遠くから見る その2

全国5か所(和歌山、福井、山梨、福岡、長崎)に展開する「きのくに子どもの村学園(学園長:堀真一郎氏)」では、教科書にとらわれない学びが中心で、宿題もテストもない。通知表は数字による評定ではなく、その子の伸びているところを文章で記述する。30年前の1992年、和歌山県の北東の端、橋本市の山中でスタートした学校です。私立ですが、学校教育法に定められたいわゆる「1条校」でフリースクールではありません。「どうせ小学校だろう」思われたかもしれませんが、ここは小中一貫校です。

 同様の「自由」を掲げた私立学校は、全国を探せば結構ありますが、圧倒的に私学が多いのは、制度の縛りが少ないことが大きな理由の一つでしょう。公立中学校なら県立高校の入試制度を県教委が細かく定めていますし、入試問題の大半が選択式です。選択式問題はどうしても知識を問う内容に偏りがちです。そのうえ、複数志願制を導入しているところでは、A高校からB高校へ点数が知らされることがあるため、採点はできるだけ客観的なものでないと公平性が保てません。読解力や情報処理能力を問う工夫はされているようですが、それも限界があります。大学入試で記述式を取り入れると言っていた文科省が直前になって実施を断念したのも客観的な採点が難しいからです(初めからわかっていたことだと思うのですが・・・)。

 本年度の高校入試選抜要綱を作成するにあたって、県教委は事前に各地区の中学校長会に意見を求めました。いい機会だと思って当地区の回答は私が書きました。内容は「中学校の教諭は多くの制約の中でアクティブラーニングや探究的な学習に誠意を持って取り組んでいるが、どんなに工夫を凝らした授業をしても、生徒や保護者の多くが公立高校進学を希望している限り、特に3年生では入試問題に対応できる授業を実施せざるを得ない。いくらコミュニケーション能力等が高くとも入試の点数には反映されないような状況では、そういう力をつける授業は「やり損」だと考える教員を納得させることは容易ではない。せっかく小学校で、多くの体験活動を取り入れ、幅広い学力をつけようと努力しているのに、それを十分に発展させる時間がない。何より、教員のモチベーションが上がらない。早急に対応しないと文科省のいう「学力」を身に付けることは到底できない」という内容で文書を提出しました。今の県の入試制度は学習指導要領の理念とあまりにも乖離が大きいと感じます。

 なかなか変わらない公立高校入試とそれに制約される公立中学校では、知識優先の授業から脱するには限界があります。それでも(条件は大きく違っても)、私は冒頭に挙げた「子どもの村学園」のような学校から吸収すべきものはあると思います。その一つが以下に示す堀学園長の言葉です。

「大人はよく子どもに、“自由にやってごらん。でも責任は自分で取るんだよ”と言います。それは、ある意味脅し文句でもあるのです。子どもの村では、“自由にやってごらん。責任は大人が取るから”と言うのです。子どもなりに考えて、勇気を出してやったことも、うまくいかないことだってあります。そこで、“自分で決めたんだから”“一体何やってるの”と言うのは、“どうせ失敗すると思って見ていた”のと同じことです。」(宿題も校則もない「自由にやってごらん。責任は大人が取るから」授業も子ども任せ 「先生」のいない学校 2/12(土) 13:01配信 週刊女性PRIME 下線は引用者)

 この考え方には賛否両論あると思います。でも、少なくともこういう考え方もあるという「気づき」を私たちに与えてくれます。その「気づき」が、私たちを「褒めるために指導する(叱るを含む)」という教師の原点に帰してくれます。原点に公私の別はありません。

(作品No.31HB)

※ちなみに、県教委からは何も回答はありませんでした。あるわけないか・・・。

遠くから見る

これまで学校において当たり前とされていたことの真偽を確かめるためには、一旦「学校から離れる」という経験が大いに役に立ちます。「学校を離れるなんて、そうそうできるものじゃない」と思われるでしょうが、実際に離れなくてもいいのです。視点だけを学校の外に向け、「遠くから見る」視点を持つ機会をつくればいいのです。それなら、誰にでもすぐにできます。その視点は、学校や教師としての在り方を客観的に見ることにつながります。方法は簡単です。学校現場以外の人が書いた学校や中学生に関する本や調査、研究に触れることです。

今、学校が変わらなければいけないという論調の本は実に多く出版されています。それらの本が必ずしも学校現場の実態を正確に理解しているとは限りません。それでも、「大学の先生や研究者が書いた本なんて、どうせできもしない理想論に過ぎない」と思って、読まないのはもったいない話です。1冊の本を読んで、その中のわずか一行でも「その通りだ」とか「なるほど」と思えることがあれば、それだけで読んだ価値はあります。そして、学校の外から学校を分析している本を読むことは、私たちに「学校から離れた」視点を与えてくれます。その視点は、今自分のやっていることを、いい意味で相対化させてくれます。信念をもって教育にあたるというのは大切なことですが、それ以上に重要なのは、その信念が正しいのか、正しいとすればどうやって生徒に正しく伝えるのかということです。そのとき、今の中学生や若者がどういう意識を持っているかをきちんと分析してくれている本は貴重な存在となります。時間をかけて精密な調査や分析をするような時間は私たちにはありません。それをやってくれている人がいるのですから利用しない手はないと思うのです。

最近読んだ本の中にこんなことが書かれていました。

「・・・大事なことは、さまざまな「現場」(教育行政の現場、教育研究の現場、子育ての現場、社会教育の現場など)の知見を、お互いに持ち寄り、交換し、活かし合うことだとわたしは思います。「現場を知らずに・・・」という言い方は、その機会を自ら捨て去ってしまうことだと思います。もうちょっと言うと、「現場を知らずに」と言う先生にわたしが密かに思うのは、その先生の言う「現場」というのは、あくまでもその先生が経験してきた、ほんの何校か、何クラスかの「現場」にすぎないんじゃないか、ということです。その限られた経験をもって「現場」一般を語ってしまうのは、ちょっと乱暴なんじゃないかとわたしは思います。」(『「学校」をつくり直す』苫野一徳 河出新書 2019 p8-p9 引用文中下線部は私が著者の主張の他の部分から抜粋し、付け足したものです。ちなみに、苫野氏は熊本大学准教授、専門は哲学、教育学です)

私はこの文の内容をすべて受け入れているわけではありません。この人は、哲学、教育学が専門ですが、最近の教育論の中心になっているとも言える教育社会学は、特定の現場で起こっていることが社会の縮図であり、それを細かに分析することに意義を認めるものです。そういう意味では、限られた現場を語ることにも大いに意味はあると私は思います。

でも、私はこれを自戒を込めて読みました。自分たちの「現場」や「経験」を大切にする姿勢が、もし「独善」に変わってしまったら、あるいは「自信」が「過信」となってしまったら、見えるはずのものが見えなくなることもあるんじゃないかと。(作品No.11HB)

ややこしい話

「下の写真は何を映したものでしょう?」と聞かれたら、ほぼ全ての人が「リンゴ」と答えるでしょう。「ほぼ」と言ったのは、「わかりきった質問だ。さては答えはリンゴじゃないな」と考える人を想定したからです。

さて、ここに映ったリンゴ(?)が実際に目の前にあったとしたらどうでしょう。「見ればわかる。色も形もリンゴそのものだ」という人もいるでしょう。でも、それは紙で精巧に作られた偽物かもしれない。「じゃあ、持ってみれば」という人もいるでしょう。リンゴにはリンゴなりの重さというものがある。でも、リンゴと同じくらいの重さの物は他にもあります。決め手に欠けます。「それなら、食べてみれば?」。見た目もリンゴ、重さもリンゴ、味もリンゴとなれば、それはリンゴ以外には考えられない。でも、現代の技術をもってすれば、カニなしのカニカマと同じようにほとんど同じ味のものを作ることはおそらく可能でしょう。いったい私たちは普段どうやってリンゴをリンゴとして認識しているのでしょう。

 この問題に明解な答えを出したのがドイツのフッサール(哲学者)です。フッサールは「「リンゴが在る」からリンゴが見えるのではなく、「リンゴが見えるから」リンゴがあると思うのだ」とし、リンゴとは何かという細かい定義(色、形、味、成分など)を突き詰めていくことはあまり意味がないと考えました。つまり、絶対的な真理を想定せず「どんな場合に私たちは(それがあると)思っているのか」を最終的な根拠としたのです。簡単に言うと、見ている人がそれをリンゴだと思うからリンゴはリンゴであるというわけです(ややこしい)。見ていない人からすればリンゴは存在しないのも同じですから。 

一つの物がそこに存在し、それがどういうものかはそれまでの経験などに基づいた人間個々の意識(定義)によって決められます。そして、互いに「これはリンゴだよね」「そうそうリンゴだよ」という共通了解があって初めて「リンゴ」という言葉が成立するのです。だからこそ、「リンゴ」と聞くと誰もがおおよそ同じようなイメージを抱くことができるのです。そして、時には「よく見返したり人とも確認し合ったりする中で、「あ、やっぱりまちがっていました」ということになる可能性」もあるのです。これが大切なことです。真実は一つとする一元論から脱するためには、この共通了解しか術がないということです。

 フッサールのこうした考え方は、現象学的還元と呼ばれ長い間批判に晒されました。それは、それまでの哲学が真理を前提にしていたのに対し、その前提そのものを否定したからです。しかし今、現象学は世界的に認められ、教育界にも大きな影響を与えています。

私たちが、生徒を理解しようとするとき、同僚の先生や先輩に「あの子はどう理解すればいいのでしょう」と意見を交わし合います。それこそが互いの共通了解の形成過程なのです。そしてその過程を重ね続けることで初めて、日々変化を続ける生徒を互いに共通理解(了解)する瞬間に出会えるのです。(作品No.23HB)

(※印の「 」内は、『知識ゼロからの哲学入門』p124-p127竹田青嗣+現象学研究会、2008,6,25、幻冬舎からの引用)

「名言集」の名言

書店に行けば名言集の類いの本は山ほどあります。ネットを検索したらもっと膨大な数の名言が検索できます。話のネタや通信のネタに使えるものがあればと思ってよく利用しますし、本もそこそこ買いました。でも、いわゆる「名言集」というのは、意外と使いにくいものです。例えば、100の名言が掲載されている本で「これはいい」と思えるのは数個あれば良い方です。中には「買うんじゃなかった」というものもあります。最近では、この手の本を買うときには、ぱらぱらと頁をめくって一つでも「これは」と思うものがあるかどうかを確認するようにしています。一冊に一つでも「これはいい」と思える言葉があれば買った価値はあると思うからです。自分にとってしっくりくる言葉でないと人には言えないし、自分がなるほどと思わないのに人に伝えることはできません。

私にとって最も効果的なのは、自分の記憶の中で「そういえばあんなこと言っている人がいたなあ」というおぼろげな記憶からキーワードを探し、ネット検索して具体的な人名や正確な言葉、出版元等を調べるというやり方です。そうやって選んだ言葉は、結構しっくりきます。

ネットは膨大な量の情報で溢れています。暇つぶしに見るときは良いですが、そうでないときは、目的を持っていないと情報の波の中で溺れそうになります。当たり前のことですが、私の中で長い間記憶に残っているということは、それだけ、自分にとって意味のある言葉だということです。名言集のコピペは所詮借り物でしかないわけです。

それでも時には、名言集やネットの中にも「これはいい」という言葉を見つけることがあります。でもよく考えると、その言葉はもともあった自分の考え方を後押ししてくれるものだったり、記憶に残った言葉と結びつけられたりするものです。結局、自分の記憶や経験(読書を含む)、または考え方と結びついて納得できる言葉だからしっくりくるんだと思います。しっくりきていないのに伝えるのはなんだか嘘をついているようで気持ち悪い。(と言いながら、何となくネットを見ているときに、「あっ、そういえば」と気づくこともありますから、なんとなく見ることがまったく無駄かというと、そうとは言い切れないですが。)

そして、全く自分の考えと違う言葉に出会ったときは、逆にその中身をできるだけ詳しく確認したくなります。もしかしたら、真逆の考えが新しい発見(経験)を生み出してくれるかもしれないと思うから。(作品No.22HB)

「弱い者」について

ある学校のことです。その学校の生徒が知的障害のある人をからかったということが、校長の耳に入りました。校長は、たいそう憤慨し、すぐに全校生徒を集め訓話を行いました。そこで、その校長は怒気を強めてこう言いました。「弱いものをいじめるのは、人間として最低の行為だ。絶対に許せない。」と。

その校長は、自分の学校の生徒が非人間的な行為をしたことを非常に重大なことと捉えて、まさに真剣に生徒に訴えたわけです。この思い自体を否定することはできません。しかし、生徒の中には違和感を覚える者もいました。それは、校長が障害のある人を「弱い者」と断定したからです。

一般に「障害者問題」というとき、障害者に何か問題があるわけではありません。仮に、障害のある人が弱い立場に立たされているとしたら、それは、周囲の偏見や不十分な環境にこそ「問題」があるわけです。「弱い者」という言い方には、どこか「上から目線」を感じます。そうした考え方を掘り下げていけば、障害のある人に対して何かをして「あげる」、という意識が心の奥にあるのではないかと思います。この校長に悪気があったとは思いませんが、一昔前の古い価値観が染みついていたのではないかと思います。この人が若かったときは、「障害のある人=弱い人」という暗黙の了解があったのかもしれません。

どんな人間でも、得意なこともあれば、苦手なこともあります。極端なことを言えば、100mを10秒以下のタイムで走るアスリートに比べれば、私などはカメのようなものです。それを誰も障害とは言いません。また、私は最近、歳のせいで細かい字がよく見えなくなってきましたが、それも障害と言われることはありません。でも、視力が2.0の人に比べれば、見え方が制限されています。私よりもっと視力の弱い人は、眼鏡をかけますし、腰が悪い人はコルセットを巻いたりして自分のできない部分を補おうとします。歩くのが困難な人が車いすを使うのも同じことです。部分的に弱い面をもっていることはあるでしょうし、弱っている人はいるでしょう。でもそれは、現時点でできないことがある、あるいはできなくなった人がいるというだけなのです。そもそも、「弱い」という言葉はあくまでも相対的にしか使えないはずです。

また、弱い面を持っていることを「良くないこと」と決めつける姿勢にも違和感が残ります。自分の「弱さ」を自覚することで、他者に優しくなれることはよくあることです。

 体だけではなく、心も同じです。「昔ならこのくらいのことで弱音を吐く生徒はいなかった」と何万回ぼやいても、ほとんど意味はありません。目の前の生徒がそうであると思うなら、その子ができることを少しでも増やせるように支えるしかない。「弱音」を吐く子どもをいったん受け入れたうえで、かけがえのない自分の「良さ」に気づくようにするにはどうしたらいいかを考えていくしかないのです。決して簡単なことだとは思いませんが、少なくとも私たちがその方向を見ていなければ、くじけそうになっている生徒に寄り添うことはできません。

 偉そうに言っている私自身、これまで多くの生徒を否定してきました。生徒にためにいつも十分に寄り添ってきたかと問われたら「NO」と言うしかありません。でも、そういう経験を思い起こすたび私に沸き起こるのは、取り返しのつかない「悔い」ばかりです。誰もが「弱い」面を持っている、頭では十分わかっていたはずなんですが・・・。(作品No.30HB)

働き方改革で大切になること

ある県で、令和5年度採用分の教員採用試験の倍率が、ついに1.0倍となりました。事態は本当に深刻です。最大の原因は、長すぎる教員の勤務時間にあります。働き方改革は、すでに現職教員の意識改革でどうにかなる段階ではありません。思い切った業務削減の方向で考え直さなければ、近いうちに学校は立ち行かなくなるでしょう。文科省は土日の部活動を外部委託する方針を打ち出していますし、学校への留守番電話導入もかなり広がってきました。しかし、今後、根本的な改革として給特法の改正や勤務契約の明確化などが急務であると思います。

そうした状況にあって、私たち現職の教員にとって、今ここで必要なこととはどんなことでしょうか。今までのやり方を見直し、できるだけ無駄のない仕事の仕方を工夫することも大切です。行事の精選も必要です。また、同じ仕事をするにしても必要以上にこだわりすぎないことも必要かもしれません。また、積極的に現在の勤務状況のおかしさについて主張することも大切です。現場が黙っていたら、教員採用試験の倍率低下はさらに深刻なものになるでしょう。

でも、今一番やらなければいけないのは授業力の向上だと、私は思います。

「何で?」と思われるかもしれませんが、近い将来、働き方改革の成果によって仕事量が減ったとき、私たちに問われるのは「授業で生徒を惹きつける力」であり、「確実に学力を身に付けさせる指導力」となるでしょう。これまで部活動は(その経営がうまくいけば)、授業や学級経営に大きなプラス効果を生み出してきました。それは、部活動の顧問と部員との信頼関係が他の学校生活にも大きな影響を与えてきたからです。また、留番電話導入などによって放課後の保護者対応が減るかもしれませんが、保護者や生徒の視線は、より授業に向けられることになると思います。私たちの本務は授業ですから、当たり前と言えば当たり前なのですが、これからは今まで以上に、高い授業力が求められるのは間違いないと思います。

ブラックとまで言われている教員の職場を改善するのは急務です。若い人たちが一人でも多く教職に就きたいと思えるようにしないと、大変なことになります。でも、過渡期に働く教師が頭に置いておくべきことは、今までよりも確実に生徒や保護者との接点は少なくなるということです。それをどうやって埋めていくかを、改革が進んでいない今だからこそ考えておかなければいけないと思います。今でさえ、学校に対して理不尽な要求をしてくる保護者が後を絶たない状況です。今後、部活を外へ出し、行事を減らしたり外部委託したりするなかで、これまで以上に不平不満を言ってくる保護者は増えるでしょう。少なくとも改革がある程度進み、定着するまでの間は保護者の不安も大きくなります。その不安がクレームとして学校に寄せられることになることは容易に想像できます。今は改革が遅々として進んでいないように見えますが、恐らく今後どこかの時点で加速がついてくるときがきます。そうしたときに私たちに残された武器は、確かな授業実践と子どもや親と真摯に寄り添う姿勢だけとなります。授業は学力向上を目的とすると同時に、今まで以上に生徒と接する貴重な時間となるのは必定です。子どもや親との限られた接点ともなるその時間を、いかに濃密なものにできるか、その力を今からつけておくことが、最も大切なことだと思います。

忙しすぎて本務である授業研究をする暇すらないような今の状況は、すぐにでも改善しないといけません。それは、制度に関わる問題を多く含んでいますから、文科省をはじめとする行政の仕事です。甘いかもしれませんが、いくらなんでも教職志望者がこれだけ激減しているのに、国が何も手を打たないはずはないと思います。だからこそ、改革が一通り進んだ後のことを今から考えておく必要があると思うのです。(作品No.45HB)

エポケー

クリティカルシンキングというのを聞いたことがある人も多いと思います。「本当にそうか?」「他にはないのか?」など、今まで持っていなかった視点で対象を見つめることです。これは、対象をありのままに見ようとするときには、なくてはならない視点です。今まで当たり前にやってきたからそれでいいと思うと、新しいアイデアが出てこないばかりでなく、今までやってきたことの本質的な意義すら見落としてしまうことになりかねません。

クリティカルは「批判的」と訳されることが多いのですが、これは若干誤解を生みやすい。正確に言うと単なる批判ではなく「建設的な批判」という意味であり、どちらかというと「吟味」のほうが意味としてはしっくりくると思います。目の前の対象が本当に必要なのかどうかと「吟味」するために、「これでいいのか」という目で見てみましょうということです。そして、その視点を持つためには、自分の価値観を一旦「保留」する必要があります。この「保留」を現象学ではエポケー(判断停止、判断保留)と言います。

例えば、インドの人はカレーを手で食べることがありますが、これを日本人がはじめて見れば、違和感を抱く人もいるでしょう。それは、日本で生まれ育ってきた私たちには素手でごはんを食べるという習慣がなく、むしろ行儀が悪いこととして周囲の大人から躾けられてきたからです。でも、手でご飯を食べているインドの人を前にして「なんという非常識な」と思ってしまったら、インドの文化やそこに生きてきた人々を理解することはできません。私たちは、日本の常識や文化は一旦「保留」して、そこにどんな意味が込められているかを考えてこそ相手を理解することができます。学校の常識や教師としての「当たり前」も時には一旦「保留」し、その意義を考えることも必要だと思います。

 さて、学校現場を支える理論は教育学だという常識もかなり前から変わっています。例えば、スクール・カウンセラーは、導入当時「生徒を甘やかす」として学校現場の抵抗感が強くありましたが、今では常識、というより学校教育は心理学なしでは語れません。また、有名な「いじめの四層構造」を解明した森田洋司氏は、専門が教育社会学です。教育学が多くの国民や教員の納得にとって疑いようのないものと捉えられていたときは、社会全体にその価値を支える「まなざし」(学校のことは先生に任せておけばいいなど)があり、他の学問領域からすればあまり強い関心が寄せられてこなかった面もあるのでしょう。逆に、他分野からの関心が高まり、教育を研究対象とする学問分野が広がったのは、学校教育の「吟味」が必要だとする見方(クリティカルな視点)が増えたからでしょう。

インターネットやSNSなどがどんなに発達しても、AIがどんなに進化しても、人が大切にしなければならないことは変わらないのかもしれません。でも、かつてグーテンブルグが活版印刷を考案した(諸説ありますが)とき、社会は大きく変わったはずです。電話が発明されたときもそうでしょう。何か便利なものが発明されるたびに、それまで信じられなかったようなことが当たり前になり、それによって人びとの考え方や価値観も大きく変わったと考えるのが自然だと思います。何が起こっても教育の本質は変わらない、だから、教師も変わる必要はない、私にはそう言い切る自信はありません。(作品No.24HB)

参考:1960年、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが『<子供>の誕生』という本で中世ヨーロッパには教育という概念も子供時代という概念もなく7〜8歳になれば、徒弟修業に出され大人と同等に扱われ飲酒も恋愛も自由とされたと述べています。ヨーロッパにおいて子供という概念はもともとあったものではなく、学校教育制度が生み出したものであることを示したのです。これも、クリティカルに物事をみる視点から生まれたのだと思います。

「子どもを真ん中に」-子ども家庭庁設置に期待すること-

ちょっとびっくりしました。昨日、岸田総理が答弁で「子どもを真ん中に・・・」という言葉を使ったのをテレビで見たからです。このブログは「こどまん通信」。「こどまん」は、子どもを真ん中に、の略です。光栄だと感じればいいのか微妙なところですが。

私の勉強不足だとは思うのですが、どうも「子ども家庭庁」の中身が今一つよくわかりません。各省に分かれていたものを一つに総合して司令塔を一元化することによって、施策の実行が迅速に行われることにつなげようという主旨なのかとは思うのですが、スッキリしない点もあります。

例えば、幼稚園はこれまでどおり文科省の管轄に残るそうです。幼保の連携を考えれば思い切ってどちらかで一つにする方がいいような気がします。

でも、期待することもあります。それは児童虐待への対応です。児童虐待は、保護者の意識や倫理の問題だとされることが多いのですが、じつはそうとは言い切れません。児童精神科医で臨床心理学者の滝川一廣氏は、虐待の問題について次のように述べています。

「たまたま幸運に恵まれた我々が、恵まれなかった親たちの失敗を一方的に「虐待」と名づけて糾弾するのは果たしてこころあることなのか」

「そもそも子育ての不調を相談すれば直ちに「虐待通告」をする(しなければならない)専門家のドアを困っている親たちが叩くだろうか。」

そして、滝川氏は生後最初の二年間に虐待死や虐待が集中していることをふまえ、「0歳~一歳の育児を社会がしっかりと護ることさえできれば、<虐待死>ひいては<虐待>は激減する」として「子どもを本当に護りたければ、何よりも「育児を護る」、すなわち「育児に取り組む親を護る」ことこそ真っ先にしなければならない」と主張しています。国は2000年「児童虐待の防止等に関する法律」を制定し通告の義務を明確化(このとき社会福祉法も改正された)、その後2020年4月に改正し、親の虐待行為を体罰とすることで歯止めをかけようとしてきました。いじめの定義を広いものに変更してきたのと同様に、虐待の早期発見を確実に行うために、問題を拾う「網」を広く細かくしてきたのです。それはそれで間違っているとは言えません。しかし、滝川氏の言うように、虐待は必ずしも親の無責任や倫理観の乏しさから生じるとは限りません。経済格差がすすみ、貧困家庭が増加していることを考えると、まず必要なのは福祉を充実させて本当に困っている親を支える制度を確立することでしょう。早期発見は重要ですが、根本の原因をなくす施策を展開しなければ通告数は増えても、本当に困っている人がその膨大な数の中に埋もれてしまうかもしれません。

また、通告を受ける専門機関(子ども家庭センターなど)もその通告数の多さゆえに十分な対応ができなくなります。実際、多くの専門機関はすでにパンク状態になっており、学校が早期に発見して通告しても「まずは市町の児童福祉に相談してください」など、いわゆる「門前払い」とせざるを得ないことが多くなりました。

こういう実態を考えたとき、今回の「子ども家庭庁」には、虐待を早期に発見するだけでなく福祉の面での十分な支援策を講じてほしいと思います。再び滝川氏の言葉を借りれば、「「児童虐待」という否定的概念とそれに基づく摘発型の対策」が「問題解決の足枷」になっている面は否定できません。また、福祉領域において「障害」の「害」を問題にする視点があるのなら、虐待の「虐」も表現を変えて「育児困難」や「子育て不安」として捉えることが必要だという滝川氏の見解は、実に的を射ていると思います。

「子どもを真ん中に」という言葉を首相が使ってくれたのはありがたいことです。だからこそ本当に子どもが真ん中に置かれる社会をつくるために、実態に即した施策を打ち出してほしと願ってやみません。(作品No.135RB)

(参考・引用文献)滝川一廣「基調論文<虐待死>をどう考えるか」『子ども虐待を考えるために知っておくべきこと』日本評論社こころの科学2020年10月1日発行、pp2-29)

名刺と肩書き

名刺にこだわる人は結構いるもので、名前や住所、職場と役職以外に地元の写真を入れたり、メッセージを入れたりする人もいます。インターネットが始まったころ、URLを入れるのがかっこいいと思っている人もいました。カラフルな名刺を好んで使う人もいます。確かに、そういう名刺は印象に残りやすいと思います。現役時代、名前と学校名、所在地や電話番号しか書いてない私とは雲泥の差です。

 そんななか、究極の名刺に出会いました。名前しか書かれていないのです。それをもらったとき、「ほー、こういうパターンもあるのか」と思いました。その人曰く、「私は私という人間そのもので勝負したいと思っています。肩書で私という人間を判断してほしくない」というのが「名前のみ名刺」を作った理由だと自信たっぷりに仰いました。世の中にはいろんな人がいるものだと思いました。相手の肩書によって物の言い方や態度を変えるのはよくないというのも一理なくはない。でも、かなりの違和感がありました。

 それから何年か経って、ある校長先生からこんな話を聞きました。私が県教委に出るときの所属校の校長だった人です。「指導主事になったら、名刺は必ず多めに作っておきなさい。中でも役職は非常に大切です。なかには、名前だけの名刺を作って悦に入っている人がいるが、自分の身を明かさないことは、相手に対してこれほど失礼なことはないし、実に無責任な態度です。指導主事の名刺を渡すということは、県の職員として責任をもって対応しますという意思表示でもあるのです。」なるほどと思いました。名前なしの名刺を受け取ったときの違和感の正体はこれだったのかと納得しました。

 また、その校長先生は指導主事になろうとする私へのアドバイスとして「当たり前のことですが、自分が作成した文書には必ず自分の名前を書くこと。上司の代わりに出す文書であっても最後に担当者の自分の名前を書くこと」とも言われました。

 つまり、自分の名前を出すということは、責任の所在を明確にするということです。ごくまれにですが、学校だよりに〇〇学校長とだけ書いて自分の名前が書かれていないものを見かけます。インターネット(ホームページ)に上げるときに消すというのならまだわかりますが、保護者や地域に紙で配布する文書に名前を書かないのはどうかと思います。書かれたものというのは、口頭と違って後に残ります。そこに何か問題があれば、書いた者の責任が問われます。配布したものが確たる証拠になるからです。だから、できれば誰が書いたかわからなくしておいた方がいいという下心がはたらくのです。その気持ちがまったくわからないわけではないですが、名前を明記することによって書くときに細心の注意を払おうとする姿勢につながるのも事実です(その割には私の学校だよりはミスが多くて何度も出し直しをしましたが・・・)。

 肩書きを書かない名刺を作って相手に渡す人は、結局は肩書きにこだわっているように思うのです。最初隠しておいて、後で「えっ、あの人そんなすごい人だったの?」と言われることを期待しているような気がするのですが・・・。考えすぎでしょうか。

「努力」の扱い方

「努力することは大切だ」というのは、誰もが認めることでしょう。私も学級担任や部活動の顧問として何度も子どもたちに訴えてきました。そんなとき「努力は必ず報われる」という言葉をセットにしていました。そうしないと説得力がないからです。でも、「努力」と「報い」をセットで語ることにはずっと違和感がありました。「本当に努力は必ず報われるのか」というためらいです。

 ちょっと古いデータではありますが、2007年にベネッセ教育総合研究所が行った「学習基本調査」によると「日本は、努力すれば報われる社会だと思うか」という問いに、「そう思う」と答えたのは、小学生68.5%、中学生54.3%、高校生45.4%、大学生では42.8%だったそうです。年齢が上がるについて肯定的な意見が減少しているのは、少しずつ、現実が見えてくるということでしょうか。それにしても、中学生の半分近くが努力は報われないかもしれないと考えているというのは、無視できないデータです。

これは、私の推論にすぎませんが、こうした傾向は「努力は報われる」というときの「報い」の意味を「目に見える結果」に求めすぎてきたからではないかと思います。

 高度経済成長の真只中であれば、今、努力すれば将来必ず自分にとって素晴らしい人生が待っていると信じることができました。だから、大人たちの「今ちゃんと勉強しておかないと将来困ったことになるよ」という言葉もそれなりに現実感を持って伝わったのだと思います。しかし、バブルの崩壊で経済がほとんど成長しなくなり、滅私奉公の精神で会社に忠誠を尽くしてきた人がリストラの憂き目にあう悲劇があちこちで起きました。終身雇用というゴール(結果)を信じて真面目に勤めてきた人たちにとっては、努力や勤勉を否定された気がしたでしょう。そう考えれば、人びとが先のことよりも「今」を充実させたいと考えるようになったのはごく自然な流れといえます。少し前に「リア充」という言葉が若者を中心に流行ったのもそうした生き方を肯定するものだったのだと思います。若者はいつの時代でも時代の空気を最も敏感に受け取って生きています。それは、職業人としてだけでなく、個人としても豊かな人生を築いていきたいという前向きな感情でもあります。こうした生き方に対して「目先のことばかり考えてどうするんだ」と彼らに説教しても、おそらく何も伝わらないでしょう。 

私は、努力することの大切さを否定したいのではありません。むしろ、今まで以上になぜ努力は必要なのかを子どもたちに訴えていく必要があると考えています。ただ、これまでのように「目に見えるご褒美のため」として意味づけるのではなく、「今」の自分を充実させるために必要なのだと訴えるべきだと思います。

 

オリンピックに3大会連続出場を果たした、あるトップアスリートはこう言っています。

「たとえ結果が思うように出なくても、努力は無駄だったと思ってはいけない。何かに向かっていたその日々を君は確かに輝いて生きていたではないか。それが報酬(ごほうび)だと思わないか。」

 私たちは、部活動などで大きな大会に出場したり、好成績を上げたりした生徒やその部に対して、あまり深く考えることなく「よくがんばったね」と言います。でも同時に、そうした「目に見える結果」が出せなかった子どもたちに、どういう言葉が用意できるかを考えておかなければいけません。それを準備した上で、「結果」を残した子どもたちに賞賛の言葉をかけることが大切だと思います。努力は結果を伴うから意義があるわけではないのです。

「目に見える結果」を「報酬」とする考え方は、ときに子どもたちを追い込んでしまいます。経済的格差や貧困が問題視され、ヤングケアラーと呼ばれる子どもたちが増えています。努力できない環境のなかで生きざるを得ない子が増えているのです。しかも、ある研究によれば、皮肉にもそういう子どもたちの生活満足度が上がっているといいます1)。それは「結果が出ないのは自分の努力が足りないからだ」と受け入れて、報われることを端から考えてもみないからだというのです。そうした自己責任としての努力観を子どもたちに内面化させたのは、他ならぬ私たち大人です。私たちは「努力しなければ結果は得られないよ」という、どこか否定的なイメージを伴う言い方から、「努力は自分の人生を豊かにしますよ」という前向きな言い方に変えていく必要があると思います。

(作品No.134RB)

1)土井隆義(2021)『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』岩波ブックレット(初版は2019)