所属するということ

かつて「3年B組 金八先生」という手令ドラマが一世を風靡したことがありました。今、某配信サービスによって毎日1話ずつ配信されており、懐かしさもあって毎回見ています。最初のシリーズが始まったのが1979年から、もう44年も経ってしまいました。

このドラマは、その時代に合わせた教育問題をストーリーに落とし込むと同時に、学級のまとまりや同じクラスの仲間同士の友情を非常に重要なものとして展開されていました。若干小難しい言い方をすれば、学級に所属すること、そこで相互に認め合うことで個人のアイデンティティが形成されることを基本としていたのです(あくまでも私の個人的な解釈ですが)。

さて、近代以前の日本では共同体(村社会)において、どこの地区の誰の子かということが個人に存在の承認を与えることができていたと言われています1)。「あんたは、〇〇さん()の△△の子だね」というだけで居場所が確認され、個人の存在価値も与えられていたというわけです。

ところが、現代では当時に比べて地域社会の繋がりが弱くなったことによって、どこの共同体に所属しているかだけでは自分の存在価値を見い出すことが難しくなりました。哲学者の大庭健氏によれば、「存在の承認は、何ができましたかという達成」2)に置き換わたのです。これは、自分の存在意義を自分で示さなければならないということでもあります。しかし、自分の価値を自分で証明するのは簡単なことではありません。共同体のようにそこにいるだけで証明されるわけではないので、どうしても自分の「達成」を他人と比べます。そうしないと、自分のやってきたことがどれだけの価値があるかを実感できないからです。

また、臨床心理学者のリンジー・C・ギブソンは次のように指摘しています。

「人類はその長い歴史を通してずっと、つねに集団に属してきた。おかげで、ストレスよりも安心感を得られてきたのだ。」3)

これらの指摘に従えば、人間にとってどこかの集団に属しているということは、生きていく上で非常に重要であることがわかります。そして、その集団は社会からも認められ、個人でも意義を感じるものでなければなりません。

非常に回りくどい言い方になったかもしれませんが、私の言いたかったことは、これからの学校は子どもにとって貴重な所属集団となるだろうということです。個性の伸長や能力の開発は当然必要ですが、それらを実現するためには、所属する集団である学校が子どもにとって誇りの持てる場であることが必要です。

子どもたちは、どこかの学校に所属しています。自分の学校はこんなに楽しい、こんなに素晴らしいと思ってくれたら子どもたちの抱えるさまざまなストレスは少しずつ軽くなるのではないかと思うのです。

世の中が変わり、金八先生と同じ指導は今の私たちにはできません。でも、少なくとも学校を意味のある集団として位置付けていたことは、覚えておいてもいいように思います。

(作品No.232RB)

1)香山リカ・上野千鶴子・嶋根克己(2010年)『「生きづらさ」の時代』専修大学出版局。p99

2)同上、p99

3)リンジー・C・ギブソン著・岡田尊司監訳・岩田佳代子訳(2023)『親といるとなぜか苦しい』東洋経済新報社、p53

ICTと教師の正念場

吹奏楽の定期演奏会に行きました。コロナ禍での開催で不安もありましたが、開会前に舞台袖を通ったとき、袖で出番を待つ生徒のほどよい緊張感と、それをかもし出す素直さに触れてとても心地よく感じました。また、私の姿を見つけて口々に「校長先生、ありがとうございます。」と声をかけてくれました。とても爽やかな気持ちになりました。 

演奏会は終始温かい雰囲気に包まれていました。顧問の人柄もよく出ていて優しい空気が会場全体に広がりました。演奏がよかったのは当然ですが、マスクをして、いじめで自殺したある生徒(本校ではありませんが)が作詞した歌をステージ上で歌う生徒たちの姿にも感動しました。真心を込めて何かを伝えようとし、それが伝わる瞬間を経験することはこんなにも感動的なのです。これこそが学校の本当の魅力なのだと思いました。そして、何から何までコロナで中止にすることにも違和感を覚えました。生徒の命を守るためには仕方がないことも重々わかってはいますが、このままでは学校の「らしさ」が薄まっていくような気がしました。

 学校は変わらないといけない時期を迎えています。皮肉にもコロナ禍によって一人一台のタブレット普及が加速し、一年以上早まりました。これからの時代に「個」の学習や成長を支えるには欠かせない取り組みです。ただ、ICTは人間同士の相互のふれあいをどこまで保障できるのでしょうか。それは、そうした視点とある種の危機感を同時に持ってICTの導入を考えている大人がどれくらいいるかで決まるような気がします。

私は、昨年度(令和2年度)から2年間、市の情報化推進委員会に代表校長として参加しました。その第一回目の委員会で私は次のように話しました。

 「タブレットの活用の推進は、待ったなしのところまできています。でも、これが浸透するまでの間に、学校の存在意義をしっかりと考えておかなければいけないと思います。私たちは、この取組が学校教育の根幹に関わるものになるという意識を持たなければなりません。」

 ICTは一人一人の生徒の効率的な学力向上に大きく貢献するでしょう。また、進みゆく情報化社会の中で、たくましく生き抜く子どもたちを育てるためにも積極的に取り組まなければなりません。不登校の児童生徒が増えている中、そうした生徒への学力保障のためにも有効となるでしょう。また、「使いこなせない」ことも許されなくなります。しかし、同時に私たちは、あくまでも「個性」や「自分らしさ」が他者との相互作用によってはじめて成立するということや、生身の人間同士がかかわりあうことの重要性をどこまで地域や保護者に「学校にしかできない魅力」として訴えることができるかを考えておかなければいけません。この取組が、教師が教師の手で「登校しなくてもいい学校教育のシステム」を生み出す可能性もなくはないのです。それが本当に子どもたちにとって豊かな人生の礎となるのかどうかを真摯に考えなければいけません。私たち教師にとっての正念場はもうそこまできています。特に公立学校は、学校に通いたい、通わせたいと思わせる魅力が創り出せるだろうか。子どもたちの心のこもった演奏を聞きながらそんなことを考えていました。令和3年8月28日初稿、後日改

(作品No.118HB)

「自分らしさ」の伝え方

今回は前回予告した通り、「自分らしさ」や「個性」についての生徒への伝え方について書こうと思います。以下は、私が実際に生徒(中学生)に話した内容(一部改)です。

 桜の木。学校にもたくさんあります。桜は、毎年毎年同じ時期に同じような花を咲かせます。そこに全く迷いはありません。迷っている桜を見たことないですよね。今年はちょっと嗜好を変えてバラの花にしようか、梅にしようかなんて考えない。なぜだと思いますか。それは、桜は桜の花を咲かせることが、自分にとって一番美しいということを知っているからなんです。少なくとも私はそう思っています。

 なんか現実離れした話に聞こえるでしょうが、これを言っているのは実は私だけではないんです。北原白秋って知ってますか?教科書にも載っている詩人です。「あめふり」(雨雨ふれふれ母さんが)など多くの童謡や子守歌を作った人です。その人がこう言っています。

「バラの木にバラの花咲く、何事の不思議なけれど」って。

バラの木にバラの花が咲くのは、何の不思議もないんです。でも白秋は最後に「けれど」と言っています。不思議ではないけれどって。不思議じゃないし、当たり前「だけれど」桜はすごい、うらやましい、白秋はそう感じたんです。なぜなら、人間はいつも迷い続ける存在だからです。白秋も私も、そして皆さんも同じです。人間は、何かを決めようとすると必ず迷うんです。だから、桜がうらやましくてしょうがないんです。でも、逆に言うと迷うことは人間である証でもあるんです。

皆さんも、3年生になれば受検があります。そして、自分の進路を考えないといけない。迷いますし、悩みもします。就職するにしても同じです。でも、結局は一つを選ばなければいけない。一つを選ぶということは、逆に言うとそれ以外を捨てるということです。だから悩むし、迷う。でも、それこそが人間である証なんです。友達との関係で悩む、自分に自信が無いと悩む。それでいいんです。悩んでこその人間ですから。人間は、桜やバラのように生きている間に何をするかは決まっていません。そして、生きている間にすることは一人ひとり全部違うんです。自分が何をするか。それが、世間でいう個性とか、自分らしさということです。

 世の中は「自分らしく生きよう」とか夢を持って生きようというメッセージに溢れています。こんな風にすれば自分らしく生きられますよっていうメッセージがたくさん流れています。でも、自分らしさってなんだということについては、誰もはっきり教えてくれない。どうします?中には「自分探しの旅」とか言って、外国に一人旅に出る人もいます。それを悪いとは思いません。いろんな経験をして自分の視野を広げるのはいいと思います。でもね、本当の自分らしさは、そんな遠くに行かなくてもいいんです。すぐ身近にあるんです。今、隣に座っている人、家族、友達、先生、そういうすぐ近くにいる人とたくさん話をして、一緒に何かをすることで、初めて自分ってどういう人間なのかがわかるんです。言い換えれば、自分らしさというのは、自分の外にあるんです。意外に思うかもしれませんが、自分の中にあると思ってしまうと、見つからないんです。

 最近の若い人は、とても悩みが多くなっていると言われています。いろんな国際的な調査ででも昔に比べて自分に自信が無い人が増えているんだそうです。なぜだと思います?それは、自分の個性が生まれつき自分の中にあって、それを見つけなきゃいけないと思っているからです。本当はそうじゃないんです。もしそうだとしたら、どんなに頑張っても、なりたい自分になれないかもしれないでしょ。そう思うから自分に自信が持てなくなるんです。

 そうじゃなくて、本当の自分らしさというのは、自分の外にあるものを、取り入れながら身近な人と一緒に「創っていく」ものなんです。自分の周りにいろんな人がいて、そういう人たちと一緒に考えたり、一緒に悩んだり、いろんなことをいろんな人と一緒にすることで、少しずつ創られるものなんです。自分らしさというのは、もともと自分の中にあるものじゃないんです。だから、自分の中にいくらさがしてもないんです。ないものを「あるはずだ」と思って自分の中に探そうとしても見つからない。そして、やっぱり自分はダメだと思ってどんどん自信がなくなってしまうんです。

 最近嫌な言葉が流行っています。「親ガチャ」っていう言葉。ガチャってわかりますよね。100円か200円入れてレバーを回すとガチャっと音がして、中からカプセルに入ったおもちゃなんかがでてくる、あれです。中身は選べない。あれと同じで親は選べない。だから、どんな親の元に生まれてくるかで、人生の大半が決まってしまうという考え方、それが「親ガチャ」です。でも、そんな馬鹿なことはない。

 確かに私も皆さんも親から遺伝子をもらっています。でも、生まれた瞬間にゴールが決まっている人なんていないんです。私たちは、桜の木やバラの木とは違うんです。私が言いたいのは、今の自分が自分のすべてではないということです。よく覚えておいてほしいのは、どんなに自分に自信がなくなっても、それはあくまでも今の時点の話です。自分という人間は、過去と現在と、そして未来を含めての自分なんです。

 皆さんは、これからまだまだ多くの人と出会います。まだ、会うはずの人がたくさんいるんです。高校に行けば、他の中学校から来た新しい友達に出会う、大学に行けば他の都道府県から来た人に出会えるかもしれない。就職すれば、知らない大人たちとたくさん出会う。そういう出会いを含めての自分なんです。 

前に赤ん坊の話をしました。赤ん坊は生まれたとき握った手の中に自分の夢をどこかに飛ばしてしまうという話です。でも、実はね、ほんの少しかけらが残っているんです。体の中に。それが親からもらった遺伝子なんです。そこには人間が人間であるために最低限必要なものが入っています。そのかけらにいろんなものを付け足していって、自分というのは出来上がっていくんです。皆さんが物心つくまでは皆さんの親や家族が付け足してくれました。それをもとにしてこれからは自分で継ぎ足していくんです。

皆さんも、誰かの言葉を聞いて、なるほどと思うことがあると思います。この人は素晴らしいと感じることがあるでしょう。そういうものを今の自分に継ぎ足していってください。それを一番たくさん与えてくれる人は、今隣にいる人、皆さんが読む本、今一緒に生活している人、そして、一緒に歩んでくれる先生です。

 しつこいようですが、個性や自分らしさが自分の中にもともとあって、変わらないものだなんて絶対に思わないでください。自分らしさは遺伝子だけでは絶対に創れないんです。嫌なことがあっても、思い切り悩んだときも、迷ったときも、今の自分だけ見ていたらだめなんです。もしかしたら明日運命を変えるような人と出会うかもしれない。そういう本と出会うかもしれない。だから皆さんの可能性は無限だって言われるんです。

 赤ん坊の時に手放してしまった(と言われる)自分の夢。それに出会えるのは10年後か20年後、あるいはもっと先かもしれません。ときには「これだ」と思ったものが勘違いだったということもあるでしょう。でも、それならそれで、そこからまた積み上げていけばいいんです。みなさんがこれから、どんなことに悩み、迷い、そしてどんな人に出会って何を継ぎ足していくか、心から楽しみにしています。最後まで聞いてくれてありがとう。以上で私の話を終わります。

 これは、卒業式が終わった3月の終わりごろ進級を目前にした1年生と2年生の学年集会でそれぞれ同じ内容で話をしたものです。生徒たちはとても真剣に聞いてくれました。この話をするにあたって参考となった主な書籍を以下にお示ししておきます。個性や自分らしさを見つけられない(創れない)子どもについては、また別の機会にも書きたいと思っています。(作品No-98B)

・『「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える』土井隆義著、岩波ブックレッ  ト、2004年9月7日

・『友だち地獄-「空気を読む」世代のサバイバル』土井隆義著、ちくま新書、2016年1月5日(第17版)

・『ドリームハラスメント』高部大門著、イースト新書、2020年2月11日

「平凡」であることを恐れない

確かなデータがあるわけではありませんが、最近「荒れている中学校」が少なくなったと思います。私が長く勤めた中学校も私が初任として勤務した30年前には、二階や三階から机や椅子が飛んでくるような状態でした。そのため、校舎のそばを歩くのは危険だと先輩の先生に助言されるほどでした。今ではその頃の雰囲気は全くなく、授業中はどのクラスも集中し服装違反もほとんどありません。実に落ち着いた学校になりました。そういう意味では教師はやりやすくなったと思います。荒れているときは、やんちゃ系の生徒ほど学校が大好きで、ほとんど休むことがありませんでした。また、おとなしい生徒もそういうやんちゃ系の生徒が好き勝手している中でも休むことなく登校していました。

ところが、近年不登校生徒が格段に増えました。30年前なら学校で一人不登校(当時は登校拒否といってました)の生徒がいると、職員室でも大きな話題となりました。今やクラスに数人いてもおかしくない状態です。

私は一概に不登校が「悪」だとは思っていません。ましてや、不登校の生徒を「弱い」とも思いません。問題なのは、多くの不登校状態の生徒が「苦しんでいる」という実態です。仮に学校に通えていなくても自分で何かやりたいと思うことがあって、家でもある程度安定した生活が送れているのなら一つの選択肢としても「あり」だとさえ思っています。

でも、ほとんどの不登校生徒は苦しい思いをしています。みんなが普通にできることができないと感じて自分を情けないと思っていたり、自分に価値がないと思い込んでしまっていたりすることが大きな問題です。

また、教員の中には「なんでこんな些細なことで・・・」という人が結構います。ちょっとからかわれただけでも予想以上に落ち込んでしまうのは昔に比べて生徒が「ひ弱」になったという人もいます。しかし、この「些細なこと」とは、あくまでも教師や大人にとって「些細」であるだけで、生徒本人にとっては自分の生存価値に関わるくらい重大なことなのです。そのことを周囲の大人が十分に理解できていないところに大きな問題があると思います。

世の中は、「自分らしく生きよう」とか「個性を大事にしよう」というメッセージをたくさん送り続けています。報道される内容や授業(道徳など)で生徒に伝えられるのは、ほとんど成功例ばかりです。大リーグで活躍している選手やオリンピックでメダルを獲った選手など、ある種ヒーロー、ヒロインばかりが注目されます。でも、実際には、世の中のほとんどの人が平凡な人なのです。目標を持って最大限の努力をすることは確かに尊いことですし、そういう人の生きざまに触れることで自分の生き方を律することも大切です。でも、だからと言って、そういうヒーローやヒロインと同じ生き方をする必要はありません。ましてや、同様の結果を残さなければ価値がないなどと誰も言うことはできません。斎藤茂太さんの言葉に「努力してこそ凡人になれる」というのがあります。特別な結果を残さなくても十分に価値のある人生を送ることもできるんだというメッセージを大人たち(特に教師は)はもう少し子どもたちに送ってもいいのではないかと思うのです。平凡であることを恐れない、特別になる必要はないというメッセージも必要なんだと思います。

次回は、個性を生徒にどう伝えればいいのかについて書きたいと思います。(作品No-96B)