働き方改革後に向けた準備

今、働き方改革(以下、改革)が少しずつ進められています。近年、教員採用試験受験者が激減している最も重要な原因の一つが、「ブラック」とまで言われる教師の勤務実態であることは否めないでしょうから、改革はまさに喫緊の課題です1)。文部科学省も学校(教員)が必ずしも担う必要がない業務を明示2)しています。それに沿って改革が軌道に乗れば、教材研究や子どもとかかわる時間を確保しやすくなるでしょう。また、全国で多くの新採用の先生が一年以内に離職している現状(例えば東京都では2022年度における一年以内の離職者は108人、採用者全体の4.4%)も改善されるかもしれません。

そうした中、学校は行事の精選などによって今までのやり方を見直し、個々の教員は無駄のない仕事を心がけることが大切です。でも、私は改革に最も重要なのは「授業力の向上」だと思うのです。改革とは別問題のように思われるかもしれませんが、実は「授業で生徒を惹きつける力」こそが、改革を意味あるものにする重要なポイントになるのです。

近い将来、改革は一定の成果をあげ、先生方の仕事量と責任の範囲は、おそらくこれまでに比べて軽減・縮小されていくでしょう。しかし、同時に子どもや保護者との接点がその分減るのも事実です。ある意味それ(軽減・縮小)が本来の姿だとしても、今までに比べて減っていく教師の責任の範囲を子どもや保護者が受け入れるにはまだ時間がかかるでしょう。

例えば、これまで子どもの成長の貴重な場であった部活動は、今後(何年後になるかわかりませんが)、皆さんの手から離れていきます。部活動に明け暮れていた自らの過去を振り返れば複雑な思いですが、今部活動が法的レベル3)で問題視され始めていることを考えれば、改革は避けられません。だからこそ、部活動の場における(、、、、、、、、、)子どもとのかかわりが減っていくことの意味を、完全移行の前だからこそ考えておかなければいけないと思います。部活動で担ってきた互いの信頼関係と子どもの成長の機会をどこかで「補填(ほてん)」しなければ、周囲の信頼は得られず、改革にブレーキがかかるでしょう。

また、全国に広がっている留番電話の導入は、膨大な時間を要してきた保護者対応から教員を救うかもしれません。うまくいけば不要なクレームを減らしてくれるかもしれないのです。しかし、部活動同様、何らかの「補填」をしなければ保護者の不満を逆に大きくしてしまう危険性もあります。

だからこそ、私たちは改革後に何を残したいのかを、改革が進む前に考えておく必要があります。部活動で築いてきた顧問-部員間の信頼関係、部員間の励まし合う関係、異学年交流による子どもの成長の機会などについては、部活動という場を失っても違う形で確保しなければなりません。しかもそれは教員の業務を増やさない形で実現しなければ意味がありません。

そう考えると、「授業」こそ「補填」可能な数少ない場だと思うのです。改革が進むほど保護者や生徒の関心は、より以上授業に向けられることになるでしょう。改革の進行は授業への期待感と比例するのです。部活動、学校行事などが廃止、精選される中、これからの授業には、必要な知識や技能を身につける場であると同時に、教師-生徒、生徒-生徒間の信頼関係を築く貴重な場としての役割が大きくなるのは間違いないでしょう。

改革は、今はゆっくりと進んでいるように見えますが、おそらく途中から加速がつくでしょう。そうなる前に私たちは、授業を生徒と接する貴重な時間として、今まで以上に濃密なものにする準備を今から始めないと間に合わないかもしれません。

1)県教委は本年6月12日、神戸市立を除く県内の公立学校での教員不足が164人に上る(5月1日現在)とする調査結果を発表しています。(6月12日 神戸新聞NEXT)

2)「学校における働き方改革に関する緊急対策 」(平成29年12月26日 文部科学省)を受けて平成30年2月8日に開かれた「学校における働き方改革特別部会」に提出された資料2-1より抜粋

3)「労働基準法」や「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」など。

(作品No.237RB)

生きる意味

年老いたある男性の話です。彼は一年前に妻を亡くし、それ以降ずっと落ち込んだままで何も手につかない状態でした。自分ではどうしようもないと考えた彼は、ある精神科医のもとを訪れ、自分の心の状態を打ち明けました。

 そこで彼は目の前の医師から意外な言葉を聞きます。その医師はこう言ったのです。

医師:「もし、あなたのほうが先に亡くなられていたら、どうなったでしょう。」

患者:「妻はたいへん苦しんだにちがいありません」

医師:「そうですよね。つまり、奥様はその苦しみから免れることができたのです。奥様を救ったのは、他ならないあなたなのです。あなたが生きているということは、奥様が受けたかもしれなかった苦しみを、あなたが代わって苦しんでいるという、そういう意味があるのです。」

 患者の男は、何も言わずに医師の手を握り、診察室を出ていきました。彼は医師によって自分の生きる意味を与えられ、今の苦しみが耐えるに値するものであると気づいたといいます。

 この医師こそ世界中で最も読まれている書籍の一つといわれる『夜と霧』の著者、フランクルです。ご存じの通り、フランクルは第二次大戦直後、ユダヤ人であるというだけでナチスによって強制収容所に収監され、約三年間、極寒と厳しい強制労働の中で耐え抜き、終戦と同時に奇跡的に生還した人です。

 彼は生還後ロゴセラピーという独特の「精神療法」を確立し、戦後50年以上にわたって多くの患者を救ってきました。フランクルは次のように言います。

「「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことではなく「人生は私になにを期待してい るか」と問うだけです。「人生のどのような仕事が私を待っているかという問いだけなのです。」1)

「「あなたがどれほど人生に絶望したとしても、人生があなたに絶望することはけっしてない。」2)

 ここに書かれた「人生」を「他者」や「社会」など個人を超えた言葉に置き換えると理解しやすいと思います。私たちは、自分の人生を自分のものだと思っていますが、実はそうではなく、すべからく人間は自分以外の大切な人や、自分に与えられた仕事や研究などによって「生かされている」のです。フランクルは「私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。」3)とさえ言います。与えられた人生が私に何を期待しているのか、それを考えることが大切だと。

 厚生労働省のデータによると2020年の国内の自殺者は2万1081人に達しています。全体数としては若干減少傾向にありますが、10代の自殺者は少子化が進む中でも増加傾向にあります。人間は生きることに意味を求める存在です。自ら命を絶つ若者の多くは「自分は生きている意味がない」と感じているのかもしれません。しかし、その意味は自分の中に求めても決して見つからない、フランクルはそう主張するのです。

 自分に自信をなくし、苦しんでいる子どもたちにとって、なぜ自分がこんなにも苦しいのかを知ること以上に大切なことは、自分が生きることで支えられている人が必ずいるということを知ることです。自分がいなくなったとき、一人でも悲しい思いをする人がいるなら、それだけで十分生きている意味はあるのです。そして、人生はすべての人間に必ずその人にしかできない何らかの使命を与えているのです。

極限状態の収容所で、最もたくましく生き抜くことができたのは、愛する人がいる人、自分にしかできない仕事があると信じた人だったとフランクルは言います。そして、自分の家族をすべてガス室に送られたフランクルは、「いつかここでの経験を多くの人の前で語ろう」ということに自分の生きる意味を見出し、生き延びることができたのです。つまり、彼は『それでも人生にイエスと言う』と決意したのです。

(作品No.236RB)

1)V・E・フランクル著、山田邦男・松田美佳訳(1993)『それでも人生にイエスと言う』春秋社、p27

2)ヴィクトール・E・フランクル著、中村友太郎訳(2014)『生きがい喪失の悩み』講談社学術文庫、p205(諸富祥彦「解説 フランクル-絶望に効く心理学-」)

3)前掲、フランクル(1993)、p27

プロとして

教員になって10年くらいたった時、私は生涯忘れられない校長先生と出会いました。私は、教師のプロ意識をその人から学びました。今回はその先生にまつわるエピソードをご紹介させていただこうと思います。

 ある年の入学式当日のことです。真新しい制服に身を包んだ新入生が保護者とともに次々と受付にやってきます。新1年生の担任になることが決まっていた教員は、その様子を見ながら「今年は手がかかりそうだ」とささやき合っていました。髪の毛を染めていた子や、制服をわざとだらしなく着こなす子、何が気に入らないのか終始ふてくされた表情を崩さない子もいました。それは全体からすればごく一部ではありましたが、こういう雰囲気の生徒が周囲の雰囲気を壊してしまうことは少なくありません。

 入学式が終わって1学期が始まると、私たちの予想通り、その学年は例年になくトラブルが多く、まさに「手のかかる」学年であると感じました。そんなある日、職員室で同じ学年の先生が「小学校でもっと厳しく(しつけ)ていないから、こんなトラブルが多いんだ」と周囲に聞こえるように言い放ちました。仲間の同意を得ようとしているのは明らかでした。若かった私は、安易にその人に同調してしまいました。その様子を見ていた(聞いていた)校長先生が、私たちの近くに来られてこう言ったのです。

「君らは、本気でそう思っているのか? 一旦子どもを預かった限りは、小学校の指導をとやかく言う前に、この子たちが卒業するときに小学校の先生にこの子たちはこんなに成長しましたよと堂々と報告できるようにしようと、どうして考えないんだ。」

 その瞬間、誰も何も言えなくなりました。その通りです。おそらく校長先生は、その後に「それがプロだろう」と言いたかったのだと思います。言い訳をする私たちに、前を向きなさいと教えてくださったのです。子どもには何の罪もない、と。

現代は教育受難のときなのかもしれません。課題は山積しています。そうした状況のなかで、プロとしての自覚を持ち続けることは容易なことではないのかもしれません。でも、そういうときだからこそ、私たちは決して子どもを悪者にしてはいけないのだと思います。

先日、教育哲学が専門の広岡義之教授(神戸親和女子大学)が、こんなことを教えてくださいました。

「子どもにとって安全な場所が確保できれば、学校におけるさまざまな課題は解消するだろう。教室を安全な場所にすることが大切だ。それには教師が信頼を伝え続け、子どもにそれを実感させるしかない」

課題の原因を子どものみに求めるとき、そこに信頼は生まれるとは思えません。

(作品No.235RB)

思い出は力になる

前にも書いたかもしれませんが、思い出は確かな生きる力になります。思い出と言うと、なんだか抽象的でノスタルジックなもののように感じられるかもしれません。また、「昔は良かった」と愚痴をこぼしている人を想像するかもしれません。それでも私は、いろんな場所で「思い出は生きる力になる」と言ってきました。それは、良い思い出の風景の中には必ず「自分が認められた」という経験があるからです。自分には誰かに認められるだけの価値があるということを思い出はいつでも教えてくれるのです。

先日、そのことが間違っていなかったことを証明してくれる一文に出会いました。ただ、私が考えていた思い出の価値とは違うニュアンスで、しかもずっと深い意味で私に私の考えが間違いではなかったことを示してくれました。

「「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」 わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なににもだれも奪えないのだ。」1)

これは、ヴィクトール・E・フランクルの名著『夜と霧』の最後の方に出てくる一節です。ご存知のようにフランクルは、第二次大戦中に強制収容所に収監されて、奇跡的に生還したうちの一人です。

あるとき、収容所で飢えかけた被収容者がじゃがいも倉庫に忍び込み、数キロのじゃがいもを盗むという事件が起こりました。ほかの被収容者たちは誰が盗んだかを知っていました。収容所当局は違反者を引き渡さなければ、収容所の全員に一日の絶食を課すと言ってきました。2500名の仲間は、一日にほんの小さなひとかけらのパンと、水のようなわずかなスープしか与えられておらず、誰もが飢餓の極限状態にあったにもかかわらず、ひとりを絞首台にゆだねるよりは断食のほうがましだと判断しました。

精神科医であったフランクルは、そうした人々に、次のように話しました。「私たちが生き延びる蓋然性(がいぜんせい)(可能性)はきわめて低い。しかし、わたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない。なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、次の瞬間自分になにが起こるかわからないからだ。生きのびるチャンスは前触れなく突然やってくるものだ」2)と話しました。

そして、同時に過去についても語ったのです。それが冒頭に挙げた一節です。

命の綱であるスープとパン。それは、たとえ一日分であっても過酷な強制労働の中にあっては生死を分けるほど重要なものだったはずです。自分の命と引き換えに一人の仲間を絞首刑から救ったこの事実は必ずや永遠に記憶として残り続け、それが人間としての尊厳を守り、生きる力になると語ったのです。

フランクルによれば収容所で人間の尊厳失った者は次第に気力をなくし、体から抵抗力が失われた結果、発疹チフスの菌に負けて命を落とすことが多かったと言います。逆に、フランクルは衛生状態も栄養状態も最悪の中で、強制労働中に何度も負った傷口が化膿することは一度もなかったといいます。

出来事は時間とともに過去のものとなります。けれども命を懸けて得た「心の宝物」は、人間として生きる力として永遠に存在し続けるのです。

絞首刑から仲間を救ったという過去は、「思い出」と言うにはあまりに過酷なものだったに違いありません。しかし、そこで得た誇りこそが人間であることの証となり「生きることを意味で満たす」3)のです。

私の考えていた思い出の力は「自分が認められた」という自信としての力でした。でも、それはある意味で自己中心的であるのかもしれません。思い出が生を支える力は、誰かのためにという、人間にしかできないことの中にこそあるのだとフランクルは教えてくれるのです。そして、その背景には「人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ」4)という彼の信念があったのです。

1)~4)ヴィクトール・E・フランクル著・池田香代子訳(2014第26刷)『夜と霧 新版』みすず書房、p138(ただし、2)については、本文を要約して引用している)