AIの時代

AIが急速に進化を続けています。進化したAIは「生成系AI」と呼ばれ、高い学習能力を持ち、その場に応じて自ら最適解を導き出します。生成系AIはインターネットなどから得た大量のデータをフルに活用して、瞬時にその場に適合した答えを出してくるのです。今はまだ、ピントが外れたような回答もあるようですが、そのうち、さらに進化して精度を上げてくるでしょう。

最近、インターネットを見ていると、こうした生成系AIを学校教育に導入しようとする企業が積極的にセミナーを開催しているのが目立ちます。多くの場合、無料オンラインで誰でも受講できるシステムになっています。誰もが知っているメジャーな企業が、虎視眈々と学校教育への進出の機会を窺っているようです。すでに特定の自治体と提携を結んでいる企業も少なくありませんし、大手の学習塾では、すでに実用化されています。

学校教育に参入しようとする企業が増えているのは、学校で行われている授業が、学習指導要領によって一定の制限があることも関係していると思います。生成系AIにしてみれば、集めなければならない情報も限定されるわけですから、冒頭で挙げたような「ピント外れ」の回答をしてしまう確率も低くなるので導入しやすいと考えられているのでしょう。

生成系AIにとっては、子ども一人ひとりの学習成果(テストの解答など)を情報として収集し、今、この子がどこで(つまづ)いているかを判断し、最も適した課題を作成することなど、朝飯前でしょう。うまく活用すれば、いわゆる「個別最適化」の学習の実現に大きく貢献するだろうと思います。しかも、これらの生成系AIの中には、インターネットから簡単に手に入るものもありますから、先生方の中にはすでに活用している人もいるかもしれません。

いずれにしても、近い将来、生成系AIの学校教育への参入は避けられないでしょう。そうなったら教師はどう対応したらいいのか悩ましいところです。ただ、AIに何を奪われるかと不安ばかりを膨らますのではなく、逆に「人(教師)にしかできないことは何か」を前向きに考えるチャンスとして捉えることが必要だと思います。ひょっとしたら、AIの登場は、そうした根源的な問いを私たちに投げかけているのかもしれません。

こんなことを考えていたとき、ある川柳を思い出しました。

「チョキを出す 我が子の癖(くせ)知り パーを出す」

どこか懐かしく、読む者を優しい気持ちにさせてくれる句です。わざと負けることは一種の「嘘」ですが、それは、時に子どもたちに自信を与え、時に可能性を引き出す、大らかで優しい「嘘」でもあります。子どもはいつかそのことに気づき、きっと自分に「嘘」をついてくれた人を感謝の気持ちを持って思い出すことでしょう。教師と子どもの関係も同じです。目の前の子たちに、人には相手の立場や心の機微を肌で感じる温かい心と、それによって受け継がれる優しさがあると伝えられたらどんなにいいでしょう。進化を続ける生成系AIなら、いつかこんな「嘘」さえもつけるようになるのでしょうか。

(文中の川柳は著作権者の了解のもと掲載しています。コピー及び転載は絶対にしないでください) 

作品No.238RB

ICTと教師の正念場

吹奏楽の定期演奏会に行きました。コロナ禍での開催で不安もありましたが、開会前に舞台袖を通ったとき、袖で出番を待つ生徒のほどよい緊張感と、それをかもし出す素直さに触れてとても心地よく感じました。また、私の姿を見つけて口々に「校長先生、ありがとうございます。」と声をかけてくれました。とても爽やかな気持ちになりました。 

演奏会は終始温かい雰囲気に包まれていました。顧問の人柄もよく出ていて優しい空気が会場全体に広がりました。演奏がよかったのは当然ですが、マスクをして、いじめで自殺したある生徒(本校ではありませんが)が作詞した歌をステージ上で歌う生徒たちの姿にも感動しました。真心を込めて何かを伝えようとし、それが伝わる瞬間を経験することはこんなにも感動的なのです。これこそが学校の本当の魅力なのだと思いました。そして、何から何までコロナで中止にすることにも違和感を覚えました。生徒の命を守るためには仕方がないことも重々わかってはいますが、このままでは学校の「らしさ」が薄まっていくような気がしました。

 学校は変わらないといけない時期を迎えています。皮肉にもコロナ禍によって一人一台のタブレット普及が加速し、一年以上早まりました。これからの時代に「個」の学習や成長を支えるには欠かせない取り組みです。ただ、ICTは人間同士の相互のふれあいをどこまで保障できるのでしょうか。それは、そうした視点とある種の危機感を同時に持ってICTの導入を考えている大人がどれくらいいるかで決まるような気がします。

私は、昨年度(令和2年度)から2年間、市の情報化推進委員会に代表校長として参加しました。その第一回目の委員会で私は次のように話しました。

 「タブレットの活用の推進は、待ったなしのところまできています。でも、これが浸透するまでの間に、学校の存在意義をしっかりと考えておかなければいけないと思います。私たちは、この取組が学校教育の根幹に関わるものになるという意識を持たなければなりません。」

 ICTは一人一人の生徒の効率的な学力向上に大きく貢献するでしょう。また、進みゆく情報化社会の中で、たくましく生き抜く子どもたちを育てるためにも積極的に取り組まなければなりません。不登校の児童生徒が増えている中、そうした生徒への学力保障のためにも有効となるでしょう。また、「使いこなせない」ことも許されなくなります。しかし、同時に私たちは、あくまでも「個性」や「自分らしさ」が他者との相互作用によってはじめて成立するということや、生身の人間同士がかかわりあうことの重要性をどこまで地域や保護者に「学校にしかできない魅力」として訴えることができるかを考えておかなければいけません。この取組が、教師が教師の手で「登校しなくてもいい学校教育のシステム」を生み出す可能性もなくはないのです。それが本当に子どもたちにとって豊かな人生の礎となるのかどうかを真摯に考えなければいけません。私たち教師にとっての正念場はもうそこまできています。特に公立学校は、学校に通いたい、通わせたいと思わせる魅力が創り出せるだろうか。子どもたちの心のこもった演奏を聞きながらそんなことを考えていました。令和3年8月28日初稿、後日改

(作品No.118HB)