子どもが危ない -放課後児童クラブが抱える問題 その2-

子どもを取り巻く問題は多岐にわたっています。いじめや不登校(不登校そのものが問題ではありませんが)、虐待など深刻な問題が山積みです。でも、最も心配なことは子どもたちの多くが、幼い時に十分に親に甘えられていないことだと私は思います。

 これを論証するためのエビデンスが特にあるわけではありませんが、最近放課後児童クラブ(以下、児童クラブ)の運営に若干関わるようになって痛切に感じるようになりました。

 12月9日のこのコラムでも紹介しましたが、児童クラブからの報告書を読むと、子どもがとても荒れている内容が目につきます。児童クラブの仲間に対して「死ね」とか「うざい」とかといった暴言は日常茶飯事です。簡単に殴ったり蹴ったりする子も少なくありませんし、「このカッターナイフで刺してやろうか」という子もいます。暴力を受けた子が傷つくのは当然ですが、傷つけてしまった子も深い自責の念を負い、自暴自棄になっていく様子が報告書から手に取るようにわかります。「俺は死んだ方がいいんだ」と叫ぶ小学生が、そこには、たくさんいるのです。

 以前、この点についてコラムに書いてから、何がそうさせているのか、周囲の大人がどう関わっていけば少しでも子どもの心は落ち着くのかを考えてきました。

 最終的に私が出した答えは、小学校の低学年くらいまでは親に十分に甘えられる環境を整えることです。子どもは、早ければ0歳児から保育園に預けられます。その後、最も長い子で小学校6年生までの12年もの長きにわたって親元から引き離されるのです。

 せめて、小学校低学年くらいまでは親のどちらかが家にいて、できるだけ子どもに寄り添えることができるよう国レベルの思い切った施策が必要だと思います。前回にも書きましたが、大人がどんな理由をつけても、子どもには通用しません。むしろ、その理由が正論であればあるほど子どもは反論することすら許されなくなります。児童クラブに通う子どもたちは、さみしさから生じる大きなストレスを感じながらも、半面で親が働かなければならない理由を子どもなりに理解しています。反論すれば親が困ることを彼らなりにわかっているのです。

 児童クラブに通う低学年の女の子がこう言ったそうです。

 「お母さんは、どうして早く帰れる仕事しないのかなあ」

 こんな言葉を聞くと、本当に切なくなります。この子は、お母さんが働くことは健気に受け止めています。頭ではわかっているのです。でも、せめて仕事が早い時間に終われば、児童クラブへのお迎えも早くなる、もしかしたら放課後ずっとお母さんと一緒にいられるかもしれないのにと、素朴に、そして、真剣に願っているのです。

 この女の子の願いを叶えられるのは今しかないはずです。中学生くらいの年齢になってしまったら、もう遅いのです。そのときになっても、あるいは大人になっても、子どもが親に十分に甘えられなかったという痕跡は確実に残るのです。それがどういう影響を子どもに及ぼすのか、これからの社会にどんな影響を与えるのか、はかり知れません。

 本気で甘えられた経験がないということは、本気で大切にされたという経験が持てなかったということです。そうなれば、いざ自立しようとする時期になっても、どこか自分に自信が持てなくなります。近年、子どもの自己肯定感の低さが問題にされることが多くなりましたが、その大本を探っていけば、幼い時に十分に甘えられなかったために「自分は大切にされるに値する存在なのだ」という思いを持てなかったことが、一つの原因であることは否定できないと思います。

 確かに、一人親であろうと、0歳児から保育園に預けていようと「親に大切にされた」と感じられる子もいるでしょう。でも、児童クラブから送られてくる報告書には、子どもの切実な叫びが荒れた言動となって表れているとしか思えない事例にあふれているのです。

 はっきりとした根拠があるわけではありませんが、ここ10年で発達障害のある子が倍増しているのも、こうしたことと無縁であると本当に言い切れるのでしょうか。

 かつて、P.アリエスはアンシャンレジーム期(近代以前)には、「子供時代」という概念はなかったことを論証しました。その頃の子どもは早くから一か所に集められて地域の大人が一緒に育てていたといいます。そして、7歳~8歳くらいになると社会の徒弟制度に組み込まれて大人扱いされたのです。ならば、自分の子を自分で育てなければ子どもは健全に育たないという考え方は必ずしも絶対的な真理だとは言えないことになります。

 しかし、今、当時と同じようなコミュニティを再生させることはほぼ不可能でしょう。そうであるなら今の大人に求められるのは、子どもへの愛情を十分に確保できるよう社会福祉を充実させることしかありません。虐待の問題も経済的な不安定さを解消すれば、かなり減少すると思います。親も余裕がないのです。だから、常にイライラしていてそのイライラが子どもに向かってしまうのです。

 子どもは国の宝だとよく言われますが、この国は本当に子どもを宝として扱っているのでしょうか。私には到底そうは思えません。もし、宝だと本気で思っているのなら、せめて児童クラブの支援員の待遇を改善する予算くらいは十分に補償すべきです。ほとんどの支援員が国の定める最低賃金で働いています。宝を宝として必死にかかわっている人を冷遇している時点で間違っていると思います。まずは、国の偉い人に児童クラブの現状を知ってほしいと思います。そこで、子どもたちがどんな思いでいるのかに、もっと関心を持ってほしいと思います。

 冒頭で述べたように、少なくとも両親のどちらかが子どもが幼いうちは働かなくても十分に生活できる保障をすべきです。防衛費も大切ですが、これからの日本を創っていく「宝」を大切にしない国に未来はあるのかと思ってしまいます。自己責任の名のもとに、いつまでも、子どもの養育とその結果はすべて親の責任であるという考え方を続けていたのでは、敵国に攻撃される前にこの国は自滅してしまうかもしれません。

 今回は、極端な論調になったのかもしれません。でも、あながち間違ったことを言っているとも思いません。

 

 さりとて、すぐに国の施策の方針が変わるとは思えません。多くの問題を抱える児童クラブについて、現状から一歩でも前進するための具体的な方法を考えなければなりません。それはまた、別の回でお伝えしたいと思います。

(作品No.193RB)

福祉と学校教育

学校教育の世界はいま大変な状況です。いじめや不登校への対応はもとより、次々と降ろされてくる教育改革によって、仕事の量が年々増え続けています。その上、保護者からの理不尽な要求への対応もあります。

 また、近年では、教員による不祥事や「不適切なかかわり」がマスメディアで毎日のように報じられます。そのたびに、文科省や教育委員会は新たな取組を学校現場に求めてきます。不祥事を起こす教員に非があるのは当然ではありますが、ほんの一握りの教員の蛮行によって、締め付けが厳しくなり、報告書の類はさらに増えていきます。

 このような状況の中にあって、教員は疲れきっています。

 教員は、子どもと接し、その成長ぶりを身近に感じることが最大の喜びです。いまも昔もそのことに変わりはないと思います。ところが、最もやりがいのある仕事が十分にできない状況に追い込まれているのです。

 それでも教員の多くは少しでも子どもたちの成長を支えようと必死で頑張っています。

 いまこそ、子どもとかかわる以外の教員の業務を大幅に削減しなければ、単に教員不足となるだけでなく、子どもたちの将来にも悪い影響が生まれてしまうでしょう。

 私は、教育、特に学校教育をこの苦境から救うには福祉の充実を行うべきだと思います。格差社会の中で、貧困にあえぐ家庭に余裕はなく、親も必死で働いているのに子どもと寄り添う時間を確保できていません。子どもは、長い時間親から引き離され、やっと帰ってきた親にいろんなことを聞いてもらい、甘えようとしても親は家事に追われ、何より疲れ切ってじっくりと話を聞く余裕がありません。虐待の多くはこういう環境によって生まれます。 

 子どもは純粋です。そしてけなげです。どんなに親に邪険にされようとも親を見限ることはしません。特に、小学校低学年くらいの子にそんな選択肢はありません。じっと我慢するしかありません。むしろ、疲れている親に気遣い、欲しいものも欲しいと言えず、抱きしめて欲しい気持ちも抑えています。自分のために必死になって働いていることを子どもは十分理解しています。

 けれども、さみしい気持ちややるせない気持ちを家庭の中でため込んだ子どもたちが、学校に来て集中して学習に取り組めるはずはありません。なかには、些細なことで友だちに暴力を振るってしまったり、先生に悪態をついてしまうこともあるでしょう。現状ではそれを受け止めるのは教員しかいません。

 福祉がもっと充実していれば、そういう子どもたちの鬱憤はかなり減るでしょう。本来福祉でやるべきことが十分にできていないために起こる問題さえも、学校は引き受けているのです。

 私は、福祉関係で働く人を悪く言うつもりはありません。福祉の仕事をしている人も限られた予算と人員の中で精一杯努力されていることは十分理解しているつもりです。

 学校の教員を増やすことも急務だとは思いますが、福祉に関わる人の増員もそれ以上に重要だと思います。

 福祉の充実というと、子育て支援としていくばくかのお金を支給するイメージがあります。それも大切ですし、現状十分な措置がなされていないことを考えれば、さらに充実させる必要があるでしょう。本当なら、子どもが小学校を卒業するまでくらいは親のどちらかが働かなくても(あるいは学校に行っている間のパート程度でも)十分に生活できるような施策が必要です。しかし、それはいまの日本ではほぼ不可能でしょう。

 それならば、せめて子どもたちに自由に過ごせる場所と時間を与え、相互に育ちあう環境を整備することが必要だと思うのです。福祉はそこに焦点をあてるべきです。

 子どものことはすべて学校に任せようとするから、学校はどんどん疲弊していくのです。広い場所を用意し、子どもをそこで自由にさせることはできないものでしょうか。教員が関われば「教育」をしなければならなくなります。また、現在行われている放課後児童クラブは、狭い部屋に大勢の子どもがひしめき合っています。狭い空間は、それだけで子どもにとって大きなストレスです。 

 企業の体育館などを開放するなどによって、広い場所を確保し、福祉に関わる人員を増やせばそんなに無理なことではないと思います。

 体育館なんて何も遊具がないじゃないかという人もいるでしょうが、子どもは遊びの天才です。場所と自由さえあればいくらでも自分たちで遊びます。遊び道具は、ボールを何種類か用意してやれば充分です。

 安全の確保の問題も懸念されるかもしれません。でも、それに固執すればするほど子どもは大人の目からは自由になることはできません。学校では教員によって制御され(必要な制御だとは思いますが)、放課後児童クラブでは安全確保のために細かい規則によって縛られています。それは、大人が決めたルールです。安全・安心とそれを保障する責任を追求することが悪いとは言いませんが、それは子どもたちの我慢によって成り立っているのです。子どもはもっと遊びたいはずです。

 いまの子どもたちに必要なのは、さまざまな鬱憤を思い切り発散させる場所と時間なのです。

 近年では、教育系の大学を中心に学生を学校現場に送り込んで経験をさせる「インターンシップ」制度を導入しているところが増えていると言います。即戦力を期待するのも結構ですが、将来教員になろうと考えている学生に、子どもをより深く知ってもらうには、確保した場所と時間の中で子どもと一緒に遊ぶ方がよほど有益だと思います。

 そもそも、学校現場に赴任すれば日々の業務は自然に身につきます。教育の本質は、こどもの中にあるはずです。むしろ、下手に学校現場を経験させることで「こんなにブラックなのか」と驚愕し教職をあきらめてしまう人も出てくるかもしれません。

 極端な話だと思われたかもしれませんが、個々の家庭が経済的な面で追い詰められている状況では、どんなにすばらしい教育施策を打ち出しても根底から崩れ落ちてしまいます。

 思い切り遊び、思い切り甘える。大人が子どもたちに用意すべきなのはこの二つを実現できる環境なのです。

(作品No.188RB)

放課後児童クラブが抱える問題

「放課後児童クラブ」が全国的に定着しています。今では、保護者が働くためには必須の制度です。小学校に上がるまでは、保育園やこども園に預けられますが、それ以上の年齢になると預かってくれません。かといって、例えば小学校1年生の子を一人で家に帰らせるのは、このご時世非常に心配です。

そこで、児童クラブに預けることになるわけです。しかし、この児童クラブの実情や子どもの気持ちというのは、意外と一般に知られていません。

まず、子どもたちは、学校ではそれなりに素直に過ごしていても児童クラブにいるときはまったく違った顔を見せます。豹変すると言ってもいいでしょう。

例えば、支援員が何か大切な連絡をしようとしてもまったく聞こうとせずに騒ぎ続け、少し厳しく注意するとふてくされます。女性の支援員に「うるさい、クソババー」など叫ぶのは日常茶飯事。下級生を殴ろうとしている子を注意すると「殺すぞ、ボケ」と支援員に言い放つ子。なかには、「あんたら、ボクらがおるから金もらえてるんだろ、ボクらにもっと感謝しなよ」と逆ギレする子。他には、気に入らないことがあると持っている水筒を支援員に投げつけたり、「私外遊びに行ってくるから、その間に先生、私の宿題しておいて」という子もいます。支援員が宿題をしている子のプリントをのぞき込むと「気安く見るんじゃねえ」と叫んだりする子もいます。理由もなく支援員の足を思い切って蹴ってケガをさせる子さえいます。

近年は、保育園などでの大人の「不適切なかかわり」が問題としてニュース等で報じられますが、今あげたような子どもの行動は、ほとんど報道されることはありません。子どもは守られるものであって、少々わがまま勝手な言動をしても、それを何とかするのが支援員の仕事だろうということでしょうか。

そういう子どもたちに対しても、支援員は子どもへの暴力や暴言、恫喝まがいのことは決して許されません。しかも、支援員というのは特別な資格が必要な職ではありません。一定の研修は受けますが、具体的な対処法までは沿言えられないままに現場に立つ人も少なくないのです。なかには、過去に保育園や幼稚園で経験を積んだ人もいますが、どちらかと言えば少数派です。

つまり、子どもの扱いについては素人といってもいいわけです。何の資格も求めない制度そのものに問題があるとは思いますが、資格を求めると十分な支援員の確保が難しくなります。現在、保育園やこども園でも人手不足が深刻になっている状況を考えれば、児童クラブの支援員に何らかの資格を条件づけるのは現実的ではないでしょう。

多くの自治体では、少し前から児童クラブの先生の呼称を「指導員」から「支援員」に変更しました。支援というのは「優しい」言葉です。子どもに寄り添うと言う意味では、「指導」よりも「支援」の方がいいに決まっています。

でも、子どもたちの中には(大人の入れ知恵だとは思いますが)、それを逆手にとる子もいます。「支援員に子どもに命令する権利はない。そんなことも知らないの!」と平気で文句を言ってきます。低学年の子がそういう態度を示すのです。

子どもたちを管理し過ぎるから、反発が生じるのだという人もいるかもしれません。でも、考えてみてください。冒頭にあげたような暴言を口にする子や指示を無視する子が多数いる中で、一定の管理なしに子どもの安全が守れるでしょうか。

子どもたちを自由にさせておけば、些細なことから喧嘩が始まります。口喧嘩くらいならかわいいものですが、最近の子は、結構平気で相手の顔面をグーで殴りつけます。今にも殴りかかろうとする子を前にしたら、時には大きな声で厳しく制止することも必要になります。

しかし、そういう「指導」は「支援」の域を越えているとして、保護者からのクレームが入ったりもするのです。もし、子どもが大きなケガでもしたら、支援員が責任を問われます。

まさに、支援員にとっては、なす術がない状況で日々奮闘しているのです。その上、多くの自治体では、国の定める最低賃金レベルの時給で雇用し、昇給もほとんどない状態です。もう少し本気で待遇改善をしなければ、そのうち支援員不足によって児童クラブが運営できなくなることになるでしょう。

雇用の促進をいくら叫んでも、雇用を根本で支えている児童クラブが崩壊すれば、親は十分に働くことができず、貧困の問題はさらに深刻化するでしょう。

国や自治体は、子育て世代への支援をさらに充実させ、支援員の待遇改善を早急に実施すべきです。

それにしても、どうして、こんなに子どもたちは児童クラブで荒れてしまうのでしょうか。そこには、親に甘えたい盛りの時期に、親と引き離されてしまうさみしさがあると思います。

子どもたちは、そんなさみしさを抱えながら、学校で緊張感を持って生活し、放課後にはさほど広くない児童クラブの部屋に閉じ込められるわけです。子どもたちは別に児童クラブに来たくて来ているのではありません。大人の事情で来ているわけです。それがやむを得ないということは、子どもは子どもなりに理解はしています。けれども心情的には抑えきれないものがあるに違いありません。

子どもは、社会情勢などとは関係なく、とにかく親に甘えたいわけです。そして、十分に甘えた経験があるからこそ自立への歩みをすすめることができるのです。

児童クラブに通う子どもはみんな、親がいつもより早くお迎えにきてくれるとすごく喜びます。また、いつもはおばあさんがお迎えなのに、今日はお母さんが来てくれるというだけでテンションが上がるのです。「ママがもっと早く帰れる仕事をしてくれないかなあ」とつぶやく子もいます。

近年では、一人親家庭も増えています。そういう場合は、0歳から保育園に預けることも珍しくありません。子どもはが十分に親に甘えられる時間は年々減っています。

子どもの立場からすれば、せめて小学校の低学年くらいまでは親が毎日働かなくてもいいくらいの社会保障制度が必要なのかもしれません。それができないなら、子どもたちだけの自由な時間を確保する工夫がなされるべきです。

 そのためには、児童クラブはもっと広い場所を準備する必要があるでしょうし、子ども同士のトラブルに寛容である社会の土壌が必要となります。非常に難しい問題だとは思いますが、支援員が「指導」せざるを得ない今の状況では、子どもたちの気持ちは荒れ、支援員や周囲の子に鬱憤を晴らすしかありません。

 児童クラブの中には、その日のスケジュールをできるだけ子どもたちの話し合いで決めているところもあります。そういうところでは、高学年の子が低学年のこの面倒をよくみてくれるそうです。自分たちが決めた予定だから、気持ちが前向きになるのでしょう。

 教育の場でもなく、保育の場とも言えない児童クラブには、子どもたちを取り巻く社会の矛盾がそのまま表れています。その矛盾の一番の被害者は他ならぬ子どもたちです。子どもの気持ちに、大人の事情は通用しないのです。

(作品No.187RB)