AIの時代

AIが急速に進化を続けています。進化したAIは「生成系AI」と呼ばれ、高い学習能力を持ち、その場に応じて自ら最適解を導き出します。生成系AIはインターネットなどから得た大量のデータをフルに活用して、瞬時にその場に適合した答えを出してくるのです。今はまだ、ピントが外れたような回答もあるようですが、そのうち、さらに進化して精度を上げてくるでしょう。

最近、インターネットを見ていると、こうした生成系AIを学校教育に導入しようとする企業が積極的にセミナーを開催しているのが目立ちます。多くの場合、無料オンラインで誰でも受講できるシステムになっています。誰もが知っているメジャーな企業が、虎視眈々と学校教育への進出の機会を窺っているようです。すでに特定の自治体と提携を結んでいる企業も少なくありませんし、大手の学習塾では、すでに実用化されています。

学校教育に参入しようとする企業が増えているのは、学校で行われている授業が、学習指導要領によって一定の制限があることも関係していると思います。生成系AIにしてみれば、集めなければならない情報も限定されるわけですから、冒頭で挙げたような「ピント外れ」の回答をしてしまう確率も低くなるので導入しやすいと考えられているのでしょう。

生成系AIにとっては、子ども一人ひとりの学習成果(テストの解答など)を情報として収集し、今、この子がどこで(つまづ)いているかを判断し、最も適した課題を作成することなど、朝飯前でしょう。うまく活用すれば、いわゆる「個別最適化」の学習の実現に大きく貢献するだろうと思います。しかも、これらの生成系AIの中には、インターネットから簡単に手に入るものもありますから、先生方の中にはすでに活用している人もいるかもしれません。

いずれにしても、近い将来、生成系AIの学校教育への参入は避けられないでしょう。そうなったら教師はどう対応したらいいのか悩ましいところです。ただ、AIに何を奪われるかと不安ばかりを膨らますのではなく、逆に「人(教師)にしかできないことは何か」を前向きに考えるチャンスとして捉えることが必要だと思います。ひょっとしたら、AIの登場は、そうした根源的な問いを私たちに投げかけているのかもしれません。

こんなことを考えていたとき、ある川柳を思い出しました。

「チョキを出す 我が子の癖(くせ)知り パーを出す」

どこか懐かしく、読む者を優しい気持ちにさせてくれる句です。わざと負けることは一種の「嘘」ですが、それは、時に子どもたちに自信を与え、時に可能性を引き出す、大らかで優しい「嘘」でもあります。子どもはいつかそのことに気づき、きっと自分に「嘘」をついてくれた人を感謝の気持ちを持って思い出すことでしょう。教師と子どもの関係も同じです。目の前の子たちに、人には相手の立場や心の機微を肌で感じる温かい心と、それによって受け継がれる優しさがあると伝えられたらどんなにいいでしょう。進化を続ける生成系AIなら、いつかこんな「嘘」さえもつけるようになるのでしょうか。

(文中の川柳は著作権者の了解のもと掲載しています。コピー及び転載は絶対にしないでください) 

作品No.238RB

プロとして

教員になって10年くらいたった時、私は生涯忘れられない校長先生と出会いました。私は、教師のプロ意識をその人から学びました。今回はその先生にまつわるエピソードをご紹介させていただこうと思います。

 ある年の入学式当日のことです。真新しい制服に身を包んだ新入生が保護者とともに次々と受付にやってきます。新1年生の担任になることが決まっていた教員は、その様子を見ながら「今年は手がかかりそうだ」とささやき合っていました。髪の毛を染めていた子や、制服をわざとだらしなく着こなす子、何が気に入らないのか終始ふてくされた表情を崩さない子もいました。それは全体からすればごく一部ではありましたが、こういう雰囲気の生徒が周囲の雰囲気を壊してしまうことは少なくありません。

 入学式が終わって1学期が始まると、私たちの予想通り、その学年は例年になくトラブルが多く、まさに「手のかかる」学年であると感じました。そんなある日、職員室で同じ学年の先生が「小学校でもっと厳しく(しつけ)ていないから、こんなトラブルが多いんだ」と周囲に聞こえるように言い放ちました。仲間の同意を得ようとしているのは明らかでした。若かった私は、安易にその人に同調してしまいました。その様子を見ていた(聞いていた)校長先生が、私たちの近くに来られてこう言ったのです。

「君らは、本気でそう思っているのか? 一旦子どもを預かった限りは、小学校の指導をとやかく言う前に、この子たちが卒業するときに小学校の先生にこの子たちはこんなに成長しましたよと堂々と報告できるようにしようと、どうして考えないんだ。」

 その瞬間、誰も何も言えなくなりました。その通りです。おそらく校長先生は、その後に「それがプロだろう」と言いたかったのだと思います。言い訳をする私たちに、前を向きなさいと教えてくださったのです。子どもには何の罪もない、と。

現代は教育受難のときなのかもしれません。課題は山積しています。そうした状況のなかで、プロとしての自覚を持ち続けることは容易なことではないのかもしれません。でも、そういうときだからこそ、私たちは決して子どもを悪者にしてはいけないのだと思います。

先日、教育哲学が専門の広岡義之教授(神戸親和女子大学)が、こんなことを教えてくださいました。

「子どもにとって安全な場所が確保できれば、学校におけるさまざまな課題は解消するだろう。教室を安全な場所にすることが大切だ。それには教師が信頼を伝え続け、子どもにそれを実感させるしかない」

課題の原因を子どものみに求めるとき、そこに信頼は生まれるとは思えません。

(作品No.235RB)

未来を信じる

『夜と霧』を世に出したオーストリアの精神科医フランクルは、ユダヤ人であるというだけで第二次大戦がはじまると間もなく、家族とともに強制収容所に収監されました。彼の父親はそこで亡くなり、妻や娘も失いました。それでも彼は自らが提唱してきたロゴセラピーによって、収監された多くの人を勇気づけたといわれています。

彼は、収容されて絶望の淵にいる仲間にこう尋ねたといいます。

「あなたには、あなたの帰りを待つ人がいるんじゃないですか。」

 このことについて、神戸親和女子大学教育学部教授(教育学専攻)の広岡義之氏は次のように述べています。

「強制収容所を生き残る可能性の最も高かった人々は、未来に向かって生きることのできた人であり、いつの日かこの私が帰ってくるのを待っているであろう、達成すべき課題や出会うべき人に向かって生きることのできた人たちだったのです。」1)

 つまり、フランクルは人間にとって最もつらいことは未来を信じることができないと捉え、「「未来の目的」や「人生の意味」を見出しえた人間が、結果的に強制収容所から生還」できる2)と考えたのです。そして、フランクルは生還後に『夜と霧』の中で、そのことが本当であったことを世に示しました。

 ちなみにフランクルは約三年間の収容所生活の間、一度も歯を磨くこともできず、著しいビタミン不足に陥っていたにもかかわらず「健康なとき以上のよい「歯肉」を維持していた」3)し、「傷だらけの体であったにもかかわらず。一度も傷が化膿しなかった」4)そうです。それだけ彼は強靭な精神と未来を信じる気持ちが強かったのでしょう。

 さて、現代に生きる私たち、特に子どもが置かれている状況はどうでしょうか。不登校は過去最多に達し、引きこもりが社会問題となっています。私は不登校そのものが問題だとは思いませんが、不登校である子どもが苦しんでいることは深刻な問題だと思います。

 なかでも、自分に自信をなくし、この先自分はどうなっていくのだろうという不安を抱えている子にとっては毎日がつらく感じられることでしょう。おそらく彼ら(彼女ら)は、そうした不安のために、自分の未来を信じることができなくなっているのではないかと思います。

 私たちは、こうした子どもを救いたいと願っています。簡単なことではありませんが、フランクルは私たちに次にようなヒントを与えてくれています。

「(私たちは)私たちの方から「生きる意味」を問うてはならないのです。なぜなら、人生の方が私たちに問いを出し、問いを提起しているからです。私たちは人生から問われている存在なのであり」、「生きること自体が人生から問われていることに他ならないのです。」p9

 つまり、なぜ生きているのかを問うよりも、なぜ生かされているのかを考えることの方が大切だということです。そう考えることで、自分が今置かれている状況も必ず何らかの意味が与えられているはずだということに気づくのです。それが、自分を責め続けている尖った矢印を少しずつ外に向ける力になると思います。

 自分を見つめるだけでは、信じられる未来は見えてこないのです。

(作品作品No.233rb)

1) 広岡義之(2022)『フランクル教育哲学概説』あいり出版、p10

2) 3) 同上、p12 

4) 同上、p11  

タテ・ヨコ・ナナメ

夏休みの終わりごろ、いつも考えていたのは「始業式に子どもは来てくれるだろうか」ということでした。

 8月の最後の週あたりに「中学生が自ら命を絶った」というニュースが報道されたりすると、もう気が気ではなくなります。正直言って「こんな報道はやめてほしい」と何度も思いました。報道の自由が大切なのは百も承知ですが、こういう報道に(あお)られて追随する子がいたらどう責任を取ってくれるのかとさえ思いました。そして、瞬時にいろんな子の名前や顔が頭に浮かんでくるのです。最後は「学校には来られなくてもいい、生きていればそれでいい。生きていれば何とかなる」と祈るような気持ちになります。

「2022年の一年間に自殺した日本の若者(小学生から高校生)は514人に上り」、国は今年4月に発足した「子ども家庭庁」(以下、家庭庁)に「自殺対策室を設置」し、6月には「こどもの自殺対策に関する関係省庁連絡会議」(以下、連絡会議)が「こどもの自殺対策緊急強化プラン」を取りまとめ」ました1)

 すでに学校には、スクール・カウンセラーやスクール・ソーシャルワーカーなどの専門家が配置され、児童生徒の心のケアをしてもらえるようになりました。しかし、「周りの大人がこれだけクモの糸を垂らして、『相談してね』と呼び掛けても、子どもは来ない、来ることができない」2)状況が続いています。24時間365日誰でも無料・匿名で利用できるチャット相談窓口「あなたのいばしょ」(NPO法人)理事長の大空(こう)()氏によれば、寄せられる相談内容の多くが学校に起因したものだといいます(学校の責任だという意味ではありません)。

 大空氏は家庭庁の連絡会議に有識者の立場で参加し、自殺対策の課題として「スティグマ」からの回避を挙げています。一般に「スティグマ」は烙印という意味ですが、ここでは「思い込み」に近いと考えた方がいいでしょう。大空氏は次のように指摘します。

「『相談することは恥ずかしい』『相談したら負けだ』『大人にはどうせ分かってもらえないじゃないか』と子どもたちは思っている」「スティグマは文化なので、仕組みや教育で変えられる部分もあると思うが、いくら相談の受け皿を増やしても、この部分が変わらない限り難しい。」3)

 私たちがいくら子どもに寄り添おうと努力しても「文化」としてのスティグマの前には、いかにも無力です。なぜなら、「文化」には必ず「規範」が含まれ、社会的規範は「世間の常識」に繋がるからです。『相談することは恥ずかしい』『相談したら負けだ』という子どもの声は、「辛くても自分が頑張らなければ何も解決しない」という社会的規範(当たり前とされていること)は、子どもに大きなプレッシャーとなることがあるのです。つまり、「世の中で当たり前だと言われていることが自分にはできない。当たり前を決めているのは大人だ。だから大人がわかってくれるはずがない。」と思い込んでしまう、それが「スティグマ」の正体です。

 教育に指示や指導は欠かせません。でも、そのために子どもは教師との関係を「タテ」の関係と捉えがちです。そして「タテ」の関係は変えることのできない「規範」であると思い込み、適応できない自分を追い詰めてしまいます。その状態を緩和するのが、「ヨコ」や「ナナメ」の関係です。「ヨコ」とは「子ども同士」の関係、「ナナメ」とは家庭や学校以外の大人との関係(例えば地域の人や各種相談機関の相談員など)のことです。特に現代では、「ナナメ」の関係は学校が意識して機会を作らなければ自然発生的に築かれるものではなくなっています。

 人が本音で相談できるのは、自分をまったく知らない人であることが多いものです。だから、普段の様子が知られていない「ナナメ」の関係の相手には、何の利害関係も上下関係もなく安心してすべて話せるのです。  

 例えばゲストティーチャーの招聘は、第三者との出会いを生み出すきっかけになるかもしれません。また、「あなたのいばしょ」のような相談機関を紹介することによって、「ナナメ」の関係にある大人が社会の規範としての文化を柔軟に理解していることに気づくかもしれません。そうした気づきが、子どもを救うこともあるのです。

 これから起こり得るすべての悲劇を防ぐことはできないのかもしれません。でも、学校という枠組みをほんの少し緩やかにするだけで、どの学校にもできることはあると思うのです。

 ちなみに大空氏は、「2学期の始業式を朝からやらなくてもいいのではないか」と述べています。実際に可能かどうかはわかりませんが、要はこのくらい柔軟な発想が必要だということなのです。

1) ~3) 2023年8月22日教育新聞デジタル「子どもの自殺対策 「あなたのいばしょ」の大空幸星さんに聞く」

参考)NPO法人「あなたのいばしょ」ホームページ:https://talkme.jp/

(作品No.230RB)

36年後の「ベル」

以前、このコラムで子どもの目覚ましについて書きました。いつか鳴らすだろうという願いを持って、子どもたちに一つひとつ目覚まし時計を渡すのが教師の本分だと。それと同時に大事だと思うのが、「良い思い出」をつくってやること、そして、その仕掛けをすることです。

 思い出が「良い」ものになるのは、そこに必ず自分が認められたという実感が伴うからです。認める相手は教師でも友だちでも構いません。教師によるたった一言が、ずっと後までその子を支えることもありますし、学校におけるさまざまな行事で友だちと協力し合う中で互いに良さを認め合えることもあるでしょう。

 そして、「良い思い出」と「目覚まし」は連動していると思います。認められたという「良い思い出」の中で学んだことは、誰かから受け取った「目覚まし時計」なのだと思います。ただ、ベルが鳴るのは卒業して何年もたった後のことが多いので、私たちは滅多にベルの音を聞くことはできません。

 でも、先日そのベルの音を聞いたのです。正確に言えば、ある子がずっと前にすでに鳴らしていたことを知る機会に巡り合えたと言った方がいいでしょう。

 昔、ある問題行動を起こした子を元気づけるために、その子と仲の良かった子に「何か元気づけてやるアイデアはないか」と持ちかけたところ、「仲の良い何人かでボーリングに行きたい」と言うので、休みの日に5~6人で出かけることにしました。ボーリング場では、問題行動に関してはいっさい触れませんでしたが、当の本人は私の意図に気づいていたようです。また、一緒に行った仲間も、いつも以上に楽しく盛り上がろうとしてくれていました。

 それから36年後、同窓会で当時の子たち(と言ってもすでに50歳になっていましたが)と再会しました。そのとき、一人の子が私に「先生あの時はほんとにうれしかったんです」と頭を下げに来たのです。一緒にボーリングに行ったうちの一人でした。こんなに時間が経っているのに覚えていてくれたことに私は感激しました。少なくとも彼にとって「良い思い出」になったのだと思うと感無量でした。もし、私が考えている通り「良い思い出」と「目覚まし」が連動しているとしたなら、彼は私の渡した「目覚まし」をどこかで鳴らしたということになります。

 他にも、同じ理由で釣りが好きだという子と一緒に近くの港に行ったこともあります。釣りの経験がまったくなかった私に、その子は餌のつけ方からポイントの探し方まで丁寧に教えてくれました。それでもまったく釣れない私を見て笑っていましたが、最初の一匹が釣れたとき思い切り喜んでくれたのを覚えています。親の愛情を感じられないでさみしい思いをしていた子でした。彼もどこかでベルを鳴らしてくれていたらどんなにいいかと思います。

 今回は何か自慢話のようになってしまって恐縮です。同窓会の出来事があまりに嬉しくて書かずにはいられませんでした。ご容赦ください。

 とにかく子どもたちは、「特別なこと」や「プラスアルファのこと」が大好きです。今のご時世、私と同じことをすればコンプライアンスの問題や安全管理の面で問題があるでしょうから、お勧めはできません。

 でも、ごく普通の学校生活の中で、ほんのちょっと「特別感」を出すことは、工夫次第でできるのではないかと思うのです。それがベルを鳴らすきっかけになるに違いありません。

(作品No.229)

言葉は、辛抱強い生き物

「言葉は、辛抱強い生き物だと思う。そのときは聞き流されても体のどこかに住みついて、ある日、突如として姿を現す。」(星野富弘)

何気なく言った言葉が、言われた人間の心の中に長くとどまり、あるとき突然姿を現す。教師にとってこの言葉は強烈です。私たちは子どもを否定する言葉を「体のどこかに」植え付けないように細心の注意をしなければいけないと思います。でも、逆に突然姿を現した言葉がその子を勇気づけるものであれば教師にとってこれほどの喜びはありません。子どもたちの心の支えになるような言葉を一つでも多く投げかけられる存在でありたいと思います。私たちのそんな姿を見て、子どもたちが、互いに傷つけ合うのではなく、支え合う言葉を交わし合うようになれば、いじめ問題の多くは解消するにちがいないと思います。

<追伸>

最近の生徒はひ弱になったと言う人がいます。親や地域の人から叱られることが減ったため我慢する力が弱まっていると言う人もいます。本当にそうなっているのかどうかを立証する術を私は持ち合わせていません。でも、仮に本当にひ弱になっているとしても、私たちはその現実を受け止めたうえで、そういう生徒たちにどういう言葉を贈ることができるかを考えなければならないのだと思います。

(作品No.53)

「伝える」と「伝わる」

教育研修所に勤務していたとき、数多くの講師を研修所に招きました。それぞれに個性があり話し方や伝え方も千差万別でしたが、心に響く講義をしてくださる講師にはいくつかの共通点がありました。

 一つは、事前の情報収集です。この講義がどういう目的で実施されるのか、受講者が何人くらいなのか、参加者のおおよその教員経験年数や主な受講理由などを確認されます。なかでも、この講義(講演)が自分で希望した人の集まりなのか、官制研修や動員などで義務として参加しているのかはとても重要な要素です。それは、その講師が聞く側の気持ちにできるだけ寄り添いたいという気持ちの表れなのです。

 もう一つは「調子」と「間」です。「立て板に水」という言葉がある通り流暢りゅうちょうな話し方は聞いていて気持ちの良いものです、でも、あまりに流暢過ぎると一本調子になり、聞いている側の集中力は、次第に低下します。肝心の聞き手にとって「置き去り」にされたように感じるからです。少々訥々とつとつとした語り口であっても、話の枝葉部分と核心部分で口調を変えたり、話すテンポを変えたりしてもらえると最後まで興味を持って聞くことができます。そして、意識的に「間」(何もしゃべらない数秒)をつくることで聞く側の想像力を喚起し、考える余裕を与えてくれます。教育社会学者の森田洋司氏は、この「調子」と「間」が絶妙でした。講義の始まりは、よく聞き取れないくらいぼそぼそとした話し方なのですが、自身が最も伝えたい部分になると畳みかけるようにテンポが上がり、急に関西弁になるのです。そして、話が一山過ぎたとき、息を継ぐかのように「間」を取り、また冷静な口調に戻るのです。聞いている者は、その「間」によって自分が森田氏の話に引き込まれていたことに初めて気づきます。

  私たちは子どもと日常的にかかわっており、ある程度一人ひとりの個性や特徴を把握しています。だから、ここで挙げた講師のように事前に情報を集める必要はないように思えます。しかし、子どもは日々変化(成長)しています。ある程度わかっている相手だからこそ、「今から話す内容をこの子たちはどんな気持ちで聞くのだろう」「どんな話を聞きたがっているのだろう」と絶えず意識していないと、子どもの思いとのズレが大きくなります。子どもを「置き去り」にしたままでは、本当に伝えたいことが十分に伝わりません。

 極論かもしれませんが、私は「伝える」ことと「伝わる」ことは、同じ意味なのではないかと思っています。「伝える」が成立するためには「伝わった」と感じる相手が必要です。相手が「伝わった」と感じていなければ「伝えた」ことにはならない、そう考えると、この二つは別々のものではなく、必ず同時に起こるものだと思います。

 誰かに何かを「伝える」ことは実に難しい。しかも、本当に「伝わった」かどうかは、目でも耳でも確認できません。けれども、子どもが求めるものと私たちが本気で伝えたいことが一致したとき、教室の空気が劇的に変わる瞬間を肌で感じることがあります。その瞬間こそが「伝える=伝わる」ということなのだと思います。それは、教師にとって至福の瞬間であり、この肌感覚を持つことが私たちに求められる最大の専門性なのかもしれません。

(作品No.223RB)

技術と実践

最近では、腕を入れてスイッチを入れるだけで自動的に測定してくれる機械も多くなりましたが、看護師が測定器で測った方が正確な数値がわかるそうです。当然、看護師は私たちがチョークの有効な使い方を知っているように、血圧測定器の操作に()けています。

 ところが、何らかの理由で上腕で測れない患者もいます。そういう場合には前腕で測ったり、時には下肢で測ったりすることもあるそうです。測る部位が変わればその部位に応じた機器を使用しなければならず、機器の種類によって測定部位と患者の心臓からの距離や高低差を調整する必要があります。また、計測する部位によって数値に誤差の度合いが異なるため、それを踏まえた上で正確な数値を見極めることになります。

 看護の専門家によれば、こうした対応には看護技術と看護実践の二つの要素が含まれているのだそうです。上記の例で言うと、看護技術とは、測定するさまざまな機器の特徴や使い方を知っていて、かつ実際に使えることとなります。一方、看護実践には、看護技術をベースとして目の前の患者にはどの方法が最も適切かを判断することを含みます。たとえ滅多にないケースであっても、その場ですぐに対応しなければなりません。それには豊富な経験が必要です。そして、プロの看護師として最も大切なことは、できるだけ患者に負担をかけずに正確な測定をするにはどうしたらいいかを「瞬時にその場で判断する」ことだそうです。迷いなく適切な方法をとってもらえた患者は看護師や病院を信頼することができます。

 私たちは、授業の質を向上させるためにさまざまな研修を受けたり、自分で本を買ったりして技術的な部分を補っています。また、ベテラン教師の授業を見せてもらうことで、その技術を自分の授業に取り入れたりします。先の看護師の例でもそうですが、経験は大きな武器です。身近にいる経験豊富な人の技術に触れることは授業力を向上させるために最も有効な方法です。

 けれども、ベテランの人と同じ方法で授業をしてもうまくいかないことがあります。それは、そのベテランの先生と、そこにいる子どもの間で醸し出される空気感が違うからです。その先生の個性によってつくられた場の雰囲気は、他の誰がやってもまったく同じものは再現できません。その上、子どもは日々変化しています。昨日うまくいったことが今日はだめだったということもあります。私たちは、技術を最大限に生かすために、まず自分がどんな空気感を出しているのかを知る必要があります。また、毎日変化する子どもの「いま」に最もぴったりくる方法で働きかける必要があります。私たちが思っている以上に「実践」というのは、多様でつかみどころがないのです。

「実践とはなにかということが(はなは)だ捉えにくいのは、ひとが具体的な問題の個々の場合に直 面するとき、考慮に入れるべき要因があまりにも多い上に、本質的にいって、それらの要因が不確かであり、しかもゆっくり考えているだけのひまがない、つまり、≪待ったがきかない≫からである。いいかえれば、無数の多くの選択肢があるなかで、多かれ少なかれ、その時々に際して決断し、選択しなければならないからである。」1)

授業の技術は、経験を積めば必ず向上します。しかし、授業の実践力は必ずしもそうはいきません。実践の場はいつも不確かで予想困難だからです。

「不確かな状況だからこそ、まさに一人ひとりの看護師の生き方が偽りのない状態で表現される場となる。つまり、自己の生き様が看護実践に映し出されるのである。」2)

 看護師を教師に、看護実践を授業実践に置き換えたとき、その指摘の厳しさを痛感します。

 でも、逆に言えば、あらゆる実践は「自分にしかできない、かけがえのないもの」であるということでもあります。実践の奥深ささえ知っていれば何も恐れることはないと思うのです。

(作品No.219RB)

自殺防止と学校のあり方

「令和3年度 児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議 審議まとめ」(以下「審議まとめ」)によれば、令和元年度と令和2年度の自殺者数は、小学生8人から14人、中学生は112人から146人、高校生279人から339人といずれもかなりの増加となっています。

 なかでも、女子の自殺者の増加が顕著で、小学生で100%、中学生で46.8%、高校生で75.0%増加しています。

 令和3年度は若干の減少に転じた(100名減)ことから、コロナ禍の影響、特に休校措置による影響が大きいことが推測されます。

 子どもたちは、コロナ禍の休校措置によって、長時間家で過ごすことを余儀なくされました。友達と会って、何気ない会話をすることさえできない状態が長く続きました。このことが何らかの影響を与えたことは十分に考えられます。

 しかも、保護者もテレワークなどによって在宅勤務が増えたため、もともと親子関係に苦しんでいた児童生徒にとっては、非常に厳しい環境になったとかんがえられます。

 すなわち、関係が悪くなっている保護者と過ごす時間が増え、これまで日中友達と交流することでできていた気分転換や気晴らしなど、精神的に解放される時間が極端に減り、極度に息苦しさを感じる子どもが増えたのでしょう。なかには、家屋の関係(自分の部屋がないなど)によって必然的に保護者と長時間同室にいなければならなくなったために精神的に追い詰められてしまった子も少なくないでしょう。

 そして精神的に追い込まれた上に、せめてSNSなどで友達とつながろうとしても、すぐそばにいる保護者から「いったい何時間スマホばかりやっているんだ」などといった叱責の機会が増え、さらに追い込まれてしまったとも考えられます。逃げ場がない状態に追い込まれてしまったのです。

 女子の自殺者数が増えた原因については、専門家でもない私が軽々に語ることはできませんので分析は控えますが、明らかに有意な差はあるだろうと思われます。

 先に挙げた文科省の「審議まとめ」にもあるように、皮肉にもコロナの拡大による休校措置によって、子どもたちにとって学校が大きな意味を持っていたことが明らかになりました。日常的に、友達に会い、様々な行事や取り組みによって創造的な活動を行なうことが、子どもたちの命を守るために大きな貢献をしてきたのです。それが強制的に停止されたことによってくっきりと浮かび上がってきました。

 こうした状況を踏まえて、私たち学校関係者が考えなければならないことは主に次の二つであると思います。

 一つは、仲間と呼べる存在の重要性を教員が今まで以上に理解することです。学力の保障も大切ですが、学校で様々な人と触れ合うことの重要性をこれまで以上に自覚しなければなりません。やはり人間は一人では生きていけないのです。「審議のまとめ」にもありますが、自殺の原因の中で精神疾患に関わるものが最も多い(ただし、この分析が警察による聞き取りをもとにしていることには注意が必要ですが)ことは、そのことを如実に物語っています。

 もう一つは、コロナ以前から不登校児童生徒が増えていることをどうとらえるかです。コロナが明らかにした人と繋がりの重要性を目の当たりにして、考えるべきことは、コロナ前から、その繋がりを絶たれてしまっている子どもがたくさんいるということです。そこにこそ目を向けなければなりません。

 換言すれば、そうした子どもたちを生み出しているのは、現在の学校のあり方そのものに原因があるのではないかという視点を持たなければならないということです。令和2年度に比べて令和3年度の自殺者が100名減ったといっても、まだ一年に400人近くの子どもが自ら命を絶っているのです。当然のことながら、その原因をコロナに求めることはできません。

 学校にとっては当たり前の日常が、実は不登校を生み出している要因になっているのではないかと内省することが必要なのです。

 それは、不登校の児童生徒を減らすことを目標にしていたのでは根本的な解決にはなりません。学校のあり方が、本当に子どもにとって魅力あるものになっているのか、どうしても学校に来られない子どもに信頼できる誰かに繋げる方策は他にないのか、それを問い続けなければ悲劇を失くすことはできないでしょう。

(作品No.206RB)

プロの仕事

久しぶりにバスに乗りました。目的地までの約30分間でしたが、いつも車を運転している身としては、結構、新鮮でした。

 私は一番前の席に座りました。小銭をあまり持っていなかったので両替しやすい席に座ったのです。そういえば、子どもの頃は、電車やバスの最前列に座るのが好きだったなあと思い出したりしながら。

 そのときの運転手さんは、停留所から走り始めるたびに「全員の着席を確認しましたので、発車します」とアナウンスされていました。「発車します」というアナウンスはよく聞きますが、わざわざ全員の着席を確認したことを声に出していう人はあまりいません。

 「真面目な人なんだろうなあ」と思いました。

 いくつかの停留所を通過して、比較的交通量の多い二車線の道路に入りました。すると、運転手さんは、停留所に止まるたびに「お客様、減速時の際には、バスが揺れます。ご注意ください」とアナウンスしました。それ自体は珍しいことではないのですが、その言い方がいかにも緊急事態が起こったかのような緊迫感のあるトーンだったので、最初に聞いたときは、何か危ないことが起こったのかと一瞬ドキッとしました。

 驚いたのは、この運転手さんは、毎回停留所に止まるたびに同じトーンでアナウンスされたことです。

「やるなあ、この人」

と、私は感心しました。

 運転手の中には、ボソボソとした口調で、何を言っているのかよく聞き取れない人も結構います。毎日同じことを繰り返しているのですから、言い方がおざなりになってしまった運転手を責めるのもかわいそうだと思います。でも、この人は毎回気持ちを込めた言い方をされていたのです。

 考えてみれば、私にとっては「毎回」であっても乗ったばかりの乗客にとっては、1回目であるわけです。すべての乗客を大切にするその姿勢に感服しました。

 終点が近づいてきたので、私は、さっき両替した小銭を財布から取り出そうとして、100円玉を1枚足元に落としてしまいました。100円玉は、ころころと通路の真ん中にまで転がってしまいました。運転手さんから見える位置です。いつもの私なら、走行中であっても立ち上がって拾いにいったと思います。でも、そのとき思ったのです。この人(運転手)の前で走行中立ち上がることなんてできないと。

 これがプロの仕事なんだなあと気がつきました。

 こんなに誠意をもって乗客の安全を大事に思っている人の誠意をむだにすることは失礼です。私は、バスが次の停留所に止まるのを待ちました。

 子どもも同じです。私たちが、子どもたちにどう接するかによって、子どもの行動は変わっていくのです。

「……子どもは、彼の環境から、彼に寄せられる期待によって、左右されるのである。子ども  は発達をすすめるためには、彼を取りまくものからの信頼を必要とする。この信頼が欠けているばあい、すなわち信頼の代りに、明らさまにせよ、暗黙にせよ、なんらかの不信がそこにあるばあいには、子どもの発達も決して首尾よくすすまず、あるいは停止し、あるいはひどく歪められてしまう」(ボルノウ(1989)森昭・岡田渥美訳『教育を支えるもの』、p107)

 相手に対する誠意は、信頼につながり、信頼は人を動かし成長させます。子どもたちも、信頼する人を決して裏切りたくないと思うはずです。

(作品No.204RB)