような言葉を一つでも多く投げかけられる存在でありたいと思います。私たちのそんな姿を見て、子どもたちが、互いに傷つけ合うのではなく、支え合う言葉を交わし合うようになれば、いじめ問題の多くは解消するにちがいないと思います。

<追伸>

最近の生徒はひ弱になったと言う人がいます。親や地域の人から叱られることが減ったため我慢する力が弱まっていると言う人もいます。本当にそうなっているのかどうかを立証する術を私は持ち合わせていません。でも、仮に本当にひ弱になっているとしても、私たちはその現実を受け止めたうえで、そういう生徒たちにどういう言葉を贈ることができるかを考えなければならないのだと思います。

(作品No.53)

「先生、それは違う」

まだ、私が20代のころ(30年以上前)の話です。合唱コンクールで絶対最優秀賞を獲る。そう思って練習しました。当時は、学級練習が中心でした。放課後も特訓しました。朝練までやりました。でも、結果は優秀賞。

 そして、最優秀賞が獲れなかった直後の学活。教室は沈んだ雰囲気で包まれていました。私は生徒に「勝たしてやれなくてすまん」と謝りました。その直後でした。一人の女子生徒が泣きながら立ち上がってこう言ったのです。

「先生、それは違う。私たちは、先生に言われて無理矢理やらされたんじゃない。自分たちで頑張ろうと思ってやってきたんです。どうしてよく頑張ったって言ってくれないんですか」

 私は、自分の傲慢さに気づきました。学級をまとめるという大義名分を掲げながら、実は、自分の評価を高めたかっただけなのだと知らされました。自分のクラスがこんなにも良いクラスであるのは、自分の指導力の賜なんだと思いたかったんだと思います。

 その後私は、合唱コンクールの練習のやり方を変えました。最初のうちだけ練習内容を指示し、ある程度形になった時点で、あえて教室を離れる機会を増やしました(実は陰で見ていたのですが・・・)。すると、自然な形でリーダーが生まれ、自分たちで何度も練習し、できていない所を互いに意見を出し合っているのです。結局、最優秀賞は獲れませんでしたし、リーダーとなった子は大粒の涙を流していました。でも、私は素直に目の前の生徒を褒めることができました。自分たちで取り組んだことの素晴らしさを子どもたちと分かち合うことができました。とてもすがすがしい気持ちでした。

 以前書いたかもしれませんが、生徒指導の語源は英語のガイダンス(案内)です。案内というと生徒の前に立って「私についてこい」というイメージを持つかもしれません。しかし、元々アメリカでは、職業指導(今の日本で言えば進路指導に近い)の場面を想定した概念でした。そこでは、生徒一人ひとりの個性や能力に応じて、共に将来について考えるための支援と助言が行われていたと言われています。そうした支援と助言をもとに、自ら考えて最後は自分で決める、そういう力を育てるものだったのです。

 文部科学省も平成22年3月、『生徒指導提要』において、長らく曖昧になっていた生徒指導の概念について「……児童生徒自ら現在及び将来における自己実現を図っていくための自己指導能力の育成を目指す」ことを「積極的な意義」として明確に示しました。ここで示された自己指導能力こそが、変化の激しい社会の中でたくましく生きていくために必要な力であり、私たち教師は生徒に自己選択や自己決定の場や機会を与え、育てていく必要があります。かつての私のように、学級を私物化し、自分のための学級経営をしていたのでは、到底この力が身につくはずはありません。そのことに気づくきっかけを与えてくれた、あのときの生徒に心から感謝したいと思います。

(作品No.9HA)

当たり前を褒(ほ)める

令和4年12月13日に示された文部科学省の「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果ついて」によれば、通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒は、小中学校では8.8%、高校では2.2%に達しています。これは、35人学級(小中学校)であれば、1クラスに3人程度いることになります。

 平成24年に発表された同様の調査(文科省)では、通常の学級における発達障害(LD・ADHD・高機能自閉症等)の可能性のある児童生徒は6.5%程度だったことを考えれば、特別な支援が必要な児童生徒が増えているのは明らかです。

 なぜこんなに増えたのかは私にはわかりません。また、原因の追究をしたとしても素人の私には限界があります。そういうことは、専門家に任せたいと思います。私たちにできることは、目の前の子どもが何を求めているのかにどれだけ耳を傾けることができるかだと思うからです。

 ある多動性傾向の強い子がこんなことを言ったそうです。

「ぼく、本当は座りたいよ」

 授業中に立ち歩く児童に、教員が自席に座るように促したときに発した言葉です。本当はみんなと同じように座って授業を受けたいと思っているのに、どうしてもできないというのです。佐藤氏は他にも、聴覚障害のある子から「耳が4つあり前からも後ろからも音が入ってきた」と聞かされたこともあったといいます。

 こうした話を通して、植草学園短期大学特別教授で特別支援教育士スーパーバイザーである佐藤愼二氏は、次のように子どもに「諭された」と述べています。

「(この子は)見方を変えれば、「着席している状態」は頑張っていたのだ。配慮を要する子どもたちの「客観的に見ればできて当たり前」の行動の多くは、「努力の表れかもしれない」と「見方」を変える必要もありそうだ。」

「多動性とは、パンツの中にアリが1匹入っている感覚なのだ」と諭された。」1)

 よく「困った子」は「困っている子」だと言われます。でも、一番困っているのは本当にしてほしい配慮をうまく周囲に伝えられないでいる子どもです。

 学校は病院ではありません2)。悪いところを治すのが病院ならば、良いところを伸ばすのが学校だと思います。私たちは、つい何か良いことをした子だけを褒めますが、静かに椅子に座っている子は、それが当たり前だとして特別に褒められることはありません。でも考えてみれば、そうした子の〝お陰〟で教師は授業が進められるのです。

 

 私は、新任の時に学級を崩壊させた翌年、最初の学活で全員が静かに座って話を聞いてくれている姿に涙が出そうなくらい感動したのを覚えています。また、複雑な事情を個々に抱えて学校に馴染めず、それでも自分を変えたいと入学してきた山の学校の生徒を思い出します。特別支援教育の話から(そ)れてしまったかもしれませんが、結局は同じなんじゃないかとも思うのです。

(作品No.226)

1)教育新聞デジタル(2023年5月13日)「通常学級の「特別」ではない支援教育」第5回、佐藤愼二

2)前掲、2023年5月9日、第4回 

笑顔の意味

私が初めて不登校の生徒を受け持ったのは、新任から5年目でした。中学1年生の彼は小柄で見た目はすごくかわいらしい男の子でした。あまり多くを語ることがなく、深く考えることもなく、ただただ、おびえた瞳を周囲に向けていました。

彼の姉は学年トップクラスの成績で、部活動でもキャプテンをしていました。人前でも堂々と話すことができる、いわゆる優等生でした。

それに比べて彼は、不登校になる前から勉強は大変苦手でした。小学校からの書類でも、5段階の3は一つのなく、中学校に入ってもさっぱり授業についていけなかったようです。

彼の不登校(当時は登校拒否といわれていましたが)が本格的になったのは、1年生の2学期ころだったと思います。

毎日のように家庭訪問をしましたが、彼は私に会おうとはしませんでした。母親は、私が行くと話が止まりませんでした。時には、学校に来て相談室で数時間話し続けたこともあります。話の内容は、彼のことではなく、彼の父親、つまり母親からすると夫のことばかりでした。

とにかく、その父親は毎日のように息子を大きな声で怒鳴りつけ、いうとおりにしないと思い切り殴ったり、蹴ったりしているというのです。今から30年も前のことですから、虐待防止法などありません。いや、虐待という言葉すらまったく頭にありませんでした。

父親は、息子の箸の持ち方が悪いと言っては怒鳴り、猫背になっていると言っては背中を蹴り上げていました。そして、中学校で初めてもらって帰ってきた通知表に1と2ばかりが並んでいるのを見て、怒りが最高潮になりいままで以上に暴力をふるいました。そして、ついに母親にも手をかけるようになっていったのです。

母親が学校に突然やってきて長々と話をするようになったのもちょうどその頃です。母親は家に帰りたくなかったのです。だから、少しでも私との話を長くして帰るのを遅くしようとしていました。

一度だけ父親と話をしたことがあります。そのとき父親が言ったのは、「先生、通知簿の3は「普通」ってことですよね。私はこいつ(息子)に特別いい成績をとってこいとは思わない。上の娘とは違うことも分かっている。でも、せめて「普通」くらいにはなれって思うんですよ。間違っていますかね。」

そのとき、私は父親にその子にはその子の個性があるというようなことを言ったように思いますが、父親が鼻で笑ったのをはっきりと覚えています。「あんた、自分の子じゃないからそんなことが言えるんだ」

彼の家の中は日増しに荒れていきました。彼はまったく学校に来なくなりました。家の中では、昼間母親と二人きりになり、母親に無理難題を吹っかけて母親がそれを拒否すると、母親に向かっていろんな物を投げつけるようになりました。そして、家の中の物を次々に壊していきました。リビングの大きなガラスまで割ったこともあるといいます。

父親はそのことを知っていましたが、彼は父親の前ではおとなしくしていたので、結局「お前が甘やかしたらこうなったんだ」と言って取り合ってくれませんでした。

ある日、我慢しきれなくなった母親は一人で家を出たそうです。父親は、あっちこっちを探し回りましたが、見つかりませんでした。学校には時々母親から電話が入りましたが、居場所は知らせてくれませんでした。「もう二度と戻る気はありません」と電話口で泣いていました。学校にしか(私にしか)こんな話をする相手がいなかったようです。

ところが、しばらくして家庭訪問をすると母親が家に戻っていました。結局行くところがなかった、仕事もこれまでしたことがなく、探してもどこも雇ってくれない。経済的にどうにもならなくなったのが大きな理由だったようです。

そのことがあっても、父親はまったく態度を変えることはありませんでした。息子である彼の荒れ方もさらにひどさを増しました。

ある日、彼が「ミニバイクを買え」と母親に言いました。当時、ミニバイクはとても高額であったし、子ども用のバイクは法律で定められたサーキットコースなどでしか乗ることができないものですから、さすがにそれはできないと母親は拒否しました。

すると、彼は火が付いたように家の中で暴れまわり、家の中は惨状と化しました。母親の額からは、彼が投げた時計が当たって血が出ていました。母親は「殺される」と感じたと言います。結局、息子の要求を拒み続けることができずにミニバイクを購入してしまいました。一応購入時には、家の庭以外では乗らないように話はしたようですが、実際にバイクが届くとそんな約束はまったく忘れたかのように、毎日彼はそのバイクに乗って遊びに行きました。

その頃はまだ不登校の生徒は非常に少なく、マンモス校だった私の学校の中でも珍しい存在でした。同じクラスの子のなかで「あいつ、きのうミニバイクに乗って遊んでいた。サボってるだけじゃん」という会話が聞こえるようになりました。

彼は今思えば特別に支援が必要な子だったと思います。周囲の目を気にせず、法に触れるミニバイクを大勢の人がいる公園で乗りまわしていました。人目をはばかるという感覚はほとんどなかったようです。

とうとう彼の行動は、警察の知るところとなり、バイクに乗っているところを補導され、母親が引き取りに行くことが何度か続きました。それでも彼はまったく懲りる様子もなく、同じことを繰り返しました。その結果、警察は自宅から遠く離れた児童養護施設送致を決めました。まだ中学生であることを考え、実際に施設に連れて行くのは家庭で行うように通告を受けました。しかし、そんなこと母親にできるはずもなく、結局私が付き添うことになりました。施設に行く日、それまでまったく無関心だった校長が突然「私がも本人を説得する」と言って、私と一緒に彼の家に行きました。校長は、ただただ「こんなことをいつまで続けるんだ」という説教ばかりでした。彼は無理やり家から出そうとした校長の手を振り払い、泣き叫びながらリビングのテーブルの脚にしがみつき、離れようとしません。それでも校長は説教まがいのことしか言いませんでした。最後は言うことがなくなって、彼の名前を何度も大きな声で叫ぶばかりとなりました。それを見て私は、この校長の人としての「浅さ」にあきれました。

仕方なく、私は校長を彼から引き離し、力づくで彼をテーブルの下から引きずり出し抱きかかえて車に押し込みました。それしか方法はないと思ったのです。かわいそうだとは思いましたが、このままでは、この家は完全に崩壊する。いや、もうすでに崩壊している。こんな両親のところにいても彼にとって何のプラスにもならない。ここであきらめたらきっと今度は警察がやってきて強引に連れていくでしょう。それだけは避けたいと思いました。私は彼に一生恨まれるかもしれないと思いましたが、校長のように自分の立場でしかものが言えないよりははるかにましだと思いました。いま思うと、校長が突然彼の家に行くと言い出したのも、警察が教育委員会を通じて対応を迫ったからだと思います。上の命令には逆らいたくなかったのでしょう。

とにかく、彼を車の後部座席に押し込みました。はっきりとは覚えていませんが、たぶんその時、施設側の車が彼を迎えに来ていたと思います。

施設までの車中、意外にも彼は暴れたりはしませんでした。小一時間かけて施設に着き、職員に連れられて中に入っていきました。その職員は車に同乗していた私と母親に、「里心がでないうちに、このままお帰りください」と言って、同じ車でそのまま引き返しました。

施設は、小高い山の上にあり、帰る道は施設の近くを周回するように続いていました。私は複雑な気持ちでぼんやりと車の窓から見える施設を眺めていました。と、その時です。彼の姿が見えたのです。私はびっくりしました。私の目に飛び込んできたのは、これまで一度も見せたことのないような晴れやかな笑顔だったのです。その上、元気よく私たちに向かって大きく手を振っていたのです。「えっ、どうして?」と私は戸惑いました。時間にしてほんの数秒の出来事でした。

若かった私には、その時の彼の様子を見て、正直「気味の悪さ」を感じました。その感覚はホラー映画を見たときとよく似たものでした。怒りや憎しみを遥かに超えた、なにか得体のしれないものが彼の心に宿っていると思い、体が震えました。それは教育者としての感覚ではなく、恐怖に近いものでした。

彼はその後、中学卒業まで施設にいました。その施設に入るということは書類上転校扱いになっていました。転校先は近隣の中学校になります。でもそれはあくまでも書類上のことで、彼が施設を出て「転校先」の中学校に通うことはありません。ただ、卒業に当たっては元いた学校に再度籍を戻します。そのため、彼は私の勤務校の卒業生ということになります。記録上は、施設に入っていたことは公になりません。

私は、自分の中学校の卒業式が終わった後、彼の卒業証書を持って施設に行きました。施設の職員と彼と私だけの卒業式に参加するためです。私は、二年半ぶりに彼の名前を呼び、卒業証書を渡しました。彼は両手を差し出し、私から卒業証書を受け取りました。けれど、一度も顔を上げることはありませんでした。「式」は5分ほどで終わり、施設の職員から「彼はとてもまじめにここで頑張りましたよ」と私に伝えてくれました。

私は、あの笑顔の意味を聞くことができませんでした。式が終わってからも私に視線を向けることのない彼の姿を前にして、何を言ってもウソになるような気がしたのです。ここで何か言えば、あのときの校長と同じように教師としての立場だけで取り繕うことになる気がしました。

それから彼がどんな人生を送ったのか私にはわかりません。30年の時を経て、あの時の笑顔は、安堵の笑顔だったのかもしれないと思うようになりました。入所中、施設からは彼は知的に障害があり、周囲の状況を正確に判断できないと連絡を受けていました。でも、本当はすべてを理解していたのかもしれません。毎日が戦場のような家庭で、もがき苦しんで、それでもそこにいるしかなかった自分を冷静に見つめていたのかもしれません。

だれでもいいから、無理やりでもいいから、俺をこの戦場から救い出してくれと心の底で願っていたのかもしれません。彼が施設の前から手を振ったのは、あきらめや憎しみではなく安心して過ごせる日常をやっと手にすることができるという、ほっとした気持ちだったのではないかと思うのです。

勝手な言い分かもしれませんが。

学級通信の効用

私は教諭の頃、毎年学級通信を出していました。多いときは、年間260号くらいになったこともあります(多いから良いというわけではないですが)。一般的に学級通信は、学級の様子や担任の考えを保護者や子どもに主な目的だと言われますが、それ以外にも多くの効用があります。

 第一の効用は、生徒を細かく見る習慣が自然に身につくことだと思います。学級通信は、生徒の日常から「ネタ」を探すのが一番です。通信は後々まで残ります。悪いことは書けませんから、自ずと生徒の良いところを探すようになります。その姿勢が生徒に伝わり、互いの良好な信頼関係の基盤となります。ただ、中学生の場合、どんなに素晴らしい行動であっても、名前を出されるのを嫌う傾向があるので、私は良いこともあえて名前を伏せました。それでも、本人は自分のことだとわかります。「先生は、こんなところも見てくれているんだ」という安心感が生まれます(小学生、特に低学年では逆に名前を出した方が本人も保護者も喜んでくれるのかもしれません)。

 他に、自分の実践記録になるという効用もあります。過去の通信を見れば、かつて自分が同じような場面で何を考えていたのかを振り返ることができます。そこから新しいアイデアが生まれる経験を何度もしました。今はパソコンで作ることができるようになりましたから、データとして残すことも簡単です。「手書き」にこだわっている人も写真に撮って、後に残る電子データとして保存しておくことをお勧めします。

 また、懇談など保護者と話す際に、「いつも通信楽しみにしています」と言われることもよくありました。保護者との会話が感謝の言葉で始められると、懇談が和やかな雰囲気で進められますし、学級経営にも絶大な効果を生み出します。クラスを大事にしているという姿勢を伝えるには最適な方法だと思います。

 私は、通信を書くのに30分以上時間をかけないと決めていました。書ききれなかったら次の日に出せばいいのです。大切なのは、無理をしないこと、自分が楽しむことです。学級通信は義務ではありません。別に出さなくてもいいわけです。あくまでもプラスアルファだからこそ、書く方も読むほうも楽しめるのです。忙しいなかで学級通信を出すのは大変ですが、見方を変えればこんなにローコストでハイリターンなツールは他にないと思います。

 私は、自分が出張で終日学校にいないときに、副担任先生にお願いして終会で配布してもらったりしていました。生徒は「こんな日にも出るんだ」とびっくりするようで、次の日学校で「先生すごいなあ」と言われました。まあ、若干姑息な手段ですが……。

<補足>使用するイラストや写真などの著作権については十分な注意が必要です。インターネットで「フリー素材」とされていても転用には許可が必要な場合があります。改正著作権法35条(令和2年4月施行)では「学校その他の教育機関」における授業での使用が緩和されました1)が、学級通信は授業外なので緩和の対象にはなりません。フリー素材であっても条件によっては数十万の損害倍書請求をされることがあります。もし、これが人気アニメのキャラクターならもっと大きな額になるかもしれません。インターネットからの「コピペ」は、そのサイトの使用規定を必ず確認することが大切です。少しでも不安がある場合事前にそのサイトの「お問い合せ」窓口などから確認をとるくらいの慎重さが必要です。

1)ただし、同法35条2には「公衆送信を行う場合には,同項の教育機関を設置する者は,相当な額の補償金を著作権者に支払わなければならない.」とあります。(作品No.225)

「気分」がもたらすもの

近年、不登校児童生徒が増えています。全国の国公私立小中学校で2021年度に30日以上欠席した不登校の児童生徒は24万4940人(文部科学省の問題行動・不登校調査)となり、過去最多となりました。コロナ禍の影響を差し引いたとしてもかなりの数です。

 不登校の原因は必ずしも明確ではありません。文部科学省は、原因別のデータも公表していますが、そこに示された数字は各学校の判断を集計したものです。学校側の判断と不登校児童生徒の本音との間にズレがないかどうかの検証はなされていません。結局のところ根本的な原因は、はっきりしないというのが学校現場の実感ではないでしょうか。 

原因が曖昧(当然、明確な場合もありますが)であるとすると、具体的な打開策を打ち出すのも難しいということになります。個々に異なる原因に対応するために学校ではスクールカウンセラー(SC)やスクールソーシャルワーカー(SSW)などが配置されて、大きな効果を上げています。しかしながら、SCやSSWへの相談件数は年々増える傾向にあり、SCの予定表はすぐにいっぱいになります。予約を取ろうとしても数週間後などということも珍しくありません。専門家の増員はすぐにできないでしょうから、学校は個別対応以外の方法も考える必要がある時期にきていると思います。

 こうした状況の中で最も有効な打開策は、児童生徒にとって学校を「行きたい場所」にすることです。そこに「会いたい人(先生や友人など)」がいて、「やりたいこと」があれば、子どもは進んで学校に足を運ぶでしょう。しかしそれは、そんな簡単なことではありません。偉そうなことを書いている私も、これまで学校をすべての子どもにとって「行きたい場所」にしてきたなどとは決して言えません。これだけ価値観の多様化が進み、教員の多忙化が過労死レベルを超えている状況の中では、かなり困難なことだと言わざるを得ません。

 でも、私たちに向かうべき方向を示唆してくれる、次のような指摘もあります。

「子供の楽しい成長のための第一の条件は、「幸福で、悩みのない、不安や心配を背負ってい  ない、心の本質的な気分である。この気分を育て、守り、避けがたいあらゆる障害の後にこれを取りもどさせることが、教師にたいする最高の要請なのである。」1)(ボルノー)p60 

「気分というものはけっして心の表面的なつまらないたわむれではなく、むしろそこから初めてあらゆる個々の仕事が生まれ、それらを持続的に一定のものに保つ土台である……」2)(ハイデッガー) 

 

「気分」という言葉は「楽しい気分」、「悲しい気分」など、真逆の場面で使用可能であることからもわかるように、非常に曖昧さを含んでいます。そんな曖昧なもので何が解決できるのかと思いますが、ハイデッガーはすでに約100年前に、人間の最も根源的な部分は「気分」だと主張し、今も「実存哲学」として受け継がれています。私たちには学校全体に「楽しい気分」を広げ、一人でも多くの子どもをその「気分」に引き込んでいく工夫が求められているのだと思います。

「教育のすべて、とくに学校教育と施設の教育は、人生のまじめさを強調しすぎて、遊びをなおざりにする危険にさらされているので、このことはきわめて重要である。これらの教育はすぐに喜びのない、灰色の雰囲気を生みやすいし、勉強や一般に自分の活動へのすべての楽しみや愛を、子供からなくしてしまうのである。」3)(ボルノー)

 ボルノーが指摘する「遊び」とは、「楽しい」と感じる「気分」に満たされている時間や空間によって支えられるものであり、休み時間だけでなく授業中や教職員との会話の中でも成立するものです。誤解を恐れずに言うなら、不登校の原因の多くは本質的な意味での「気分」にあるのではないかと思います。私たちは、個別の対応を専門家に頼りながらも、同時に子どもたちの希望にあふれた「気分」をいかに高揚させることができるかという難題に挑戦する姿勢を子どもに見せることが大切ではないかと思います。

1)O・F・ボルノー、浜田正秀訳(1996 初版1996)『ボルノー 人間学的に見た教育学』      玉川大学出版部、p60、下線は引用者による)

2)前掲、p60(ハイデッガーの1927年の著からボルノーが引用したもの)

3)前掲、p61

※ここに書いた考察は、不登校に関する重要な論点のほんの一部に過ぎません。不登校につい て今回書ききれなかった内容については、別の機会に述べたいと思います。