高校球児の「一息」

偏屈だと思われるかもしれませんが、私は大差をつけられて負けているチームの最終回の攻撃の中に、高校野球の魅力が凝縮されていると思っています。近年の野球では、5点くらいの点差なら1イニングで追いつくことがないとは言えませんが、それ以上の点差になると最終回に逆転することはかなり困難でしょう。選手もそれはわかっています。それでも、球児は全力を尽くします。諦めているような素振りは見せません。それは、わずかな可能性に望みを託しているということもあるでしょう。でも、それよりも私が感じるのは、彼らは今このときを永遠のものとしようとしているのではないかと思うのです。もうすぐすべてが終わる、でも今この瞬間は終わっていない。

 最終回は必ず終わりを迎えます。無得点なら長くても10分15分くらいで終わるでしょう。特に、二死で打席に立った選手にとっては、次の一球で終わるかもしれないのです。アルプスに陣取った人にとっても最後の力を振り絞っての応援となります。その瞬間は、そこにいるすべての関係者にとって時間軸を超えた「永遠」のときとなります。

 高校野球に対する批判も数多くあることは承知しています。熱中症アラートが出ているような炎天下でも試合は行われます。すり鉢状の甲子園球場ではグランドは40度を軽く越えることもあるでしょう。今年の大会では、試合中に足がつってしまう選手が相次ぎました。そうした中で野球をさせることへの是非は問われるべきでしょう。他にも、勝利至上主義に走る学校への不信感や、行き過ぎた指導としての体罰の問題、また、越境入学など、さまざまな問題を孕んでいます。それでも、高校野球が人々を惹きつけて離さないのはどうしてなのでしょうか。

 禅の教えに「一息(いっそく)に生きる」というのがあるそうです。それは、一回呼吸をする、その一瞬一瞬を大切に生きるという意味です。人間は、過去の事実を変えることはできないし、未来はまだ見えていません。人間には、現在を全力で生きることしか許されていないのです。

 大量点差の最終回、取られた点数をなかったことにはできません。未来は見えていないとはいえ、結果だけを考えればもう目の前に迫っています。それでも、球児たちは「一息」に生きるのです。だからこそ、球児の姿勢に私たちは感動を覚えるのです。

 今後の高校野球がどのように変わっていくのかはわかりません。それこそ未来は見えないのです。それでも、今このときを「永遠」に変える生き方を体現してくれる球児の姿だけは、誰にも否定することはできないでしょう。少しでもいい環境で、球児に「永遠」の場を与えられるために何が必要なのか、それを考えるのは大人の役目なのかもしれません。

 これまで多くの感動を与えてくれた高校球児への恩返しとして。

(作品No.160RB)

地域のまなざしと働き方改革

エピソード その1

「先生、A町なんて停留所ありませんよ」

私は当時野球部の顧問でした。A中学校に練習試合に行ったときのことです。A中学校は車でも30~40分かかるところにありましたので、私は道具を自分の車に積んで移動し、生徒たちは、電車と路線バスを乗り継いで現地に向かいました。電車を降りた駅でA中学校の最寄りの停留所を確認して彼らはバスに乗り込みました。ところが、いつまでたってもその名前の停留所がなく、結局、終点まで行ってしまったというのです。バスから降りてきた部員はどれも不満顔です。仕方なく数十分かけて歩くことになりました。私は約束の時間より遅れることを相手の監督に伝えに行くために車を走らせました(当時は携帯電話がありませんでした)。しかし、初めて行く学校だったので場所がよくわかりません。そこでたまたま公民館の掃除をしていたおばさんに出会い道を尋ねたところ、丁寧に教えてくださったうえに、事情を聞いてわざわざ生徒を車で迎えに行ってくださいました。それどころか、近所の人にも伝えてくださり、何人もの人が「運んでやろう」と車を出してくださったのです。

 初めて行ったA中学校。見知らぬ土地の、見知らぬ人からの温かいやさしさが身に沁みました。

エピソード その2

転勤して間もないころ、学校のすぐ近くに住んでいる人と話をしているときのことです。その人は中学生のことを「学校の子」という言い方をされました。その人だけでなく、何回かこの言い方を耳にしました。

私は、その言葉から、地域に根差した「学校」の「子」だから地域の中で大切にしようというニュアンスを感じ取りました。同時に、少々のことは大目に見てやる、でも度を越したときにはしっかりと叱ってやろうという雰囲気がまだ残っているのを感じました。自分の子どもではなくても「学校の子」が困っているなら手を差し伸べてやろうという懐の深さが地域にはあったのだと思います。

働き方改革のめざすところ

この二つのエピソードがあってからすでに30年以上が経過しました。地域の学校に対するまなざしも大きく変わりました。こういう「牧歌的」な雰囲気はもう期待できないのかもしれません。また、今後、学校の働き方改革が進んでいくなかで、地域とのつながり方の見直しが俎上に載せられるときが必ずくるでしょう。学校のスリム化は喫緊の課題なのです。でも、そうであるからこそ私たちは、どんなまなざしが学校に寄せられているのかを敏感に察知し、スリム化した後の学校にあっても地域から支えられる準備を今から始めないといけないと思います。

「牧歌的」な教育はもう古いという人もいます。本当にそうでしょうか。私は逆だと思います。学校は本来「牧歌的」であるべきです。優しさを基盤として、子どもと一緒にじっくりと自分の生き方を考えるためには「牧歌的」な雰囲気が必要なのです。学校の働き方改革は、教育を「牧歌的」なものに戻すために必要なのです。抱えきれない重荷を背負わされて、時間的にも精神的にも追い込まれているような状況を一日も早く改めなければ、教師はじっくりと子どもと関わることはできません。学校の時間がゆったりとした流れになることで、余裕をもって地域にも関われるようになるのです。私たちは、本格的に改革が進む前である今こそ、丁寧に地域との信頼関係を築いておかなければなりません。そうでないと「学校の先生だけが楽をしている」という誤解を生むことになりかねません。学校や教育行政の変わり方によっては、「牧歌的」な学校に戻れる可能性は十分に残されていると思います。

(作品No.118RDB-2)

特別にならない

野球部の顧問になって5年目くらいのころ(今から30年近く前)からだったと思いますが、部活動結成会で野球部通信を生徒に配り、そこに必ず「特別になるな」という見出しで次のように書くようになりました。

「野球はとても注目度が高いスポーツだ。地域の小さな大会でさえチーム紹介や試合結果が掲載される。時には写真まで。だからときどき「野球をやっている自分は特別だ」と勘違いする者が出てくる。野球のためだと言えば何でも許されると思ってしまう。そういう者は、自分がやりたいことや好きなことには熱心だが、必要なことでも、嫌いなことには手を抜く。そうした自分中心な考え方は必ず雑なプレーを生む。また、人のミスを許すことができず、自分のミスには言い訳をする。そして、チームの雰囲気を悪くし、新たなミスを生み出す。そして、互いに信頼できなくなって大敗の原因となる。

君たちは、何も特別な存在ではない。それは、たとえば君たちの中に将来プロ野球で活躍できるほどの素質を持っている者がいたとしても同じことだ。君たちは野球が好きで野球部に入ってきた、普通の中学生である。つまり、野球部員である前に本校の生徒である。だから、学校のルールを守るのは当たり前のことだ。安易に学校のルールを破る者は、野球もぞんざいに取り組むと私は判断する。そんな選手と一緒に野球がしたいとは思わない。」

この野球部通信は、当時、近隣地区においてその安定したチーム力で定評のあったA中学校野球部顧問のK先生の通信を参考にしたものです。とにかく何回やっても勝てなかった相手でした。あるとき、K先生にチームづくりのポイントを尋ねたら、ご自身が出しておられた野球部通信を何部かくださったのです。

驚いたのは、そこには、A中野球部の方針として,「練習試合を除き、練習は2時間を越えない。」と書かれていたことです。もちろん土日も同じ基準です。長い練習は集中力を低下させる。「今日は練習が長い」と思うと、子どもたちは力を温存するために無意識に練習前半で力を抜くようになる。逆に時間を短縮すると、できるだけ効率の良い練習をしようとして工夫や努力が生まれる、それがK先生の持論でした。

ある年の春、一度練習の様子を見せていただいたのですが、私にとっては何もかもが新鮮でした。K先生の練習メニューには「打撃練習」とか「守備練習」といったカテゴリーが存在していないのです。つまり、ほとんどのメニューに複数の要素が盛り込まれているため、これは打撃練習だと定義することができないのです。トスバッティングには守備の基礎練習や送球練習が組み込まれているし、バント練習には体力強化ダッシュが入ります。フリーバッティングでは、必ず走者がつけられてゲージの打者に合わせてスタートを切る練習をしています。時にはアウトカウントやイニングを設定することもありました。要素が増えれば、当然一人一人の動きは多くなります。そうなると気を抜く暇はなくなります。部員は常に動いている状態となり、30分もすれば部員たちはみんな息が上がりそうになる。結果、体力、集中力共に飛躍的に向上したといいます。

また、メニューはすべて実戦に結びついていました。たとえば、ベースランニングでは、必ず場面設定(アウトカウントや得点差、イニング、打球の方向など)がなされ、打球がどこに飛んだかを含めて次の走者が状況を指示します。前の者と同じ設定は御法度。緊張感が持続しているのがわかります。体だけでなく頭もフル回転です。でも、生徒たちは実に楽しそうでした。悲壮感などかけらもないのです。

その年(平成2年)の夏、K先生率いるA中学校は当地区初の全国大会出場を決め、ベスト4まで駒を進めました。私は、全国大会に出ることや、そこで勝ち進めたことにのみ価値があるとは決して思いません。実際そのときチームには、詰まった当たりのショートゴロで二塁から余裕でホームインするほどの俊足の子や、かすりもしないスピードボールを投げるエースもいました。明らかに運動能力の高い選手が揃っていたのです。「どこまで勝てるか」は「どんな選手がいるか」によっても大きく左右されます。

しかし、K先生の次の言葉を聞いたとき、私は目の前の勝利を遥かに超越した中学校野球の神髄を感じました。そしてその精神は、部活動が中学校から地域主導へと移りゆく今だからこそ、子どもたちの持つ可能性を最大限に引き出すために受け継がれるべきものだと思います。

「私がこだわってきたことは二つだけです。一つは部員が辞めない部にすること。もう一つは、控えの選手や入部したばかりの1年生が生き生きと活動できること。それだけです。」

(作品No.1H-2)

こんなこともあります

S中学校に勤務していたときの話です。私は野球部の顧問でした。生徒も保護者もとても熱心で、厳しい練習をしてもクレームはほとんどありませんでした。逆に「先生、うちの子が練習後に帰ってきた姿を見たが、ユニホームがあんまり汚れてないじゃないですか。本当に練習したんですか。」といった「もっと頑張れ」的な声がほとんどでした。もともと野球が好きな私にはうれしい「クレーム」でした。

そんなある日の昼休みでした。キャプテンのTさんが私のところに来てこう言いました。

「部員の〇〇君が、先生のいないとき、たいした理由もなくときどき練習を休んでいます。注意しても聞きません。どうしたらいいですか?」

Tさんは、キャプテンとしてチームの雰囲気を壊すような行為は許せないと感じていたのでしょう。でも、うまく伝わらない。真剣な訴えでした。

以下、私とTさんとの会話です。

私「Tさんは、野球部になぜ入りましたか?」

T「僕は、野球が好きだから入りました」

私「そうか。じゃあ、あなたはときどき休むその子を、うらやしいと思ったことはありますか。そして、練習に参加して損をしたと思ったことはありますか?」

T「そんなこと思ったことはありません」

私「そうですよね。じゃあ、その子に言ってやってください。練習は楽しい。やれば必ずうまくなる。参加しないなんてもったいないぞって。」

Tさんの表情がパッと明るくなりました。そして、私の元から走るように去っていきました。きっと、少しでも早くその子に伝えたかったのだと思います。

こんなこともあるんです。だから教師はやめられない(辞めた私がいうのも変ですが)。

(作品No.117RB)