今から20年以上前、地元の教育大学に内地留学に行かせてもらっていたときのことです。カウンセリングの講義を受けていたときの話です。その講義の教授はカウンセリング界でもかなりの大御所でした。学校内のカウンセリングの充実やソーシャルワーカーの学校導入について熱心に取り組まれていました。まだ、学校にスクールカウンセラーすら配置されていなかった頃です。教授曰く「アメリカでは、いずれも常識になっている。日本は遅れている」とよく話されていました。ある日、講義の終わりに教授が「何か質問がある人はいますか。なんでもいいよ」と言われたので、40代くらいの受講者が手を挙げて質問しました。「先生のお話はよくわかります。でも、カウンセラーやソーシャルワーカーが当たり前になっているアメリカの学校で、どうして生徒による銃の乱射などの悲劇が生まれるのでしょうか?」その質問が終わるや否や、自身の考えを否定されたと感じたのか、その教授は烈火のごとく怒りだし、大声でこう怒鳴ったのです。「あなたは、なんて馬鹿な質問をするんだ。そんな質問に答える必要はない」。教室全体に異様な空気が流れました。呆気にとられたと言ってもいいと思います。
そのとき、私が中学生3年生のときのことを思い出しました。社会科の授業中にナポレオンの話になり、先生が「なんでもいいから質問してください」と言うので、私は教科書に載っていたナポレオンの写真(絵?)を見て、「どうしてナポレオンは右手を服の中に入れているんですか」と質問しました。私はいたって真剣でした。もしかしたら当時の文化とも関係があるのかもしれない。ところがその先生は、私の質問を一笑に付しただけでなく嫌味っぽくこう言ったのです。「もうちょっとまともな質問はできんのか」と。「えっ」と思いました。それから、私はその先生の授業が嫌になり、ふてくされた態度を取り続けました。それが癇に障ったのでしょう、ある日、その先生は授業中に私の席の近くに来て、とんでもないことを言いました。
「お前、いつまでそんな態度を続けるんだ。内申点を下げることもできるんだぞ」。私は咄嗟に「別に構いませんけど」と答えてしまいました。結局、担任の先生が中に入る形で事は収まりました(謝ってはくれませんでしたが)。
冒頭の大学の教授とこの社会の先生は、いずれも「生徒(受講者)に馬鹿にされた」と感じたのではないかと思います。そして、相手を自分より劣っている者だと捉えていたのだと思います。また、生徒(受講者)は、自分(教師)の言うことを素直に聴くものだという意識が強かったのかもしれません。少なくともそこには、ある課題を一緒に考えようとか、生徒から学ぶこともあるという意識は全くなかったと思います。
そう言えば、私も新任のとき初めて担任した1年生のクラスでしょっちゅう怒鳴っていました。私が話しているときにちょっと後ろを向いただけの生徒を大声で怒鳴ったこともありました。学校全体が荒れていたこともあって、自分のクラスだけは荒れさせたくないという気負いもありました。でも本当の理由は他にありました。自分の指導力に自信がなかったのです。自信がないので、どう対処していいのかわからず不安でたまらなかったのです。もし、学級が荒れたら自分の評価が下がると思っていたのです。
社会心理学者のエーリッヒ・フロムは次のように言っています。
「・・・与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析は患者によって癒される。ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うのではなく、純粋かつ生産的にかかわりあったときにしか起きない。」1)
結局、2学期以降は完全に学級崩壊状態となり、誰一人私の言うことをまともに聞かなくなりました。当然の結果です。生徒を自分の評価の手段のように扱い「対象」としてしか見ていない教師に信頼を寄せるはずはありません。
あのときの生徒には本当に申し訳ないことをしました。(作品No.43HB)
1) エーリッヒ・フロム著 鈴木晶一訳『愛するということ』2022.2.17(初版2020.9.10)紀伊国屋書店、p46