「教育は、“ある2点”を両極として、時代によって力点の置かれ方がまるで振り子のよう変わるのです。」地元の大学に内地留学をさせてもらっていたときに、ゼミの教授から教えていただいた話です。“ある2点”とは、一方が「系統主義」、もう一方が「経験主義」と呼ばれるものです。「系統主義」は、知識や技術など教科の内容をしっかりと教えるために、系統立てて順々に教えていくことを重視します。詰め込み主義などと批判されることはありますが、多くの子どもたちに平等に知識や技術を身に付けたり、伝統文化の継承には効果的です。「哲学者ジョン・ロックの“タブラ・ラサ(白紙)”が有名で、生まれた子どもの頭=白紙のキャンバスにどんどん絵を描こうとします」※1
もう一方の「経験主義」は、生活に根ざした問題解決型学習(探求の授業など)を重視します。代表的な人物に『エーミール』を表したルソーや「道具主義」と呼ばれたデューイがいます。「学習者の興味・問題から出発するので学習活動が活発で効果的になる。」※1などの魅力がありますが、知識や文化を確実に継承できるのかという批判もあります。
時代背景や政治的な影響なども含めて、教育の世界はこの2つの主義の間を揺れ動き続けてきました。最もわかりやすい例としては、所謂スプートニク・ショックによる大転換です。「経験主義」は、アメリカで多くの支持を集め戦後日本の教育にも大きな影響を与えましたが、1957年10月4日のソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げが成功したことで、西側諸国(特にアメリカ)は大きな衝撃を受け、一気に系統主義へと振り子を振り直しました。たった一発の人工衛星が、西側諸国の教育を180度変えたのです。
この例でもわかるように、教育の核となる部分でさえも世界の情勢や政治的な意味合いによって変更されることがあります。このコラムで何度か書きましたが、教育は普遍の真理があるとは言い切れません。でも、それじゃあいったい何を根本的な拠り所とすればいいか。私ごときにはこの難問を解決する力はありません。私に言えることは、常に今、教育について何が語られているかに強い関心を持ち、先行き不透明な社会の変化に敏感であり続け、生徒が5年後や10年後の社会で生き抜くためには何が必要かを考え続けることだけです。学校は、知識や技能の習得はもちろん、将来の生きる礎を築くところです。その原点は(中身は振れても)おそらく大きく変わることはないと思います。
もう一つ。ある教育哲学者が、真実は一つではないことを認めた上で以下のような拠り所を提案しています。それ(教育の本質)は「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」※2であると(ややこしい)。簡単に言うと、個々人の自由を最大限に尊重するが、その個々の自由は他者や社会によって互いに認め合うことを条件とする。教育は実質的にどこまでを自由として認めるかということを個々の立場や状況に応じて判断できるような力をつけることであるというのです。言い換えれば、自由が「わがまま」になっていないかを、どう判断するか。それを、互いに話し合いながら求めていく力と言えばいいでしょうか。私には今のところこれが一番しっくりきます。
(苫野氏はこれを深く考えていくと「系統」も「経験」も超えたメタな位置に拠り所を見つけられると述べています。ほんまかいなと思った方は下記の本を読んでみてください)。
※1 熊本大学公開科目: 基盤的教育論【第11回】教育学の2大潮流(1)系統主義と経験主義https://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/opencourses/pf/4Block/11/11-hajimeni.html
※2 『どのような教育が「よい」教育か』苫野一徳、懇談社選書メチエ、2011初版(引用は2012版)、p28