特別にならない

野球部の顧問になって5年目くらいのころ(今から30年近く前)からだったと思いますが、部活動結成会で野球部通信を生徒に配り、そこに必ず「特別になるな」という見出しで次のように書くようになりました。

「野球はとても注目度が高いスポーツだ。地域の小さな大会でさえチーム紹介や試合結果が掲載される。時には写真まで。だからときどき「野球をやっている自分は特別だ」と勘違いする者が出てくる。野球のためだと言えば何でも許されると思ってしまう。そういう者は、自分がやりたいことや好きなことには熱心だが、必要なことでも、嫌いなことには手を抜く。そうした自分中心な考え方は必ず雑なプレーを生む。また、人のミスを許すことができず、自分のミスには言い訳をする。そして、チームの雰囲気を悪くし、新たなミスを生み出す。そして、互いに信頼できなくなって大敗の原因となる。

君たちは、何も特別な存在ではない。それは、たとえば君たちの中に将来プロ野球で活躍できるほどの素質を持っている者がいたとしても同じことだ。君たちは野球が好きで野球部に入ってきた、普通の中学生である。つまり、野球部員である前に本校の生徒である。だから、学校のルールを守るのは当たり前のことだ。安易に学校のルールを破る者は、野球もぞんざいに取り組むと私は判断する。そんな選手と一緒に野球がしたいとは思わない。」

この野球部通信は、当時、近隣地区においてその安定したチーム力で定評のあったA中学校野球部顧問のK先生の通信を参考にしたものです。とにかく何回やっても勝てなかった相手でした。あるとき、K先生にチームづくりのポイントを尋ねたら、ご自身が出しておられた野球部通信を何部かくださったのです。

驚いたのは、そこには、A中野球部の方針として,「練習試合を除き、練習は2時間を越えない。」と書かれていたことです。もちろん土日も同じ基準です。長い練習は集中力を低下させる。「今日は練習が長い」と思うと、子どもたちは力を温存するために無意識に練習前半で力を抜くようになる。逆に時間を短縮すると、できるだけ効率の良い練習をしようとして工夫や努力が生まれる、それがK先生の持論でした。

ある年の春、一度練習の様子を見せていただいたのですが、私にとっては何もかもが新鮮でした。K先生の練習メニューには「打撃練習」とか「守備練習」といったカテゴリーが存在していないのです。つまり、ほとんどのメニューに複数の要素が盛り込まれているため、これは打撃練習だと定義することができないのです。トスバッティングには守備の基礎練習や送球練習が組み込まれているし、バント練習には体力強化ダッシュが入ります。フリーバッティングでは、必ず走者がつけられてゲージの打者に合わせてスタートを切る練習をしています。時にはアウトカウントやイニングを設定することもありました。要素が増えれば、当然一人一人の動きは多くなります。そうなると気を抜く暇はなくなります。部員は常に動いている状態となり、30分もすれば部員たちはみんな息が上がりそうになる。結果、体力、集中力共に飛躍的に向上したといいます。

また、メニューはすべて実戦に結びついていました。たとえば、ベースランニングでは、必ず場面設定(アウトカウントや得点差、イニング、打球の方向など)がなされ、打球がどこに飛んだかを含めて次の走者が状況を指示します。前の者と同じ設定は御法度。緊張感が持続しているのがわかります。体だけでなく頭もフル回転です。でも、生徒たちは実に楽しそうでした。悲壮感などかけらもないのです。

その年(平成2年)の夏、K先生率いるA中学校は当地区初の全国大会出場を決め、ベスト4まで駒を進めました。私は、全国大会に出ることや、そこで勝ち進めたことにのみ価値があるとは決して思いません。実際そのときチームには、詰まった当たりのショートゴロで二塁から余裕でホームインするほどの俊足の子や、かすりもしないスピードボールを投げるエースもいました。明らかに運動能力の高い選手が揃っていたのです。「どこまで勝てるか」は「どんな選手がいるか」によっても大きく左右されます。

しかし、K先生の次の言葉を聞いたとき、私は目の前の勝利を遥かに超越した中学校野球の神髄を感じました。そしてその精神は、部活動が中学校から地域主導へと移りゆく今だからこそ、子どもたちの持つ可能性を最大限に引き出すために受け継がれるべきものだと思います。

「私がこだわってきたことは二つだけです。一つは部員が辞めない部にすること。もう一つは、控えの選手や入部したばかりの1年生が生き生きと活動できること。それだけです。」

(作品No.1H-2)

不登校という「警鐘」-「適応」の「問題」-

「適応指導教室」1)というのがあります。

これは、学校に行けない子どもの「学校生活への復帰を支援するため」1)教育委員会が設置するもので、カウンセリングや教科指導を行なうものです。ただ、そこに「適応」という言葉が使われていることに私はずっと違和感を覚えてきました。

「適応」する対象は学校です。学校は一つの社会ですから、当然そこにはある種の価値が存在し、文化も生まれるわけです。学校に行けないことを「不適応」とするためには、学校が絶対的に正しい存在(学校は行くべきもの)であるという前提、言い換えれば、学校という社会や文化に適応することは正しいことだという前提が必要です。その前提があるから、学校に行かない(行けない)ことは正すべき「問題」として扱われることになります。しかし、本当にそうなのでしょうか。

私は、不登校の「問題」は子どもたちが学校に「適応」していないことが「問題」なのではなくて、学校に行けないことで「苦しんでいること」が「問題」だと考えます。他のみんなは普通に通えるのに自分だけはできない、だから自分はダメな人間だと思い込んでしまうような苦しさから子どもを救えていないことが最大の「問題」なのです。「適応教室」は「学校生活への復帰」を支援するとされています。でも、本当に大切なのは、学校への復帰ではなく、その子にとって学校がどんな意味を持っているのかを子どもと一緒にじっくりと考えることだと思います。

厳しい言い方かもしれませんが、「適応」という言葉には大人や教育する側に、ある種の思い上がりがあるのではないかと思います。学校に通うのは当たり前、その当たり前ができないのは、その子に「問題」があるからだという視点が透けて見える気がするのです。不登校の子どもが気持ちを整理し次へのエネルギーを生み出すためにはカウンセリングは非常に有効です。しかし、学校はカウンセラーに任せていればそれでいいというわけにはいきません。学校も子どもを真ん中に置いた発想によって変わっていく必要があります。同質性を基盤とした学校のシステムは多様化の大きな波の中で、すでに制度疲労を起こしている可能性もあるのです。

まずは、「適応指導教室」という言い方をなくすべきです。以前、学校教育法等の一部を改正する法律によって、平成19年4月1日から「養護学校」は「特別支援学校」に変更されました。この変更によって、特別支援教育の理念は学校や保護者に浸透しやすくなりました。それと同様、別の名称に変えるべきです。「適応」という言葉を使っている限り、不登校に対する周囲の意識変革はなかなか進まないと思います。

それでは、学校ではこの問題をどう考えればいのでしょう。そのための貴重なヒントを精神科医の泉谷閑示氏の次の文から得ることができます。

「私たちは幼い時から例外なく、現世は適応するために理性というツールを駆使して自己コントロールをしたり、人間関係に配慮することが大切だと教わってきています。それは人間が社会的動物である以上やむを得ないことです。しかし、問題となるのは、これがあくまで「処世術に過ぎない」という但し書きが伝えられていない場合で、特に神経症的な人が教育やしつけを行うと、処世術を伝えているつもりで神経症性そのものをすり込む結果になってしまいます。指導者をお手本にしたモデリング(模倣)が行われるわけです。」2」

神経症的に関する部分は別としても、小学校高学年から中学生くらいの年齢で人間関係に苦しんだ結果「不適応」と言われて苦しんでいる子どもに対して私たち教師が伝えるべきことは、「何とか頑張って学校に行きましょう(適応しましょう)」というメッセージではなく、「あなたが人間関係に気を使っているその悩みは、所詮「処世術」であって、あなた自身の価値を決定づけるものではないんですよ」という見方を示すことです。簡単には伝わらないとしても、教師側がそういう意識で寄り添うことが必要だと思います。そうすることで不登校の本質的な問題である「苦しんでいる子ども」を少しでも救うことになるのではないかと思います。

社会の問題も見逃せません。学校に行かない(行けない)ことによる不利益があまりにも大きい(あるいはそう感じさせてしまう)社会を変えていくことも必要です。でも、そんなことはすぐにはできません。だからこそ、せめて学校にいる教師が「学校は行くべきところ」という認識に囚われずに「学校は行きたいところ」とするために何が必要なのかを考える柔軟で謙虚な姿勢を持つことが必要だと思うのです。不登校の増加は今後の学校の存在意義への警鐘なのかもしれません。                  (作品No.121RB)

1)「「教育支援センター(適応指導教室)」(以下、教育支援センターとする。)とは、不登校児童生徒等に対する指導を行うために教育委員会及び首長部局(以下「教育委員会等」という。)が、教育センター等学校以外の場所や学校の余裕教室等において、学校生活への復帰を支援するため、児童生徒の在籍校と連携をとりつつ、個別カウンセリング、集団での指導、教科指導等を組織的、計画的に行う組織として設置したものをいう。なお、教育相談室のように単に相談を行うだけの施設は含まない。(「教育支援センター(適応指導教室)に関する実態調査」結果」(令和元年5月13日文部科学省)

2)『「普通がいい」という病』泉谷閑示、2006.10.20、講談社現代文庫 p232 引用文中の文字の強調は引用者による

「教師という看板」

学校の外から学校を論じる人は、往々にして「教師が生徒との信頼関係を築いていれば、こんな起きなかったはずだ」という言い方をします。マスコミなどはその最たるものかもしれません。けれども、いつでもそんなことができる訳ではありません。例えば、4月に入学したばかりの生徒と初めて出会ったとき、信頼関係などあるはずがありません。それでも私たちは、決められたカリキュラムに沿って教育活動を展開しなければなりません。教育にとって信頼は最も大切なことではあるものの、生徒が教師の指示に従っているのは、それだけが理由ではなく、「教師という看板」が一定の威力を発揮しているからだと思います。看板にはこう書いてあります。「学校の先生の言うことは素直に聞くものです」。これは、社会全体の暗黙のルールのようなもので、大多数の生徒がこの看板に書いてあることを受け入れています。世の中はそういうものだと。私たちは、この暗黙のルールである「看板」を持たせてもらっています(最近この看板の文字が見えにくくなっている感もありますが)。そうでなければ、自分の力量だけでクラスをまとめているんだという錯覚や過信が生まれます。

新学期が始まって最初の3日間を「黄金の3日間」というそうです。この期間は子どもたちが先生の話を実に静かに集中して聴くと言われています。新しいクラスになって互いに牽制し合っていることもあるでしょう。どんな先生なのかを観察しているからかもしれません。でも、生徒が前を向いて座っているという、その事実を最初に成立させているのは「教師の看板」なのです。相手が「先生」だからこそ、生徒は話を聞こうとするのです。

恥ずかしい話ですが、私は初任のとき1年生のクラスを担任して完全に学級を崩壊させました。迎えた2年目。再度1年生を持つことになりました。その学級開きの日、私は感激のあまり泣きそうになりました。全ての生徒が椅子に座って前を向いるのです。それだけでなく、真剣に私の話を聞こうとしているのです。

それを見て思いました。この状態は何と有り難いことなんだ、と。そして、前年のクラスも最初はこんな感じだったはずだと。でも、前年私の頭にあったのは「新任だからといって生徒になめられてはいけない」という思いばかりでした。もしあのとき、この有り難さが少しでもわかっていれば、まずは、まっすぐに私を見ている子どもたちを褒め、いつまでも今の気持ちを忘れないようにしてほしいという話ができたのではないかと思うのです。(作品No-26H)