以前、このコラムで子どもの目覚ましについて書きました。いつか鳴らすだろうという願いを持って、子どもたちに一つひとつ目覚まし時計を渡すのが教師の本分だと。それと同時に大事だと思うのが、「良い思い出」をつくってやること、そして、その仕掛けをすることです。
思い出が「良い」ものになるのは、そこに必ず自分が認められたという実感が伴うからです。認める相手は教師でも友だちでも構いません。教師によるたった一言が、ずっと後までその子を支えることもありますし、学校におけるさまざまな行事で友だちと協力し合う中で互いに良さを認め合えることもあるでしょう。
そして、「良い思い出」と「目覚まし」は連動していると思います。認められたという「良い思い出」の中で学んだことは、誰かから受け取った「目覚まし時計」なのだと思います。ただ、ベルが鳴るのは卒業して何年もたった後のことが多いので、私たちは滅多にベルの音を聞くことはできません。
でも、先日そのベルの音を聞いたのです。正確に言えば、ある子がずっと前にすでに鳴らしていたことを知る機会に巡り合えたと言った方がいいでしょう。
昔、ある問題行動を起こした子を元気づけるために、その子と仲の良かった子に「何か元気づけてやるアイデアはないか」と持ちかけたところ、「仲の良い何人かでボーリングに行きたい」と言うので、休みの日に5~6人で出かけることにしました。ボーリング場では、問題行動に関してはいっさい触れませんでしたが、当の本人は私の意図に気づいていたようです。また、一緒に行った仲間も、いつも以上に楽しく盛り上がろうとしてくれていました。
それから36年後、同窓会で当時の子たち(と言ってもすでに50歳になっていましたが)と再会しました。そのとき、一人の子が私に「先生あの時はほんとにうれしかったんです」と頭を下げに来たのです。一緒にボーリングに行ったうちの一人でした。こんなに時間が経っているのに覚えていてくれたことに私は感激しました。少なくとも彼にとって「良い思い出」になったのだと思うと感無量でした。もし、私が考えている通り「良い思い出」と「目覚まし」が連動しているとしたなら、彼は私の渡した「目覚まし」をどこかで鳴らしたということになります。
他にも、同じ理由で釣りが好きだという子と一緒に近くの港に行ったこともあります。釣りの経験がまったくなかった私に、その子は餌のつけ方からポイントの探し方まで丁寧に教えてくれました。それでもまったく釣れない私を見て笑っていましたが、最初の一匹が釣れたとき思い切り喜んでくれたのを覚えています。親の愛情を感じられないでさみしい思いをしていた子でした。彼もどこかでベルを鳴らしてくれていたらどんなにいいかと思います。
今回は何か自慢話のようになってしまって恐縮です。同窓会の出来事があまりに嬉しくて書かずにはいられませんでした。ご容赦ください。
とにかく子どもたちは、「特別なこと」や「プラスアルファのこと」が大好きです。今のご時世、私と同じことをすればコンプライアンスの問題や安全管理の面で問題があるでしょうから、お勧めはできません。
でも、ごく普通の学校生活の中で、ほんのちょっと「特別感」を出すことは、工夫次第でできるのではないかと思うのです。それがベルを鳴らすきっかけになるに違いありません。
(作品No.229)