生徒指導の「物語」

「物語」と聞くとどんなものが頭に浮かぶでしょうか。ある人は「白雪姫」や「桃太郎」といった昔話を想像する人もいるでしょうし、小学校の先生なら「ごんぎつね」や「大造じいさんとガン」かもしれませんし、中学校の先生ならさしずめ「走れメロス」といったところでしょうか。いずれにしても、それらは一種のファンタジーであり、架空の「お話」(フィクション)です。

 今回私が示す「物語」は、これらとは若干違うものです。それは、できるだけ多くの事実(情報)を集め、可能な限り整合性を保ちながらそれらを丁寧に紡いで一つのストーリーを作ることという意味です。

 さて、私たちは日々生徒(生活)指導を実践しています。本来生徒(生活)指導は、開発的、予防的など「積極的な生徒指導」(中村豊)が理想であると言われてきました。私もそれに異存はありません。事後の生徒(生活)指導は、「指導」と言うより「対応」に近いものになるからです。しかしながら、実際の学校現場において「(こと)」が起こる前にトラブルを防ぐことは非常に難しいものです。そのため、私たちは事後の「対応」を含めて生徒(生活)指導と呼ぶことが多いのです。

 事後の対応としての生徒指導で最も大切なことは、事実の確認と指導を可能な限り分けて行うことです。私たちがまず確認すべきことは、どんな出来事が起こったかということです。例えば、ある子がいじめの被害を訴えてきたとします。私たちはその子に何があったのかを確認します。しかし、教師はトラブルが起こった現場を目撃していないことがほとんどですから、その子の言い分だけで、それが事実であると軽々に扱うわけにはいきません。もし、訴えてきた子が自分に不利な事実を隠していたことに気づかず、それを事実として扱い加害者(と思われる)子に「そうしてそんなことしたの」と言ってしまったら大変なことになります。

 特に加害者(と思われる)子が、過去に何度も問題行動を起こしているような場合は、要注意です。「また、あの子か。」という教師の思い込みが邪魔をして事実が見えなくなることもあります。関係者からの聞き取りをする場合は、極力「指導」をせずに、何が起こったのかをできるだけ客観的な出来事として把握することに徹しなければなりません。この二つを同時に行なってしまうと、思わぬ誤解を生じることがあるだけでなく、事実がはっきりしないうちに「指導」されると子どもの心を深く傷つけてしまうこともあります。

 そもそも、誰かによって語られる事実には多かれ少なかれ、語る者の主観を含んでいます。それは、人が目の前の出来事に必ず何らかの意味づけをしているからです。起こった出来事が自分にとって腹立たしいものであれば、事実は誇張されてしまっているかもしれません。

 私は、被害を受けた子を疑えと言っているわけではありません。本当にいじめられている子を救おうとするなら、いじめている者に行動の変容を求めなければなりません。そのとき、事実がどのように確認されたかという説明ができるようにしていなければ、いじめた方は「疑われた」ということを前面に出して、そこに逃げ込んでしまうかもしれません。そうなると、暗礁に乗り上げた船のように身動きが取れなくなってしまい、いじめられた子はいつまでも救われることはありません。

 私は冒頭で、「物語」とは「できるだけ多くの事実(情報)を集め、可能な限り整合性を保ちながらそれらを丁寧に紡いで一つのストーリーを作る」ことだと書きました。もし、ストーリーを紡ぐ前に結果を想定してしまったら、その結果を正当なものにするために都合のいい情報だけを「事実」として扱ってしまうことになります。

 それを防ぐためには、事実を確認する聞き取りの際に当事者の気持ちや、行動の理由など「指導」されたと子どもが感じることは極力避け、一定の事実がはっきりした後に初めて「指導」(なぜその行動が良くないのか)を始めなければなりません。それを怠ると、生徒(生活)指導は、フィクションとなってしまうかもしれないのです。

(作品No.231RB)

なぜ、いじめはなぜなくならいか 仮想講演

いじめがいつごろからあったのかということについては、諸説あって、はっきりしないのですが、最もセンセーショナルに最初にいじめが新聞等で扱われたのは、1980年代だと言われています。まず1980年に立て続けに3件のいじめによる自殺事件が起こり、1985年には鹿川君事件が起こって、一つのピークを迎えたというのが定説のようにいわれています。

 しかし、「いじめ」を扱った最初の研究論文はすでに1971年に『児童心理』という月刊誌に掲載されています。とすると、少なくとも現代的な「いじめ」はそのころから問題にはなっていたことになります。50年以上前のことです。半世紀にわたってこの問題は続いているのです。不思議だと思いませんか?

 だって、現場の先生方はもちろんのこと、各方面の専門家がさまざまな研究や調査を繰り返して、その実態を確かめたり、対策を講じてきたにもかかわらず、半世紀もの長い間根本的な解決を見ないのは、どういうことかと、少しくらいはましになってもおかしくないはずなのに、先日も旭川で悲惨ないじめ事件が起こるなど、一向に改善されたという実感がありませんよね。これはどういうことなんでしょうか。

 今日は、そのことについて考えてみたいと思います。最初に申し上げておきますが、私はいじめの問題の根本的な責任は、先生方にはないと思っています。その前提でお話をします。途中で、学校や先生方の責任であるかのような内容に触れることもあるかもしれませんが、それは最終的に何が原因なのかを説明するための途中経過としてお聞きください。

 さて、私はいじめの研究には二つの段階があると考えています。それは、現代的ないじめとそうでないいじめです。現代的ないじめというのは、その根本的な要因が現在に通じるものです。冒頭で、最初の研究論文が1971年に掲載されたとお話ししましたが、そのときの論文のタイトルは「いじめられっ子。いじめっ子 その心理と扱い方について」でした。これは、現代的とは言いにくい。最初にいじめに着目した功績は大きいと思いますが、いじめっ子といじめられっ子の二者でいじめを捉えている点で、現在のいじめにはあてはまらないと思います。いじめは主に学級を中心とした学校内の集団の中で起こります。特に現代のいじめは、集団の力学のようなものがあって、もっと構造的な問題から発生していると考えられます。

 そのことをはっきりさせたのが、皆さんもよくご存じだと思いますが、森田洋司さんの解明した「いじめの四層構造」というものです。いじめる子といじめられる子の二者だけで考えるのではなく、それを取り巻く、観衆や傍観者を視野に入れた解析です。今でもこの理論は多くのいじめ事象にあてはまることが多く、いじめに関するどんな研究でも、この「四層構造」に触れていないものはないくらいです。文科省のさまざまな通知もこの理論をベースにしています。最も注目されたのは、「傍観者」の位置づけですよね。「傍観者」はそれまでの研究では、その存在すら触れられなかったことが多かったのですが、実は、教室の中でこの「傍観者」の存在が非常に重要で、いじめを支えてしまっていることがこの研究で明らかになったということは、皆さんもよくお聞き及びのことだと思います。

 けれども、意外にそれ以外の部分についてはよく知られていないのではないかと思います。

 ステグマという言葉を聞いたことがあるでしょうか。私は、森田さんの研究で最も注目すべきことはこのステグマだと思っています。ステグマとはもともと負のレッテルを貼るという意味です。それまでは、行動が遅い子(のろい子)、場の空気が読めない子、不潔などの要素を持っている子など、ある面での能力に欠ける子に貼られていたと言われていたのですが、森田氏の研究によって能力の高い子にも貼られることが明確になりました。学校現場で担任をしてきた先生方にとっては、特に珍しいことではないという感覚をお持ちだと思いますが、明確に研究結果として示されたことは非常に重要です。教師の側から見ていわゆるまじめないい子にもステグマが貼られるわけです。総じて言えば、このステグマは、その子の能力とは直接関係なく、目立つ子や異質なものに対して行われることがはっきりしたということです。このステグマ貼りがいじめの実態です。

 それでは、なぜ子どもたちはステグマを友達に貼り付けるのか。

 最初に考えられるのは、ステグマを貼る子の倫理観や道徳観が未発達であるということです。これは多くの人が考えることだと思いますし、あながち間違っているとも言えません。しかし、もしそれだけが理由だとしたら、次々に起こるいじめ事案はクラスの中で限定的な子が何度も繰り返していることになります。ところが、実際は、そういう子がいつもいじめる側に立っているかというとそうとは限りません。立場が逆転し、いじめていたはずの子がいつの間にかいじめられる側に立たされていたということはよくあることです。つまり、その子以外にもステグマを貼る子がいるということです。確かにいじめ事案でしょっちゅう名前が出てくる子がいるのも確かですが、意外な子の名前が出てくることも結構ありますよね。まあ、それだって、その時にいじめる側に立った子の倫理観や道徳観が未熟だったということもできますが、まさかと思う子の名前がでてきたときや、次々に違う子の名前が出てくるような事態の前では、倫理観や道徳観だけですべて説明できるのかと思ってしまいます。そもそも、小学生や中学生で完全に倫理観や道徳観が確立している子がどれだけいるかとも思います。そう考えると、もっと違う何かがいじめを支えているのではないかと思うのです。

 ちなみに、そういう道徳観を高めるのが道徳の授業であり、いじめの問題は結局道徳の授業を充実しなければ解決しないという人がいます。それも間違いだとは思いませんし、最も核になるものであるとは思います。けれども、週1回の道徳の授業でしっかりと心を育てるには、気の遠くなるような時間がかかります。その効果を待っているうちにいじめが深刻化してしまいます。道徳の授業は重要ですが、それだけでいじめを軽減することはできません。

「定義」と「いじめ」

前回、学校の「丸腰」状態について書きました。そして、少しずついじめについて書いていくとしました。今回は、まず過去の経験を踏まえて私の基本的な考え方について触れておこうと思います。この文章は昨年度自校の職員向けに校長の私が示したものを一部修正したものです。

学級担任をしているとき、学活の時間に「定義づけテスト」いうのをやっていました。黒板に示した言葉を自分なりに定義してみようというもので、例えば、「鉛筆」という「お題」を出すと生徒が「字を書く道具」などと書きます。それを集めて生徒の前で私が読むという、いたって単純なものです。これが結構面白い。最初は目に見える物から始めて徐々に抽象的な言葉(概念)へと発展させます。「優しさ」や「幸せ」など「お題」が抽象的になるほど生徒の回答も多様になります。生徒の持っているイメージもよく表れます。教室全体を「ほーっ」と感心させるものも結構出てきます。

もともと定義とは、「概念の内容や用語の意味を正確に限定すること」(精選版 日本国語大辞典 コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E5%AE%9A%E7%BE%A9-79069)です。例えば、新型コロナウイルスを撲滅するためには、ウイルスがどんなものかという「正体」を知る必要があります。さまざまな分析や解析によって他のウイルスと何が違うのかを突き止め、ウイルスを「限定」することで「正体」が判明し、ワクチンの開発も可能となります。まさにウイルスを「定義」しているわけです。そうやって開発されたワクチンは、あくまでも限定された範囲内でどのくらい効果があるかということがわかるわけです。

 ところが、学校における様々な課題、特にいじめについてはだれも明確な定義を持ち合わせていません。これが問題を複雑にしています。確かに文科省は定義を示していますが、現在の定義は範囲が広く、「限定」が非常に難しい内容です。昭和61年度に明記されていた「弱い者に対して一方的に」「継続的」「深刻な苦痛」「学校としてその事実を確認」などの表記がすべて削除され、現在いじめは被害者が「いじめられた」と思うことによって成立することになりました。しかし、いじめられた側にもいじめについての明確な定義があるわけではなく、冒頭の「定義づけテスト」と同様、あくまで個人のイメージなのです。自ずと生徒一人ひとりのいじめの定義もそれぞれ違ったものにならざるを得ません。

文科省が定義を広くとらえるようになったのは、いじめによる自殺など重大な事態をなくすために早期発見、早期対応を緊急課題としたからです。いじめによって自ら命を絶つという数多くの悲劇があったことは忘れるわけにはいきません。しかし、深刻ないじめをなくそうとしたことで、皮肉にもいじめの増減さえよくわからない事態となっています。それぞれに定義が違うものを集計しても正確な経年比較はできないからです。また、明確で統一された限定がないということは、正体がはっきりわからないということです。正体がわからないものをなくすことは、理論上不可能です。

新聞やニュースではよく「いじめ過去最多」などと報じられます。それを見た生徒や親は「やっぱりなくならないのか」と感じ、いじめに対して、より敏感になり、些細なことも「いじめ」だと感じやすくなります。いじめがなくならない隠れた原因の一つがここにあります。

このような状況で私たちにできることは、目の前で起こっていることが生徒にとって望ましいかそうでないかを考えることに集中することだと思います。いじめかどうかという識別よりも「生徒にとって何が良くて、何が悪いのか」を考える方がずっと重要です。

(作品No.18HB)

(追伸)これを書いたきっかけは、生徒間のトラブルが多発するなかで生徒指導担当の先生を中心に、どの事例をいじめとして市教委に報告するかどうかで時間をかけているのを見て、そんなことに時間をかけるのはもったいないと感じたからです。また、学級担任や部活動の顧問が保護者と対応するときに「これはいじめだ」と言われることに対するプレッシャーを少しでも軽減できればと思ったからです。報告についてはできるだけそのまま報告すればいいし、いじめはいじめられたと感じたらいじめなのですから、起こって当たり前です。被害者の生徒や保護者が「いじめだ。どうしてくれるんだ」と強く訴えてきたとしても、「そうです。いじめとして対応します」という姿勢でいればいいのです(実際に保護者にそういう言い方はできませんが・・・)。学校には詳細な対応マニュアルがあります。その通り丁寧に対応すれば、何もショックを受けることはないし、プレッシャーに感じる必要はないと思うのです。そもそも定義による限定ができないのですから、発生件数を気にすることに意味があるとは思えません。これも「困難校」のストラテジー(対処戦略)の一つです。