笑顔の意味

私が初めて不登校の生徒を受け持ったのは、新任から5年目でした。中学1年生の彼は小柄で見た目はすごくかわいらしい男の子でした。あまり多くを語ることがなく、深く考えることもなく、ただただ、おびえた瞳を周囲に向けていました。

彼の姉は学年トップクラスの成績で、部活動でもキャプテンをしていました。人前でも堂々と話すことができる、いわゆる優等生でした。

それに比べて彼は、不登校になる前から勉強は大変苦手でした。小学校からの書類でも、5段階の3は一つのなく、中学校に入ってもさっぱり授業についていけなかったようです。

彼の不登校(当時は登校拒否といわれていましたが)が本格的になったのは、1年生の2学期ころだったと思います。

毎日のように家庭訪問をしましたが、彼は私に会おうとはしませんでした。母親は、私が行くと話が止まりませんでした。時には、学校に来て相談室で数時間話し続けたこともあります。話の内容は、彼のことではなく、彼の父親、つまり母親からすると夫のことばかりでした。

とにかく、その父親は毎日のように息子を大きな声で怒鳴りつけ、いうとおりにしないと思い切り殴ったり、蹴ったりしているというのです。今から30年も前のことですから、虐待防止法などありません。いや、虐待という言葉すらまったく頭にありませんでした。

父親は、息子の箸の持ち方が悪いと言っては怒鳴り、猫背になっていると言っては背中を蹴り上げていました。そして、中学校で初めてもらって帰ってきた通知表に1と2ばかりが並んでいるのを見て、怒りが最高潮になりいままで以上に暴力をふるいました。そして、ついに母親にも手をかけるようになっていったのです。

母親が学校に突然やってきて長々と話をするようになったのもちょうどその頃です。母親は家に帰りたくなかったのです。だから、少しでも私との話を長くして帰るのを遅くしようとしていました。

一度だけ父親と話をしたことがあります。そのとき父親が言ったのは、「先生、通知簿の3は「普通」ってことですよね。私はこいつ(息子)に特別いい成績をとってこいとは思わない。上の娘とは違うことも分かっている。でも、せめて「普通」くらいにはなれって思うんですよ。間違っていますかね。」

そのとき、私は父親にその子にはその子の個性があるというようなことを言ったように思いますが、父親が鼻で笑ったのをはっきりと覚えています。「あんた、自分の子じゃないからそんなことが言えるんだ」

彼の家の中は日増しに荒れていきました。彼はまったく学校に来なくなりました。家の中では、昼間母親と二人きりになり、母親に無理難題を吹っかけて母親がそれを拒否すると、母親に向かっていろんな物を投げつけるようになりました。そして、家の中の物を次々に壊していきました。リビングの大きなガラスまで割ったこともあるといいます。

父親はそのことを知っていましたが、彼は父親の前ではおとなしくしていたので、結局「お前が甘やかしたらこうなったんだ」と言って取り合ってくれませんでした。

ある日、我慢しきれなくなった母親は一人で家を出たそうです。父親は、あっちこっちを探し回りましたが、見つかりませんでした。学校には時々母親から電話が入りましたが、居場所は知らせてくれませんでした。「もう二度と戻る気はありません」と電話口で泣いていました。学校にしか(私にしか)こんな話をする相手がいなかったようです。

ところが、しばらくして家庭訪問をすると母親が家に戻っていました。結局行くところがなかった、仕事もこれまでしたことがなく、探してもどこも雇ってくれない。経済的にどうにもならなくなったのが大きな理由だったようです。

そのことがあっても、父親はまったく態度を変えることはありませんでした。息子である彼の荒れ方もさらにひどさを増しました。

ある日、彼が「ミニバイクを買え」と母親に言いました。当時、ミニバイクはとても高額であったし、子ども用のバイクは法律で定められたサーキットコースなどでしか乗ることができないものですから、さすがにそれはできないと母親は拒否しました。

すると、彼は火が付いたように家の中で暴れまわり、家の中は惨状と化しました。母親の額からは、彼が投げた時計が当たって血が出ていました。母親は「殺される」と感じたと言います。結局、息子の要求を拒み続けることができずにミニバイクを購入してしまいました。一応購入時には、家の庭以外では乗らないように話はしたようですが、実際にバイクが届くとそんな約束はまったく忘れたかのように、毎日彼はそのバイクに乗って遊びに行きました。

その頃はまだ不登校の生徒は非常に少なく、マンモス校だった私の学校の中でも珍しい存在でした。同じクラスの子のなかで「あいつ、きのうミニバイクに乗って遊んでいた。サボってるだけじゃん」という会話が聞こえるようになりました。

彼は今思えば特別に支援が必要な子だったと思います。周囲の目を気にせず、法に触れるミニバイクを大勢の人がいる公園で乗りまわしていました。人目をはばかるという感覚はほとんどなかったようです。

とうとう彼の行動は、警察の知るところとなり、バイクに乗っているところを補導され、母親が引き取りに行くことが何度か続きました。それでも彼はまったく懲りる様子もなく、同じことを繰り返しました。その結果、警察は自宅から遠く離れた児童養護施設送致を決めました。まだ中学生であることを考え、実際に施設に連れて行くのは家庭で行うように通告を受けました。しかし、そんなこと母親にできるはずもなく、結局私が付き添うことになりました。施設に行く日、それまでまったく無関心だった校長が突然「私がも本人を説得する」と言って、私と一緒に彼の家に行きました。校長は、ただただ「こんなことをいつまで続けるんだ」という説教ばかりでした。彼は無理やり家から出そうとした校長の手を振り払い、泣き叫びながらリビングのテーブルの脚にしがみつき、離れようとしません。それでも校長は説教まがいのことしか言いませんでした。最後は言うことがなくなって、彼の名前を何度も大きな声で叫ぶばかりとなりました。それを見て私は、この校長の人としての「浅さ」にあきれました。

仕方なく、私は校長を彼から引き離し、力づくで彼をテーブルの下から引きずり出し抱きかかえて車に押し込みました。それしか方法はないと思ったのです。かわいそうだとは思いましたが、このままでは、この家は完全に崩壊する。いや、もうすでに崩壊している。こんな両親のところにいても彼にとって何のプラスにもならない。ここであきらめたらきっと今度は警察がやってきて強引に連れていくでしょう。それだけは避けたいと思いました。私は彼に一生恨まれるかもしれないと思いましたが、校長のように自分の立場でしかものが言えないよりははるかにましだと思いました。いま思うと、校長が突然彼の家に行くと言い出したのも、警察が教育委員会を通じて対応を迫ったからだと思います。上の命令には逆らいたくなかったのでしょう。

とにかく、彼を車の後部座席に押し込みました。はっきりとは覚えていませんが、たぶんその時、施設側の車が彼を迎えに来ていたと思います。

施設までの車中、意外にも彼は暴れたりはしませんでした。小一時間かけて施設に着き、職員に連れられて中に入っていきました。その職員は車に同乗していた私と母親に、「里心がでないうちに、このままお帰りください」と言って、同じ車でそのまま引き返しました。

施設は、小高い山の上にあり、帰る道は施設の近くを周回するように続いていました。私は複雑な気持ちでぼんやりと車の窓から見える施設を眺めていました。と、その時です。彼の姿が見えたのです。私はびっくりしました。私の目に飛び込んできたのは、これまで一度も見せたことのないような晴れやかな笑顔だったのです。その上、元気よく私たちに向かって大きく手を振っていたのです。「えっ、どうして?」と私は戸惑いました。時間にしてほんの数秒の出来事でした。

若かった私には、その時の彼の様子を見て、正直「気味の悪さ」を感じました。その感覚はホラー映画を見たときとよく似たものでした。怒りや憎しみを遥かに超えた、なにか得体のしれないものが彼の心に宿っていると思い、体が震えました。それは教育者としての感覚ではなく、恐怖に近いものでした。

彼はその後、中学卒業まで施設にいました。その施設に入るということは書類上転校扱いになっていました。転校先は近隣の中学校になります。でもそれはあくまでも書類上のことで、彼が施設を出て「転校先」の中学校に通うことはありません。ただ、卒業に当たっては元いた学校に再度籍を戻します。そのため、彼は私の勤務校の卒業生ということになります。記録上は、施設に入っていたことは公になりません。

私は、自分の中学校の卒業式が終わった後、彼の卒業証書を持って施設に行きました。施設の職員と彼と私だけの卒業式に参加するためです。私は、二年半ぶりに彼の名前を呼び、卒業証書を渡しました。彼は両手を差し出し、私から卒業証書を受け取りました。けれど、一度も顔を上げることはありませんでした。「式」は5分ほどで終わり、施設の職員から「彼はとてもまじめにここで頑張りましたよ」と私に伝えてくれました。

私は、あの笑顔の意味を聞くことができませんでした。式が終わってからも私に視線を向けることのない彼の姿を前にして、何を言ってもウソになるような気がしたのです。ここで何か言えば、あのときの校長と同じように教師としての立場だけで取り繕うことになる気がしました。

それから彼がどんな人生を送ったのか私にはわかりません。30年の時を経て、あの時の笑顔は、安堵の笑顔だったのかもしれないと思うようになりました。入所中、施設からは彼は知的に障害があり、周囲の状況を正確に判断できないと連絡を受けていました。でも、本当はすべてを理解していたのかもしれません。毎日が戦場のような家庭で、もがき苦しんで、それでもそこにいるしかなかった自分を冷静に見つめていたのかもしれません。

だれでもいいから、無理やりでもいいから、俺をこの戦場から救い出してくれと心の底で願っていたのかもしれません。彼が施設の前から手を振ったのは、あきらめや憎しみではなく安心して過ごせる日常をやっと手にすることができるという、ほっとした気持ちだったのではないかと思うのです。

勝手な言い分かもしれませんが。

「子どもを真ん中に」-子ども家庭庁設置に期待すること-

ちょっとびっくりしました。昨日、岸田総理が答弁で「子どもを真ん中に・・・」という言葉を使ったのをテレビで見たからです。このブログは「こどまん通信」。「こどまん」は、子どもを真ん中に、の略です。光栄だと感じればいいのか微妙なところですが。

私の勉強不足だとは思うのですが、どうも「子ども家庭庁」の中身が今一つよくわかりません。各省に分かれていたものを一つに総合して司令塔を一元化することによって、施策の実行が迅速に行われることにつなげようという主旨なのかとは思うのですが、スッキリしない点もあります。

例えば、幼稚園はこれまでどおり文科省の管轄に残るそうです。幼保の連携を考えれば思い切ってどちらかで一つにする方がいいような気がします。

でも、期待することもあります。それは児童虐待への対応です。児童虐待は、保護者の意識や倫理の問題だとされることが多いのですが、じつはそうとは言い切れません。児童精神科医で臨床心理学者の滝川一廣氏は、虐待の問題について次のように述べています。

「たまたま幸運に恵まれた我々が、恵まれなかった親たちの失敗を一方的に「虐待」と名づけて糾弾するのは果たしてこころあることなのか」

「そもそも子育ての不調を相談すれば直ちに「虐待通告」をする(しなければならない)専門家のドアを困っている親たちが叩くだろうか。」

そして、滝川氏は生後最初の二年間に虐待死や虐待が集中していることをふまえ、「0歳~一歳の育児を社会がしっかりと護ることさえできれば、<虐待死>ひいては<虐待>は激減する」として「子どもを本当に護りたければ、何よりも「育児を護る」、すなわち「育児に取り組む親を護る」ことこそ真っ先にしなければならない」と主張しています。国は2000年「児童虐待の防止等に関する法律」を制定し通告の義務を明確化(このとき社会福祉法も改正された)、その後2020年4月に改正し、親の虐待行為を体罰とすることで歯止めをかけようとしてきました。いじめの定義を広いものに変更してきたのと同様に、虐待の早期発見を確実に行うために、問題を拾う「網」を広く細かくしてきたのです。それはそれで間違っているとは言えません。しかし、滝川氏の言うように、虐待は必ずしも親の無責任や倫理観の乏しさから生じるとは限りません。経済格差がすすみ、貧困家庭が増加していることを考えると、まず必要なのは福祉を充実させて本当に困っている親を支える制度を確立することでしょう。早期発見は重要ですが、根本の原因をなくす施策を展開しなければ通告数は増えても、本当に困っている人がその膨大な数の中に埋もれてしまうかもしれません。

また、通告を受ける専門機関(子ども家庭センターなど)もその通告数の多さゆえに十分な対応ができなくなります。実際、多くの専門機関はすでにパンク状態になっており、学校が早期に発見して通告しても「まずは市町の児童福祉に相談してください」など、いわゆる「門前払い」とせざるを得ないことが多くなりました。

こういう実態を考えたとき、今回の「子ども家庭庁」には、虐待を早期に発見するだけでなく福祉の面での十分な支援策を講じてほしいと思います。再び滝川氏の言葉を借りれば、「「児童虐待」という否定的概念とそれに基づく摘発型の対策」が「問題解決の足枷」になっている面は否定できません。また、福祉領域において「障害」の「害」を問題にする視点があるのなら、虐待の「虐」も表現を変えて「育児困難」や「子育て不安」として捉えることが必要だという滝川氏の見解は、実に的を射ていると思います。

「子どもを真ん中に」という言葉を首相が使ってくれたのはありがたいことです。だからこそ本当に子どもが真ん中に置かれる社会をつくるために、実態に即した施策を打ち出してほしと願ってやみません。(作品No.135RB)

(参考・引用文献)滝川一廣「基調論文<虐待死>をどう考えるか」『子ども虐待を考えるために知っておくべきこと』日本評論社こころの科学2020年10月1日発行、pp2-29)