児童生徒理解とは何か

以前から、生徒指導は「生徒理解に始まり生徒理解に終わる」と言われ、子どもの言動や振る舞いを細かく観察するのはもちろん、家庭環境、成育歴などできるだけ多くのことを情報として知っておくことが大切であるとされてきました。今でも、その基本は変わっていないと思います。

1981年(昭和40年)に当時の文部省が示した『生徒指導の手引き』では、生徒理解の対象を「能力」「性格」「興味」「要求」「悩み」「交友関係」「環境条件」など、かなり広い範囲に求めています。また、2010年(平成22年文部科学省)の『生徒指導提要』にも、次のような記述があります。

「児童生徒を多面的・総合的に理解していくことが重要であり、学級担任・ホームルーム担任の日ごろの人間的な触れ合いに基づくきめ細かい観察や面接などに加えて、学年の教員、教科担任、部活動等の顧問などによるものを含めて、広い視野から児童生徒理解を行うことが大切です」(p.2)

でも、いずれの記述も「生徒理解とは何か」について、直接説明しているわけではありません。いくら「多面的」「総合的」に「広い視野」から理解せよと言われても、私たちは児童生徒のすべてを理解することはできません。なぜなら、人は日々変化するものだからです。変化を続けるものを完全に理解することは理論上不可能です。それを「いつか、すべてを理解することができはずだ」と考えてしまうと、教師は何かあったときに「もっと理解できていれば」と悔やむことになります。

結論を言えば、「生徒理解」とは、児童生徒によって「この先生は、自分のことをわかってくれている」と感じる瞬間のことをいうのだと私は思っています。いや、それは方向が違うだろうと思われるかもしれません。でも、そう感じるのは私たちが「教師が生徒を理解する」という意識が強いからだと思います。

 教師がいくら児童生徒のことを十分に理解していると思っていても、子どもの方が「もっとわかってほしいことがある」と思っていれば理解したとは言えないでしょう。そもそも人が人を「完全に」理解するということ自体が不可能なのですから、大切なのは、一から十まで理解することではなく、まずは「私はあなたを理解しようとしていますよ」というメッセージを児童生徒に届けることです。

 そのメッセージを伝えるためには「相互作用」が必要です。多くの会話を交わし、一緒に作業するなどして、互いが互いをわかろうとし合える関係をつくることです。例えば、教師がAさんに言葉をかければ、その言葉によってAさんの物の見方や考え方に影響を与えます。つまり、厳密に言えば、Aさんは教師の言葉かけによって微妙に変化しているのです。その変化したAさんが、今度は教師に何かしらの反応を返します。それを受けて教師はAさんの新しい面を見つけます。そのとき、教師の方もAさんに対するイメージに微妙な変化が生まれます。これが「相互作用」であり、その繰り返しによってAさんは「先生は自分のことをわかろうとしてくれている」と感じるようになります。そして、最終的に「わかってくれる」という信頼関係につながります。

成育歴や家庭環境、交友関係を知ることはこうした「相互作用」が、より自然に進めるために重要なのです。

抽象的な書き方になりましたが、結局「児童生徒理解」とは、相互に分かり合おうとする関係のことをいうのだと思います。教師が教師の判断で「この子はこういう子だ」と結論づけた時点で「相互作用」は停止し、子どもはどんどんわからない存在になっていきます。

(作品No.96AB)

鳥の親心二つ

今から15年以上前のことです。知り合いとゴルフをしていたときティーアップをしようとしたら、不自然な飛び方をしている鳥が目に入りました。天敵にでも襲われたのか羽に傷を負っているようで、いまにも墜落しそうにフラフラと飛んでいます。パニックを起こしたようなすさまじい鳴き声も出しています。私は「大丈夫ですかね」と後ろにいたAさんに声をかけました。Aさんは、森林伐採のプロです。Aさんは、笑いながら言いました。「あれはわざとやっているんです」。

Aさんによると、これは鳥類の一部に見られる「偽傷」(ぎしょう)と呼ばれる行動で、翼を骨折して飛べないようにふるまったり、傷を負って飛べないでいるかのような動作をしたりして、巣への侵入者の注意を引き、卵やひなから外敵を遠ざけようとする行動なのだそうです。その話を聞いて、もう一度「演技」している親鳥を見ていました。「演技」をやめてまっすぐにどこかへ飛び去る姿を見た瞬間、私は、ただただ感動しました。

 もう一つ。

「親鳥は、巣立ちの時が近づくと、雛鳥にエサをあげなくなります。そうなると、おなかが空いてくるので、雛鳥も自分で飛んでエサをとりにいかざるを得なくなります。」(松尾英明2022『不親切教師のススメ』さくら社、p159)

鳥の種類にもよるのかもしれませんが、鳥は子どもの自立を促す方法を本能的に知っているというわけです。

 さて、人間の場合はどうでしょう。近年(と言ってもかなり前からですが)家庭の教育力が低下していると、まことしやかに指摘する人がいます。本当にそうなのでしょうか。

 教育社会学者の広田照幸氏は、1937年(昭和12年)の柳田國男の講演記録を根拠につぎのように指摘しています。

(柳田は)「親は教育の担い手としては「無力」であり、家庭は「教育の主たる管理者」ではなかった、というのである。「昔は家庭が責任をもってしつけや教育をちゃんとやっていた」という、今のわれわれが抱くイメージとちょうど逆のことが語られているのである」1)

「家族が直面していた多くの問題の中で、子供の問題は、優先順位が高くなかった。ましてや、子供のしつけや教育の問題は、簡単に無視できる程度のものだった。(中略)ろくに野良仕事もしないで子供のしつけや教育に時間をかける嫁がいたら、村中の笑いものになったはずである。(中略)乳幼児期における母親とのスキンシップが大切だとも考えられていなかったし、子供の成長や成功を自分の自己実現の一部とみなすような観念も希薄であった。」2)

 つまり、私たちがよく耳にする(あるいは口にする)「最近の家庭の教育力は低下した」という言い方は正しいとは限らないということなのです。

そういえば、高齢者の方から「昔は家に帰って、今日は先生に叱られたと親に不満を漏らすと“お前がわるいことをしたからだろう”と逆に厳しく叱られるから、学校で叱られたことは家では隠していた。」という話を聞くことがあります。言い換えれば「最近の親はなんでもかんでも学校に文句を言うが、昔は家でしっかりしつけていたものだ」というわけです。  

しかし、広田氏の指摘に当てはめれば、学校のことは学校に任せっきりにしていたというわけです。だから、ことさらに文句を言う必要もなかったのです。ただ、柳田國男が講演をしたころは、家庭よりも地域の「若者衆」などと呼ばれる地域組織の制約が厳しく、今と比べると地域には圧倒的な教育力(強制力?)は存在していたようです。そこで、若者は村独自のルールを叩き込まれたわけです。でも、それは「家庭」が子どもに教育しなくてもよかったことの裏付けにはなっても、家庭に教育力があったという根拠にはなりません。

このように考えてくると、今の家庭は教育力が衰退したのではなく、むしろ教育し過ぎ(子どもに関わりすぎ)なのかもしれません。些細なことでも学校にクレームをつけてくる親が増えたと言われますが、それは、親の子どもに対する関心が高まりすぎて「気になって仕方がない」からなのだと思います。かつてのように、子育てやしつけの優先順位が低ければ、親にとって子どもの言い分など「どうでもいい」ことと考えても当然です。だから、まともに受け付けなかったわけで、そのことを今の高齢者の方は「厳しくしつけられた」と振り返っているのかもしれないのです。そういえば私も、小さいころにはよく「子どもは黙ってろ」とか「大人の話に入ってくるな」と、一方的に叱られたものです。

昔の大人は、子どもを子ども扱いすることで、逆に子どもは冒頭二つ目に挙げた雛のように早く一人前の大人になりたいと思えたでしょう。でも、子ども時代は面白くないことや理不尽な扱いに耐えなくてはいけない面も多々あったと思います。逆に、今の子どもは、親がかまってくれます。子どもの訴えを聞いて学校に乗り込んでくる姿は、どこか冒頭一つ目の「偽傷」する親鳥に見えないこともありません。子を守るための必死の行動なのです。ただ、それによって子どもは一時的には平穏に過ごせるかもしれませんが、自立するタイミングを失いやすくなります。

親の対応の仕方は、社会全体の価値観や環境の変容にも大きな影響を受けます。昔のような接し方をすれば子どもは自立できるという単純な問題ではありません。昔、存在した「若者衆」のような地域社会の「受け皿」はもうないのですから、本当に効果を上げようとすれば、社会全体を昭和の初期に戻さなければいけません。そんなことはできるはずがありません。結局は、社会の現状に合わせて最適なものを模索するしかないのです。

今、学校に求められることは、子を思う親の心を十分に尊重した上で、子どもの自立を促すには何ができるかを考えることでしょう。社会の状況など現状を考えれば、子どもを見守りながらも、少しずつ子どもにかける手を引いていくことが必要です。

そして、最も大切なのは、どのタイミングで「偽傷」する親鳥になるか、どのタイミングでエサを与えない親鳥になるか、それを保護者とともに考えていく姿勢だと思います。

(作品No.180RB)

  1. 広田照幸(1999)『日本のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、p25)
  2. 前掲書、p28

「考える」子どもをどう育てるか

小学校の教頭だったころ、中学年の習字の授業を初めて担当したときのことです。授業開始直後、一人の児童が前にやってきて「先生、半紙を忘れてきました」と私に伝えるのです。それまで中学校の授業しか経験のなかった私は、何が言いたいのかよく分かりませんでした。しかも、半紙を忘れたという事実を報告したあと、その場(教卓のすぐ近く)にじっと立ったまま何も言わないのです。要は、「私はどうしたらいいんでしょう。先生、指示をしてください」というわけです。私は、その子にあえて「で、どうするの?」と(優しく)尋ねました。

すると、その子はすごく驚いた様子で困惑しているのです。その姿を見て、またびっくりしました。おそらく、その子は先生にそういう言い方をされたことがこれまでなかったのでしょう。これまでの先生なら、多少のお説教を聞かされた後、予備の半紙をもらうとか、今日は誰かに借りて明日借りた分を返しなさいといった具体的な指示を受けていたのだろうと思います。つまり、その子は忘れ物をしたときはこうするものだということをそれまでに学習していたので、自分のやるべきことはやったと思っていたのです。それだけでなく、黙って隠していることを考えたら自分はきちんと対応できたという満足感さえも持っていたのかもしれません。とにかく、長年中学生を相手にしてきた私にはその子の表情や態度にかなりの違和感を抱きました。もちろん、子どもには何の責任もありません。それまでの指導にその子は忠実に従っているだけです。

私が、しばらく授業でそういう対応を続けていると、子どもは「忘れ物をしたので〇〇君に借りることにしました」と言うようになりました。別に都度の報告はいらないよとは思いましたが、突っ立っているだけのことを思えば、忘れ物をした自分はどうすればいいかを自分で考えて、授業が始まる前に友だちに交渉して忘れ物を確保しているのですから、大きな進歩です。社会に出ても、大事な会議で筆記用具を忘れたり、資料の一部が抜けていたりすることはあるでしょう。そんなときに、途方に暮れているようでは会社から「使えない奴」と思われても仕方ありません。臨機応変な対応が求められるのです。

ちょっと内容は違いますが、最近、インターネットのニュースで宿題の功罪が問われるようになりました。全員に同じ宿題を一律に課すことは非効率的であるだけでなく、一人ひとりの子どもにとって本当に必要な学習になっているのかを問われているのです。最近では多くの子が学習塾に通っていますから、塾からも宿題が出されます。そうなると、子どもにとってはかなりの負担になるわけです。まあ、学習塾は家庭で行かせているのだから家庭の責任であると言えばそれまでです。でも、本当にこれが必要なの?と思わせるような宿題を出されると不満を持つ子が増えても仕方ありません。本来一人ひとりに合った内容と量を考えて宿題とした方が、効果的なのは明らかです。

ただ、実際に一人ひとりに違う課題を出すとなると先生は大変です。ただでさえ「超」がつくほど忙しいのに、個々の理解度に合わせた宿題を準備する時間など捻出できるはずはありません。それに、一人ひとり課される量が違えば子どもは「不公平だ」と不満を持つでしょう。個々にレベルの違う宿題を準備し、しかも量までほぼ同じにするなど現実的に不可能なことのように思えます。

しかし、一律に出される宿題に無駄が多いのも認めざるを得ません。例えば、10個の新出漢字を覚えさせようとして、一つ一つ書き方(止め方や、はらいなど)、漢字の意味などを説明した上で、「10個の漢字をすべて10回ずつノートに書いてきなさい」という宿題を出したとします。漢字の得意な子は、もう授業中にマスターしてしまっています。それなのに、家で100字書かなければなりません。逆に漢字が苦手な子は10回ずつ単純に書き写すだけで頭に入るかどうか怪しいものです。教育はもともと予測不可能なものだと言う人もいる(広田)くらいですから、どのような宿題を出しても(宿題を出す前に)その効果を図ることは不可能です。とはいえ、先生の多忙化などの問題がクリアできるのなら、一人ひとりに見合った宿題を出す方が、子どもの力を伸ばすには効果的であることは明らかです。となれば、いかに教員の負担を最低限にとどめ、効果的なアイデアがあれば実行しない手はないことになります。

ここに一冊の本があります。タイトルは『不親切教師のススメ』(さくら社)。著者は公立小学校教諭の松尾英明氏。2022年8月に出されたばかりの本ですが、インターネットを中心に話題になっているので、すでにお読みになった方もいるでしょう。これは、宿題の出し方だけでなく、真に子どもの主体性を伸ばすにはどうすればいいかについて書かれた本です。いわゆる「指示待ち人間」ではなく、自分でやるべきことを見つけて前向きに学習に取り組めるようにするためには、教師が懇切丁寧に指導をすることはかえって仇になるという指摘です。目次をざっと見ただけでも「「楽しい授業」をやめる」「習字の掲示をやめる」「「してあげる」をしない」など、非常に刺激的です。私も、かねてから学校の先生や保護者は「転ばぬ先の杖」を出し過ぎると感じていました。ちょっと考えれば、自分で解決できることなのに周囲の大人が「失敗」しないように「お膳立て」をすることで、できるはずのこともできなくなるだけでなく「何で先に行ってくれなかったの」と文句ばかりを言ったり、自分は何もせず、ふんぞり返って「次、何するの」と偉そうに聞いてくる子どもを育ててしまっている可能性もあるのです。

反論もあるでしょう。「不親切な指導」なんかしたら、ただでさえうるさいモンペから、さらにクレームがくるじゃないかという見方もあるでしょう。宿題をもっとたくさん出してくれないと子どもは遊んでばかりになって困るという保護者もいるでしょう。けれども、私たちは保護者のために授業をしているのではありません。子どものためにしているのです。もし、子どもが家で自分から宿題や勉強をするようになったら、保護者も何も言わなくなるはずです。

そんなうまい話があるものかと思われるでしょう。私もそう思っていました。けれども、『不親切教師のススメ』には実に簡単な方法で、教師の手間もかからず、しかも一人ひとり違う宿題が出せるアイデアが紹介されています。つまり、授業中に小テストを実施し、子どもに赤で「〇つけ」をさせる。宿題は、自分の間違った問題をもう一度やることとし、家では青で丸つけをさせる、という方法です。これなら、理解度に合わせた宿題となります。

授業中の取組として秀逸なものとしては、蓑手章吾氏が示した「自由進度学習」というシステムがあります(『自由進度学習のはじめかた』学陽書房、2022、初版は2021)。教員が教室の前で説明するのは最初の10分程度で、後は各自が自分で決めた「めあて」について自学し、最後に「振り返り」をさせるという授業形態です。教師の説明時間が少なくなれば、その分一人ひとりに直接助言する時間が増えます。教師の机間指導は忙しくなりますが、個々の理解度は非常によくわかるやり方です。最初はあえて「めあて」を低く設定する子がいます。すでにできることを「めあて」にすれば楽だからです。そうすれば「振り返り」で「完璧にできた」と報告できます。しかし、蓑手氏はそういう子に「残念だったね」と声をかけるそうです。そして、今度は、「ぎりぎり達成できない「めあて」」を設定するように指示するのです。十分な机間指導によって、個々の理解度はよくわかっているからこそできる指示です。ほとんどの子はしばらくすると「ちょうどいい」目標設定ができるようになると言います。低学年では難しいかもしれませんが、高学年ならどの学校でも十分に実践可能だと思います。また、一人一台のタブレットが配布された今なら、学習アプリを使えば一人ひとりにプリントを印刷して配布する必要もありません。

周知のとおり、これからの教育は一方的に伝えられる知識をできるだけたくさん記憶するだけでなく、自分で考え、自分で判断する力の育成が求められています。顕著な経済成長も望めず、終身雇用制もほぼ崩壊してしまった現代社会において、ただ受け入れるだけの姿勢では、社会の中で生き抜くことは困難です。ここに挙げた方法なら、受験用の学力を確保しながら、自ら自分を成長させることができます。

それでもなお、そんなことは特別な条件のもとでしかできないと思われる人がいるかもしれません。先に挙げた蓑手氏は千葉大学教育学部附属小学校勤務の経験があります。「ほら、やっぱり特別な人じゃないか」と思うかもしれません。確かに、大学の附属小学校は、一般の公立小学校とは環境は違うでしょう。しかし大切なのは、こういう取組を自分の学校にあてはめて、何かできることはないかと考えることだと思うのです。本に示された内容をそのまま真似をする必要はありません。それぞれの学校がそれぞれの特徴があるわけですから、そのまま取り入れても成功するとは限りません。だから、できることから始めればいいのです。一番良くないのは、「あれは特別だ」と考えて何も変えようとしないことです。

そして、最も大切なことは、授業のやり方にしても、宿題の出し方にしても安直にスキルだけを取り入れようとしないことです。そこに、本来の学校のあり方とは何かを考える視点、大げさに言えば、教育とは何かという「哲学」的なことを考えないで始めると、どこかで行き詰まると思います。「哲学」に照らして、自分の学校や学級には何が必要なのかを考え、子どもの何を伸ばそうとするのかくらいは明確にした後に、できることから始めることが大切だと思います。とりあえずやってみようという精神も捨てがたいものはありますが、長く定着させるには、保護者や同僚にしっかりと意義を説明できる「構え」は欠かせないと思います。

(作品No.177)

拠り所探し

かつて、教職に就いて10年目の32歳のとき、近隣の大学に二年間内地留学させてもらいました。そのころの私は、学級経営も部活動もそれなりにはできるようになっていましたが、どうも説明しがたい違和感を抱くようになりました。こちらが熱意を持って真剣に訴えても生徒に「伝わっている」という実感が得られず、その空気感が教室に広がらないのです。暖簾に腕押し状態となることが多くなりました。そして、これは生徒に何か変化が起こっているのではないかと思うようになりました。端的に言えば、目の前の生徒が何を考えているのかがわからなくなってきたのです。

そんなある日、担任していた数人の生徒が、数日後に迫った夏季大会(部活動)に参加するかどうかを教室で友だちと相談し合っているのを目にしました。その子たちは控え選手でしたが、それでも3年生にとっては最後の大会です。参加しないってあり得ないだろうと私は思いました。教室には他の生徒も大勢いましたし、もちろん私もいました。こっそり相談するのではなく、堂々と、そして冷静に選択しようとしているのです。特に彼らが部活自体に不満を持っているわけではありませんでした。また、今のように部活動の加熱が問題になるようなことはほとんどなかったころの話です。その様子を見て、私の違和感は確信に近くなりました。何か得体のしれない大きな変化が起こっている、そう直感しました。ちょうどその頃、都市部での公立中学校離れが話題になっていたこともあり1)、私の違和感は次第に危機感に変わっていきました。私は変化の正体を見極めたいと思い、内地留学を決めました。

 内地留学の大学では、実にいろんなことを経験させてもらいましたが、最も「きつかった」のは、修士論文を仕上げるために何百ページもある専門書(日本語翻訳版)を何冊も読まなければならないことでした。とにかく難しくて、1ページ読むのに一週間くらいかかることもありました。ひどいときには一行読むのに一日かかることさえありました。それでも十分に理解することは困難でした。「本当にこれは日本語なのか」と思うくらい、私にとっては高いハードルだったのです。

しかし、ゼミの先生に指導助言を受けながら読んだ専門書の内容を根拠に研究を続けた結果、中学生の価値観は、外見上のファッションや持ち物に対する意味づけに教師と大きな差があったものの、人としてどうあるべきかという点については多くの共通点が見出されました。その研究は学校現場に復帰した後、生徒指導を中心にさまざまな場面で判断の拠り所となりました。不思議なことに、その拠り所の効果は年数を重ねても目減りすることなく、むしろ高まっていったのです。

近年の大学(学部)には、大学在学中に早くから学校現場ですぐに役立つような授業を増やす傾向があるそうです。学校現場に体験に行かせる「インターンシップ」的な実習(教育実習とは別枠)を単位認定し、積極的に実施する大学もあります。確かに、即戦力であることは学校現場にとってはありがたいことですが、何か違うような気がします。

教育社会学者で日本大学文理学部・大学院文学研究科教授の広田照幸氏は、自身の「教育の社会学」という授業の初回に次のように学生に話すそうです。

「私のこの授業は、採用試験にも対応していないし、教員になってすぐ日々の仕事に役立つものでもありません。でも、教員になってしばらくやっていくと、それまでのやり方でうまくいかなくなって行き詰まったり、どう考えればいいか分からないような事態に直面したりすることが、きっとあると思います。そのときには、私がこれから話をする講義の中の理論や概念や現状分析を思い出してみて下さい。考えをめぐらせるための材料が見つかるかもしれません。」(広田照幸(2019)『教育改革のやめ方』岩波書店、p188)

大学の教育がどうあるべきかなどと偉そうにいうつもりは毛頭ありませんが、大学には大学にしかできないことがあるはずです。即戦力となることを期待するあまり、学生が汎用性の高い拠り所を得る機会が奪われているとしたら、それは悲劇だと思います。学校現場は多忙です。一旦赴任すれば専門書を読むような時間はありません。また、読もうとしてもそうした本は相応の専門知識がないと理解できません。それはもう読解力の域をはるかに超えています。専門家のいる大学だからこそ読めるのです。

教員にとって熱意は欠かせないものです。しかし、熱意を十分に活かせる拠り所を持たなければ、これだけ多様化が進んだ社会に対応することは困難です。熱心に関われば関わるほど生徒との意識のズレが大きくなることもあります。現職となった先生には専門書を読む時間はないでしょうが、専門書でなくても教育に関する意義深い本はたくさんあります。専門書をわかりやすく解説している本もあります(漫画すらあります)。それらを入口にすれば、短い時間で「拠り所探し」は十分に可能だと思います。

「すぐに現場で使えるものは、すぐに使えなくなる」(前掲書、p181)。広田氏の指摘は的を射ています。

1)NHK教育プロジェクト・秦政春(1993 初版1992)『公立中学校はこれでよいのか』NHK出版(ネットなら数百円で買えます)

(作品No.176RB)

読書の種類

 教諭時代(中学校)、よくこんな会話をしました。私の専門教科は国語です。

保護者「先生、どうやったら子どもが読書好きになれるのでしょうか?」

私「どうしてお子さんを読書好きにしたいのですか?」

保護者「うちの子は国語が苦手なので、本を読むようになれば少しは成績が上がるんじゃないかと思うんです」

そこで私は若干残酷な言い方ではありますが、次のように答えます。

「残念なことですが、本を読むことが嫌い(苦手)な子が、中学生になってから受験のために本を読んでもほとんど効果はありません。本来読書は自分が楽しむためにするものです。受験のためとなるともうそこには「楽しみ」はありません。楽しいと思えないことはきっと続かないでしょう。私は、「本は読むべきだ」と思って行う読書はあまり意味がないと思っています。むしろ、そんなことを強制したらいまよりもっと本が嫌いになるでしょう。」

 でも、保護者の方をあまり失望させることも失礼ですので次のような助言はしました。

「目的が国語の点数を上げるためであるなら、読書よりも効果的な方法があります。そういう子が最も苦手とするのは長文問題です。だから、点数のことだけを考えるなら読書なんて無駄なことをせずに、長文読解の問題集を買ってきて(解答の解説が詳しいものが望ましい)一日15分~30分だけでいいからその問題に取り組ませてください。試験用の文章に慣れることに徹するのです。15分~30分としたのは、それ以上になればおそらく嫌になって続かないと思うからです。そして、自分で15分と決めたら15分経った時点で潔く諦めて解答と解説を見ればいいのです。それでも最初は「どうしてこれが正解なのかわからない」ということもあるでしょうが、続けているうちに問題のパターンと答え方のパターンが見えてきます。「また、同じ聞き方をしている」ということに気づくようになります。そうなればしめたものです。国語の問題に対する抵抗感が減っていき、継続する意欲につながります。それでも、結果が出るまでには半年くらいかかるかもしれませんが。」

 そして、最後にこう付け加えます。

「あくまでもこれは点数を少しでも上げるためのノウハウであって、読書好きになれる方法ではありませんよ」

生徒個々の「読書の経験」の時間格差は十数年生きている間にあまりに大きくなっています。もはや、追いつくことは不可能でしょう。

 当然授業でも受験対策はしていました。問題を解くコツみたいなものや過去問の傾向などを自分なりにまとめて生徒に伝授したこともあります。

ただ、国語が得意な者にとっては、漢字や諺など暗記する内容以外はほとんど受験勉強などしなくても一定の点数が取れてしまいます。文法問題も中学生レベルなら文法の勉強をまったくしていなくてもおおよその見当はついてしまいます。この差は大きい。

それに比べて苦手な子は、頑張りようがない部分もあるわけです。私の同級生が高校時代よく言っていました。彼は理数系のテストはうらやましいくらい点がとれるのですが、国語だけは偏差値が30点台でした。「国語の得意な奴はうらやましい。俺なんか何をしても点が取れない。」と嘆くのです。

生まれてからずっと私たちは日本語の社会で生きてきたのですから、その経験差はおそらくどの教科よりも大きいでしょう。家庭の読書環境によっても大きく左右されます。小さなころから親が図書館によく連れて行ったとか、読み聞かせをしたとか、そういうことも関係してくるでしょう。それを中学生になって受験があるからといって読書を始めても間に合わないのは目に見えています。先にも書いたように、そもそも読書は強制されればされるほど嫌いになります。だから、毎年「課題図書」が決められて読書感想文を書かせるなんて本当はナンセンスです。それは結局間接的に読書を強制しているわけです。

生徒には、読書について年度初めにいつもこんな話をしていました。

「読書の仕方には三種類あります。一つは精読、これは細かく丁寧に読むこと。同じ作者の本を続けて読むとか、同じテーマで違う作者のものを読むとかという読み方です。次に、濫読。手当たり次第に読む。そして、最後の一つが「積読」(つんどく)。タイトルを見て興味ある本を買ってそのまま「つんどく」。(間)つまり、積んでおく。積み上げて放置するということです。いつか読む気になったら読もうとキープしておくことです。」

 生徒たちは、「積読」と聞いて「そんなもの、読書って言えるの?」と聞いてきますが、タイトルが気になるということは何か自分の中で(無意識であっても)必要としている可能性があります。いつでも読めるように身近に置いておくのは意味あることです。

 もう一つ、生徒には「完読できなかったからと言って、それを悔やまないことです」とも言ってきました。読書が嫌いになる一つの理由に「最後まで読めなかった」という嫌な体験があると思うのです。そういう自分が嫌になるから、最初から読まなくなる。でも、100頁ある本のたった1頁しか読まなくても、そこで心に残るたった一つの言葉に出会えたら、それで本を手に取った価値はあると思います。そういう話を生徒にすると結構真剣に聞いてくれました。

 近年は、英語を小学校から授業に取り入れるようになりました。せっかくそれまでの英語活動で英語を楽しんできたのに、教科となればアルファベットがけけるように指導され、一定数の単語を覚えなければならなくなったのです。文科省は英語力の向上のためには早期からやらせるのが効果的だと考えているのかもしれませんが、現実的には、早期から英語嫌いを増やしています。その結果、国語ほど極端ではないにしても、中学校入学時にはすでに英語力に大きな差が出てしまっているのです。早くから始めれば始めるほど差は大きくなるのは当然です。どうも文科省の考えることは、一部のよくできる子を中心に据えているように思えて仕方がありません。私は逆に中学校でも英語活動的な内容に転換するほうがよほど英語嫌いをなくし、最終的にはコミュニケーション能力を向上させると思っていたのですが、非常に残念です。

ちなみに、子どもが読書好きになれる最も効果的な方法は?と聞かれたら、私は迷わずこう答えます。

「親が読んでいる姿を見せることです。」

読書好きな親のもとにいれば自然と子どもは本を手にするようになります。自分は読まないのに、子どもにだけ「読め」と言っても説得力はありません。

(作品No.173RB)

子どもと創るルール

現在、全国各地で校則の見直しが進められています。特に制服については、SDGsの5番目の目標に「ジェンダー平等を実現しよう」(GENDER EQUALITY)と掲げられているように、もはや、学校の規則の改革というレベルではなくなっています。そして、県内でも(あるいは市内でも)多くの学校が生徒や保護者の希望を取り入れて変革を進めています。こうした動きはこれからの学校のあり方を考える上で非常に重要です。

現代社会は多様化の時代だといわれます。それは、多くの価値観や個性があることを認めようとする社会全体の雰囲気のようなものによって支えられています。以前、このコラムでも書きましたが、世の中に唯一絶対の真理があるとはかぎりません。国や地域によって大切にする価値は異なりますし、同じ国にあっても一人ひとりの考え方はそれぞれに違います。社会の多くの人が同じ価値観を持ちやすかった時代は、それに従っていれば何とかなるという安心感を得ることもできました。そういう意味では人々の迷いは少なかっただろうと思います。その反面、マイノリティ(少数派)の価値は常に軽視されやすく、そこから生じる偏見や人権無視の言動によって苦しめられる人も少なくなかったでしょう。多様化はそういう人々の苦しみを救うという意味でも社会に大きな貢献をしていると言えます。

ただ、学校が多様化する価値すべてを受け入れることはかなり難しいでしょう。真っ向から対立する価値が同時に求められることもあります。だから、学校が何か一つの選択をしようとするとき、必ずそれに同意しない人は存在します。それでも、学校は何らかの判断をしなければなりません。ここが辛いところです。そこで学校はあらかじめ一定のルールを設ける必要があります。それがなければ、学校は混乱するだけです。しかし、そのルールそのものが一つの選択(価値)である限り、すべての人を納得させることはできません。

じゃあどうすればいいのか。

結局のところ、ルールを生徒と共に創り出すしかないと思います。これからは、学校が一方的に決めたルールを生徒に守らせるという図式は崩れていくと思います。冒頭に挙げた制服や校則の見直しも、これからは生徒の意見を取り入れることが必須になっていくでしょう。以前、スクールロイヤーの人(弁護士)に聞いた話ですが、校則は学校長の裁量権の中にあるけれども、そのルールの妥当性や決め方に不当な部分があれば、法的に問題が生じる場合があるそうです。

そもそも法的に問題でなくても、この多様化の時代に一方的に学校がルールを押しつけることはそう長くは続かないでしょう。

ちなみに、私が通っていた中学校では生徒会がかなりの力を持っていました。例えば、各部活動の予算は、総額こそ学校が決めていましたが、それをどう配分するかは生徒会の予算委員会で決めていました。運動部、文化部の代表者を集めて、生徒会執行部の出した原案に対して協議する場があったのです。今では考えられないようなことですが、決められた枠内で各部が予算争奪戦をやっていたのです。まさに喧々諤々1)たる会議となりました。例えば、野球部の主将が茶道部に対して「茶道って礼儀作法を学ぶためにやっているんだろ。だったら、本物のお茶なんか使わなくてもいいじゃないか(その分の予算を回せ)」という、それこそ「無茶」な意見が出ます。それに対して、茶道部も「お茶を使わない茶道はボールを使わない野球と同じですよ」などと反論していました。一応昨年度の予算との変動率の限界値は決めていたと思いますが、部員が大幅に減った部などは結構削られたりもしました。そこで決められた予算が実際に執行されていたのです。意外と遺恨を残すことはなかったと思います。中学生でも任せればそこそこやれるものです。

また、かつては子どもの世界には子どもたちがつくるルールが存在していました。そこは大人が介在しない世界でした。例えば、放課後高学年だけで野球をしていることころに低学年の子が来て、入れてほしそうにしていたとします。その子をどちらのチームに入れるかでもめます。自分のチームに入れたら不利になるのは明らかです。そこで、ハンデを考えます。その低学年の子が打席に立つときは投手がゆるい球(下手からふわっと投げる)を投げることにしたり、守備ではその子がゴロを取りさえすれば(一塁に投げなくても)アウトとするなど、その子を生かすために特別ルールを即興でつくります。そうすることでその子を遊びの中に入れてやることができます。このように子どもの世界ではルールは固定されたものではなく、そのときの状況によって絶えず変化するものでした。

これからの学校は、生徒に関わるルールは生徒が考えるようにする必要があるでしょう。その可能性を持たせることで、学校を自分たちの力で変えることができるという自覚が生まれます。そもそも服装や髪型などは教育にとって必須のものではありません。服装や髪型を自由にすれば学校が荒れるという人もいますが、それは幻想だと思います。かつての校内暴力が激しかったときのイメージで語っているだけでしょう。そもそも教員は普段から「見かけよりも中身で勝負せよ」と子どもたちに教えているわけですから、目に見える服装や髪型が変わってもやるべきことをしっかりやっていればそれでいいわけです。

自分たちでルールを決める過程で子どもたちはいろんなことを学びます。それこそ「学校が荒れる」と心配している先生をどう説得するかも考えさせればいいと思います。また、保護者が反対した場合はどう説明するか、生徒の意見をどういう手順でまとめるか、改正したルールを再度見直すシステムをどうやってつくるかなど考えなければいけないことは山ほどあります。その一つ一つが生徒にとって貴重な学習の場になるはずです。そして、自分たちが決めたルールだからこそ守ろうという意識も高まります。

最近の若者に政治離れが進んでいると批判的に言う人がいますが、それは小中高の12年間という長い時間を、変えられないルールの中で過ごしてきたがために「自分たちで変えよう」という意識が育っていないからです。若者を責めるのはお門違いだと思います。

(作品No.172RB)

1)喧々諤々:もともとは「「喧々囂々(けんけんごうごう)」と「侃々諤々(かんかんがくがく)」という別々の言葉が混ざった誤った表現」(辞典・百科事典の検索サービス – Weblio辞書 国語辞典)ですが、近年では十分に定着していると判断し使用しました。

ゴジラ飛ぶ、天使が走る

授業中、集中できずに窓の外をぼーっと見ている子を時折見かけます。特に、南側の窓に最も近い席で、しかも後方に座っている生徒は授業に飽きたら何気なく窓の外を見るのです。私は、そういう生徒に注意するとき「おーい〇〇、窓の外にゴジラでも飛んでるのかあ」と、できるだけのんきな感じで声を掛けるようにしていました。すると、その子はちょっと恥ずかしそうにしながら素直に前を向きます。

私は新任の頃、生徒が少しでもよそ見をしようものなら烈火のごとく𠮟りつけていました。当然、教室の雰囲気は重く沈み込み、それ以降の授業は暗い雰囲気の中、無理やり進めることになります。さらには、そういう叱り方を続けていたせいで次第に生徒は反抗的になり、最後は学級崩壊状態になってしまいました。注意をすることは当たり前のことですが、もっとソフトなやり方はないかと思うようになり、その一つの方法としてゴジラに飛んでもらったわけです。

すると他の子から「先生、ゴジラは飛べないよ」と声があがります。私は待ってましたとばかりに「いやいや、ゴジラ飛べるんですよ」と答えます。実際、ゴジラシリーズの一つ「ゴジラ対ヘドラ」でゴジラは熱戦を吐きながら尻尾を丸めて、後ろ向きに飛ぶシーンがあります。そういう話を(授業中に不謹慎ですが)、黒板につたないゴジラの絵を書きながら説明してやると、生徒は授業の何倍もの集中力で私の話を食い入るように聞いています。

でも、なぜゴジラなのか?理由は大きく二つあります。

ます、誰もが飛べないと思っているものであることが大切です。「ガメラでも飛んでるのか」ではだめです。ガメラが飛べることは生徒もよく知っていますので、意外性に欠けます。「えっ」と思わせることで、よそ見した生徒だけでなく他にもいるであろう集中力が切れかけている子にも刺激を与えることができます。

もう一つの理由。これが非常に重要です。ゴジラは1954年に第一作が公開されました。その年、日本にとって非常に衝撃的な事件が起こりました。アメリカがビキニ環礁で実施した水素爆弾実験によって第五福竜丸を含めた多くの日本漁船が被爆し、いわゆる「死の灰」を大量に浴びてしまったのです。ゴジラは「身長50メートルの怪獣」で「人間にとっての恐怖の対象であると同時に、「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれました(ウィキペディア)。第一作の宣伝用のポスターにも「水爆大怪獣映画」と書かれています。

周知のとおり、日本は世界で唯一の被爆国です。その日本がアメリカから二発の原爆を投下されてから10年もたたないうちに、また同じアメリカから甚大なる核の被害を被ったのです。当時の日本人にとってはかなりの衝撃だったと思います。ゴジラはそうした日本人の反核、反戦の思いを背負って誕生したのです。

私は、ゴジラが飛べる話をした後生徒にそんな話をしました。生徒は単に面白がって聞いている段階を経て、真剣なまなざしに変わります。

さらに言えば、初めてゴジラが空を飛んだ「ゴジラ対ヘドラ」が公開されたのは1971年、ちょうど公害が社会問題になっているころでした。この映画で、ゴジラは公害の申し子ともいえるヘドラと戦います。ヘドラは当時問題になっていたヘドロをもじったものでしょうが、ゴジラが戦ったのはヘドラに象徴される日本の公害であったわけです。ネタバレになるので詳しいことは書けませんが、そのラストシーンはまだ小学生だった私にとっては、実に衝撃的なものであったのを覚えています。

というわけで、生徒を注意するとき、ただ厳しく叱責するのではなくできるだけソフトな言い方で、しかも一定の効果がある方法として私はよくゴジラに登場してもらっていました。(授業の脱線時間が増えたこともありましたが・・・)

もう一つ、ソフトな注意として登場してもらったのが「天使」です。出典は明らかではありませんが、場がしらけるような発言やウケねらいの発言が思うようにウケなかったときに「あ、今天使が走った」ということがあるという話をどこかで聞いたことがありました。神の使いである天使は人間を救うために存在しているので、ウケない話をしてしまった人を救うためにも現れる、みたいな話をどこかで聞いたことがあったのです。授業中に、ウケねらいで発言する生徒は結構いるものです。いわゆるちゃちゃを入れるとか、話の腰を折るといった発言です。単発の場合はさほど邪魔にはなりませんが、何度も続くと授業の妨げになりますから注意せざるを得ません。でも、教師が真っ向から𠮟りつけるのは芸がないような気がします。そこで、天使にご登場願うわけです。

生徒が何かウケねらいの発言をします。だいたい教師への質問形式で出現することが多いのですが、私は、何も答えず黙ったまましばらく間をとります。そして、おもむろに「実はねえ」(ここでもう一度間を取る)「今、天使が走ったんですよ。」と切り出す。そして(少し大きめの声で指をさしながら)「そこ、教室の後ろ、ロッカーの前」。何人もの生徒が思わず後ろを振り返ったりします。

そして天使が登場する意味を伝えます。登場するのが天使ですから、教室の雰囲気は重くなりません。ちゃちゃを入れた子も不思議と落ち着きます。要は、自分の言うことに何らかのリアクションがほしいだけですから、それで欲求は満たされるわけです。

次の時間も同じような発言を続けた場合はこう言います。「〇〇さん(ちゃちゃをいれる子の名前)、天使も忙しいんだから何回も呼んじゃいけませんよ」と言うことにしていました。そのうち、生徒同士で注意し合うときも「〇〇、天使呼ぶなよ」と言い合うようになってきます。要は、「うるさい、黙っとけ」という意味なのですが、言葉が言葉なのでさほどきつく聞こえません。結構効果的でした。ただ、特定の子に「今日の時間、思い切り天使呼べよ」とけしかける生徒が現れないように十分注意する必要はありますが・・・。

そう言えば、あるとき、いつものように「ゴジラでも飛んでるか」と声を掛けたとき、「そうなんです。ちょうどあの辺です」と指さすという強者もいました。まさに一本取られた感じです。笑うしかありませんでした。

(作品No.169)

教員採用試験面接のポイント(講義風)

こんにちは。本日は、この面接練習に参加してくださってありがとうございます。

たくさんの人が試験を受けてくださっていることに、深く感謝したいと思います。本県は幸か不幸か倍率が高い。それは他府県に比べて働きやすいという証拠でもあります。

さて、面接の話ですが、私の経験から言うと質問の内容には大きく分けて3つあります。

一つ目は、服務に関する質問。これは法的な質問ですね。公務員の身分に関する法律とか、体罰を禁じている法的根拠とか、わからないときは潔く「すみません。わかりません」と言えばいいんです。もじもじするのが一番よくない。

二つ目は、志望動機と具体的な対応です。志望動機は大丈夫だと思いますが、具体的な対応については、若干皆さんを迷わせるような質問もあります。いじめの現場をみたらどうするかとか、クレームに対する対応とかです。終わった後に、一番気になるのがこれです。

でも、大丈夫です。皆さんが迷うような質問をするのは、困った時にどんな対応をする人なのかを見るためです。むずかしい問題にどれだけ真摯に答えようとしているかを見ています。少々的外れになっても気にせず堂々と答えてください。面接官ってね、質問は山ほど用意していますが、答えはもともと用意してないんです。受けている方は、面接官が正解を知っていると思うから、間違ったことを言っていないか気になるのですが、正解なんてあまり持っていないものなのです

そして、三つ目は、主に皆さんの熱意の確認です。どんな生徒を育てたいかとか、どんな夢や希望を持って先生になろうとしているかを聞いてきます。ここが一番皆さんの腕の見せ所です。

この三つがきっちりと分かれることもあれば、混ざることもあります。そして、本県の施策をどのくらい知っているのかをスパイスのように織り交ぜて質問されます。だから、そこのところはしっかり勉強しておいた方がいいですね。

それから、簡潔に答えることも大切です。面接官は、決められた時間内でいろんなことを聞きたいと思っています。だから、長く話されるとしたい質問が十分にできません。簡潔に答えることが好印象につながります。また、語尾をはっきり言うことも大切です。

それから、面接官の中にはずっとしかめっ面の人がいたり、皆さんが答えているときに、首をかしげるような人もいます。そういう人を見ると不安になりますが、大丈夫です。皆さんの将来に関わる面接ですから当然真剣です。人間真剣になるとどうしてもしかめっ面になりがちなものです。それから、面接官は、意外と余裕がないのです。それに。皆さんの回答を聞かなきゃいけないし、そこから次に質問を見つけようとしますし、聞いた内容や評価をメモしないといけません。結構忙しいのです。そうなると慣れてない面接官ほど、しかめっ面になります。また、首をかしげているのは、どんなふうにメモを取ろうかって考えているだけです。皆さんの回答がおかしいからじゃないのです。そんなときは「ああ、面接官も大変なんだなあ」と思えば、気持ちは楽になります。

それから、面接官は皆さんの思想・信条については聞いてはいけないことになっています。最近では、尊敬する人や最近読んだ本、家族構成なんかも聞かないことになっているはずです。皆さんは合格するまでは一般市民ですから、かつてのような圧迫面接もなくなっているはずです。逆に今の面接は、受験生をどれだけリラックスさせるかに気を遣っています。

とにかく、当日、緊張すると思いますが、その緊張している姿から誠実さが伝わることもあります。大いに緊張したらいいと思います。

今日の練習を通して、少しでも皆さんのお役に立てればと思います。

最後に、「山よりでっかい獅子は出ん」。自信を持って臨んでください。(作品No.165RB)

センスのない人

ある年の忘年会(小学校)のときです。私は校長として、会の初めの挨拶を任されました。まだ、コロナもなかったころの話です。

 その日は、非常勤の先生や、用務員さんまで参加してくれました。ほぼ全職員が集まることでできるのはそうそうあることではありません。とてもありがたいことだと思いました。そして、この一年間特に大きな事故もなく比較的平和な日々が流れたことに感謝しようという趣旨で話をすることにしました。

 過去に勤務していた学校で、教員が不祥事を起こし全国版のニュースにも流れたことがあり、半年以上「飲み会」を自粛せざるを得ませんでした。そのときは職員全体に暗く重い空気に包まれていました。自粛は当然の流れでした。誰も宴会など開こうという気にはなれなかったのです。そうした私自身の経験を少しだけ話したあと「こうして、みんなが集まって楽しい会が持てるということに、心から感謝したい」と締めくくりました。

 さて、次に登場したのは、乾杯の音頭を取る教頭です。私は耳を疑いました。乾杯の発声の前にした話が、私とほとんど同じ話だったのです。こんな人間がいるのかと思いました。おそらく教頭は「自分だってこんなに苦労したことがある」と、私を相手にマウントを取ろうとしたのでしょう。そのセンスのなさに唖然としてしまいました。普通は校長の話を受けて、それをフォローするのが教頭の立ち位置です。私が県の教育委員会にいた経験があるから特に感じたのかもしれませんが、そうでなくても校長相手にマウントを取る話をする感覚には驚きしかありませんでした。それも、あたかも自分だけがそういう経験をしてきたかのように、自慢げに話しているのです。正直に言って、かなり不愉快でした。

 もし、県教委の宴会でこれをやったら上司にその場で激怒されているところです。私は、校長を立てないから腹が立ったのではなく、そういう態度で職員に接していることに無性に腹が立ったのです。私は、教育委員会でも自分の課内にいるものを「部下」だと思ったことはありません。それがいいかどうかはわかりませんが、役職的には部下であっても、同じ課の仲間です。残念ながら教員にはまだこういう人間がいるんだ。申し訳ないけれど、小学校ばかり経験しているとこうなってしまう人もいるのかもしれないとさえ感じました。

 小学校の先生の中には、中学校の教員に対して「高圧的だ」とか子どもを邪険に扱いすぎるとか批判する人がいます。私も若いときベテランの小学校の先生から「〇〇は最近荒れてるそうじゃないか。あの子は私の前では今でも素直に話ができる。もっとちゃんと指導できないのか」と本気で怒られたことがあります。この教頭の姿を見て、その時のベテラン小学校教員を思い出しました。何もわかっちゃいない。あなたには、「中学校に行っても(環境が変わっても)しっかり生活ができるだけの心を育てる」という気概はないのかと思いました。体も小さく、自我の発達もまだ未熟な小学生を相手に自分の思うように子どもをあやつっていただけなんじゃないのかと思うのです。そういう人は、一度中学校に来て生徒に胸倉をつかまれてみないとわからないのだろうか(その頃はまだ校内暴力が残っていました)。

 何も中学校の教員がすべて正しいと言っているわけではありません。センスのない教員はどの校種にもいるでしょう。けれども、それなりの経験を積んでいながらそんな狭い視点しか持てないのは、子どもにとって害にしかなりません。おそらくそういう人は保護者にも同じような物言いをするのでしょう。

 

ちなみに、先に挙げた教頭は電話対応で相手を選ばず「うん、うん」と相槌を打つのです。電話先の相手が後で校長の私に「あの教頭はどうにかならないんですか」と訴えてきました。そりゃそうです。「うん」という言い方が上からだということに気づくセンスがないのですから。

(作品No.163RB)

高校球児の「一息」

偏屈だと思われるかもしれませんが、私は大差をつけられて負けているチームの最終回の攻撃の中に、高校野球の魅力が凝縮されていると思っています。近年の野球では、5点くらいの点差なら1イニングで追いつくことがないとは言えませんが、それ以上の点差になると最終回に逆転することはかなり困難でしょう。選手もそれはわかっています。それでも、球児は全力を尽くします。諦めているような素振りは見せません。それは、わずかな可能性に望みを託しているということもあるでしょう。でも、それよりも私が感じるのは、彼らは今このときを永遠のものとしようとしているのではないかと思うのです。もうすぐすべてが終わる、でも今この瞬間は終わっていない。

 最終回は必ず終わりを迎えます。無得点なら長くても10分15分くらいで終わるでしょう。特に、二死で打席に立った選手にとっては、次の一球で終わるかもしれないのです。アルプスに陣取った人にとっても最後の力を振り絞っての応援となります。その瞬間は、そこにいるすべての関係者にとって時間軸を超えた「永遠」のときとなります。

 高校野球に対する批判も数多くあることは承知しています。熱中症アラートが出ているような炎天下でも試合は行われます。すり鉢状の甲子園球場ではグランドは40度を軽く越えることもあるでしょう。今年の大会では、試合中に足がつってしまう選手が相次ぎました。そうした中で野球をさせることへの是非は問われるべきでしょう。他にも、勝利至上主義に走る学校への不信感や、行き過ぎた指導としての体罰の問題、また、越境入学など、さまざまな問題を孕んでいます。それでも、高校野球が人々を惹きつけて離さないのはどうしてなのでしょうか。

 禅の教えに「一息(いっそく)に生きる」というのがあるそうです。それは、一回呼吸をする、その一瞬一瞬を大切に生きるという意味です。人間は、過去の事実を変えることはできないし、未来はまだ見えていません。人間には、現在を全力で生きることしか許されていないのです。

 大量点差の最終回、取られた点数をなかったことにはできません。未来は見えていないとはいえ、結果だけを考えればもう目の前に迫っています。それでも、球児たちは「一息」に生きるのです。だからこそ、球児の姿勢に私たちは感動を覚えるのです。

 今後の高校野球がどのように変わっていくのかはわかりません。それこそ未来は見えないのです。それでも、今このときを「永遠」に変える生き方を体現してくれる球児の姿だけは、誰にも否定することはできないでしょう。少しでもいい環境で、球児に「永遠」の場を与えられるために何が必要なのか、それを考えるのは大人の役目なのかもしれません。

 これまで多くの感動を与えてくれた高校球児への恩返しとして。

(作品No.160RB)