教育と「振り子」

「教育は、“ある2点”を両極として、時代によって力点の置かれ方がまるで振り子のよう変わるのです。」地元の大学に内地留学をさせてもらっていたときに、ゼミの教授から教えていただいた話です。“ある2点”とは、一方が「系統主義」、もう一方が「経験主義」と呼ばれるものです。「系統主義」は、知識や技術など教科の内容をしっかりと教えるために、系統立てて順々に教えていくことを重視します。詰め込み主義などと批判されることはありますが、多くの子どもたちに平等に知識や技術を身に付けたり、伝統文化の継承には効果的です。「哲学者ジョン・ロックの“タブラ・ラサ(白紙)”が有名で、生まれた子どもの頭=白紙のキャンバスにどんどん絵を描こうとします」※1

もう一方の「経験主義」は、生活に根ざした問題解決型学習(探求の授業など)を重視します。代表的な人物に『エーミール』を表したルソーや「道具主義」と呼ばれたデューイがいます。「学習者の興味・問題から出発するので学習活動が活発で効果的になる。」※1などの魅力がありますが、知識や文化を確実に継承できるのかという批判もあります。

時代背景や政治的な影響なども含めて、教育の世界はこの2つの主義の間を揺れ動き続けてきました。最もわかりやすい例としては、所謂スプートニク・ショックによる大転換です。「経験主義」は、アメリカで多くの支持を集め戦後日本の教育にも大きな影響を与えましたが、1957年10月4日のソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げが成功したことで、西側諸国(特にアメリカ)は大きな衝撃を受け、一気に系統主義へと振り子を振り直しました。たった一発の人工衛星が、西側諸国の教育を180度変えたのです。

 この例でもわかるように、教育の核となる部分でさえも世界の情勢や政治的な意味合いによって変更されることがあります。このコラムで何度か書きましたが、教育は普遍の真理があるとは言い切れません。でも、それじゃあいったい何を根本的な拠り所とすればいいか。私ごときにはこの難問を解決する力はありません。私に言えることは、常に今、教育について何が語られているかに強い関心を持ち、先行き不透明な社会の変化に敏感であり続け、生徒が5年後や10年後の社会で生き抜くためには何が必要かを考え続けることだけです。学校は、知識や技能の習得はもちろん、将来の生きる礎を築くところです。その原点は(中身は振れても)おそらく大きく変わることはないと思います。

 もう一つ。ある教育哲学者が、真実は一つではないことを認めた上で以下のような拠り所を提案しています。それ(教育の本質)は「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」※2であると(ややこしい)。簡単に言うと、個々人の自由を最大限に尊重するが、その個々の自由は他者や社会によって互いに認め合うことを条件とする。教育は実質的にどこまでを自由として認めるかということを個々の立場や状況に応じて判断できるような力をつけることであるというのです。言い換えれば、自由が「わがまま」になっていないかを、どう判断するか。それを、互いに話し合いながら求めていく力と言えばいいでしょうか。私には今のところこれが一番しっくりきます。

(苫野氏はこれを深く考えていくと「系統」も「経験」も超えたメタな位置に拠り所を見つけられると述べています。ほんまかいなと思った方は下記の本を読んでみてください)。

※1 熊本大学公開科目: 基盤的教育論【第11回】教育学の2大潮流(1)系統主義と経験主義https://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/opencourses/pf/4Block/11/11-hajimeni.html

※2 『どのような教育が「よい」教育か』苫野一徳、懇談社選書メチエ、2011初版(引用は2012版)、p28

偏差値

私は、大学の時に遠山啓(数学者)の『競争原理を超えて』1) を読んで感銘を受け、序列主義や偏差値に捉われない教師になりたいと単純に思っていました。自分が教師になったら、この「偏差値」偏重主義には、必ず反抗しようと思っていました(あの頃は純粋だったのです)。ところが、実際に勤務してみると、偏差値はおろか順位も出していませんでした。おそらく国会で偏差値での「輪切り」や業者テストの問題が取り上げられるなど、序列主義の評価に対する批判が相次いだためだと思います。3年生は受験のことがあるので順位は出していたと思いますが、1、2年生には自分の得点と教科ごとの平均点しか生徒には示していませんでした。若干拍子抜けしましたが、これは素晴らしいと思っていました。ところが、数年して新しい評価システム(と言ってもちょっとこましな表計算ソフト程度だったと思いますが)が導入できることになり、出そうと思えば偏差値も簡単に出せるようになりました。そのことを受けて、当時中堅教員だった先輩の先生が「簡単に出せるんなら全学年出したらいい」と軽い口調で職員会議で提案されました。それをテスト結果通知表に記載して生徒に渡すというのです。

 私は咄嗟に手を挙げて反対しました。当時20代前半の若造が40近い先生に楯突いた形となりました。私は、「偏差値というのは、素点が正規分布(ガウス曲線)するという前提で出されるもので、学年単位くらいの人数では必ずしも正規分布するとは限らない。また、問題点も多く指摘されているのに、何の議論もすることなく、単に技術的にできるからといって実施するのは短絡的すぎる」と反論したのです。先輩の先生は、みるみる不機嫌な表情になりましたが、それ以上何も言わず、そのまま私の意見が通りました。その頃の私は、偏差値の功罪については職員の中で一番わかっているという根拠のない自信がありました(若いというのは時に恐ろしい)。

 私は、もともと偏差値というのが1957年(昭和32年)に「東京都港区立城南中学校(当時)理科教員であった桑田昭三により考案された」もので、「勘を依りどころに行われていた「志望校判定会議」における日比谷高校の合格判定を、より科学的、合理的に割り出すために考案された」2)ということを知りませんでした。桑田氏は、「生徒の能力を決めてしまうことにつながりかねないため、開発当初も、(中略)(その後も)偏差値は生徒に知らせるべきでないと考えていた。しかし、偏差値は生徒に努力目標を明確にさせるのに便利であり、多くの学校教員は、生徒に自分の偏差値を知らせた。結果、学力偏差値が悪者扱いされてしまったことを、心底残念に思っている」といいます。私が職員会議で反論した内容は、開発者の意図からしても間違ってはいませんでした。でも、偏差値そのものが悪いのではなく、その意味を理解し、使い方を工夫すれば客観的な資料として使える可能性があるということには気付いていなかったのです。森田氏は後に『よみがれ偏差値』とい本を書いておられるそうです。手に入れば一度読んでみたいと思っています。

 ちなみに私に反論された先生からは、しばらくの間何かにつけ「私は短絡的ですから」と嫌味を言ってこられました。まあ、笑いながらですが・・・。(作品No.37HB)

1) 1981.11.15 14版、太郎次郎社 ちなみに遠山氏の理論は1985年に開校した「自由の森学園」の理論的バックボーンになっています。

2) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「何でも質問してください」

今から20年以上前、地元の教育大学に内地留学に行かせてもらっていたときのことです。カウンセリングの講義を受けていたときの話です。その講義の教授はカウンセリング界でもかなりの大御所でした。学校内のカウンセリングの充実やソーシャルワーカーの学校導入について熱心に取り組まれていました。まだ、学校にスクールカウンセラーすら配置されていなかった頃です。教授曰く「アメリカでは、いずれも常識になっている。日本は遅れている」とよく話されていました。ある日、講義の終わりに教授が「何か質問がある人はいますか。なんでもいいよ」と言われたので、40代くらいの受講者が手を挙げて質問しました。「先生のお話はよくわかります。でも、カウンセラーやソーシャルワーカーが当たり前になっているアメリカの学校で、どうして生徒による銃の乱射などの悲劇が生まれるのでしょうか?」その質問が終わるや否や、自身の考えを否定されたと感じたのか、その教授は烈火のごとく怒りだし、大声でこう怒鳴ったのです。「あなたは、なんて馬鹿な質問をするんだ。そんな質問に答える必要はない」。教室全体に異様な空気が流れました。呆気にとられたと言ってもいいと思います。

そのとき、私が中学生3年生のときのことを思い出しました。社会科の授業中にナポレオンの話になり、先生が「なんでもいいから質問してください」と言うので、私は教科書に載っていたナポレオンの写真(絵?)を見て、「どうしてナポレオンは右手を服の中に入れているんですか」と質問しました。私はいたって真剣でした。もしかしたら当時の文化とも関係があるのかもしれない。ところがその先生は、私の質問を一笑に付しただけでなく嫌味っぽくこう言ったのです。「もうちょっとまともな質問はできんのか」と。「えっ」と思いました。それから、私はその先生の授業が嫌になり、ふてくされた態度を取り続けました。それが癇に障ったのでしょう、ある日、その先生は授業中に私の席の近くに来て、とんでもないことを言いました。

「お前、いつまでそんな態度を続けるんだ。内申点を下げることもできるんだぞ」。私は咄嗟に「別に構いませんけど」と答えてしまいました。結局、担任の先生が中に入る形で事は収まりました(謝ってはくれませんでしたが)。

冒頭の大学の教授とこの社会の先生は、いずれも「生徒(受講者)に馬鹿にされた」と感じたのではないかと思います。そして、相手を自分より劣っている者だと捉えていたのだと思います。また、生徒(受講者)は、自分(教師)の言うことを素直に聴くものだという意識が強かったのかもしれません。少なくともそこには、ある課題を一緒に考えようとか、生徒から学ぶこともあるという意識は全くなかったと思います。

そう言えば、私も新任のとき初めて担任した1年生のクラスでしょっちゅう怒鳴っていました。私が話しているときにちょっと後ろを向いただけの生徒を大声で怒鳴ったこともありました。学校全体が荒れていたこともあって、自分のクラスだけは荒れさせたくないという気負いもありました。でも本当の理由は他にありました。自分の指導力に自信がなかったのです。自信がないので、どう対処していいのかわからず不安でたまらなかったのです。もし、学級が荒れたら自分の評価が下がると思っていたのです。

社会心理学者のエーリッヒ・フロムは次のように言っています。

「・・・与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析は患者によって癒される。ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うのではなく、純粋かつ生産的にかかわりあったときにしか起きない。」1)

結局、2学期以降は完全に学級崩壊状態となり、誰一人私の言うことをまともに聞かなくなりました。当然の結果です。生徒を自分の評価の手段のように扱い「対象」としてしか見ていない教師に信頼を寄せるはずはありません。

あのときの生徒には本当に申し訳ないことをしました。(作品No.43HB)

1) エーリッヒ・フロム著 鈴木晶一訳『愛するということ』2022.2.17(初版2020.9.10)紀伊国屋書店、p46

遠くから見る その2

全国5か所(和歌山、福井、山梨、福岡、長崎)に展開する「きのくに子どもの村学園(学園長:堀真一郎氏)」では、教科書にとらわれない学びが中心で、宿題もテストもない。通知表は数字による評定ではなく、その子の伸びているところを文章で記述する。30年前の1992年、和歌山県の北東の端、橋本市の山中でスタートした学校です。私立ですが、学校教育法に定められたいわゆる「1条校」でフリースクールではありません。「どうせ小学校だろう」思われたかもしれませんが、ここは小中一貫校です。

 同様の「自由」を掲げた私立学校は、全国を探せば結構ありますが、圧倒的に私学が多いのは、制度の縛りが少ないことが大きな理由の一つでしょう。公立中学校なら県立高校の入試制度を県教委が細かく定めていますし、入試問題の大半が選択式です。選択式問題はどうしても知識を問う内容に偏りがちです。そのうえ、複数志願制を導入しているところでは、A高校からB高校へ点数が知らされることがあるため、採点はできるだけ客観的なものでないと公平性が保てません。読解力や情報処理能力を問う工夫はされているようですが、それも限界があります。大学入試で記述式を取り入れると言っていた文科省が直前になって実施を断念したのも客観的な採点が難しいからです(初めからわかっていたことだと思うのですが・・・)。

 本年度の高校入試選抜要綱を作成するにあたって、県教委は事前に各地区の中学校長会に意見を求めました。いい機会だと思って当地区の回答は私が書きました。内容は「中学校の教諭は多くの制約の中でアクティブラーニングや探究的な学習に誠意を持って取り組んでいるが、どんなに工夫を凝らした授業をしても、生徒や保護者の多くが公立高校進学を希望している限り、特に3年生では入試問題に対応できる授業を実施せざるを得ない。いくらコミュニケーション能力等が高くとも入試の点数には反映されないような状況では、そういう力をつける授業は「やり損」だと考える教員を納得させることは容易ではない。せっかく小学校で、多くの体験活動を取り入れ、幅広い学力をつけようと努力しているのに、それを十分に発展させる時間がない。何より、教員のモチベーションが上がらない。早急に対応しないと文科省のいう「学力」を身に付けることは到底できない」という内容で文書を提出しました。今の県の入試制度は学習指導要領の理念とあまりにも乖離が大きいと感じます。

 なかなか変わらない公立高校入試とそれに制約される公立中学校では、知識優先の授業から脱するには限界があります。それでも(条件は大きく違っても)、私は冒頭に挙げた「子どもの村学園」のような学校から吸収すべきものはあると思います。その一つが以下に示す堀学園長の言葉です。

「大人はよく子どもに、“自由にやってごらん。でも責任は自分で取るんだよ”と言います。それは、ある意味脅し文句でもあるのです。子どもの村では、“自由にやってごらん。責任は大人が取るから”と言うのです。子どもなりに考えて、勇気を出してやったことも、うまくいかないことだってあります。そこで、“自分で決めたんだから”“一体何やってるの”と言うのは、“どうせ失敗すると思って見ていた”のと同じことです。」(宿題も校則もない「自由にやってごらん。責任は大人が取るから」授業も子ども任せ 「先生」のいない学校 2/12(土) 13:01配信 週刊女性PRIME 下線は引用者)

 この考え方には賛否両論あると思います。でも、少なくともこういう考え方もあるという「気づき」を私たちに与えてくれます。その「気づき」が、私たちを「褒めるために指導する(叱るを含む)」という教師の原点に帰してくれます。原点に公私の別はありません。

(作品No.31HB)

※ちなみに、県教委からは何も回答はありませんでした。あるわけないか・・・。

遠くから見る

これまで学校において当たり前とされていたことの真偽を確かめるためには、一旦「学校から離れる」という経験が大いに役に立ちます。「学校を離れるなんて、そうそうできるものじゃない」と思われるでしょうが、実際に離れなくてもいいのです。視点だけを学校の外に向け、「遠くから見る」視点を持つ機会をつくればいいのです。それなら、誰にでもすぐにできます。その視点は、学校や教師としての在り方を客観的に見ることにつながります。方法は簡単です。学校現場以外の人が書いた学校や中学生に関する本や調査、研究に触れることです。

今、学校が変わらなければいけないという論調の本は実に多く出版されています。それらの本が必ずしも学校現場の実態を正確に理解しているとは限りません。それでも、「大学の先生や研究者が書いた本なんて、どうせできもしない理想論に過ぎない」と思って、読まないのはもったいない話です。1冊の本を読んで、その中のわずか一行でも「その通りだ」とか「なるほど」と思えることがあれば、それだけで読んだ価値はあります。そして、学校の外から学校を分析している本を読むことは、私たちに「学校から離れた」視点を与えてくれます。その視点は、今自分のやっていることを、いい意味で相対化させてくれます。信念をもって教育にあたるというのは大切なことですが、それ以上に重要なのは、その信念が正しいのか、正しいとすればどうやって生徒に正しく伝えるのかということです。そのとき、今の中学生や若者がどういう意識を持っているかをきちんと分析してくれている本は貴重な存在となります。時間をかけて精密な調査や分析をするような時間は私たちにはありません。それをやってくれている人がいるのですから利用しない手はないと思うのです。

最近読んだ本の中にこんなことが書かれていました。

「・・・大事なことは、さまざまな「現場」(教育行政の現場、教育研究の現場、子育ての現場、社会教育の現場など)の知見を、お互いに持ち寄り、交換し、活かし合うことだとわたしは思います。「現場を知らずに・・・」という言い方は、その機会を自ら捨て去ってしまうことだと思います。もうちょっと言うと、「現場を知らずに」と言う先生にわたしが密かに思うのは、その先生の言う「現場」というのは、あくまでもその先生が経験してきた、ほんの何校か、何クラスかの「現場」にすぎないんじゃないか、ということです。その限られた経験をもって「現場」一般を語ってしまうのは、ちょっと乱暴なんじゃないかとわたしは思います。」(『「学校」をつくり直す』苫野一徳 河出新書 2019 p8-p9 引用文中下線部は私が著者の主張の他の部分から抜粋し、付け足したものです。ちなみに、苫野氏は熊本大学准教授、専門は哲学、教育学です)

私はこの文の内容をすべて受け入れているわけではありません。この人は、哲学、教育学が専門ですが、最近の教育論の中心になっているとも言える教育社会学は、特定の現場で起こっていることが社会の縮図であり、それを細かに分析することに意義を認めるものです。そういう意味では、限られた現場を語ることにも大いに意味はあると私は思います。

でも、私はこれを自戒を込めて読みました。自分たちの「現場」や「経験」を大切にする姿勢が、もし「独善」に変わってしまったら、あるいは「自信」が「過信」となってしまったら、見えるはずのものが見えなくなることもあるんじゃないかと。(作品No.11HB)

ややこしい話

「下の写真は何を映したものでしょう?」と聞かれたら、ほぼ全ての人が「リンゴ」と答えるでしょう。「ほぼ」と言ったのは、「わかりきった質問だ。さては答えはリンゴじゃないな」と考える人を想定したからです。

さて、ここに映ったリンゴ(?)が実際に目の前にあったとしたらどうでしょう。「見ればわかる。色も形もリンゴそのものだ」という人もいるでしょう。でも、それは紙で精巧に作られた偽物かもしれない。「じゃあ、持ってみれば」という人もいるでしょう。リンゴにはリンゴなりの重さというものがある。でも、リンゴと同じくらいの重さの物は他にもあります。決め手に欠けます。「それなら、食べてみれば?」。見た目もリンゴ、重さもリンゴ、味もリンゴとなれば、それはリンゴ以外には考えられない。でも、現代の技術をもってすれば、カニなしのカニカマと同じようにほとんど同じ味のものを作ることはおそらく可能でしょう。いったい私たちは普段どうやってリンゴをリンゴとして認識しているのでしょう。

 この問題に明解な答えを出したのがドイツのフッサール(哲学者)です。フッサールは「「リンゴが在る」からリンゴが見えるのではなく、「リンゴが見えるから」リンゴがあると思うのだ」とし、リンゴとは何かという細かい定義(色、形、味、成分など)を突き詰めていくことはあまり意味がないと考えました。つまり、絶対的な真理を想定せず「どんな場合に私たちは(それがあると)思っているのか」を最終的な根拠としたのです。簡単に言うと、見ている人がそれをリンゴだと思うからリンゴはリンゴであるというわけです(ややこしい)。見ていない人からすればリンゴは存在しないのも同じですから。 

一つの物がそこに存在し、それがどういうものかはそれまでの経験などに基づいた人間個々の意識(定義)によって決められます。そして、互いに「これはリンゴだよね」「そうそうリンゴだよ」という共通了解があって初めて「リンゴ」という言葉が成立するのです。だからこそ、「リンゴ」と聞くと誰もがおおよそ同じようなイメージを抱くことができるのです。そして、時には「よく見返したり人とも確認し合ったりする中で、「あ、やっぱりまちがっていました」ということになる可能性」もあるのです。これが大切なことです。真実は一つとする一元論から脱するためには、この共通了解しか術がないということです。

 フッサールのこうした考え方は、現象学的還元と呼ばれ長い間批判に晒されました。それは、それまでの哲学が真理を前提にしていたのに対し、その前提そのものを否定したからです。しかし今、現象学は世界的に認められ、教育界にも大きな影響を与えています。

私たちが、生徒を理解しようとするとき、同僚の先生や先輩に「あの子はどう理解すればいいのでしょう」と意見を交わし合います。それこそが互いの共通了解の形成過程なのです。そしてその過程を重ね続けることで初めて、日々変化を続ける生徒を互いに共通理解(了解)する瞬間に出会えるのです。(作品No.23HB)

(※印の「 」内は、『知識ゼロからの哲学入門』p124-p127竹田青嗣+現象学研究会、2008,6,25、幻冬舎からの引用)

「名言集」の名言

書店に行けば名言集の類いの本は山ほどあります。ネットを検索したらもっと膨大な数の名言が検索できます。話のネタや通信のネタに使えるものがあればと思ってよく利用しますし、本もそこそこ買いました。でも、いわゆる「名言集」というのは、意外と使いにくいものです。例えば、100の名言が掲載されている本で「これはいい」と思えるのは数個あれば良い方です。中には「買うんじゃなかった」というものもあります。最近では、この手の本を買うときには、ぱらぱらと頁をめくって一つでも「これは」と思うものがあるかどうかを確認するようにしています。一冊に一つでも「これはいい」と思える言葉があれば買った価値はあると思うからです。自分にとってしっくりくる言葉でないと人には言えないし、自分がなるほどと思わないのに人に伝えることはできません。

私にとって最も効果的なのは、自分の記憶の中で「そういえばあんなこと言っている人がいたなあ」というおぼろげな記憶からキーワードを探し、ネット検索して具体的な人名や正確な言葉、出版元等を調べるというやり方です。そうやって選んだ言葉は、結構しっくりきます。

ネットは膨大な量の情報で溢れています。暇つぶしに見るときは良いですが、そうでないときは、目的を持っていないと情報の波の中で溺れそうになります。当たり前のことですが、私の中で長い間記憶に残っているということは、それだけ、自分にとって意味のある言葉だということです。名言集のコピペは所詮借り物でしかないわけです。

それでも時には、名言集やネットの中にも「これはいい」という言葉を見つけることがあります。でもよく考えると、その言葉はもともあった自分の考え方を後押ししてくれるものだったり、記憶に残った言葉と結びつけられたりするものです。結局、自分の記憶や経験(読書を含む)、または考え方と結びついて納得できる言葉だからしっくりくるんだと思います。しっくりきていないのに伝えるのはなんだか嘘をついているようで気持ち悪い。(と言いながら、何となくネットを見ているときに、「あっ、そういえば」と気づくこともありますから、なんとなく見ることがまったく無駄かというと、そうとは言い切れないですが。)

そして、全く自分の考えと違う言葉に出会ったときは、逆にその中身をできるだけ詳しく確認したくなります。もしかしたら、真逆の考えが新しい発見(経験)を生み出してくれるかもしれないと思うから。(作品No.22HB)

「弱い者」について

ある学校のことです。その学校の生徒が知的障害のある人をからかったということが、校長の耳に入りました。校長は、たいそう憤慨し、すぐに全校生徒を集め訓話を行いました。そこで、その校長は怒気を強めてこう言いました。「弱いものをいじめるのは、人間として最低の行為だ。絶対に許せない。」と。

その校長は、自分の学校の生徒が非人間的な行為をしたことを非常に重大なことと捉えて、まさに真剣に生徒に訴えたわけです。この思い自体を否定することはできません。しかし、生徒の中には違和感を覚える者もいました。それは、校長が障害のある人を「弱い者」と断定したからです。

一般に「障害者問題」というとき、障害者に何か問題があるわけではありません。仮に、障害のある人が弱い立場に立たされているとしたら、それは、周囲の偏見や不十分な環境にこそ「問題」があるわけです。「弱い者」という言い方には、どこか「上から目線」を感じます。そうした考え方を掘り下げていけば、障害のある人に対して何かをして「あげる」、という意識が心の奥にあるのではないかと思います。この校長に悪気があったとは思いませんが、一昔前の古い価値観が染みついていたのではないかと思います。この人が若かったときは、「障害のある人=弱い人」という暗黙の了解があったのかもしれません。

どんな人間でも、得意なこともあれば、苦手なこともあります。極端なことを言えば、100mを10秒以下のタイムで走るアスリートに比べれば、私などはカメのようなものです。それを誰も障害とは言いません。また、私は最近、歳のせいで細かい字がよく見えなくなってきましたが、それも障害と言われることはありません。でも、視力が2.0の人に比べれば、見え方が制限されています。私よりもっと視力の弱い人は、眼鏡をかけますし、腰が悪い人はコルセットを巻いたりして自分のできない部分を補おうとします。歩くのが困難な人が車いすを使うのも同じことです。部分的に弱い面をもっていることはあるでしょうし、弱っている人はいるでしょう。でもそれは、現時点でできないことがある、あるいはできなくなった人がいるというだけなのです。そもそも、「弱い」という言葉はあくまでも相対的にしか使えないはずです。

また、弱い面を持っていることを「良くないこと」と決めつける姿勢にも違和感が残ります。自分の「弱さ」を自覚することで、他者に優しくなれることはよくあることです。

 体だけではなく、心も同じです。「昔ならこのくらいのことで弱音を吐く生徒はいなかった」と何万回ぼやいても、ほとんど意味はありません。目の前の生徒がそうであると思うなら、その子ができることを少しでも増やせるように支えるしかない。「弱音」を吐く子どもをいったん受け入れたうえで、かけがえのない自分の「良さ」に気づくようにするにはどうしたらいいかを考えていくしかないのです。決して簡単なことだとは思いませんが、少なくとも私たちがその方向を見ていなければ、くじけそうになっている生徒に寄り添うことはできません。

 偉そうに言っている私自身、これまで多くの生徒を否定してきました。生徒にためにいつも十分に寄り添ってきたかと問われたら「NO」と言うしかありません。でも、そういう経験を思い起こすたび私に沸き起こるのは、取り返しのつかない「悔い」ばかりです。誰もが「弱い」面を持っている、頭では十分わかっていたはずなんですが・・・。(作品No.30HB)

働き方改革で大切になること

ある県で、令和5年度採用分の教員採用試験の倍率が、ついに1.0倍となりました。事態は本当に深刻です。最大の原因は、長すぎる教員の勤務時間にあります。働き方改革は、すでに現職教員の意識改革でどうにかなる段階ではありません。思い切った業務削減の方向で考え直さなければ、近いうちに学校は立ち行かなくなるでしょう。文科省は土日の部活動を外部委託する方針を打ち出していますし、学校への留守番電話導入もかなり広がってきました。しかし、今後、根本的な改革として給特法の改正や勤務契約の明確化などが急務であると思います。

そうした状況にあって、私たち現職の教員にとって、今ここで必要なこととはどんなことでしょうか。今までのやり方を見直し、できるだけ無駄のない仕事の仕方を工夫することも大切です。行事の精選も必要です。また、同じ仕事をするにしても必要以上にこだわりすぎないことも必要かもしれません。また、積極的に現在の勤務状況のおかしさについて主張することも大切です。現場が黙っていたら、教員採用試験の倍率低下はさらに深刻なものになるでしょう。

でも、今一番やらなければいけないのは授業力の向上だと、私は思います。

「何で?」と思われるかもしれませんが、近い将来、働き方改革の成果によって仕事量が減ったとき、私たちに問われるのは「授業で生徒を惹きつける力」であり、「確実に学力を身に付けさせる指導力」となるでしょう。これまで部活動は(その経営がうまくいけば)、授業や学級経営に大きなプラス効果を生み出してきました。それは、部活動の顧問と部員との信頼関係が他の学校生活にも大きな影響を与えてきたからです。また、留番電話導入などによって放課後の保護者対応が減るかもしれませんが、保護者や生徒の視線は、より授業に向けられることになると思います。私たちの本務は授業ですから、当たり前と言えば当たり前なのですが、これからは今まで以上に、高い授業力が求められるのは間違いないと思います。

ブラックとまで言われている教員の職場を改善するのは急務です。若い人たちが一人でも多く教職に就きたいと思えるようにしないと、大変なことになります。でも、過渡期に働く教師が頭に置いておくべきことは、今までよりも確実に生徒や保護者との接点は少なくなるということです。それをどうやって埋めていくかを、改革が進んでいない今だからこそ考えておかなければいけないと思います。今でさえ、学校に対して理不尽な要求をしてくる保護者が後を絶たない状況です。今後、部活を外へ出し、行事を減らしたり外部委託したりするなかで、これまで以上に不平不満を言ってくる保護者は増えるでしょう。少なくとも改革がある程度進み、定着するまでの間は保護者の不安も大きくなります。その不安がクレームとして学校に寄せられることになることは容易に想像できます。今は改革が遅々として進んでいないように見えますが、恐らく今後どこかの時点で加速がついてくるときがきます。そうしたときに私たちに残された武器は、確かな授業実践と子どもや親と真摯に寄り添う姿勢だけとなります。授業は学力向上を目的とすると同時に、今まで以上に生徒と接する貴重な時間となるのは必定です。子どもや親との限られた接点ともなるその時間を、いかに濃密なものにできるか、その力を今からつけておくことが、最も大切なことだと思います。

忙しすぎて本務である授業研究をする暇すらないような今の状況は、すぐにでも改善しないといけません。それは、制度に関わる問題を多く含んでいますから、文科省をはじめとする行政の仕事です。甘いかもしれませんが、いくらなんでも教職志望者がこれだけ激減しているのに、国が何も手を打たないはずはないと思います。だからこそ、改革が一通り進んだ後のことを今から考えておく必要があると思うのです。(作品No.45HB)

ブログを始めた理由 ー「入院」で気づいた「寄り添う」ことの大切さー

昨年(令和3年)の3月29日、公立中学校の校長であった私は、突然の胸痛に襲われ校長室で倒れました。意識はあったものの、その苦しさと不安のためにその場にうずくまってしまいました。校務分掌(学校内の人事)が佳境を迎えていた時期。朝の8時ごろのことです。「こんな大切なときに校長の私が職場を離れるわけにはいかない」。そう思って、駆けつけてくれた救急隊員の方に、ひたすら「大丈夫です。もう収まりました」と何度も繰り返しました。しかし、本当のところは突然起きた自らの体の異変に恐れ、震えていました。もしかしたらこのまま・・・とまで思いました。春休み中ではありましたが、部活動のために登校している生徒も少なからずいました。私を乗せたストレッチャーは、そうした生徒たちのいる下足場の真横を通って救急車に向かいました。その間、かすかに生徒の驚きの声がいくつか耳に届きました。「ああ、これでもう学校には戻れないだろう」という思いがぼんやりと浮かんでいました。

 搬送された病院でカテーテル検査を受け、心臓につながる大切な三本の血管がどれも半分くらいに狭くなっている(血管狭窄)と医師に告げられました。ただ、医師の診断は「すぐに手術や治療が必要な状態ではない」とのことでした。私はその言葉を聞いて、逆に全身から力が抜けていくのを感じ、自分の体が思うように動かせなくなりました。私は、極度のストレスによって疲れ果てていたのです。私は、絞り出すような声で同席してくれていた娘を診察室から出るように言い、医師に苦しさを訴えました。医師は一向に医師の顔を見ようとしない私の様子にただならぬものを感じ、すべてを察してくれました。そして「よく話してくれましたね。その一歩がなかなか踏み出せない人が多いんですよ」と受け入れてくれ、院内常駐のカウンセラーを紹介してくれました。

 院内の相談室に移動する際、私はカウンセラーにつかまっていないとまともに歩けない状態でした。カウンセラーの人は、40代くらいの女性で、非常に柔らかく包み込むように私から話を聞き出してくれました。苦しそうに話す私のペースに終始合わせてくれました。途中で言葉にするのがつらくなったときも、何も言わず、黙って次の言葉を待ってくれました。途中で口をはさむことは一切ありませんでした。「寄り添う」というのはこういうことなんだと、しみじみ思ました。そして、ようやく家族以外に自分の話を客観的に聞いてくれる人に出会えたと感じました。私は、自分の情けなさや、職場に自分なんていない方がいいんじゃないかという思い、先ほどのカテーテル検査の結果に異常が出たほうが気が楽だったこと、現実の世界に実感がもてないことがあること、数ヶ月前から午前中は気分が重くて仕事にならなかったことなどを、少しずつ話すことができました。

 カウンセラーの女性は、私が「こんな状態の私なんかいない方が学校はうまくいく」という意味で「私は学校にいないほうがいい」と言ったのを「この人は自殺するかもしれない」と感じたのだと思います。驚くべき速さで次の病院につないでくれました。最初に搬送された病院には1日だけの入院となり、翌朝10時には退院、11時には次の病院の予約がとられていました。

 次の病院は「精神科」でした。心療内科ではなく本格的な精神科の病院です。予想はしていたとはいえ、やはり自分の状態はそこまで悪いんだと自覚せざるを得ませんでした。病院に向かう車中、運転する家内に入院も辞さないことを告げました。とにかく、まったく気力がわいてこず、このまま学校に戻っても何の役にも立たないのは明らかだと思ったからです。残っていた校務分掌の決定が困難を極めているだろうということ、年度当初の始業式や入学式が校長不在となること、また、それらのことで職員や保護者からどんな反応があるのだろうという不安が頭をよぎりましたが、それでも「もう無理だ」と思いました。そして、その瞬間、退職を決意しました。

 入院にあたって、スマホやたばこ、ライターを病院に預けるように言われ、他にカッターナイフやはさみなどを持っていないかを確認された後、自分の病室に案内されました。
入院にあたって、スマホやたばこ、ライターを病院に預けるように言われ、他にカッターナイフやはさみなどを持っていないかを確認された後、自分の病室に案内されました。

 病室のあるフロアは鉄の扉で常時施錠されていました。中に入ると案内してくれた看護師の方がすぐにその扉に鍵をかけました。そのときの「ガチャ」という音が今も耳に残っています。私は、その音によってはじめて自分の現実を知らされたような気がしました。「ああ、ここまできたのか」と。いや、もっと正直に言えば「ここまで落ちたか」と感じたのです。私は教職に就いてから30年以上、目の前の生徒に対して偏見と差別の愚かさを説いてきたはずなのに、実のところはその自分自身がこの病気に対して明らかに偏見を持っていたのです。だからこそ、そのときの自分の状態を「情けない」と感じ「落ちぶれた」と思ってしまったのです。

 その後一か月の入院を経て、2か月間自宅で療養し、学校現場に復帰しました。先にも書いたように、入院を決めた時点で「辞めよう」と思い、市の教育委員会にもその旨を伝えていました。私が辞めない限り次の校長は決められません。正式に辞めれば、年度途中であっても市か県のいずれかから指導主事などが校長に赴任することもできる、そう考えました。しかし、県教委に勤務していたときに、県内のある学校で教頭が急逝し突然課内の筆頭(課長の次席で課内の事務や調整をするリーダー)が引き抜かれ、課のメンバーがどれほど混乱したかを思い出しました。そう考えると、やはり年度途中での退職はあまりに無責任すぎると思い直し、市教委の温かい支援や励ましもあって、とにかく年度末までは続けようと思い直しました。

 全国にどれほどの中学校があるのかよく知りませんが、数多ある中学校の中でこの病気(適応障害)で精神病棟に入院した校長はほとんどいないと思います。ある意味で最悪の校長なのかもしれません。でも、この経験によって私は「寄り添う」ことの大切さを身に染みて感じました。先述のカウンセラーの方はもとより、療養中は家族がとにかく温かく寄り添ってくれました。市教委も同じです。

 そして、自分にしかできない何かがあるはずだと考えた末、始めたのが教職員向けの「校長コラム」でした。生徒に寄り添うとはどういうことなのか、今までのやり方や生徒への接し方は本当に変えなくていいのか、もっと広い視野をもつべきではないかというようなことを、できるだけ柔らかい表現で示そうと考えたのです。

生徒を真に「見ようとする」意識と「変わる」勇気

 学校には、学校独特の文化や価値観があります。それは一貫性のある教育を進める上では、ある程度必要なことです。けれども、今まで疑問に思うことなく(あるいは、それが生徒のためになると信じて)やってきたことのすべてが、今、目の前にいる生徒にとって有益だとは限りません。例えば、今までよく言われてきた、「押さえを利かす」指導では、生徒は心を開いてくれなくなっています。

 価値観の多様化は加速度を増し、変化の激しい社会の中にあっては、何が正しくて何が間違っているのかを見極めることさえ難しい時代になってきました。私たちは、今、目の前の生徒に何が起こっているのか、何に悩んでいるのか、そして、学校にどんな意味づけをしているのか、それら一つ一つにしっかりと目を向け一人一人に寄り添う姿勢がなければ、いずれ私たちは生徒から見放されてしまうときがくるのではないかと思うのです。とても都会とは言い難い私の勤務していた地域ですら、私立中学への進学を選択する児童が増え続けています。寄り添う「指導」は、今始めないと間に合わないかもしれません。それには今までの何倍もの時間がかかるでしょう。それでも子どもたちの見ている現実は、日々変化しています。その変化に遅れをとらないためにも、これまでの「指導」に固執することなく、子どもに徹底的に寄り添うことが必要です。近年盛んに言われている「働き方改革」は、その時間を確保するためにこそ必要なのです。私がかのカウンセラーにしてもらったように、生徒の話を、生徒のペースでゆっくりと聞く時間を確保することが急務です。

 そして、それ以上に重要なのは、現実をありのままに見ようとする意識だと思います。人は関心のないものに対しては、すぐ目の前にあっても気づかないものです。子どもをありのままに見ようとする意識、それこそが「子どもを真ん中に置く」ということだと私は思います。教師が変わる勇気を持たなければ、子どもはどんどん私たちから離れていくでしょう。 

 最近の子どもたちは「ひ弱」になったという人がいます。「些細なことで傷つき親に助けを求める。ちょっと強く叱ると学校に行きたくないと言い出す」と。その真偽を客観的に証明することはできません。でも、それが仮に本当だとしても、私たちは子どもたちを「ひ弱」だと決めつけておしまいにすることはできません。昔の子はたくましかったと何万回嘆いたところで何の意味もないのです。真面目な先生ほど自らが受けてきた教育のあり方に基づいて、あるいは先輩諸氏の武勇伝に魅力を感じ、「教育の真実は一つだ」として自らが正しいと思う方向に子どもたちを引き上げようとします。それがすべて悪いとは思いません。信念を持って子どもに対することも必要でしょう。でも本当に大切なのは、目の前の子どもが「ひ弱」に見えたとき、なぜそう見えるのかを考えることだと思います。その答えは教師の側にはありません。子どもたちに寄り添って子どもたちに教えてもらうしかないのです。子どもたちは、寄り添ってくれない教師からは距離をとるようになります。そうなればなるほど、目の前の子どもたちの「現実」(見ているものとそこに込められた意味付け)は見えなくなり、教師の目に映る子どもたちと子どもたちが見ている現実とのギャップは大きくなります。そのギャップが真面目な教師をしらずしらずのうちに苦しめ始めています。過去の歴史を振り返ればわかるように、教育の真実は時代によって振り子のように揺れ続けるものです。「変化を続けるからこそ変わらないでいられる」(ニール・ヤング)という言葉どおり、「変わり続けることが唯一の真実だ」と考え、ありのままの子どもたちの姿から学ぼうという姿勢が必要なのだと思います。

 わかったような偉そうな書き方になってしまいました。また、最初ということで肩に力が入りすぎた文章になってしまいました。次からは、もう少し短めにやんわりと書いていきたいと思います。そして、周囲から認められず悶々とした日々を重ねている子どもたちに、変化の激しい学校の中にあって奮闘する先生方に、少しでも何かが伝わればと願って、このブログを始めました。                             (作品No-95B)