不登校という「警鐘」-「適応」の「問題」-

「適応指導教室」1)というのがあります。

これは、学校に行けない子どもの「学校生活への復帰を支援するため」1)教育委員会が設置するもので、カウンセリングや教科指導を行なうものです。ただ、そこに「適応」という言葉が使われていることに私はずっと違和感を覚えてきました。

「適応」する対象は学校です。学校は一つの社会ですから、当然そこにはある種の価値が存在し、文化も生まれるわけです。学校に行けないことを「不適応」とするためには、学校が絶対的に正しい存在(学校は行くべきもの)であるという前提、言い換えれば、学校という社会や文化に適応することは正しいことだという前提が必要です。その前提があるから、学校に行かない(行けない)ことは正すべき「問題」として扱われることになります。しかし、本当にそうなのでしょうか。

私は、不登校の「問題」は子どもたちが学校に「適応」していないことが「問題」なのではなくて、学校に行けないことで「苦しんでいること」が「問題」だと考えます。他のみんなは普通に通えるのに自分だけはできない、だから自分はダメな人間だと思い込んでしまうような苦しさから子どもを救えていないことが最大の「問題」なのです。「適応教室」は「学校生活への復帰」を支援するとされています。でも、本当に大切なのは、学校への復帰ではなく、その子にとって学校がどんな意味を持っているのかを子どもと一緒にじっくりと考えることだと思います。

厳しい言い方かもしれませんが、「適応」という言葉には大人や教育する側に、ある種の思い上がりがあるのではないかと思います。学校に通うのは当たり前、その当たり前ができないのは、その子に「問題」があるからだという視点が透けて見える気がするのです。不登校の子どもが気持ちを整理し次へのエネルギーを生み出すためにはカウンセリングは非常に有効です。しかし、学校はカウンセラーに任せていればそれでいいというわけにはいきません。学校も子どもを真ん中に置いた発想によって変わっていく必要があります。同質性を基盤とした学校のシステムは多様化の大きな波の中で、すでに制度疲労を起こしている可能性もあるのです。

まずは、「適応指導教室」という言い方をなくすべきです。以前、学校教育法等の一部を改正する法律によって、平成19年4月1日から「養護学校」は「特別支援学校」に変更されました。この変更によって、特別支援教育の理念は学校や保護者に浸透しやすくなりました。それと同様、別の名称に変えるべきです。「適応」という言葉を使っている限り、不登校に対する周囲の意識変革はなかなか進まないと思います。

それでは、学校ではこの問題をどう考えればいのでしょう。そのための貴重なヒントを精神科医の泉谷閑示氏の次の文から得ることができます。

「私たちは幼い時から例外なく、現世は適応するために理性というツールを駆使して自己コントロールをしたり、人間関係に配慮することが大切だと教わってきています。それは人間が社会的動物である以上やむを得ないことです。しかし、問題となるのは、これがあくまで「処世術に過ぎない」という但し書きが伝えられていない場合で、特に神経症的な人が教育やしつけを行うと、処世術を伝えているつもりで神経症性そのものをすり込む結果になってしまいます。指導者をお手本にしたモデリング(模倣)が行われるわけです。」2」

神経症的に関する部分は別としても、小学校高学年から中学生くらいの年齢で人間関係に苦しんだ結果「不適応」と言われて苦しんでいる子どもに対して私たち教師が伝えるべきことは、「何とか頑張って学校に行きましょう(適応しましょう)」というメッセージではなく、「あなたが人間関係に気を使っているその悩みは、所詮「処世術」であって、あなた自身の価値を決定づけるものではないんですよ」という見方を示すことです。簡単には伝わらないとしても、教師側がそういう意識で寄り添うことが必要だと思います。そうすることで不登校の本質的な問題である「苦しんでいる子ども」を少しでも救うことになるのではないかと思います。

社会の問題も見逃せません。学校に行かない(行けない)ことによる不利益があまりにも大きい(あるいはそう感じさせてしまう)社会を変えていくことも必要です。でも、そんなことはすぐにはできません。だからこそ、せめて学校にいる教師が「学校は行くべきところ」という認識に囚われずに「学校は行きたいところ」とするために何が必要なのかを考える柔軟で謙虚な姿勢を持つことが必要だと思うのです。不登校の増加は今後の学校の存在意義への警鐘なのかもしれません。                  (作品No.121RB)

1)「「教育支援センター(適応指導教室)」(以下、教育支援センターとする。)とは、不登校児童生徒等に対する指導を行うために教育委員会及び首長部局(以下「教育委員会等」という。)が、教育センター等学校以外の場所や学校の余裕教室等において、学校生活への復帰を支援するため、児童生徒の在籍校と連携をとりつつ、個別カウンセリング、集団での指導、教科指導等を組織的、計画的に行う組織として設置したものをいう。なお、教育相談室のように単に相談を行うだけの施設は含まない。(「教育支援センター(適応指導教室)に関する実態調査」結果」(令和元年5月13日文部科学省)

2)『「普通がいい」という病』泉谷閑示、2006.10.20、講談社現代文庫 p232 引用文中の文字の強調は引用者による

「平凡」であることを恐れない

確かなデータがあるわけではありませんが、最近「荒れている中学校」が少なくなったと思います。私が長く勤めた中学校も私が初任として勤務した30年前には、二階や三階から机や椅子が飛んでくるような状態でした。そのため、校舎のそばを歩くのは危険だと先輩の先生に助言されるほどでした。今ではその頃の雰囲気は全くなく、授業中はどのクラスも集中し服装違反もほとんどありません。実に落ち着いた学校になりました。そういう意味では教師はやりやすくなったと思います。荒れているときは、やんちゃ系の生徒ほど学校が大好きで、ほとんど休むことがありませんでした。また、おとなしい生徒もそういうやんちゃ系の生徒が好き勝手している中でも休むことなく登校していました。

ところが、近年不登校生徒が格段に増えました。30年前なら学校で一人不登校(当時は登校拒否といってました)の生徒がいると、職員室でも大きな話題となりました。今やクラスに数人いてもおかしくない状態です。

私は一概に不登校が「悪」だとは思っていません。ましてや、不登校の生徒を「弱い」とも思いません。問題なのは、多くの不登校状態の生徒が「苦しんでいる」という実態です。仮に学校に通えていなくても自分で何かやりたいと思うことがあって、家でもある程度安定した生活が送れているのなら一つの選択肢としても「あり」だとさえ思っています。

でも、ほとんどの不登校生徒は苦しい思いをしています。みんなが普通にできることができないと感じて自分を情けないと思っていたり、自分に価値がないと思い込んでしまっていたりすることが大きな問題です。

また、教員の中には「なんでこんな些細なことで・・・」という人が結構います。ちょっとからかわれただけでも予想以上に落ち込んでしまうのは昔に比べて生徒が「ひ弱」になったという人もいます。しかし、この「些細なこと」とは、あくまでも教師や大人にとって「些細」であるだけで、生徒本人にとっては自分の生存価値に関わるくらい重大なことなのです。そのことを周囲の大人が十分に理解できていないところに大きな問題があると思います。

世の中は、「自分らしく生きよう」とか「個性を大事にしよう」というメッセージをたくさん送り続けています。報道される内容や授業(道徳など)で生徒に伝えられるのは、ほとんど成功例ばかりです。大リーグで活躍している選手やオリンピックでメダルを獲った選手など、ある種ヒーロー、ヒロインばかりが注目されます。でも、実際には、世の中のほとんどの人が平凡な人なのです。目標を持って最大限の努力をすることは確かに尊いことですし、そういう人の生きざまに触れることで自分の生き方を律することも大切です。でも、だからと言って、そういうヒーローやヒロインと同じ生き方をする必要はありません。ましてや、同様の結果を残さなければ価値がないなどと誰も言うことはできません。斎藤茂太さんの言葉に「努力してこそ凡人になれる」というのがあります。特別な結果を残さなくても十分に価値のある人生を送ることもできるんだというメッセージを大人たち(特に教師は)はもう少し子どもたちに送ってもいいのではないかと思うのです。平凡であることを恐れない、特別になる必要はないというメッセージも必要なんだと思います。

次回は、個性を生徒にどう伝えればいいのかについて書きたいと思います。(作品No-96B)