危機管理の基本

初めて管理職として勤務した年の10月末の休日、突然私の携帯電話が鳴りました。電話は校長先生からでした。「まだ、はっきりしたことはわからないが今警察から電話があって、職員が現行犯逮捕されたらしい。悪いがすぐに学校に詰めてほしい。それからいつでも職員を集められる準備だけはしておいてくれ」

 耳を疑いました。しかし、残念ながらそれは事実でした。その日の朝、本校職員が盗難で逮捕されたのです。これはとんでもないことになる、そう直観しました。

 すぐに、窓口を一本化するため(電話に出るのは教頭の私だけとするため)校内の電話すべてに「電話には出ないでください」と書いた紙を貼りました。

 明日の日曜日には、町の行事が本校で予定されていました。町内の指定区域から大勢の人が集まってくることになっています。職員室のある校舎が耐震工事のため全面シートに覆われていたことで外から中を見ようとしても見えなかったのは不幸中の幸いでした。万一マスコミが近くに来ても校舎の中を覗かれることはありません。もう一つ、事が起こったのが土曜日であったことも助かりました。子どもが登校するまで時間があります。何とか休日のうちに保護者への説明会ができました。

 夕方には全国にニュースが流れました。それから約24時間後に保護者説明会を開くまで、一体自分は何をすればいいのか混乱するばかりでした。校長不在のときにどんな電話がかかってくるか、何と答えるか、必死に考えました。そして、昨年まで勤務していた県教委で受けた危機管理の基本についての講義を思い出しました。

 まず、いつ何があったかを細かく記録すること。私は大学ノートを放さず常時手元に持ち、校長との連絡やマスコミからの電話などを時刻とともに懸命にメモしました。こんなときによくそんなことをする余裕があったなと思う人もいるかもしれませんが、記録を取ることは説明会の進行に役立っただけでなく、記録を取ることで気持ちが落ち着く効果もありました。何をしていいのかわからない私にとって精神安定剤のような効果をもたらしたのです。

 それから電話対応について。特にマスコミには、可能な限り本当のことをいうことが大切だと教わりました。隠そうとすればするほど、しつこく聞いてきます。こちらの言うことが信用できないと思うと質問が際限なく細かくなります。こういうとき、対象者の年齢とか何年生の担任だといった客観的な事実、特に学校として把握していないはずがないことまで隠そうとする管理職もいるそうですが、それは相手に「学校が事実を隠蔽しようとしている」と理解しかねません。誠実に答える方が余計な混乱を生まなくてすむということです。わからないことや、校長でないと答えられないようなことは、校長が帰ってくる時間を相手に告げて、その頃にまた電話してほしいことを告げておくことで相手に誠意が伝わります。電話をかけてくるマスコミの人も仕事としてやっているのですから、誠実に対応すれば結構誠実に反応してくれます。

 実際、校長不在のときに某新聞社から電話がありました。年齢、名前の漢字、所属学年、校務分掌などを聞かれるままに答えました。その新聞社の記者は最後にこう言いました。「教頭先生も大変ですね。頑張ってください」

 名を名乗らない苦情電話もありました。「どう責任をとるつもりだ。詳しいことを話せ」とかなりの勢いです。それには「保護者会で説明させていただきます」と言い通しました。最後に電話の主は「本当にしっかりと説明しないと承知しないぞ」と脅すように言って電話を切りました。弱い立場にある者に堂々と攻撃を仕掛ける人を前にして、逆に私は冷静になれました。こんな弱い者いじめしかできない人間をまともに相手にする必要はないと思ったからです。

 昔は不祥事が起こったときに、管理職、特に校長はその事実をいかに世間に出さないかを最優先に考えていました。それが、当該職員を守ることだと信じられていたのです。しかし、SNSがこれだけ普及している現在、隠そうとするほど炎上します。不祥事そのものも問題ですが、隠そうとした姿勢の方が厳しく追及されるのです。

 危機管理の基本は「誠実さ」です。起こってしまったことは取り返しがつきません。ならば、してはいけないことをしたときには大人でもしっかりと誠意をもって謝罪しなければならないのだという姿を子どもたちに見せることが、教育者としての務めだと思います。

(作品No.227)

言葉は、辛抱強い生き物

「言葉は、辛抱強い生き物だと思う。そのときは聞き流されても体のどこかに住みついて、ある日、突如として姿を現す。」(星野富弘)

何気なく言った言葉が、言われた人間の心の中に長くとどまり、あるとき突然姿を現す。教師にとってこの言葉は強烈です。私たちは子どもを否定する言葉を「体のどこかに」植え付けないように細心の注意をしなければいけないと思います。でも、逆に突然姿を現した言葉がその子を勇気づけるものであれば教師にとってこれほどの喜びはありません。子どもたちの心の支えになるような言葉を一つでも多く投げかけられる存在でありたいと思います。私たちのそんな姿を見て、子どもたちが、互いに傷つけ合うのではなく、支え合う言葉を交わし合うようになれば、いじめ問題の多くは解消するにちがいないと思います。

<追伸>

最近の生徒はひ弱になったと言う人がいます。親や地域の人から叱られることが減ったため我慢する力が弱まっていると言う人もいます。本当にそうなっているのかどうかを立証する術を私は持ち合わせていません。でも、仮に本当にひ弱になっているとしても、私たちはその現実を受け止めたうえで、そういう生徒たちにどういう言葉を贈ることができるかを考えなければならないのだと思います。

(作品No.53)