褒めるということ

教員にとって、子どもをどう褒めて、どう叱るかは永遠の課題だと言われ、古くて新しい問題です。

中学校の教諭時代、私のクラスにMさん(2年生男子)という子がいました。口数は少ない子でしたが、非常にまじめな子でした。特に、掃除の時間では、周りの子がどんなにサボっていても、いつも黙々と掃除に取り組んでいました。

ある日、私は教室の真ん中で、周囲に聞こえるようにMさんを褒めました。

「Mさんは、いつ見ても手を抜かずにがんばってるなあ」と。

その瞬間、信じられないことが起こったのです。普段温厚で怒りをあらわにすることなどまずなかったMさんが、突然、ほうきをその場に投げ捨て、教室の隅で座り込んでしまったのです。その顔には「怒り」ともとれる表情が伺えます。状況から考えて、私が褒めたことが原因だというのは理解できましたが、それでもなぜこうなったのか、若かった私にはまったくわかりませんでした。

その日の放課後、家庭訪問をしてMさんのお母さんと話をしました。そのとき初めてMさんの気持ちがわかりました。お母さん曰く、

「あの子は、ものすごくまっすぐな性格でね。もうちょっと融通がきく子になってほしいと親の私でさえ思うことがよくあるんです。今日、帰ってきて話してました。自分はやるべきことをやっていただけなのに、あんな褒められ方をしたら、褒められるためにやっていることになってしまうって。そういう子なんです。」

子どもは褒められて喜ばないはずはないという私の思い込みが、Mさんの誇りを傷つけてしまったのです。

私たちは、子どもが何かよいことをしたら褒め、良くないことをしたら叱ります。それはそうした評価を積み重ねることによって子どもに少しでも正しい行動がとれるようにという教員の願いでもあります。そして、基本的には叱るより褒めることの方が大切だと思っています。でも、褒められる側に立った褒め方でなければ、私のような失敗をしてしまうことになります。小学校の低学年なら、ほとんどの子はみんなの前で褒めてやれば喜びますが、思春期真っ只中の子に同じように褒めても効果があるとは限りません。

冒頭のMさんのケースで言えば、失敗の最大の原因は、私に「邪(よこしま)な」考えがあったからです。私は、Mさんを利用して、他の子に「真面目に掃除しろ」というメッセージを送ろうとしたのです。これでは、本当に褒めたことにはなりません。私の邪な考えをMさんは即座に見抜いたのです。

子どもを褒めるときに大切なのは、その子が今何を考えているのか、どういう個性を持っているのかを踏まえておくことだと思います。当然、発達段階も視野に入れなければなりません。そして、発達段階は単純に年齢で決まるものではありません。そうしたことが頭にあれば、私の失敗は防げたと思います。Mさんのような子には、掃除時間以外にさりげなくMさんにだけ伝えるべきだったのです。

さて、ここで「褒める」」についてもう少し深く考えてみようと思います。

アドラーによれば、

「「ほめる」のは、相手が自分の期待していることを達成したときです。言ってみれば条件つきののごほうび。逆に期待に応えられないと、ほめるどころか失望を表現されて勇気がくじかれる可能性もあります。」1)

となります。

褒めることが「条件つきのごほうび」だとすると、私たちが考えなければならないのは、その「条件」が子どもにとって本当に価値のあることかどうかということです。私たちは得てして深く考えずに「これは良いことに決まっている」という常識にとらわれがちですが、これだけ社会全体に多様化が進んでいることを考えれば、いつまでも同じ価値が通用するかどうかはわかりません。また、私たちが正しいと考える価値は生きていても、そこから派生するさまざまな考え方が生まれていてもおかしくはありません。私たちは、社会の価値観の変化に積極的に目を向けなければならないと思います。

また、アドラーは

「人と比べて「ほめる」と、必要以上に他人との競争を気にするようになります。」2)

とも言っています。冒頭の私の失敗の原因は、まさにここにあります。

最終的にアドラーが大切にしたのは、「褒める」よりも「勇気づける」ことです。

「勇気づける」とは、あくまでも言葉を受ける側の立場に立って、その人の行為そのものを認めることで、その人の意欲を引き出そうとするものです。決して、結果だけを「褒める」のではありません。

例えば、テストで100点を取った子に「よく頑張ったね」と褒めたり、何かの大会で優勝した子を「すごい」と称えたりしますが、こういう数値や客観的な結果で表すことができるものは、簡単に他と比較できてしまいます。褒める側にその気がなくても受け止める側からすると、今後も他者と比較することで承認欲求を得ようとしてしまいます。

 100点を取って、褒めてもらおうと先生のところに飛んできた子には、100点を褒めるのではなく「あなたは、授業中にいつもしっかり話を聞いていたよね。それが素晴らしいんですよ」と、行為を確認することが大切だということです。そして、そういう認め方をするためには、普段から子どもの様子をしっかり見ていることが必要になります。

 行為を認めるということは、その子をまるごと承認するということです。だから、自尊感情は継続するとアドラーは言います。

東京都の私立中高一貫校、栄光学園の数学教員である井本陽久氏は、長い教員生活で紆余曲折した結果、ある時期から「子どもを叱らない」と決めたそうです。その代わりに子どもの存在を丸ごと受け入れようと決意して、今やカリスマ教師とまでいわれるようになりました。

栄光学園は、毎年東大合格者数がベスト10に入るほどの進学校ですが、井本氏は栄光学園だけでなく国内外の児童養護施設でも成果を挙げています。決して、学力の高い子や環境的に恵まれたこだけと関わっているわけではないのです。

私は、カリスマといわれる教員と同じようにしなければいけないとは考えません。そもそも、その人が本当にカリスマだとしたら、滅多にいないからこそカリスマなわけで、だれでもすぐに真似できるようなレベルならだれもカリスマとは呼ばないでしょう。また、中途半端なカリスマ(実際一部の人からしか認められていないカリスマも存在します)はかえって他の教員がやりにくくなることもあります。

でも、子どもを叱らなくても学力をつけることに成功している人がいることもまた事実です。井本氏の授業では全員が自ら進んで学習に取り組んでいると言います。

おそらく井本氏の子どもへの関わり方は「褒める」から「勇気づけ」に進化した結果生まれたものではないかと思います。

そのまま真似をする必要はないと思いますが、「勇気づけ」というキーワードを頭にいれておくだけで、子どもたちはきっと、いきいきとした表情を見せてくれるようになるでしょう。

そうなれば、教員の暴言や、不適切なかかわりなどとはまったく無縁の空間が、そこには広がっていくと思うのです。


1)永藤かおる著・岩井俊憲監修(2017)『図解 勇気の心理学 アドラー超入門』(ディ スカバー・トゥエンティワン、p36、中段)

2)前掲書、p36、下段

(作品No.185RB)

好きこそものの・・・

好きこそものの上手なれと言います。野球が好きな人は誰に言われなくても練習するでしょうし、日曜大工が好きな人は毎日でも何か作っていたいと思うでしょう。好きだからこそ、それにかける時間が増えるので、当然経験も豊富になりますし、必要な知識や技術も自然に身につくでしょう。

 しかし、この「好き」ということが厄介なことになることもあります。以前県教委に勤務していたときの上司に、日本全国の城郭について大変造詣が深い方がいました。その人はお城の話をするときは実に生き生きとしていました。上下関係の厳しい世界でしたから、部下の私はそういう話をただ聞くしかありません。しかし、お城に全くといっていいほど興味がない私は、いかに嫌々聞いていることを悟られないようにするかに細心の注意を払っていました。そういう時間は実に長く感じます。

私たち教員の仕事は、話すことを抜きにしては語れません。話術に長けていることは大きな武器になります。「好きこそ・・・」の諺に従えば、話すことが好きな人は話術に長けていることになります。ところが、そう簡単にいかないのが難しいところです。

 精神科医で長年青少年の心のケアに携わってこられ、何度も学校に出向いて研修会の講師を務められた実績のある吉田脩二氏は教師の話し方について次のように述べています。

「いつも思うのだが、一般に教師は話が下手である。ただし、決して朴訥ではなくて、むしろ多弁である。多弁であるが内容が少ない。まわりくどくて、しかも断定しないから、結局は何を言いたいのかがわからなくなってしまう。」(吉田脩二・生徒の心を考える教師の会(1999)『不登校 その心理と学校の病理』、高文研、p201)

 実に厳しい言葉です。でも、あながち的外れとも言えないようにも思います。教員は一般の人に比べると話が好きな人が多いと思います。その方が長く教師をやる上では有利でしょう。また、経験を積むほどに話のコツがわかってきて「好き」になっていくということもあるでしょう。でも、「好き」になったときに気をつけなければならないのが、この「多弁」や「饒舌」です。

 かつて、尊敬する先輩(元中学校長)から教えられたことがあります。

「人前で話をするときに大切なのは、“何を話すか”よりも“何を話さないか”を考えることなんです」

 私たちが子どもや保護者、地域の人に話すのは「伝えるべきこと」があるからです。話し好きになることは悪いこととは言えませんが、話すこと自体が目的化してしまっては、本末転倒です。こうなると独りよがりの傾向、つまり教員の自己満足で終わってしまいかねません。特に、自分の好きなことや得意分野になるほど、あれも言いたいこれも伝えたいと欲を出し過ぎて、いわゆる「枝葉」が多くなり、最も大切な話の「幹」の部分がぼやけてしまいます。しかし、聞く側は「枝葉」の話をさほど聞きたいとは思っていません。

 つまり、わかりやすくて聞く人を引きつける話をするためには「捨てる勇気」が必要なのです。私は、指導主事や校長の立場でさまざまな人の前で話したり挨拶したりする機会をたくさんいただいてきましたが、自分が納得できる話ができたのは、ほんの数回しかありません。それは、私が「目の前の人が何を欲しているか」に寄り添いきれずに、自分が話したいことを優先してしまった結果なのだろうと思います。「自慢話」や「苦労話」が聞いていて面白くないのは、それが話し手が自分の満足のために話しているからです。置き去りにされた聞き手は、適当に相槌を打って聞いているように振る舞ってはいても、頭の中では他のことを考えているでしょう。

 それに気づかずに話し続ける醜態だけはさらしたくないと思ってはいるのですが・・・

(作品No.168RB)

「ね」と「か」

コンビニで煙草を買う。レジの後ろにあるたばこには、番号が付されていて「〇番の煙草をください」と言うと、その番号のところから煙草をとってくれます。そこまでは、何の違和感もありません。ところが店員の中にはこういう人がいます。「これでよろしいですね」。語尾が「ね」なのです。この「ね」は、相手に確認を求める「ね」です。文法的に間違っているわけではありません。でも、何か違和感があります。どこか「上から目線」な感じがします。それは、本当に間違いないですよね、あなたがそう言ったんだから「ね」。

たいしたことではないとは思うから、文句も言わず「はい」と答えてその煙草をもらいますが、「これでよろしいですか」と語尾を「か」にしてもらうと気分は全く違うのにと思います。それは、同じ確認でも疑問の形で聞かれるだけで、こちらの意見を聞こうと言う姿勢が伝わってくるからです。この場合の「ね」は、答えを強要される圧迫感があります。たかだかひらがな一文字のことですが、相手が抱くイメージは大きく変わります。(店員の方は、「ね」を使うことで丁寧に話しているつもりなのだとは思いますが・・・)

この「ね」は、相手のミスや言い間違えを指摘したり、その間違いを攻撃したりするときにも使われます。「あなたは前にこう言いましたよね。あれはウソだったんですか」というときの「ね」。(ただし、「ね」は使い方によってとても温かい響きを持ちます。「よくがんばったね」の「ね」、「元気でね」の「ね」など)

かく言う私も教諭時代,、なかなか約束を守れない子どもを前にして、つい「何度言ったらわかるんだ」と怒気を込めて叱ってしまったことが何度もあります。そんなとき子どもは、こちらの怒りの前に完全に萎縮し、何も言えなくなって固まっていました。卒業して何年も経ってから「実はあのときちゃんとした理由があったんです」と、その子から聞かされたことも数知れず・・・。情けない話です。

他に相手に不快な感じを持たせてしまう例として。電話対応での「うん」があります。相手が親しい人ならいいですが、そうでなければかなり「ぞんざい」な言い方に聞こえます。まさに目線が「上から」です。以前、勤務していた学校で苦情の電話に対しても「うん」を使う人がいました。これは、冒頭の「ね」よりはるかに罪が重い。「はい」と相槌を打てば相手は何とも思わないのに「うん、うん」と言えば、相手は「何て偉そうな対応をするんだ」と逆上することになりかねません。こういう対応をする人に注意をしたら「癖ですから仕方ないです」と言われたことがありました。その時点でアウトです。自分の癖なら相手が不快に思おうと関係ないという、その姿勢が相手を怒らせるのです。「ね」も「うん」も程度こそ違え相手に対して「高圧的」であるという意味では同じです。

今、学校には子どもたちに「寄り添う」姿勢が求められています。社会の多様化が進み、これまで拠り所となっていた規範(当たり前と思われていたこと)が崩れていく中、多くの子どもたちが何を拠り所にすればいいのかわからなくて悩んでいます。彼らに残された唯一の拠り所は自分に寄り添ってくれる誰かです。

「超」がつくほど忙しくなった学校で、子どもたち一人ひとりに「寄り添う」のは簡単なことではありません。でも、語尾を一文字変えるくらいなら、ほんの一瞬です。こうした「一瞬」に込められた教師の思いは、子どもたちに「寄り添っているよ」というメッセージとして必ず伝わります。それが子どもたちの「安心感」につながり、ひいてはいじめなどの問題発生に歯止めをかける力にもなると思うのです。(作品No.12HB)

「とうとうと」

教員対象の講演会や研修会で、講師の話が終わった後に「何か質問があればどうぞ」という場面があります。そこで手を挙げるのはちょっとした勇気がいります。だから、それができる人はすごいと思います。でも、時々「ちょっとそれは・・・」と思うこがあります。例えば、質問をするための前置きが長いとき。質問自体は簡単なのに、「私の学校では今こういう取組をいついつから始めていまして・・・」で始まって、その取組の成果を「とうとうと」述べたあと、ようやく質問にたどり着くというパターンです。「いらち」の私は「早よ質問せいよ」とイライラしたりします。

また、以前経験したことですが、ある講演会の謝辞を小学校の定年間近の校長がされました。ところが、講演の内容に対する自分の意見を「とうとうと」話すにとどまらず、仕舞いには「私はもっとすごいこともやっています」という「自慢話」になってしまいました。会場全体がしらけてしまったのはまだ許せるとしても、講師の先生があきらかに不機嫌になってしまったのです。進行役の人は実に困った顔をしていました。確かに、講師の話を漠然と聞いていると謝辞にならないので、いろんな挨拶の中でも謝辞というのは一番難しいとは思います。でも、文字通り「感謝の意を表す」のが謝辞ですから、講師を置き去りにしたのではまさに本末転倒。またそういう人に限って自分は話がうまいと思っているから始末が悪い。反面教師として肝に銘じました。得意だとか慣れているからというのが実は一番危ないのかもしれません。車の運転でも「俺はベテラン」と思うのが一番危ない。逆にスキーの初心者は骨折しないと聞いたことがあります。

さて、こうした「自慢話」をしたがる人をどう理解すればいいのか。それを考えるのにとてもいい本に出会いました。以下に、抜粋します。

「「苦労が身になる」という言葉がありますが、「経験」をした人は苦労が身になりますが、一方「体験」止まりの人は、苦労は身にならず「勲章」になります。苦労が「経験」になっている人は、よほどこちらが質問しない限りは、自分からは苦労話をしないものですが、「体験」の人の場合は、こっちが聞いてもいないのにうんざりするぐらい苦労話をしてくれます」1)

著者は森有正の著2)を引用して「経験」とは、あくまで未来に向かって開かれているものであって、まったく新しいものを絶えず受け入れる用意ができているものとした上で、「≪生きているもの≫を「経験」と呼び、硬直化した≪死んでいるもの≫は「体験」と呼んで区別しようとした」のが森有正の理想であると述べています。つまり、新しいものを取り入れようとせず自分の考えに固執する人ほど聞かれもしていない「自慢話」を「とうとうと」話すのです。

人の話し方をとやかく言うお前はどうなんだという声が聞こえてきそうです。私は校長になる前も、研修所や市の教育委員会で話すことが多かったのですが、人前に立つたびに緊張していました。自分のイメージ通りに話せたことはほとんどありません。ましてや自分が話がうまいなどと思ったことはありません。それでも学級担任をしていたころ、生徒が食い入るように聞いてくれることが何度かありました。そんなときの充実感や達成感は何物にも代えがたいものがあります。

恐らく、こうした充実感や達成感は、その話が自分の中で「経験」に近いものだったのではないかと思います。ただ自分が話したいことを勝手に押し付けているだけの単なる「体験」による話は、聞いている子どもにとっては苦痛でしかありません。自分の話が単なる「自慢話」なのか、「経験」として伝わる話なのかは、その内容が子どもたち(聞く側)の未来(明日や明後日と言った近い未来を含みます)につながるものかどうかで決まるのではないかと思うのです。そして、その答えはいつも子どもたちが出してくれています。まずはそのことに気付く姿勢を持つことです。聞いている子どもたちの様子や態度といった目に見えるものだけではなく、一種の雰囲気(空気と言ってもいいと思います)のような「目には見えないもの」を敏感に感じ取ろうとする姿勢こそが「経験」と「体験」の違いを見分ける唯一の方法だと思うのです。

(作品No.21hb-2)

  1. 泉谷閑示『「普通がいい」という病』講談社現代新書、2006.10.20、p199
  2. 森有正『生きることと考えること』講談社現代新書

Y先生の「寄り添い方」

今でも月に1回、かかりつけ医に通っています。主治医のY先生は物腰がやわらかで、自然体で話を聞いてくださいます。相槌の打ち方も絶妙で、こちらの言うことをしっかりと受け止めてくださっているのがよく伝わってきます。私の話を途中で遮ることは絶対にありません。そして、私が話し終えたら、ほんの少しの間を取って(この間が実に心地いい)、ゆっくりと、そして静かに私の状況を診断してくださいます。診察時間は5分か10分のほんの短い時間ですが、とても気持ちが落ち着きます。

 Y先生は、診察室に患者を迎えるとき、必ず立って迎えてくださいます。そして、診察が終わって部屋を出るときも必ず立って見送ってくださいます。 

私は、過去にいろんな病院に行きましたが、立って迎え、立って送り出す医師に出会ったことがありません。多くの場合、病院の先生は最初から最後まで座ったままです。中には、診察室に入ったときに全くこちらを見ない人もいます。でも、Y先生はいつも変わらぬ対応です。もちろん他の患者さんにも同じように接しておられます。ほんのちょっとのことですが、これだけで患者側からすると自分は本当に大切にされているんだなあと実感できます。

 そういえば昔、ある先輩の先生に教えてもらいました。「職員室でプリント一つ配るのも、机の上に向きや位置を考えて置きなさい。直接手渡すときはできるだけ両手で渡しなさい。誰にでもできることです。」若いときは、「そんなこといちいちできませんよ」と心の中で思っていましたが、最近になってようやくその大切さがわかってきました。こうした丁寧な一つ一つの所作が相手に「私はあなたを大切に思っていますよ」というメッセージとなって伝わるのです。

 生徒に対しても同じだと思います。何か問題が起こったときにどんなに丁寧に接しようとしても、普段の所作が生徒にとって「ぞんざいなもの」として映っていたら、決して心を開くことはないでしょう。

 最近、教師による暴言がよく話題になります。かつて星野富弘さんが仰っていたように、「言葉は辛抱強い生き物」です。一度相手の心を傷つけてしまったら、それが体のどこかに染みついていて、ある日突然姿を現し、その人を深く落ち込ませることもあります。いわゆる「トラウマ」のような状態です。でも不思議なことに、活字にしたら暴言としか思えない言葉を生徒に発しているにもかかわらず、生徒に慕われ、信頼されている先生もいます。その違いは、普段のその先生の生徒に対する所作と大きく関係しているのだと思います。つまり、普段の所作によって、その先生の温かさが日常的に生徒に十分に伝わっているのです。

 私は、決して暴言を容認するつもりはありません。どんな教師でも使ってないけない言葉は使ってはいけないと思っています。でも、もし私たちが常に生徒を一人の人間として大切にする気持ちを持ち得ているなら、暴言は存在しないとも思うのです。そして、その気持ちは目に見える形で生徒に示さないと伝わりません。

 教師はときに、生徒に対して厳しく注意を促さなければならないことがあります。そういうときに、しっかりと伝えたいことが伝わるかどうかは、そのときの言い方だけの問題ではないと思います。子どもたちの感性は大人が考えるよりずっと鋭いものです。特に自分に自信が持てないでいる子どもたちならなおさらです。彼らは私たちの一挙手一投足を実によく見ています。自分に「寄り添」ってくれる人なのかどうか、それが彼らにとって最大の関心事なのです。

 Y先生は私に「寄り添われる」ことの心地よさを教えてくださいました。(作品No-99B)

「自分らしさ」の伝え方

今回は前回予告した通り、「自分らしさ」や「個性」についての生徒への伝え方について書こうと思います。以下は、私が実際に生徒(中学生)に話した内容(一部改)です。

 桜の木。学校にもたくさんあります。桜は、毎年毎年同じ時期に同じような花を咲かせます。そこに全く迷いはありません。迷っている桜を見たことないですよね。今年はちょっと嗜好を変えてバラの花にしようか、梅にしようかなんて考えない。なぜだと思いますか。それは、桜は桜の花を咲かせることが、自分にとって一番美しいということを知っているからなんです。少なくとも私はそう思っています。

 なんか現実離れした話に聞こえるでしょうが、これを言っているのは実は私だけではないんです。北原白秋って知ってますか?教科書にも載っている詩人です。「あめふり」(雨雨ふれふれ母さんが)など多くの童謡や子守歌を作った人です。その人がこう言っています。

「バラの木にバラの花咲く、何事の不思議なけれど」って。

バラの木にバラの花が咲くのは、何の不思議もないんです。でも白秋は最後に「けれど」と言っています。不思議ではないけれどって。不思議じゃないし、当たり前「だけれど」桜はすごい、うらやましい、白秋はそう感じたんです。なぜなら、人間はいつも迷い続ける存在だからです。白秋も私も、そして皆さんも同じです。人間は、何かを決めようとすると必ず迷うんです。だから、桜がうらやましくてしょうがないんです。でも、逆に言うと迷うことは人間である証でもあるんです。

皆さんも、3年生になれば受検があります。そして、自分の進路を考えないといけない。迷いますし、悩みもします。就職するにしても同じです。でも、結局は一つを選ばなければいけない。一つを選ぶということは、逆に言うとそれ以外を捨てるということです。だから悩むし、迷う。でも、それこそが人間である証なんです。友達との関係で悩む、自分に自信が無いと悩む。それでいいんです。悩んでこその人間ですから。人間は、桜やバラのように生きている間に何をするかは決まっていません。そして、生きている間にすることは一人ひとり全部違うんです。自分が何をするか。それが、世間でいう個性とか、自分らしさということです。

 世の中は「自分らしく生きよう」とか夢を持って生きようというメッセージに溢れています。こんな風にすれば自分らしく生きられますよっていうメッセージがたくさん流れています。でも、自分らしさってなんだということについては、誰もはっきり教えてくれない。どうします?中には「自分探しの旅」とか言って、外国に一人旅に出る人もいます。それを悪いとは思いません。いろんな経験をして自分の視野を広げるのはいいと思います。でもね、本当の自分らしさは、そんな遠くに行かなくてもいいんです。すぐ身近にあるんです。今、隣に座っている人、家族、友達、先生、そういうすぐ近くにいる人とたくさん話をして、一緒に何かをすることで、初めて自分ってどういう人間なのかがわかるんです。言い換えれば、自分らしさというのは、自分の外にあるんです。意外に思うかもしれませんが、自分の中にあると思ってしまうと、見つからないんです。

 最近の若い人は、とても悩みが多くなっていると言われています。いろんな国際的な調査ででも昔に比べて自分に自信が無い人が増えているんだそうです。なぜだと思います?それは、自分の個性が生まれつき自分の中にあって、それを見つけなきゃいけないと思っているからです。本当はそうじゃないんです。もしそうだとしたら、どんなに頑張っても、なりたい自分になれないかもしれないでしょ。そう思うから自分に自信が持てなくなるんです。

 そうじゃなくて、本当の自分らしさというのは、自分の外にあるものを、取り入れながら身近な人と一緒に「創っていく」ものなんです。自分の周りにいろんな人がいて、そういう人たちと一緒に考えたり、一緒に悩んだり、いろんなことをいろんな人と一緒にすることで、少しずつ創られるものなんです。自分らしさというのは、もともと自分の中にあるものじゃないんです。だから、自分の中にいくらさがしてもないんです。ないものを「あるはずだ」と思って自分の中に探そうとしても見つからない。そして、やっぱり自分はダメだと思ってどんどん自信がなくなってしまうんです。

 最近嫌な言葉が流行っています。「親ガチャ」っていう言葉。ガチャってわかりますよね。100円か200円入れてレバーを回すとガチャっと音がして、中からカプセルに入ったおもちゃなんかがでてくる、あれです。中身は選べない。あれと同じで親は選べない。だから、どんな親の元に生まれてくるかで、人生の大半が決まってしまうという考え方、それが「親ガチャ」です。でも、そんな馬鹿なことはない。

 確かに私も皆さんも親から遺伝子をもらっています。でも、生まれた瞬間にゴールが決まっている人なんていないんです。私たちは、桜の木やバラの木とは違うんです。私が言いたいのは、今の自分が自分のすべてではないということです。よく覚えておいてほしいのは、どんなに自分に自信がなくなっても、それはあくまでも今の時点の話です。自分という人間は、過去と現在と、そして未来を含めての自分なんです。

 皆さんは、これからまだまだ多くの人と出会います。まだ、会うはずの人がたくさんいるんです。高校に行けば、他の中学校から来た新しい友達に出会う、大学に行けば他の都道府県から来た人に出会えるかもしれない。就職すれば、知らない大人たちとたくさん出会う。そういう出会いを含めての自分なんです。 

前に赤ん坊の話をしました。赤ん坊は生まれたとき握った手の中に自分の夢をどこかに飛ばしてしまうという話です。でも、実はね、ほんの少しかけらが残っているんです。体の中に。それが親からもらった遺伝子なんです。そこには人間が人間であるために最低限必要なものが入っています。そのかけらにいろんなものを付け足していって、自分というのは出来上がっていくんです。皆さんが物心つくまでは皆さんの親や家族が付け足してくれました。それをもとにしてこれからは自分で継ぎ足していくんです。

皆さんも、誰かの言葉を聞いて、なるほどと思うことがあると思います。この人は素晴らしいと感じることがあるでしょう。そういうものを今の自分に継ぎ足していってください。それを一番たくさん与えてくれる人は、今隣にいる人、皆さんが読む本、今一緒に生活している人、そして、一緒に歩んでくれる先生です。

 しつこいようですが、個性や自分らしさが自分の中にもともとあって、変わらないものだなんて絶対に思わないでください。自分らしさは遺伝子だけでは絶対に創れないんです。嫌なことがあっても、思い切り悩んだときも、迷ったときも、今の自分だけ見ていたらだめなんです。もしかしたら明日運命を変えるような人と出会うかもしれない。そういう本と出会うかもしれない。だから皆さんの可能性は無限だって言われるんです。

 赤ん坊の時に手放してしまった(と言われる)自分の夢。それに出会えるのは10年後か20年後、あるいはもっと先かもしれません。ときには「これだ」と思ったものが勘違いだったということもあるでしょう。でも、それならそれで、そこからまた積み上げていけばいいんです。みなさんがこれから、どんなことに悩み、迷い、そしてどんな人に出会って何を継ぎ足していくか、心から楽しみにしています。最後まで聞いてくれてありがとう。以上で私の話を終わります。

 これは、卒業式が終わった3月の終わりごろ進級を目前にした1年生と2年生の学年集会でそれぞれ同じ内容で話をしたものです。生徒たちはとても真剣に聞いてくれました。この話をするにあたって参考となった主な書籍を以下にお示ししておきます。個性や自分らしさを見つけられない(創れない)子どもについては、また別の機会にも書きたいと思っています。(作品No-98B)

・『「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える』土井隆義著、岩波ブックレッ  ト、2004年9月7日

・『友だち地獄-「空気を読む」世代のサバイバル』土井隆義著、ちくま新書、2016年1月5日(第17版)

・『ドリームハラスメント』高部大門著、イースト新書、2020年2月11日