思い出は力になる

前にも書いたかもしれませんが、思い出は確かな生きる力になります。思い出と言うと、なんだか抽象的でノスタルジックなもののように感じられるかもしれません。また、「昔は良かった」と愚痴をこぼしている人を想像するかもしれません。それでも私は、いろんな場所で「思い出は生きる力になる」と言ってきました。それは、良い思い出の風景の中には必ず「自分が認められた」という経験があるからです。自分には誰かに認められるだけの価値があるということを思い出はいつでも教えてくれるのです。

先日、そのことが間違っていなかったことを証明してくれる一文に出会いました。ただ、私が考えていた思い出の価値とは違うニュアンスで、しかもずっと深い意味で私に私の考えが間違いではなかったことを示してくれました。

「「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」 わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なににもだれも奪えないのだ。」1)

これは、ヴィクトール・E・フランクルの名著『夜と霧』の最後の方に出てくる一節です。ご存知のようにフランクルは、第二次大戦中に強制収容所に収監されて、奇跡的に生還したうちの一人です。

あるとき、収容所で飢えかけた被収容者がじゃがいも倉庫に忍び込み、数キロのじゃがいもを盗むという事件が起こりました。ほかの被収容者たちは誰が盗んだかを知っていました。収容所当局は違反者を引き渡さなければ、収容所の全員に一日の絶食を課すと言ってきました。2500名の仲間は、一日にほんの小さなひとかけらのパンと、水のようなわずかなスープしか与えられておらず、誰もが飢餓の極限状態にあったにもかかわらず、ひとりを絞首台にゆだねるよりは断食のほうがましだと判断しました。

精神科医であったフランクルは、そうした人々に、次のように話しました。「私たちが生き延びる蓋然性(がいぜんせい)(可能性)はきわめて低い。しかし、わたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない。なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、次の瞬間自分になにが起こるかわからないからだ。生きのびるチャンスは前触れなく突然やってくるものだ」2)と話しました。

そして、同時に過去についても語ったのです。それが冒頭に挙げた一節です。

命の綱であるスープとパン。それは、たとえ一日分であっても過酷な強制労働の中にあっては生死を分けるほど重要なものだったはずです。自分の命と引き換えに一人の仲間を絞首刑から救ったこの事実は必ずや永遠に記憶として残り続け、それが人間としての尊厳を守り、生きる力になると語ったのです。

フランクルによれば収容所で人間の尊厳失った者は次第に気力をなくし、体から抵抗力が失われた結果、発疹チフスの菌に負けて命を落とすことが多かったと言います。逆に、フランクルは衛生状態も栄養状態も最悪の中で、強制労働中に何度も負った傷口が化膿することは一度もなかったといいます。

出来事は時間とともに過去のものとなります。けれども命を懸けて得た「心の宝物」は、人間として生きる力として永遠に存在し続けるのです。

絞首刑から仲間を救ったという過去は、「思い出」と言うにはあまりに過酷なものだったに違いありません。しかし、そこで得た誇りこそが人間であることの証となり「生きることを意味で満たす」3)のです。

私の考えていた思い出の力は「自分が認められた」という自信としての力でした。でも、それはある意味で自己中心的であるのかもしれません。思い出が生を支える力は、誰かのためにという、人間にしかできないことの中にこそあるのだとフランクルは教えてくれるのです。そして、その背景には「人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ」4)という彼の信念があったのです。

1)~4)ヴィクトール・E・フランクル著・池田香代子訳(2014第26刷)『夜と霧 新版』みすず書房、p138(ただし、2)については、本文を要約して引用している)

「読み物」教材はなぜ有効なのか

道徳の授業でしばしば「読み物」教材が使われます。特に、道徳が「特別な教科」として扱われ、教科書を使うようになってからは、まさに授業の「定番」といってもいいでしょう。では、なぜ、道徳の授業で「読み物」が有効なのでしょう。

 

これは、「読み物」が「間主観的」な状態をつくりやすいからです。通常、主観というと個人の内部に存在するものとして考えられますが、「間主観的」とは、この主観を人と人との間に成立するものという立場をとります。つまり、「ある事柄が間主観的であるとは、二人以上の人間において同意が成り立っていることを指す」1)わけです。

 道徳の授業に「同意」というのは馴染まない気がするかもしれません。それは、そもそも道徳というものは「正しい」考え方を示すものであって、話し合って決めるというイメージが薄いからです。しかし、以前にも書きましたが、究極的には絶対的に「正しい」真理は存在しないと考えれば、今「正しい」とされていることも、そこに生きる人々の同意によって成立しているといえます。理想的な道徳の授業というのは、この同意の過程を経験させることにあると私は思います。

 例えば、いじめについて考えるとき実際に自分の学級で起きている問題をそのまま取り上げると、被害者側も加害者側も相手との人間関係を気にして思うように意見が出せないことがあります。被害者からすると「この後もっとひどいいじめにあうかもしれない」と思うだろうし、加害者側は本当は自分が悪いと感じていても「いじめられる方にも原因がある」とあえて主張するかもしれません。相互の同意としての道徳の授業を成立させるためには、クラスの誰もが話しやすい雰囲気を作り出す必要があります。相互に(あるいは学級全員に)利害関係がない方が意見を言いやすくなります。その点「読み物」教材は、意見の違う者同士がそれぞれに一定の距離を保てるため、様々な意見が出しやすく、同意への道を開きやすくします。そもそも、意見を出し合うことがなければ「同意」は成立しません。距離を置いた「読み物」だからこそ逆にいじめの核心に迫る触れることも可能になります。

 確かに、こうした方法は、いじめ問題に対する即効性は期待できません。しかし、「優しさ」や「思いやり」、「命の大切さ」などのさまざまなテーマに対する意識を少しずつ高めることはできます。わずか一時間の間にできることは限られていますが、なぜ「優しさ」などが大切だとされているのかという意味を考えることはできます。この意味を考える時間こそ「内容項目」が社会の中で同意されるに至った歴史的過程を疑似体験することなのです。

 以前、県の人権交流センターに勤めておられた方に「人権教育はマイナス(差別や偏見など)を減らすために行い、道徳教育はプラスを増やすために行うものだ」と聞いたことがあります。「同意」による「疑似体験」は、心のプラスを増やす営みでもあります。

 また、道徳の時間とは生徒からすれば「最初から答えが決まっている」授業と受け止められやすいものです。そうなると子どもたちは何を発表しても意味がないと感じてしまいます。打開策としては、一時間のうちに一回でもいいから生徒の心を揺さぶる(「えっ」と思わせる)発問を取り入れることです。それによって授業は活性化し「同意」の「疑似体験」に近づくことができます。

そして、教育哲学者の林竹二氏2)は次のように述べています。

「私は授業というものは、一つの事件を起こすことだと言ったり、一つの出会いが成立することだと言ったりしてきた。もう少し突き詰めていけば、その時間を『一緒に生きることだ』と言ったほうがいい。プラトンも教育とは、『一緒に生きること』だと言っている。」3

 道徳の授業は、適度な距離感と適度な「事件」が一緒になって大きな意義を生み出します。

(作品No.41HB)

1) https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/intersubjectivity.html児玉聡京都大学文学研究科准教授

2)  林竹二:1906年12月21日-1985年4月1日。日本の教育哲学者。東北大学名誉教授。元宮城教育大学学長。専攻はギリシア哲学。プラトンについての論文がある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%AB%B9%E4%BA%8C

3)  静岡県総合教育センター「指導充実のために「授業論」を学ぶ」より重引。原典は林竹二著『問いつづけて—教育とは何だろうか』 1981.4.1径書房

「努力」の扱い方

「努力することは大切だ」というのは、誰もが認めることでしょう。私も学級担任や部活動の顧問として何度も子どもたちに訴えてきました。そんなとき「努力は必ず報われる」という言葉をセットにしていました。そうしないと説得力がないからです。でも、「努力」と「報い」をセットで語ることにはずっと違和感がありました。「本当に努力は必ず報われるのか」というためらいです。

 ちょっと古いデータではありますが、2007年にベネッセ教育総合研究所が行った「学習基本調査」によると「日本は、努力すれば報われる社会だと思うか」という問いに、「そう思う」と答えたのは、小学生68.5%、中学生54.3%、高校生45.4%、大学生では42.8%だったそうです。年齢が上がるについて肯定的な意見が減少しているのは、少しずつ、現実が見えてくるということでしょうか。それにしても、中学生の半分近くが努力は報われないかもしれないと考えているというのは、無視できないデータです。

これは、私の推論にすぎませんが、こうした傾向は「努力は報われる」というときの「報い」の意味を「目に見える結果」に求めすぎてきたからではないかと思います。

 高度経済成長の真只中であれば、今、努力すれば将来必ず自分にとって素晴らしい人生が待っていると信じることができました。だから、大人たちの「今ちゃんと勉強しておかないと将来困ったことになるよ」という言葉もそれなりに現実感を持って伝わったのだと思います。しかし、バブルの崩壊で経済がほとんど成長しなくなり、滅私奉公の精神で会社に忠誠を尽くしてきた人がリストラの憂き目にあう悲劇があちこちで起きました。終身雇用というゴール(結果)を信じて真面目に勤めてきた人たちにとっては、努力や勤勉を否定された気がしたでしょう。そう考えれば、人びとが先のことよりも「今」を充実させたいと考えるようになったのはごく自然な流れといえます。少し前に「リア充」という言葉が若者を中心に流行ったのもそうした生き方を肯定するものだったのだと思います。若者はいつの時代でも時代の空気を最も敏感に受け取って生きています。それは、職業人としてだけでなく、個人としても豊かな人生を築いていきたいという前向きな感情でもあります。こうした生き方に対して「目先のことばかり考えてどうするんだ」と彼らに説教しても、おそらく何も伝わらないでしょう。 

私は、努力することの大切さを否定したいのではありません。むしろ、今まで以上になぜ努力は必要なのかを子どもたちに訴えていく必要があると考えています。ただ、これまでのように「目に見えるご褒美のため」として意味づけるのではなく、「今」の自分を充実させるために必要なのだと訴えるべきだと思います。

 

オリンピックに3大会連続出場を果たした、あるトップアスリートはこう言っています。

「たとえ結果が思うように出なくても、努力は無駄だったと思ってはいけない。何かに向かっていたその日々を君は確かに輝いて生きていたではないか。それが報酬(ごほうび)だと思わないか。」

 私たちは、部活動などで大きな大会に出場したり、好成績を上げたりした生徒やその部に対して、あまり深く考えることなく「よくがんばったね」と言います。でも同時に、そうした「目に見える結果」が出せなかった子どもたちに、どういう言葉が用意できるかを考えておかなければいけません。それを準備した上で、「結果」を残した子どもたちに賞賛の言葉をかけることが大切だと思います。努力は結果を伴うから意義があるわけではないのです。

「目に見える結果」を「報酬」とする考え方は、ときに子どもたちを追い込んでしまいます。経済的格差や貧困が問題視され、ヤングケアラーと呼ばれる子どもたちが増えています。努力できない環境のなかで生きざるを得ない子が増えているのです。しかも、ある研究によれば、皮肉にもそういう子どもたちの生活満足度が上がっているといいます1)。それは「結果が出ないのは自分の努力が足りないからだ」と受け入れて、報われることを端から考えてもみないからだというのです。そうした自己責任としての努力観を子どもたちに内面化させたのは、他ならぬ私たち大人です。私たちは「努力しなければ結果は得られないよ」という、どこか否定的なイメージを伴う言い方から、「努力は自分の人生を豊かにしますよ」という前向きな言い方に変えていく必要があると思います。

(作品No.134RB)

1)土井隆義(2021)『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』岩波ブックレット(初版は2019)

私がやった道徳の授業 その2 小学生向け

今回は小学生(中高学年)向けの授業例を紹介します。

〇優先座席は必要か? 

授業者:優先座席のマークを見せる。「これ何だか知ってますか。」

児童「知ってます」「優先座席のマークです」

授業者「これって何のためにあるの?」

児童「お年寄りや体が不自由な人、妊婦さん、松葉づえを使っている人など、立っているのがつらい人が席に座れるようにするためです。」(こんなにきちんと発言できないとは思いますが、予想される発言を一つにするとこんな内容になると思います)

授業者「なるほど。でも、これって必要なの? いらないんじゃないの?」児童「困っている人のためのものだから必要だと思います。」

何人かに意見を聞いた後、最初に優先座席を導入した阪急電車の新聞記事を配布し「必要」論を後押しする。それを簡単に説明した後、阪急電車が一時優先座席を廃止したことを知らせる。

授業者「どうしてやめちゃったと思う?」

児童「元気な人が座って、譲らなかったから」何人か意見を聞く。阪急電車に「譲らない人」が多いというクレームがあったことも参考として伝える。

その後、再開されたことを知らせ、優先座席の有無にかかわらず困っている人に気付いたらどの席に座っていても譲るのが本当のやさしさであることに気付かせる。

 小学生を対象にした授業では、中学生ほど極端なオープンエンドやモラルジレンマ的に授業を展開するのは困難だと思います。そうした終わり方は時として児童を混乱させることがあります。そのため、ある程度「なるほど」と納得できる着地点を設定しておいた方がいいと思います。しかし、「どうして?」という質問によって、その都度子どもたちの心を揺さぶることは必要です。揺さぶるたびに思考は深化していきます。そのためには、抽象化された言葉ではなく、実際に起こった事実を使うのが効果的です。事実は児童にとって「絶対的」なものであるだけに、「えっ」「そんなはずはない」と思わせるのに有効なのです。

 いずれにしても、子どもにとって何の「事件」も起こらない授業は必ず上滑りします。事件とは「えっ」と思わせることです。

(作品No.124RB)

私がやった道徳の授業 その1-「赤ん坊」で揺さぶる-

前回のコラムで中学生が道徳の授業を面白くないと感じるのは「最初から答えが決まっえている」というのが、その大きな理由だと書きました。それを打破するためには生徒の心を揺さぶる発問が必要です。私は過去に何度か「赤ん坊」という言葉を使って揺さぶりました。以下にいくつか例を挙げてみます。

(ここに挙げる例は、今から20年~30年前に実践したものです。そのため、「障害」という言葉など現代にそぐわないものも含まれています。また、授業の内容については、具体的な資料が残っていないものも多く、私の記憶を頼りに書いている部分も多々あります。もし、この記事を参考に道徳の授業を実践しようとされる場合は、現代の価値観や目の前の児童生徒の状況に合わせて適切にアレンジを加えていただきますようお願いいたします。)

1 障碍(障害)ということ:「障碍者(障害者)問題の「問題」とは何か」(中学生対象) 

授業者「障害がある人というのはどういう人のことをいうの?」

生徒「何かできないことがある人のこと」「車いすを使っている人のこと」「目が見えない人」など

授業者「なるほど。それでは生まれたばかりの赤ん坊は障害者ってことかな?」

生徒「・・・(いや、そういう意味ではないんだけどなあという表情)」

授業者「車いすを使っていれば障害者だという意見もありましたが、私が交通事故にあったとして一か月間車いすを使ったら、その間は障害者ってことかな?」 

授業者「目が見ない人という意見もあったけど、かなり視力の弱い人はどう?いやっぱり障碍者?」

この授業で私が生徒に考えてほしかったのは、健常者と障碍者とを区別することにどれほどの意味があるのかということでした。どんな人でも得意なこともあれば苦手なこともあります。苦手というだけなら努力である程度カバーできるでしょうが、それが努力してもどうにもならないものであったなら、何らかの支えや援助によって補うのは当然のことです。視力の弱い人なら眼鏡をかけて補うことや、うまく歩けない人が車いすを使って移動するのは何も特別なことではなく、必要だから使っているのです。

 当時は「障碍者」差別が今以上に多く、生徒の中にも障害のある子に対して露骨に差別的な発言をする子もいました。もちろん優しく手を差し伸べようとする子もいましたが、それでも「~してあげる」という意識は見え隠れしていました。そういう生徒の意識に揺さぶりをかけたくて授業をしました。

2 人間の条件

授業者「社会科か理科の授業で勉強したかもしれませんが、人間はサルが進化したものだといいますよね。そのとき、人間である条件って教えてもらいましたか?」

生徒 「二足歩行ができる」「言葉が使える」「火が使える」・・・

授業者:「なるほど。じゃあ、赤ん坊は人間じゃないってこと?」

生徒 「・・・(そういう意味じゃないんだけどなあ)」

 ちょっと乱暴な発問だったとは思いますが、「1 障碍(障害)ということ」と同様、生徒は「・・・(そういう意味じゃないんだけどなあ)」という反応を示してくれました。「そうじゃないんだけどなあ」と思いながらも、うまく言葉にして表現することができない。だから、「本当はどういうことなんだろう」と考えるようになります。この後の授業展開は、授業者の事前準備と当日のコーディネート能力が必要になりますが、とりあえずこの反応が出た時点で授業のねらいの大半は達成できたと思います。なぜなら、このとき子どもたちは「障碍」や「人間」といった言葉の概念を無意識に再構成を始めた証拠だからです。

 ステレオタイプに物事を決めつけてしまうことは、さまざまな偏見のもとになります。よくわかっていると思っていることや当たり前だと思っていることを少し広い視野で見直したり、深く考えたりするきっかけを与えることが道徳の授業では特に大切です。そういう一工夫によって「どうせ答えが初めからわかっている」という虚無感のようなものを越えることができると思います。最終的に、障碍があってもなくてもみんな同じ人間なんだというゴールに行きつくとしても、あえて少し遠回りをさせることが必要です。その途中で「えっ」とか「なるほど」といった驚きや感動がなければ、ステレオタイプの認識に刺激を与えることも、自ら考えさせることもできません。

次の機会には、小学生対象の例も挙げようと思います。

2%の許し-「信じる」ための授業「道徳」-

「信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。」

ベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』(2012幻冬舎)の著者、渡辺和子さんの言葉です。私は、信頼は厚ければ厚い方がいい、100%(何があっても相手を信じている状態)が理想だと思っていたので、この言葉はとても衝撃的でした。実際、渡辺さんも「あなたは人に不信感を植え付けようとしているのか」と言われたこともあったといいます。そういうとき渡辺さんはこう答えるそうです。「(私は)誠実に生きるつもりだけれど、間違うこともあるかもしれないし、約束を忘れることもあるかもしれない。そういう時に許してほしいから」と。また、2%を残しておくことで、大切な相手を責めたり追い込んだりしなくてすみます。また、結果として信頼関係を保つことができ、大切な友人を失わずにすみます。それは、人はもともと不完全なものだということを互いに認め合うことでもあります。と、渡辺さんは仰います。

同様のことを精神科医の泉谷閑示さんは、自著1)の中で次のように述べています。

「どんな人間も、聖なる部分も邪なる部分もあわせ持っているわけで、人を信じるといっても、この部分を信じるということまでしかできないはずです。百パーセント信じる方が話としては美しいでしょうけれど、それは、相手に神と同じ完璧さを要求する「欲望」を向けることにほかなりません。この美しい偽りの道徳は、その陰に厚かましい「欲望」を秘めているものなのです。道徳というものは、このように美しい嘘を含んでいる場合が往々にしてあります。それが人間の「頭」にすり込まれると、物事をあるがままに見ることを妨げ、認識を歪めることになるのです。」また、泉谷さんは人間不信を訴えるクライアントの治療を続けていくうちに「「人を疑ってはならない」とか「まず相手の良いところを見るようにしなさい」などといった道徳がその人の「頭」に強くすり込まれていた」ことが明らかになるとも述べています。

渡辺さんのいう「2%」は、泉谷さんのいう「相手に神と同じ完璧さを要求する「欲望」」とつながります。確かに完全なる聖人君子などこの世には存在しないのですから、人が認め合うという行為は相手の不完全な部分を知ったうえで成立するわけです。「2%」は自分もそういう不完全な人間であるということを素直に認めるという謙虚さとして大切なことだと思います。

ただ、一つ疑問が残ります。それじゃあこれまで私たち教師がやってきた「道徳」の授業は意味がないのかということです。「道徳」で扱う内容は人としての理想です。その理想を「厚かましい」と言われたり、「美しい嘘を含んでいる」とされたりするのは、なんだか釈然としません。

ここまで考えてきて一つ思い出したことがあります。以前、「道徳」の授業について調査したとき「道徳の授業が好きになれない」と答えた小中学生が結構いました。理由で多かったのは小学生では「すぐ説教になる」、中学生では「最初から答えが決まっていて面白くない」というものでした。「道徳」の時間での発言が小学校高学年や中学生へと年齢が上がるにつれて減っていく傾向にあるのはこのためだと思います。

つまり、そのくらいの年齢になると道徳的に何が正しいかは(少なくとも知識としては)わかっているわけです。先生がどんな発言を求めているかも熟知しています。それをことさらに自分の意見として発言する「虚しさ」のようなものを感じるのでしょう。その上「現実はそんな理想通りいかないよ」いうこともわかっています。しかも、それを言ったら授業が壊れるということさえも知っています。だからこそ、ある年齢以上での「道徳」の授業は、理想と現実のギャップにあえて触れることが必要なのだと思います。そのギャップはときに「本音」を誘導することになり、授業の行方が不透明になる「怖さ」もあります。また、どこまでの「本音」を想定するかという「さじ加減」も必要です。でも「本音」を全く通さない授業は上滑り状態(子どもの心に何も残らない状態)となります。逆に真面目すぎる子どもたちの中に、泉谷さんの指摘する「美しい偽りの道徳」をすり込まんでしまうことも起こり得るのです。

「道徳」の授業で大切なことは、一旦「本音」(現実)を通すこと、相手を許す余裕をもつこと、そして、道徳を武器にして必要以上に相手を攻撃しないことが必要です。昨今の匿名による誹謗中傷も、LINEなどのSNSによる個人攻撃や排除も結局ここに解決の糸口があると思います。

(偉そうなことを書いた責任もあるので、私が過去に中学校で実践した道徳のテーマや論文についても、次回以降に紹介していきたいと思います。)(作品No.72KB-2)

 平成31年4月25日初稿 令和4年5月 加筆修正

1)泉谷閑示『「普通がいい」という病』2006.10.20、講談社現代文庫、p236 引用文中の文字強調は引用者による