「アリにだって足音はある」

「アリにだって足音があるはずです。見えないことはないことではない。聞こえないことは動いていないことではない。表現しないことは考えていないことではない。見えなくても、聞こえなくても、表現されなくても、そこにあるものを感じ取る情緒こそ、人が育ち合う場所では最も大切なものです」

福井雅英・山形志保(2023)『保健室から創る希望』新日本出版社,、p116

アリに足音があるなんて考えたこともなかったのですが、そう言われればもっともな話です。
どんなに小さな生き物でも、動けば必ず音はするはずです。
ただ、私たち人間には聞こえないくらい小さな音であるというだけ。

引用した本の著者の一人、山形さんは、高校の養護教諭。
いわゆる教育困難校と言われる学校で長く勤務されていたそうです。

そこで聞いたのは、大人が聞こうとしない生徒の小さな声だったのです。
貧困にあえぎ、虐待に苦しむ生徒が救いを求めて保健室にやってきます。
山形さんは、そうした生徒一人ひとりに丁寧にかかわってきました。

とにかく、生徒を否定しないことを実践してきた山形さんには、よほど注意深く聞かないと語ってくれない彼ら・彼女らの本音を引き出していきます。

正解を与えるのではなく、一緒に悩み、一緒に苦しんでくれる大人の存在は、義務教育ではない高校という場ではとても貴重な場です。

私は、この本を読みながら、献身的とも言える山形さんの実践に感激しましたが、反面、どうして保健室だけがその役目を負っているのかという疑問もぬぐえませんでした。
本当は、教室が彼ら(彼女ら)の声を聴こうとする場であることが必要です。

しかし、現実は違います。
「保健室で甘やかすから、授業に出てこなくなる」と強く非難されることも少なくなかったと言います。

かつて、私は、全国でも珍しい県立のフリースクール(全寮制)に指導員(指導主事)として勤務していたことがあります。
元高校教師の人と二人で子どもたちに関わっていました。
その学校は、中学を卒業してから入学してくるのですが、それぞれに違った苦しみを抱えている子が多く、ほとんどが家庭の温かさを知らない子でした。

生徒たちは、数々の問題行動を起こしました。
そのたび、元高校の先生は「ルールが守れないのなら、やめればいい」と事あるごとに生徒に言い放っていました。
私はその姿を見て、「ああ、この人は今までの高校でも同じように言っていたんだろうなあ」と感じました。
「退学」という伝家の宝刀を使って、生徒に言うことを聞かせてきたんだろうなあ、と。
(高校の先生がみんな同じだとは思いませんが)

確かに彼ら(その学校は男子だけでした)は、品行方正ではありませんでしたが、夜になると(全寮制のため職員が交代で泊まり勤務をしていました)、とても人懐っこく私に近寄ってきて、まるで幼児(おさなご)のような素直な面を見せてくれるのです。

彼らの多くは、既存の学校で「厄介者」扱いをされ続けてきました。
だから、彼らの口癖は「どうせ」でした。
「どうせ、俺たちの声なんか聴いてくれない」という諦めからくる切ない言葉です。
誰かが、彼らの本当の声を聴きだせていれば、こんな口癖は持たずに済んだでしょう。

彼らの本音は、アリの足音のようなものです。
普段は虚勢を張って強がってばかりでしたが、本当のところは、わかってほしいと誰よりも強く願っていたのです。

その本音は、いつも言葉にならず、なったとしても小さな小さな声です。
その声は、彼らが自分を受け止めてくれると信じる人にしか聞こえません。