心が不安定な子どもたち

 このコラムは以前書いた「高原の風景」の続編としてお読みください。

最近、「荒れた」学校が少なくなったと感じます。「高原の風景」にも書きましたが私が本校の教諭だったころは、服装違反はもちろん、あちこちで喧嘩していたし、窓ガラスの割れ方もひどいものでした。消火器を廊下に放出する者もいたし、ひどいときには中庭をバイクで走るという暴挙に出る「元気者」もいました。

そう考えると、今の生徒は実に素直でまじめです。授業中に抜け出す生徒もずいぶん減りました。同じような傾向は近隣の中学校でもみられるようですが、私が最後に勤務した中学校ではかつては結構な荒れ方をしていましたが、今は授業中の集中度はどこの学校にも負けないくらいになりました。反面、不登校や精神的に不安定になりやすい生徒が増えていると感じます。これも近隣の中学校に共通した傾向です。

 なぜ、「元気者」的な生徒が減り、心が不安定な生徒が増えたのでしょう。簡単に答えが出せる問題ではないですが、そこには「自己肯定感」が大きく影響しているように思います。社会学が専門の土井隆義氏は、次のように指摘しています。

「直感に根拠づけられた純粋な自分は、一貫性を保ち続けることが難しくなる。その時々の気分に応じて、自分の根拠も揺れ動くからである。だから彼らは、その不安定さを少しでも解消し、不確かで脆弱な自己の基盤を補強するために、身近な人びとからの絶えざる承認を必要とするようになる」

 簡単に言うと、かつては社会全体にある程度あった「これが正しい」という価値が薄まったために、自分の行動の根拠を自分の中に求めなければならなくなりました。でもその根拠は自分だけがそう思っているだけかもしれないので、非常に不安定で脆弱なものにならざるを得ません。だから絶えず「あなたは正しい」「あなたはよくやっている」と身近な誰かに言ってもらわないと不安でしょうがない、ということです。そうした承認を得るためには、周囲からできるだけ浮かないように絶えず空気を読み続けなければいけません。浮いてしまうと友だちからの承認が得られなくなり、さらに自信を失うことになります。土井氏の分析によれば、最も身近にいる友だちから承認を得られなかったり、教師から些細なことで注意されたりしただけで、まるで全人格を否定されたように感じる子が増えているのは、社会規範などの拠り所を失って子どもたち(若者)の自己肯定感が低下したからだとしています。

 逆に、校内暴力を続けていた生徒は、尾崎豊さんの「15の夜」の歌詞を借りるまでもなく教師を社会の体現者としてとらえ、社会への反発として行動していたとも考えられます。社会に確固たる価値観があるからこそ反発も可能となります。いわば、彼らの反発は彼らなりの正論と自信の証だったということもできます。

 かといって、価値観の多様化をいまさらもとに戻すことはできません。それに、価値観が多様化することによって、多くの自由が与えられ、すべての子どもが平等に扱われるべきだという考え方も広がりました。固められた価値観に苦しんでいた子にとっては希望でもあるでしょう。価値観の多様化は、社会全体が自由と優しさを求めた結果だとも言えるのです。

 こう考えてくると、私たちは目の前の生徒たちに対してどのように関わればよいのかが少しだけ見えてくるような気がします。拠り所がなくて不安でしょうがない生徒が増えたのなら、時間はかかっても、何度も何度も承認のメッセージをタイミングよく送り続けるしかないと思います。私たちが送った言葉がたとえ一つでも子どもたちの「拠り所」となることを信じて。(作品No.14HB)

※尾崎豊(1965年-1992年〉:日本のシンガーソングライター。青山学院高等部中退。1983年高校在学中にデビュー。10代のころ「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、「10代の教祖」などと呼ばれた。シングルデビュー曲「十五の夜」に「校舎の裏 煙草ふかして 見つかれば 逃げ場もない」という歌詞がある。

Y先生の「寄り添い方」

今でも月に1回、かかりつけ医に通っています。主治医のY先生は物腰がやわらかで、自然体で話を聞いてくださいます。相槌の打ち方も絶妙で、こちらの言うことをしっかりと受け止めてくださっているのがよく伝わってきます。私の話を途中で遮ることは絶対にありません。そして、私が話し終えたら、ほんの少しの間を取って(この間が実に心地いい)、ゆっくりと、そして静かに私の状況を診断してくださいます。診察時間は5分か10分のほんの短い時間ですが、とても気持ちが落ち着きます。

 Y先生は、診察室に患者を迎えるとき、必ず立って迎えてくださいます。そして、診察が終わって部屋を出るときも必ず立って見送ってくださいます。 

私は、過去にいろんな病院に行きましたが、立って迎え、立って送り出す医師に出会ったことがありません。多くの場合、病院の先生は最初から最後まで座ったままです。中には、診察室に入ったときに全くこちらを見ない人もいます。でも、Y先生はいつも変わらぬ対応です。もちろん他の患者さんにも同じように接しておられます。ほんのちょっとのことですが、これだけで患者側からすると自分は本当に大切にされているんだなあと実感できます。

 そういえば昔、ある先輩の先生に教えてもらいました。「職員室でプリント一つ配るのも、机の上に向きや位置を考えて置きなさい。直接手渡すときはできるだけ両手で渡しなさい。誰にでもできることです。」若いときは、「そんなこといちいちできませんよ」と心の中で思っていましたが、最近になってようやくその大切さがわかってきました。こうした丁寧な一つ一つの所作が相手に「私はあなたを大切に思っていますよ」というメッセージとなって伝わるのです。

 生徒に対しても同じだと思います。何か問題が起こったときにどんなに丁寧に接しようとしても、普段の所作が生徒にとって「ぞんざいなもの」として映っていたら、決して心を開くことはないでしょう。

 最近、教師による暴言がよく話題になります。かつて星野富弘さんが仰っていたように、「言葉は辛抱強い生き物」です。一度相手の心を傷つけてしまったら、それが体のどこかに染みついていて、ある日突然姿を現し、その人を深く落ち込ませることもあります。いわゆる「トラウマ」のような状態です。でも不思議なことに、活字にしたら暴言としか思えない言葉を生徒に発しているにもかかわらず、生徒に慕われ、信頼されている先生もいます。その違いは、普段のその先生の生徒に対する所作と大きく関係しているのだと思います。つまり、普段の所作によって、その先生の温かさが日常的に生徒に十分に伝わっているのです。

 私は、決して暴言を容認するつもりはありません。どんな教師でも使ってないけない言葉は使ってはいけないと思っています。でも、もし私たちが常に生徒を一人の人間として大切にする気持ちを持ち得ているなら、暴言は存在しないとも思うのです。そして、その気持ちは目に見える形で生徒に示さないと伝わりません。

 教師はときに、生徒に対して厳しく注意を促さなければならないことがあります。そういうときに、しっかりと伝えたいことが伝わるかどうかは、そのときの言い方だけの問題ではないと思います。子どもたちの感性は大人が考えるよりずっと鋭いものです。特に自分に自信が持てないでいる子どもたちならなおさらです。彼らは私たちの一挙手一投足を実によく見ています。自分に「寄り添」ってくれる人なのかどうか、それが彼らにとって最大の関心事なのです。

 Y先生は私に「寄り添われる」ことの心地よさを教えてくださいました。(作品No-99B)