「先生、それは違う」

まだ、私が20代のころ(30年以上前)の話です。合唱コンクールで絶対最優秀賞を獲る。そう思って練習しました。当時は、学級練習が中心でした。放課後も特訓しました。朝練までやりました。でも、結果は優秀賞。

 そして、最優秀賞が獲れなかった直後の学活。教室は沈んだ雰囲気で包まれていました。私は生徒に「勝たしてやれなくてすまん」と謝りました。その直後でした。一人の女子生徒が泣きながら立ち上がってこう言ったのです。

「先生、それは違う。私たちは、先生に言われて無理矢理やらされたんじゃない。自分たちで頑張ろうと思ってやってきたんです。どうしてよく頑張ったって言ってくれないんですか」

 私は、自分の傲慢さに気づきました。学級をまとめるという大義名分を掲げながら、実は、自分の評価を高めたかっただけなのだと知らされました。自分のクラスがこんなにも良いクラスであるのは、自分の指導力の賜なんだと思いたかったんだと思います。

 その後私は、合唱コンクールの練習のやり方を変えました。最初のうちだけ練習内容を指示し、ある程度形になった時点で、あえて教室を離れる機会を増やしました(実は陰で見ていたのですが・・・)。すると、自然な形でリーダーが生まれ、自分たちで何度も練習し、できていない所を互いに意見を出し合っているのです。結局、最優秀賞は獲れませんでしたし、リーダーとなった子は大粒の涙を流していました。でも、私は素直に目の前の生徒を褒めることができました。自分たちで取り組んだことの素晴らしさを子どもたちと分かち合うことができました。とてもすがすがしい気持ちでした。

 以前書いたかもしれませんが、生徒指導の語源は英語のガイダンス(案内)です。案内というと生徒の前に立って「私についてこい」というイメージを持つかもしれません。しかし、元々アメリカでは、職業指導(今の日本で言えば進路指導に近い)の場面を想定した概念でした。そこでは、生徒一人ひとりの個性や能力に応じて、共に将来について考えるための支援と助言が行われていたと言われています。そうした支援と助言をもとに、自ら考えて最後は自分で決める、そういう力を育てるものだったのです。

 文部科学省も平成22年3月、『生徒指導提要』において、長らく曖昧になっていた生徒指導の概念について「……児童生徒自ら現在及び将来における自己実現を図っていくための自己指導能力の育成を目指す」ことを「積極的な意義」として明確に示しました。ここで示された自己指導能力こそが、変化の激しい社会の中でたくましく生きていくために必要な力であり、私たち教師は生徒に自己選択や自己決定の場や機会を与え、育てていく必要があります。かつての私のように、学級を私物化し、自分のための学級経営をしていたのでは、到底この力が身につくはずはありません。そのことに気づくきっかけを与えてくれた、あのときの生徒に心から感謝したいと思います。

(作品No.9HA)

当たり前を褒(ほ)める

令和4年12月13日に示された文部科学省の「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果ついて」によれば、通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒は、小中学校では8.8%、高校では2.2%に達しています。これは、35人学級(小中学校)であれば、1クラスに3人程度いることになります。

 平成24年に発表された同様の調査(文科省)では、通常の学級における発達障害(LD・ADHD・高機能自閉症等)の可能性のある児童生徒は6.5%程度だったことを考えれば、特別な支援が必要な児童生徒が増えているのは明らかです。

 なぜこんなに増えたのかは私にはわかりません。また、原因の追究をしたとしても素人の私には限界があります。そういうことは、専門家に任せたいと思います。私たちにできることは、目の前の子どもが何を求めているのかにどれだけ耳を傾けることができるかだと思うからです。

 ある多動性傾向の強い子がこんなことを言ったそうです。

「ぼく、本当は座りたいよ」

 授業中に立ち歩く児童に、教員が自席に座るように促したときに発した言葉です。本当はみんなと同じように座って授業を受けたいと思っているのに、どうしてもできないというのです。佐藤氏は他にも、聴覚障害のある子から「耳が4つあり前からも後ろからも音が入ってきた」と聞かされたこともあったといいます。

 こうした話を通して、植草学園短期大学特別教授で特別支援教育士スーパーバイザーである佐藤愼二氏は、次のように子どもに「諭された」と述べています。

「(この子は)見方を変えれば、「着席している状態」は頑張っていたのだ。配慮を要する子どもたちの「客観的に見ればできて当たり前」の行動の多くは、「努力の表れかもしれない」と「見方」を変える必要もありそうだ。」

「多動性とは、パンツの中にアリが1匹入っている感覚なのだ」と諭された。」1)

 よく「困った子」は「困っている子」だと言われます。でも、一番困っているのは本当にしてほしい配慮をうまく周囲に伝えられないでいる子どもです。

 学校は病院ではありません2)。悪いところを治すのが病院ならば、良いところを伸ばすのが学校だと思います。私たちは、つい何か良いことをした子だけを褒めますが、静かに椅子に座っている子は、それが当たり前だとして特別に褒められることはありません。でも考えてみれば、そうした子の〝お陰〟で教師は授業が進められるのです。

 

 私は、新任の時に学級を崩壊させた翌年、最初の学活で全員が静かに座って話を聞いてくれている姿に涙が出そうなくらい感動したのを覚えています。また、複雑な事情を個々に抱えて学校に馴染めず、それでも自分を変えたいと入学してきた山の学校の生徒を思い出します。特別支援教育の話から(そ)れてしまったかもしれませんが、結局は同じなんじゃないかとも思うのです。

(作品No.226)

1)教育新聞デジタル(2023年5月13日)「通常学級の「特別」ではない支援教育」第5回、佐藤愼二

2)前掲、2023年5月9日、第4回