「アリにだって足音はある」

「アリにだって足音があるはずです。見えないことはないことではない。聞こえないことは動いていないことではない。表現しないことは考えていないことではない。見えなくても、聞こえなくても、表現されなくても、そこにあるものを感じ取る情緒こそ、人が育ち合う場所では最も大切なものです」

福井雅英・山形志保(2023)『保健室から創る希望』新日本出版社,、p116

アリに足音があるなんて考えたこともなかったのですが、そう言われればもっともな話です。
どんなに小さな生き物でも、動けば必ず音はするはずです。
ただ、私たち人間には聞こえないくらい小さな音であるというだけ。

引用した本の著者の一人、山形さんは、高校の養護教諭。
いわゆる教育困難校と言われる学校で長く勤務されていたそうです。

そこで聞いたのは、大人が聞こうとしない生徒の小さな声だったのです。
貧困にあえぎ、虐待に苦しむ生徒が救いを求めて保健室にやってきます。
山形さんは、そうした生徒一人ひとりに丁寧にかかわってきました。

とにかく、生徒を否定しないことを実践してきた山形さんには、よほど注意深く聞かないと語ってくれない彼ら・彼女らの本音を引き出していきます。

正解を与えるのではなく、一緒に悩み、一緒に苦しんでくれる大人の存在は、義務教育ではない高校という場ではとても貴重な場です。

私は、この本を読みながら、献身的とも言える山形さんの実践に感激しましたが、反面、どうして保健室だけがその役目を負っているのかという疑問もぬぐえませんでした。
本当は、教室が彼ら(彼女ら)の声を聴こうとする場であることが必要です。

しかし、現実は違います。
「保健室で甘やかすから、授業に出てこなくなる」と強く非難されることも少なくなかったと言います。

かつて、私は、全国でも珍しい県立のフリースクール(全寮制)に指導員(指導主事)として勤務していたことがあります。
元高校教師の人と二人で子どもたちに関わっていました。
その学校は、中学を卒業してから入学してくるのですが、それぞれに違った苦しみを抱えている子が多く、ほとんどが家庭の温かさを知らない子でした。

生徒たちは、数々の問題行動を起こしました。
そのたび、元高校の先生は「ルールが守れないのなら、やめればいい」と事あるごとに生徒に言い放っていました。
私はその姿を見て、「ああ、この人は今までの高校でも同じように言っていたんだろうなあ」と感じました。
「退学」という伝家の宝刀を使って、生徒に言うことを聞かせてきたんだろうなあ、と。
(高校の先生がみんな同じだとは思いませんが)

確かに彼ら(その学校は男子だけでした)は、品行方正ではありませんでしたが、夜になると(全寮制のため職員が交代で泊まり勤務をしていました)、とても人懐っこく私に近寄ってきて、まるで幼児(おさなご)のような素直な面を見せてくれるのです。

彼らの多くは、既存の学校で「厄介者」扱いをされ続けてきました。
だから、彼らの口癖は「どうせ」でした。
「どうせ、俺たちの声なんか聴いてくれない」という諦めからくる切ない言葉です。
誰かが、彼らの本当の声を聴きだせていれば、こんな口癖は持たずに済んだでしょう。

彼らの本音は、アリの足音のようなものです。
普段は虚勢を張って強がってばかりでしたが、本当のところは、わかってほしいと誰よりも強く願っていたのです。

その本音は、いつも言葉にならず、なったとしても小さな小さな声です。
その声は、彼らが自分を受け止めてくれると信じる人にしか聞こえません。

不登校29万人 -「命を懸けたデモ」-

文科省「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」(令和4年度)によると、全国の小中学校の児童生徒数が112万3945人減少している(2010~2022)にもかかわらず、不登校者数は11万9891人(2010)から29万9048人(2022 過去最高)と、実に17万9157人増加しています。特に、直近の2020年から2022年には10万人以上増加しました。当然、不登校者数が全児童生徒数に占める割合は上昇し、1.13%(2010)が3.1%(2022)と約3倍になっています。不登校が急増している要因を、文科省は次のように分析して(同調査概要)います。

「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」の趣旨の浸透の側面等による保護者の学校に対する意識の変化も考えられるが、長期化するコロナ禍による生活環境の変化により生活リズムが乱れやすい状況が続いたことや、学校生活において様々な制限がある中で交友関係を築くことが難しかったことなど、登校する意欲が湧きにくい状況にあったこと等も背景として考えられる。」

また、文科省は、不登校の具体的な理由(2022)として「無気力・不安」が51.8%、「生活リズムの乱れ、あそび、非行」が11.4%を占めているとしています。このデータはさまざまな研究や論文で引用されています。

しかし、私はこの「具体的な理由」の結果に、かねてから疑問をもってきました。それは、この調査が当事者による回答ではなく、調査における「理由」の選択肢が昔から大きく変わっていないからです。かつて学級担任として生徒の不登校の理由を報告するたびに悩みました。保護者はもちろん、本人でさえよくわかっていないのに、私が選んでいいのかと。

文科省もその辺の矛盾を理解したのか、「不登校に関する調査研究協力会議」を設置し2019年に児童生徒に直接回答を求める実態調査を実施しましたが、残念ながら「回収率はきわめて低かった」1)と言われています。不登校の子どもたちの声を聞くことはそれほど難しいのです。理由がわからないと解決方法も見つかりません。また、本人や保護者も不安が募る一方でしょう。

例えば、「ぶどうの会」(山梨県不登校の子どもを持つ親たちの会)を設立した鈴木正洋・鈴木はつみ両氏は保護者から最も多く受ける質問が「子どもの接し方を知りたい」、「この先どうなってしまうのかとても不安。どうしたらいいのか」であると述べています2)

そもそも不登校は、登校できないことが問題なのはなく、登校できないことで自らを過剰に責め、自分を否定的にしか捉えられなくなり、最終的に生きることにさえ疲れてしまうところに大きな問題があります。

親も教員も何もできない無力感に(さいな)まれることも多いのですが、やはり、私たちにできることは、当事者の声を当事者のペースで粘り強く聞く耳を持ち続けることだと思います。私たちは職業柄、頭のどこかに「学校は来て当たり前」「来ることが正解」という前提で不登校の子や保護者と接してしまいがちです。確かに、不登校による学力低下や、社会性が十分に身につかないのではという不安はあります。また、進路に影響がないとも言い切れません。その子の将来を考えれば何とか学校に来てほしいと思います。しかし、不登校は「子どもたちの命を懸けたデモだ」3)と言われます。「デモ」の要求はただ一つ。「分からない」ことを「分かってほしい」という思い。どうして自分は学校に行けないのか、どうして人よりこんなに弱いんだ(本当な弱くないのに)、こんな自分に生きている意味はあるのか、頭の中は「分からない」ことでいっぱいなのです。だから、「デモ」を行っている最中に私たちが勝手に「理由」を当てはめることはできません。先に挙げた「ぶどうの会」では、入会時に保護者へ「子どものことは子どもに任せて待ちましょう」と伝えるそうです。これも勇気のいることだと思います。

私たちは「デモ」のきっかけは何だったのかを忌憚なく保護者を交えて職員同士で話し合うことが必要です。そして、その子が「デモ」の最中なのか、始めようとしているのか、終えようとしているのかを見守る視点を持つこと、教員は学校以外にも自分を成長させる場がたくさんあることを示すことです(タイミングは大事ですが)。そして、いつか必ず前を向いて歩きはじめると信じて寄り添うことです。

ちなみに、先般「滋賀県フリースクール等連絡協議会」が滋賀県内でフリースクールに通う不登校児童生徒と保護者に実施したアンケートがホームペーに公開されました。この調査が画期的なのは、氏名は伏せてあるものの、自由筆記がほぼ原文のまま掲載されていることです。同協議会は個人情報保護のため転記や引用を固く禁じているため、ここで内容を紹介することはできませんが、ぜひ勇気を持って、一度確認してみてください。私は自分の不登校に対する意味づけが決定的に変わりました。「命を懸けたデモ」の本当の意味がぐさりと胸に刺さったのです。子どもたちが語る真実の声です。私たちにはそれを聞く責任があります。

1) 『教育』2022年5月号(教育科学研究会、p4) 

2) 前掲、p29

3) 吉田田(ヨシダダ)タカシ「【行列のできるアートスクール】 不登校は命を懸けたデモ」2023年8月23日教育新聞デジタル 

吉田田タカシ:2022年「トーキョーコーヒー」設立(登校拒否の言葉遊びから生まれた、教育システムを進化させるムーブメント。

大人が楽しく学びあう拠点は全国に約300ヶ所)。

AIの時代

AIが急速に進化を続けています。進化したAIは「生成系AI」と呼ばれ、高い学習能力を持ち、その場に応じて自ら最適解を導き出します。生成系AIはインターネットなどから得た大量のデータをフルに活用して、瞬時にその場に適合した答えを出してくるのです。今はまだ、ピントが外れたような回答もあるようですが、そのうち、さらに進化して精度を上げてくるでしょう。

最近、インターネットを見ていると、こうした生成系AIを学校教育に導入しようとする企業が積極的にセミナーを開催しているのが目立ちます。多くの場合、無料オンラインで誰でも受講できるシステムになっています。誰もが知っているメジャーな企業が、虎視眈々と学校教育への進出の機会を窺っているようです。すでに特定の自治体と提携を結んでいる企業も少なくありませんし、大手の学習塾では、すでに実用化されています。

学校教育に参入しようとする企業が増えているのは、学校で行われている授業が、学習指導要領によって一定の制限があることも関係していると思います。生成系AIにしてみれば、集めなければならない情報も限定されるわけですから、冒頭で挙げたような「ピント外れ」の回答をしてしまう確率も低くなるので導入しやすいと考えられているのでしょう。

生成系AIにとっては、子ども一人ひとりの学習成果(テストの解答など)を情報として収集し、今、この子がどこで(つまづ)いているかを判断し、最も適した課題を作成することなど、朝飯前でしょう。うまく活用すれば、いわゆる「個別最適化」の学習の実現に大きく貢献するだろうと思います。しかも、これらの生成系AIの中には、インターネットから簡単に手に入るものもありますから、先生方の中にはすでに活用している人もいるかもしれません。

いずれにしても、近い将来、生成系AIの学校教育への参入は避けられないでしょう。そうなったら教師はどう対応したらいいのか悩ましいところです。ただ、AIに何を奪われるかと不安ばかりを膨らますのではなく、逆に「人(教師)にしかできないことは何か」を前向きに考えるチャンスとして捉えることが必要だと思います。ひょっとしたら、AIの登場は、そうした根源的な問いを私たちに投げかけているのかもしれません。

こんなことを考えていたとき、ある川柳を思い出しました。

「チョキを出す 我が子の癖(くせ)知り パーを出す」

どこか懐かしく、読む者を優しい気持ちにさせてくれる句です。わざと負けることは一種の「嘘」ですが、それは、時に子どもたちに自信を与え、時に可能性を引き出す、大らかで優しい「嘘」でもあります。子どもはいつかそのことに気づき、きっと自分に「嘘」をついてくれた人を感謝の気持ちを持って思い出すことでしょう。教師と子どもの関係も同じです。目の前の子たちに、人には相手の立場や心の機微を肌で感じる温かい心と、それによって受け継がれる優しさがあると伝えられたらどんなにいいでしょう。進化を続ける生成系AIなら、いつかこんな「嘘」さえもつけるようになるのでしょうか。

(文中の川柳は著作権者の了解のもと掲載しています。コピー及び転載は絶対にしないでください) 

作品No.238RB

働き方改革後に向けた準備

今、働き方改革(以下、改革)が少しずつ進められています。近年、教員採用試験受験者が激減している最も重要な原因の一つが、「ブラック」とまで言われる教師の勤務実態であることは否めないでしょうから、改革はまさに喫緊の課題です1)。文部科学省も学校(教員)が必ずしも担う必要がない業務を明示2)しています。それに沿って改革が軌道に乗れば、教材研究や子どもとかかわる時間を確保しやすくなるでしょう。また、全国で多くの新採用の先生が一年以内に離職している現状(例えば東京都では2022年度における一年以内の離職者は108人、採用者全体の4.4%)も改善されるかもしれません。

そうした中、学校は行事の精選などによって今までのやり方を見直し、個々の教員は無駄のない仕事を心がけることが大切です。でも、私は改革に最も重要なのは「授業力の向上」だと思うのです。改革とは別問題のように思われるかもしれませんが、実は「授業で生徒を惹きつける力」こそが、改革を意味あるものにする重要なポイントになるのです。

近い将来、改革は一定の成果をあげ、先生方の仕事量と責任の範囲は、おそらくこれまでに比べて軽減・縮小されていくでしょう。しかし、同時に子どもや保護者との接点がその分減るのも事実です。ある意味それ(軽減・縮小)が本来の姿だとしても、今までに比べて減っていく教師の責任の範囲を子どもや保護者が受け入れるにはまだ時間がかかるでしょう。

例えば、これまで子どもの成長の貴重な場であった部活動は、今後(何年後になるかわかりませんが)、皆さんの手から離れていきます。部活動に明け暮れていた自らの過去を振り返れば複雑な思いですが、今部活動が法的レベル3)で問題視され始めていることを考えれば、改革は避けられません。だからこそ、部活動の場における(、、、、、、、、、)子どもとのかかわりが減っていくことの意味を、完全移行の前だからこそ考えておかなければいけないと思います。部活動で担ってきた互いの信頼関係と子どもの成長の機会をどこかで「補填(ほてん)」しなければ、周囲の信頼は得られず、改革にブレーキがかかるでしょう。

また、全国に広がっている留番電話の導入は、膨大な時間を要してきた保護者対応から教員を救うかもしれません。うまくいけば不要なクレームを減らしてくれるかもしれないのです。しかし、部活動同様、何らかの「補填」をしなければ保護者の不満を逆に大きくしてしまう危険性もあります。

だからこそ、私たちは改革後に何を残したいのかを、改革が進む前に考えておく必要があります。部活動で築いてきた顧問-部員間の信頼関係、部員間の励まし合う関係、異学年交流による子どもの成長の機会などについては、部活動という場を失っても違う形で確保しなければなりません。しかもそれは教員の業務を増やさない形で実現しなければ意味がありません。

そう考えると、「授業」こそ「補填」可能な数少ない場だと思うのです。改革が進むほど保護者や生徒の関心は、より以上授業に向けられることになるでしょう。改革の進行は授業への期待感と比例するのです。部活動、学校行事などが廃止、精選される中、これからの授業には、必要な知識や技能を身につける場であると同時に、教師-生徒、生徒-生徒間の信頼関係を築く貴重な場としての役割が大きくなるのは間違いないでしょう。

改革は、今はゆっくりと進んでいるように見えますが、おそらく途中から加速がつくでしょう。そうなる前に私たちは、授業を生徒と接する貴重な時間として、今まで以上に濃密なものにする準備を今から始めないと間に合わないかもしれません。

1)県教委は本年6月12日、神戸市立を除く県内の公立学校での教員不足が164人に上る(5月1日現在)とする調査結果を発表しています。(6月12日 神戸新聞NEXT)

2)「学校における働き方改革に関する緊急対策 」(平成29年12月26日 文部科学省)を受けて平成30年2月8日に開かれた「学校における働き方改革特別部会」に提出された資料2-1より抜粋

3)「労働基準法」や「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」など。

(作品No.237RB)

生きる意味

年老いたある男性の話です。彼は一年前に妻を亡くし、それ以降ずっと落ち込んだままで何も手につかない状態でした。自分ではどうしようもないと考えた彼は、ある精神科医のもとを訪れ、自分の心の状態を打ち明けました。

 そこで彼は目の前の医師から意外な言葉を聞きます。その医師はこう言ったのです。

医師:「もし、あなたのほうが先に亡くなられていたら、どうなったでしょう。」

患者:「妻はたいへん苦しんだにちがいありません」

医師:「そうですよね。つまり、奥様はその苦しみから免れることができたのです。奥様を救ったのは、他ならないあなたなのです。あなたが生きているということは、奥様が受けたかもしれなかった苦しみを、あなたが代わって苦しんでいるという、そういう意味があるのです。」

 患者の男は、何も言わずに医師の手を握り、診察室を出ていきました。彼は医師によって自分の生きる意味を与えられ、今の苦しみが耐えるに値するものであると気づいたといいます。

 この医師こそ世界中で最も読まれている書籍の一つといわれる『夜と霧』の著者、フランクルです。ご存じの通り、フランクルは第二次大戦直後、ユダヤ人であるというだけでナチスによって強制収容所に収監され、約三年間、極寒と厳しい強制労働の中で耐え抜き、終戦と同時に奇跡的に生還した人です。

 彼は生還後ロゴセラピーという独特の「精神療法」を確立し、戦後50年以上にわたって多くの患者を救ってきました。フランクルは次のように言います。

「「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことではなく「人生は私になにを期待してい るか」と問うだけです。「人生のどのような仕事が私を待っているかという問いだけなのです。」1)

「「あなたがどれほど人生に絶望したとしても、人生があなたに絶望することはけっしてない。」2)

 ここに書かれた「人生」を「他者」や「社会」など個人を超えた言葉に置き換えると理解しやすいと思います。私たちは、自分の人生を自分のものだと思っていますが、実はそうではなく、すべからく人間は自分以外の大切な人や、自分に与えられた仕事や研究などによって「生かされている」のです。フランクルは「私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。」3)とさえ言います。与えられた人生が私に何を期待しているのか、それを考えることが大切だと。

 厚生労働省のデータによると2020年の国内の自殺者は2万1081人に達しています。全体数としては若干減少傾向にありますが、10代の自殺者は少子化が進む中でも増加傾向にあります。人間は生きることに意味を求める存在です。自ら命を絶つ若者の多くは「自分は生きている意味がない」と感じているのかもしれません。しかし、その意味は自分の中に求めても決して見つからない、フランクルはそう主張するのです。

 自分に自信をなくし、苦しんでいる子どもたちにとって、なぜ自分がこんなにも苦しいのかを知ること以上に大切なことは、自分が生きることで支えられている人が必ずいるということを知ることです。自分がいなくなったとき、一人でも悲しい思いをする人がいるなら、それだけで十分生きている意味はあるのです。そして、人生はすべての人間に必ずその人にしかできない何らかの使命を与えているのです。

極限状態の収容所で、最もたくましく生き抜くことができたのは、愛する人がいる人、自分にしかできない仕事があると信じた人だったとフランクルは言います。そして、自分の家族をすべてガス室に送られたフランクルは、「いつかここでの経験を多くの人の前で語ろう」ということに自分の生きる意味を見出し、生き延びることができたのです。つまり、彼は『それでも人生にイエスと言う』と決意したのです。

(作品No.236RB)

1)V・E・フランクル著、山田邦男・松田美佳訳(1993)『それでも人生にイエスと言う』春秋社、p27

2)ヴィクトール・E・フランクル著、中村友太郎訳(2014)『生きがい喪失の悩み』講談社学術文庫、p205(諸富祥彦「解説 フランクル-絶望に効く心理学-」)

3)前掲、フランクル(1993)、p27

プロとして

教員になって10年くらいたった時、私は生涯忘れられない校長先生と出会いました。私は、教師のプロ意識をその人から学びました。今回はその先生にまつわるエピソードをご紹介させていただこうと思います。

 ある年の入学式当日のことです。真新しい制服に身を包んだ新入生が保護者とともに次々と受付にやってきます。新1年生の担任になることが決まっていた教員は、その様子を見ながら「今年は手がかかりそうだ」とささやき合っていました。髪の毛を染めていた子や、制服をわざとだらしなく着こなす子、何が気に入らないのか終始ふてくされた表情を崩さない子もいました。それは全体からすればごく一部ではありましたが、こういう雰囲気の生徒が周囲の雰囲気を壊してしまうことは少なくありません。

 入学式が終わって1学期が始まると、私たちの予想通り、その学年は例年になくトラブルが多く、まさに「手のかかる」学年であると感じました。そんなある日、職員室で同じ学年の先生が「小学校でもっと厳しく(しつけ)ていないから、こんなトラブルが多いんだ」と周囲に聞こえるように言い放ちました。仲間の同意を得ようとしているのは明らかでした。若かった私は、安易にその人に同調してしまいました。その様子を見ていた(聞いていた)校長先生が、私たちの近くに来られてこう言ったのです。

「君らは、本気でそう思っているのか? 一旦子どもを預かった限りは、小学校の指導をとやかく言う前に、この子たちが卒業するときに小学校の先生にこの子たちはこんなに成長しましたよと堂々と報告できるようにしようと、どうして考えないんだ。」

 その瞬間、誰も何も言えなくなりました。その通りです。おそらく校長先生は、その後に「それがプロだろう」と言いたかったのだと思います。言い訳をする私たちに、前を向きなさいと教えてくださったのです。子どもには何の罪もない、と。

現代は教育受難のときなのかもしれません。課題は山積しています。そうした状況のなかで、プロとしての自覚を持ち続けることは容易なことではないのかもしれません。でも、そういうときだからこそ、私たちは決して子どもを悪者にしてはいけないのだと思います。

先日、教育哲学が専門の広岡義之教授(神戸親和女子大学)が、こんなことを教えてくださいました。

「子どもにとって安全な場所が確保できれば、学校におけるさまざまな課題は解消するだろう。教室を安全な場所にすることが大切だ。それには教師が信頼を伝え続け、子どもにそれを実感させるしかない」

課題の原因を子どものみに求めるとき、そこに信頼は生まれるとは思えません。

(作品No.235RB)

思い出は力になる

前にも書いたかもしれませんが、思い出は確かな生きる力になります。思い出と言うと、なんだか抽象的でノスタルジックなもののように感じられるかもしれません。また、「昔は良かった」と愚痴をこぼしている人を想像するかもしれません。それでも私は、いろんな場所で「思い出は生きる力になる」と言ってきました。それは、良い思い出の風景の中には必ず「自分が認められた」という経験があるからです。自分には誰かに認められるだけの価値があるということを思い出はいつでも教えてくれるのです。

先日、そのことが間違っていなかったことを証明してくれる一文に出会いました。ただ、私が考えていた思い出の価値とは違うニュアンスで、しかもずっと深い意味で私に私の考えが間違いではなかったことを示してくれました。

「「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」 わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なににもだれも奪えないのだ。」1)

これは、ヴィクトール・E・フランクルの名著『夜と霧』の最後の方に出てくる一節です。ご存知のようにフランクルは、第二次大戦中に強制収容所に収監されて、奇跡的に生還したうちの一人です。

あるとき、収容所で飢えかけた被収容者がじゃがいも倉庫に忍び込み、数キロのじゃがいもを盗むという事件が起こりました。ほかの被収容者たちは誰が盗んだかを知っていました。収容所当局は違反者を引き渡さなければ、収容所の全員に一日の絶食を課すと言ってきました。2500名の仲間は、一日にほんの小さなひとかけらのパンと、水のようなわずかなスープしか与えられておらず、誰もが飢餓の極限状態にあったにもかかわらず、ひとりを絞首台にゆだねるよりは断食のほうがましだと判断しました。

精神科医であったフランクルは、そうした人々に、次のように話しました。「私たちが生き延びる蓋然性(がいぜんせい)(可能性)はきわめて低い。しかし、わたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない。なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、次の瞬間自分になにが起こるかわからないからだ。生きのびるチャンスは前触れなく突然やってくるものだ」2)と話しました。

そして、同時に過去についても語ったのです。それが冒頭に挙げた一節です。

命の綱であるスープとパン。それは、たとえ一日分であっても過酷な強制労働の中にあっては生死を分けるほど重要なものだったはずです。自分の命と引き換えに一人の仲間を絞首刑から救ったこの事実は必ずや永遠に記憶として残り続け、それが人間としての尊厳を守り、生きる力になると語ったのです。

フランクルによれば収容所で人間の尊厳失った者は次第に気力をなくし、体から抵抗力が失われた結果、発疹チフスの菌に負けて命を落とすことが多かったと言います。逆に、フランクルは衛生状態も栄養状態も最悪の中で、強制労働中に何度も負った傷口が化膿することは一度もなかったといいます。

出来事は時間とともに過去のものとなります。けれども命を懸けて得た「心の宝物」は、人間として生きる力として永遠に存在し続けるのです。

絞首刑から仲間を救ったという過去は、「思い出」と言うにはあまりに過酷なものだったに違いありません。しかし、そこで得た誇りこそが人間であることの証となり「生きることを意味で満たす」3)のです。

私の考えていた思い出の力は「自分が認められた」という自信としての力でした。でも、それはある意味で自己中心的であるのかもしれません。思い出が生を支える力は、誰かのためにという、人間にしかできないことの中にこそあるのだとフランクルは教えてくれるのです。そして、その背景には「人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ」4)という彼の信念があったのです。

1)~4)ヴィクトール・E・フランクル著・池田香代子訳(2014第26刷)『夜と霧 新版』みすず書房、p138(ただし、2)については、本文を要約して引用している)

未来を信じる

『夜と霧』を世に出したオーストリアの精神科医フランクルは、ユダヤ人であるというだけで第二次大戦がはじまると間もなく、家族とともに強制収容所に収監されました。彼の父親はそこで亡くなり、妻や娘も失いました。それでも彼は自らが提唱してきたロゴセラピーによって、収監された多くの人を勇気づけたといわれています。

彼は、収容されて絶望の淵にいる仲間にこう尋ねたといいます。

「あなたには、あなたの帰りを待つ人がいるんじゃないですか。」

 このことについて、神戸親和女子大学教育学部教授(教育学専攻)の広岡義之氏は次のように述べています。

「強制収容所を生き残る可能性の最も高かった人々は、未来に向かって生きることのできた人であり、いつの日かこの私が帰ってくるのを待っているであろう、達成すべき課題や出会うべき人に向かって生きることのできた人たちだったのです。」1)

 つまり、フランクルは人間にとって最もつらいことは未来を信じることができないと捉え、「「未来の目的」や「人生の意味」を見出しえた人間が、結果的に強制収容所から生還」できる2)と考えたのです。そして、フランクルは生還後に『夜と霧』の中で、そのことが本当であったことを世に示しました。

 ちなみにフランクルは約三年間の収容所生活の間、一度も歯を磨くこともできず、著しいビタミン不足に陥っていたにもかかわらず「健康なとき以上のよい「歯肉」を維持していた」3)し、「傷だらけの体であったにもかかわらず。一度も傷が化膿しなかった」4)そうです。それだけ彼は強靭な精神と未来を信じる気持ちが強かったのでしょう。

 さて、現代に生きる私たち、特に子どもが置かれている状況はどうでしょうか。不登校は過去最多に達し、引きこもりが社会問題となっています。私は不登校そのものが問題だとは思いませんが、不登校である子どもが苦しんでいることは深刻な問題だと思います。

 なかでも、自分に自信をなくし、この先自分はどうなっていくのだろうという不安を抱えている子にとっては毎日がつらく感じられることでしょう。おそらく彼ら(彼女ら)は、そうした不安のために、自分の未来を信じることができなくなっているのではないかと思います。

 私たちは、こうした子どもを救いたいと願っています。簡単なことではありませんが、フランクルは私たちに次にようなヒントを与えてくれています。

「(私たちは)私たちの方から「生きる意味」を問うてはならないのです。なぜなら、人生の方が私たちに問いを出し、問いを提起しているからです。私たちは人生から問われている存在なのであり」、「生きること自体が人生から問われていることに他ならないのです。」p9

 つまり、なぜ生きているのかを問うよりも、なぜ生かされているのかを考えることの方が大切だということです。そう考えることで、自分が今置かれている状況も必ず何らかの意味が与えられているはずだということに気づくのです。それが、自分を責め続けている尖った矢印を少しずつ外に向ける力になると思います。

 自分を見つめるだけでは、信じられる未来は見えてこないのです。

(作品作品No.233rb)

1) 広岡義之(2022)『フランクル教育哲学概説』あいり出版、p10

2) 3) 同上、p12 

4) 同上、p11  

所属するということ

かつて「3年B組 金八先生」という手令ドラマが一世を風靡したことがありました。今、某配信サービスによって毎日1話ずつ配信されており、懐かしさもあって毎回見ています。最初のシリーズが始まったのが1979年から、もう44年も経ってしまいました。

このドラマは、その時代に合わせた教育問題をストーリーに落とし込むと同時に、学級のまとまりや同じクラスの仲間同士の友情を非常に重要なものとして展開されていました。若干小難しい言い方をすれば、学級に所属すること、そこで相互に認め合うことで個人のアイデンティティが形成されることを基本としていたのです(あくまでも私の個人的な解釈ですが)。

さて、近代以前の日本では共同体(村社会)において、どこの地区の誰の子かということが個人に存在の承認を与えることができていたと言われています1)。「あんたは、〇〇さん()の△△の子だね」というだけで居場所が確認され、個人の存在価値も与えられていたというわけです。

ところが、現代では当時に比べて地域社会の繋がりが弱くなったことによって、どこの共同体に所属しているかだけでは自分の存在価値を見い出すことが難しくなりました。哲学者の大庭健氏によれば、「存在の承認は、何ができましたかという達成」2)に置き換わたのです。これは、自分の存在意義を自分で示さなければならないということでもあります。しかし、自分の価値を自分で証明するのは簡単なことではありません。共同体のようにそこにいるだけで証明されるわけではないので、どうしても自分の「達成」を他人と比べます。そうしないと、自分のやってきたことがどれだけの価値があるかを実感できないからです。

また、臨床心理学者のリンジー・C・ギブソンは次のように指摘しています。

「人類はその長い歴史を通してずっと、つねに集団に属してきた。おかげで、ストレスよりも安心感を得られてきたのだ。」3)

これらの指摘に従えば、人間にとってどこかの集団に属しているということは、生きていく上で非常に重要であることがわかります。そして、その集団は社会からも認められ、個人でも意義を感じるものでなければなりません。

非常に回りくどい言い方になったかもしれませんが、私の言いたかったことは、これからの学校は子どもにとって貴重な所属集団となるだろうということです。個性の伸長や能力の開発は当然必要ですが、それらを実現するためには、所属する集団である学校が子どもにとって誇りの持てる場であることが必要です。

子どもたちは、どこかの学校に所属しています。自分の学校はこんなに楽しい、こんなに素晴らしいと思ってくれたら子どもたちの抱えるさまざまなストレスは少しずつ軽くなるのではないかと思うのです。

世の中が変わり、金八先生と同じ指導は今の私たちにはできません。でも、少なくとも学校を意味のある集団として位置付けていたことは、覚えておいてもいいように思います。

(作品No.232RB)

1)香山リカ・上野千鶴子・嶋根克己(2010年)『「生きづらさ」の時代』専修大学出版局。p99

2)同上、p99

3)リンジー・C・ギブソン著・岡田尊司監訳・岩田佳代子訳(2023)『親といるとなぜか苦しい』東洋経済新報社、p53

生徒指導の「物語」

「物語」と聞くとどんなものが頭に浮かぶでしょうか。ある人は「白雪姫」や「桃太郎」といった昔話を想像する人もいるでしょうし、小学校の先生なら「ごんぎつね」や「大造じいさんとガン」かもしれませんし、中学校の先生ならさしずめ「走れメロス」といったところでしょうか。いずれにしても、それらは一種のファンタジーであり、架空の「お話」(フィクション)です。

 今回私が示す「物語」は、これらとは若干違うものです。それは、できるだけ多くの事実(情報)を集め、可能な限り整合性を保ちながらそれらを丁寧に紡いで一つのストーリーを作ることという意味です。

 さて、私たちは日々生徒(生活)指導を実践しています。本来生徒(生活)指導は、開発的、予防的など「積極的な生徒指導」(中村豊)が理想であると言われてきました。私もそれに異存はありません。事後の生徒(生活)指導は、「指導」と言うより「対応」に近いものになるからです。しかしながら、実際の学校現場において「(こと)」が起こる前にトラブルを防ぐことは非常に難しいものです。そのため、私たちは事後の「対応」を含めて生徒(生活)指導と呼ぶことが多いのです。

 事後の対応としての生徒指導で最も大切なことは、事実の確認と指導を可能な限り分けて行うことです。私たちがまず確認すべきことは、どんな出来事が起こったかということです。例えば、ある子がいじめの被害を訴えてきたとします。私たちはその子に何があったのかを確認します。しかし、教師はトラブルが起こった現場を目撃していないことがほとんどですから、その子の言い分だけで、それが事実であると軽々に扱うわけにはいきません。もし、訴えてきた子が自分に不利な事実を隠していたことに気づかず、それを事実として扱い加害者(と思われる)子に「そうしてそんなことしたの」と言ってしまったら大変なことになります。

 特に加害者(と思われる)子が、過去に何度も問題行動を起こしているような場合は、要注意です。「また、あの子か。」という教師の思い込みが邪魔をして事実が見えなくなることもあります。関係者からの聞き取りをする場合は、極力「指導」をせずに、何が起こったのかをできるだけ客観的な出来事として把握することに徹しなければなりません。この二つを同時に行なってしまうと、思わぬ誤解を生じることがあるだけでなく、事実がはっきりしないうちに「指導」されると子どもの心を深く傷つけてしまうこともあります。

 そもそも、誰かによって語られる事実には多かれ少なかれ、語る者の主観を含んでいます。それは、人が目の前の出来事に必ず何らかの意味づけをしているからです。起こった出来事が自分にとって腹立たしいものであれば、事実は誇張されてしまっているかもしれません。

 私は、被害を受けた子を疑えと言っているわけではありません。本当にいじめられている子を救おうとするなら、いじめている者に行動の変容を求めなければなりません。そのとき、事実がどのように確認されたかという説明ができるようにしていなければ、いじめた方は「疑われた」ということを前面に出して、そこに逃げ込んでしまうかもしれません。そうなると、暗礁に乗り上げた船のように身動きが取れなくなってしまい、いじめられた子はいつまでも救われることはありません。

 私は冒頭で、「物語」とは「できるだけ多くの事実(情報)を集め、可能な限り整合性を保ちながらそれらを丁寧に紡いで一つのストーリーを作る」ことだと書きました。もし、ストーリーを紡ぐ前に結果を想定してしまったら、その結果を正当なものにするために都合のいい情報だけを「事実」として扱ってしまうことになります。

 それを防ぐためには、事実を確認する聞き取りの際に当事者の気持ちや、行動の理由など「指導」されたと子どもが感じることは極力避け、一定の事実がはっきりした後に初めて「指導」(なぜその行動が良くないのか)を始めなければなりません。それを怠ると、生徒(生活)指導は、フィクションとなってしまうかもしれないのです。

(作品No.231RB)