ハレとケ

子どもたちには「ハレ」の日が必要です。「ハレ」の日は、「ケ」の日があって初めて成り立ちます。「ハレ」と「ケ」とは、「柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ」※1であり、「民俗学や文化人類学において(中略)ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表し」※1ており、「ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した」ものです。学校でいうと卒業式などは、まさに「ハレ」の日です。

また、教育哲学者のボルノウは、この「ハレ」の日に行う「学校における祝祭」について次のように述べています。

「・・・荘厳・厳粛な祝いの経験は、それ自体、決定的な人生経験なのである。なぜなら、ある具体的なきっかけから、一般に人生のいっそう深い意義、つまり、人間がそれによって生きる歴史的基底が、祝いの荘厳さのなかで経験されるからである」

ここでいう「歴史的基底」には、個人のそれまでの過去はもとより自分の住む国や地域の文化や歴史の重みを身をもって感じるという意味を含んでいます。ボルノウは、教育を支えているものは、一種の「雰囲気」であると主張します。卒業式で、歩き方一つとっても日常とは違うやり方をするのは、「ハレ」の日として一定の厳粛さを保つためです。その厳粛さが、会場全体の「雰囲気」を「ハレ」にふさわしいものとし、柳田國男のいう「日本人の伝統的な世界観」を肌で感じる「場」として成立させているのです。

今後卒業式がどのように変わっていくのかわかりません。また、私はこれまでこのコラムの中で何度も学校は変わらなければならないと述べてきました。でも、この卒業式だけは、やはり一定の「雰囲気」(厳粛さ)が必要だと思います。卒業式を「ケ」のようにしてしまうことは、学校における「ハレ」を学校自らが放棄することです。学校が「ケ」だけになれば、子どもたちは理屈を超えた「教育的な雰囲気」を肌で感じる場を失い、「伝統的な世界観」を経験する機会を失うことになります。

近代以降、科学は目覚ましい進歩を遂げました。人類が月に行き、ミクロの世界では遺伝子の組み換えが可能になり、そのことによって多くの難病が治せる世の中になってきました。反面、大量殺人が可能な核兵器などを生み出してしまったのも科学です。本来科学は人間の「善」と「幸福」のために寄与するものだと思います。私は、宗教家ではありませんが、すべてを科学が解明できると思うのは人間の奢りのような気もするのです。

ボルノウのいう教育を支える雰囲気は、科学的には立証できないかもしれません。でも、私たちは子どもたちとかかわる中で、その成長ぶりを理屈や理論だけで解明できないことを日々肌で感じています。その「肌感覚」は、学校教育にとって最も大切なものの一つだと思います。 (作品No.39HB)

※1フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

※2『教育を支えるもの』O・F・ボルノウ著、森昭・岡田渥美訳、1993.3.15(第5刷)、p183

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