「伝える」と「伝わる」

教育研修所に勤務していたとき、数多くの講師を研修所に招きました。それぞれに個性があり話し方や伝え方も千差万別でしたが、心に響く講義をしてくださる講師にはいくつかの共通点がありました。

 一つは、事前の情報収集です。この講義がどういう目的で実施されるのか、受講者が何人くらいなのか、参加者のおおよその教員経験年数や主な受講理由などを確認されます。なかでも、この講義(講演)が自分で希望した人の集まりなのか、官制研修や動員などで義務として参加しているのかはとても重要な要素です。それは、その講師が聞く側の気持ちにできるだけ寄り添いたいという気持ちの表れなのです。

 もう一つは「調子」と「間」です。「立て板に水」という言葉がある通り流暢りゅうちょうな話し方は聞いていて気持ちの良いものです、でも、あまりに流暢過ぎると一本調子になり、聞いている側の集中力は、次第に低下します。肝心の聞き手にとって「置き去り」にされたように感じるからです。少々訥々とつとつとした語り口であっても、話の枝葉部分と核心部分で口調を変えたり、話すテンポを変えたりしてもらえると最後まで興味を持って聞くことができます。そして、意識的に「間」(何もしゃべらない数秒)をつくることで聞く側の想像力を喚起し、考える余裕を与えてくれます。教育社会学者の森田洋司氏は、この「調子」と「間」が絶妙でした。講義の始まりは、よく聞き取れないくらいぼそぼそとした話し方なのですが、自身が最も伝えたい部分になると畳みかけるようにテンポが上がり、急に関西弁になるのです。そして、話が一山過ぎたとき、息を継ぐかのように「間」を取り、また冷静な口調に戻るのです。聞いている者は、その「間」によって自分が森田氏の話に引き込まれていたことに初めて気づきます。

  私たちは子どもと日常的にかかわっており、ある程度一人ひとりの個性や特徴を把握しています。だから、ここで挙げた講師のように事前に情報を集める必要はないように思えます。しかし、子どもは日々変化(成長)しています。ある程度わかっている相手だからこそ、「今から話す内容をこの子たちはどんな気持ちで聞くのだろう」「どんな話を聞きたがっているのだろう」と絶えず意識していないと、子どもの思いとのズレが大きくなります。子どもを「置き去り」にしたままでは、本当に伝えたいことが十分に伝わりません。

 極論かもしれませんが、私は「伝える」ことと「伝わる」ことは、同じ意味なのではないかと思っています。「伝える」が成立するためには「伝わった」と感じる相手が必要です。相手が「伝わった」と感じていなければ「伝えた」ことにはならない、そう考えると、この二つは別々のものではなく、必ず同時に起こるものだと思います。

 誰かに何かを「伝える」ことは実に難しい。しかも、本当に「伝わった」かどうかは、目でも耳でも確認できません。けれども、子どもが求めるものと私たちが本気で伝えたいことが一致したとき、教室の空気が劇的に変わる瞬間を肌で感じることがあります。その瞬間こそが「伝える=伝わる」ということなのだと思います。それは、教師にとって至福の瞬間であり、この肌感覚を持つことが私たちに求められる最大の専門性なのかもしれません。

(作品No.223RB)

15歳の選択

中学3年生を担任していた秋、学校に一本の電話がかかってきました。電話の主は、かなり興奮していました。その男性は、私のクラスの男子生徒の父親。開口一番怒鳴るように言いました。

「お前が、うちの息子の担任か!」

「はい、そうです。」

「お前、息子の進路指導はちゃんとやっているんだろうな」

「はい、どの子にも同じようにやっています。」

「いい加減なことしたら許さんぞ。いいか、しっかり面倒見ろよ」

 電話は一方的に切られました。

その父親の息子は、それほど勉強が好きなタイプではありませんでしたが、まじめに日々学校生活を送っていましたし、公立高校に合格するだけの学力もありました。なぜ、突然父親がこんな電話をかけてきたのか、その時はわかりませんでした。

 ところが数日後、その父親の訃報が突然舞い込んできました。持病が悪化した結果の悲劇でした。その子は母親を幼いころに亡くしています。本人のショックはかなりのものでした。私は何度もその子の家に行き、励ましていました。しかし、祖母と二人暮らしとなった彼は、前にも増して寡黙になっていきました。

 そして進路を決める最後の個別懇談で彼は、意を決したような表情で「俺、就職する」と私に告げました。大黒柱を失った彼の家庭は、祖母の年金に頼る生活でした。経済的に苦しい家庭を支えるための一大決心だったのです。そのころすでに高校進学率は9割を超えていました。15歳の身には辛い決断だったと思います。私は、彼の真剣さに押され、その思いを受けとめることにしました。

 それから私は、彼の就職先を探しました。中卒で雇ってくれるところはなかなか見つからないだろうと考えた私はいろんな人に相談し、二つの工場を紹介してもらいました。一つは全国的に有名な企業の家電工場で、清潔かつ静かな職場で体力的にも負担の少ない職場でした。もう一つの工場は鋳造工場で、特殊な砂と薬品を扱っており、旋盤などの大きな機械音が鳴り響く、まさに町工場といった所でした。私は、前者の工場が無理なく働けていいのではないかと思いましたが、実際に働くのは本人です。私は彼を連れて両方の工場に見学に行きました。どちらの工場でも丁寧に対応してくださり、製造過程を間近に見せてくれました。

 後日私は、彼に「どっちがいい?どっちも嫌ならそう言ってくれ」と聞きました。彼は、ほぼ迷うことなく鋳造工場を選びました。私は意外に思ってその理由を聞きました。彼は「鋳造工場の方が温かかった」と、いつものようにぶっきらぼうに、でもはっきりと答えました。見学に行ったときに油まみれの作業着を着た大人たちが、気さくに声をかけてくれたことが彼の決め手になったようでした。

 周囲の友達が皆進学していく中で、さみしさを抱えていたのかもしれません。彼は労働条件よりも、人間としての温もりを選んだのです。

 私は彼の家に行き、父親の位牌を前に手を合わせました。あの電話は、自分の死を予感した父親の最後で最大の愛情表現だったのだと思います。言い方は乱暴でしたが、自分がいなくなった後の息子の進路を命がけで私に託したのです。

 私は、仏前で報告しました。

「お父さん、大丈夫です。息子さんはもう立派な大人ですよ。」

(作品No.222RB)

進路の話

今回は、あるベテラン先生が中学3年生の学年集会(4月実施)で話された内容です。今から数十年前のことです。

「皆さんはこの4月から中学3年生になりました。来年の今頃には、新しい進路先でそれぞれの力を発揮して頑張っていることでしょう。それにしても、自分の進路を決めるのは結構難しいですよね。将来自分がどんな職業に就きたいとか、こんなことがしたいという夢や目標をもって、そこから逆算して、そのためにはどの高校を選択するのがいいのか、あるいはすぐに社会に出て経験を積むのがいいのかを決める、これが理想だと言われますが、なかなか中3で将来の仕事まで決められる人は少ないでしょう。

 

 でも、こういう人もいます。中学3年生の女の子。大好きな男の子ができました。3年生になってその男の子と同じ高校に行きたいと思うようになります。しかし、最初の個別懇談で担任の先生に合格の確率は半々だと言われました。いわゆるボーダーラインというやつです。その女の子は、それでもあきらめずに進路希望を変えませんでした。そして、懸命に勉強しました。ただ、その子にはひどいアレルギーがあって、これが彼女の努力を前に立ちはだかりました。毎日のように襲ってくる全身のかゆみは、彼女の集中力を根こそぎ奪ってしまおうとしているかのようでした。当時はアトピー性皮膚炎という言葉もなかった時代です。この苦しみをわかってくれる人は、毎週通っている病院の優しい看護師さんくらいでした。

 それでも、好きな子と同じ高校に行きたいという思いは強く、彼女はそれをエネルギーに変えて歯をくいしばって勉強に取り組みました。

 12月、最後の個別懇談のとき、合格の確率をもう一度先生に聞きました。でも、答えは同じでした。両親は進路変更を進めましたが、彼女は頑として変えませんでした。万一のために私立を受験することを条件に両親を説得しました。そして、彼女のたゆまぬ努力と強い思いによって、見事に合格しました。 

 私は、「友達や好きな子が行くから」という理由で進路を決めることが必ずしもいいとは思いません。でも、何もないよりははるかにましです。どんな理由であっても自分が本気で頑張れるのなら、それも一つの選択としてあってもいいと思います。そして、本気で努力しているうちに、その思いが本物かどうかが見えてきます。自分の思いが中途半端ではないか、目指す方向が本当に自分らしいのかどうかは実際に努力しているからこそわかるものです。

 彼女は、念願かなって、好きな子と同じ高校に通えることになりました。結局告白はできなかったようですが。でも、中3の時を振り返って気づいたことがありました。自分の努力を支えてくれたのは大好きなあの子だけではない。あの苦しい時に、自分を支えてくれた看護師さんの励ましがなかったら、くじけていたかもしれない。そう考えたとき、彼女の将来の夢が決まりました。看護師になる。そして、自分と同じような苦しい思いをしている人に力を与えられる人になろうと決めたそうです。すべては、彼女が必死で頑張ったことから生まれた彼女なりの答えです。努力は結果よりも努力することそのものに意味があるのです。

 ちなみに、その後彼女は、その大好きな男の子と結婚したそうです。彼女は今、自分の高校の選び方についてどう思っているんでしょうかね。

 今日、家に帰ったら聞いてみたいと思います。」

(作品No.221RB)

技術と実践

最近では、腕を入れてスイッチを入れるだけで自動的に測定してくれる機械も多くなりましたが、看護師が測定器で測った方が正確な数値がわかるそうです。当然、看護師は私たちがチョークの有効な使い方を知っているように、血圧測定器の操作に()けています。

 ところが、何らかの理由で上腕で測れない患者もいます。そういう場合には前腕で測ったり、時には下肢で測ったりすることもあるそうです。測る部位が変わればその部位に応じた機器を使用しなければならず、機器の種類によって測定部位と患者の心臓からの距離や高低差を調整する必要があります。また、計測する部位によって数値に誤差の度合いが異なるため、それを踏まえた上で正確な数値を見極めることになります。

 看護の専門家によれば、こうした対応には看護技術と看護実践の二つの要素が含まれているのだそうです。上記の例で言うと、看護技術とは、測定するさまざまな機器の特徴や使い方を知っていて、かつ実際に使えることとなります。一方、看護実践には、看護技術をベースとして目の前の患者にはどの方法が最も適切かを判断することを含みます。たとえ滅多にないケースであっても、その場ですぐに対応しなければなりません。それには豊富な経験が必要です。そして、プロの看護師として最も大切なことは、できるだけ患者に負担をかけずに正確な測定をするにはどうしたらいいかを「瞬時にその場で判断する」ことだそうです。迷いなく適切な方法をとってもらえた患者は看護師や病院を信頼することができます。

 私たちは、授業の質を向上させるためにさまざまな研修を受けたり、自分で本を買ったりして技術的な部分を補っています。また、ベテラン教師の授業を見せてもらうことで、その技術を自分の授業に取り入れたりします。先の看護師の例でもそうですが、経験は大きな武器です。身近にいる経験豊富な人の技術に触れることは授業力を向上させるために最も有効な方法です。

 けれども、ベテランの人と同じ方法で授業をしてもうまくいかないことがあります。それは、そのベテランの先生と、そこにいる子どもの間で醸し出される空気感が違うからです。その先生の個性によってつくられた場の雰囲気は、他の誰がやってもまったく同じものは再現できません。その上、子どもは日々変化しています。昨日うまくいったことが今日はだめだったということもあります。私たちは、技術を最大限に生かすために、まず自分がどんな空気感を出しているのかを知る必要があります。また、毎日変化する子どもの「いま」に最もぴったりくる方法で働きかける必要があります。私たちが思っている以上に「実践」というのは、多様でつかみどころがないのです。

「実践とはなにかということが(はなは)だ捉えにくいのは、ひとが具体的な問題の個々の場合に直 面するとき、考慮に入れるべき要因があまりにも多い上に、本質的にいって、それらの要因が不確かであり、しかもゆっくり考えているだけのひまがない、つまり、≪待ったがきかない≫からである。いいかえれば、無数の多くの選択肢があるなかで、多かれ少なかれ、その時々に際して決断し、選択しなければならないからである。」1)

授業の技術は、経験を積めば必ず向上します。しかし、授業の実践力は必ずしもそうはいきません。実践の場はいつも不確かで予想困難だからです。

「不確かな状況だからこそ、まさに一人ひとりの看護師の生き方が偽りのない状態で表現される場となる。つまり、自己の生き様が看護実践に映し出されるのである。」2)

 看護師を教師に、看護実践を授業実践に置き換えたとき、その指摘の厳しさを痛感します。

 でも、逆に言えば、あらゆる実践は「自分にしかできない、かけがえのないもの」であるということでもあります。実践の奥深ささえ知っていれば何も恐れることはないと思うのです。

(作品No.219RB)

生徒理解の本質

令和4年12月、『生徒指導提要』(以下『提要』)が10年ぶりに改訂されました。最初の『提要』が平成22年に出されるまでは、『生徒指導の手引き』(1981年、当時の文部省発行、以下『手引き』)が生徒指導の指針とされていました。しかし、学習指導と生徒(生活)指導は「車の両輪」といわれてきたにもかかわらず、41年もの間、生徒(生活)指導については全く手つかずの状態だったのです。これだけ間があくと、学校の実情に合わなくなってしまいます。

 例えば、『手引き』では、子どもを理解するために必要な情報として、生徒の氏名や住所や出欠状況、学業成績などはもちろん、乳幼児における病気やそのころのしつけの状況や家庭の社会的、経済的状況に加え、両親の関係が和合的かどうかまで知ることが必要だとされています。また、家族内で子どもがどんな扱いをされているのか(無視や偏愛はないか)といった家族関係の詳細な部分や、本人の情緒的な問題や習癖(過敏性、爆発性、気分の変異性、精神的な打撃を受けた経験の有無など)、友人関係、知能など、理解の対象は実に49項目にもわたっていました。これは、そのころの児童生徒理解が、いかに多くの情報を集めるかを重要視していたことがわかります。しかし、現代の私たちからみれば、そこまで、子どもの情報を集めることを求められるのは違和感を禁じ得ません。

 この違和感を説明するのに、以下に示した新潟県立看護大学臨床看護学領域(母性・助産看護学)准教授で教育学博士でもある西田絵美氏の見解が参考になります。看護の世界の話ですが、教育の世界、特に児童生徒理解に通じる内容として非常に重要な示唆を与えてくれます。

「……「相手の存在やその状態」の把握を、相手の属性や背景などの諸要素を一つずつ取り上げて分析し解釈する。つまり、人間を要素や部分に分割し、それらを総合して相手を理解しようとする……」1)

「このような思考は、まさしく主客二元論的思考に則ったものである。そして、これがエビデンス(根拠)に基づく科学的な看護と考えられている。この方法を間違いなく実施しようとすれば、膨大な知識が必要となる。それは、あらゆる情報をコンピュータ-に入れ込んで、スイッチを押せば情報処理された結果が出てくるようなものである。看護師がこのような思考しかできないのであれば、近い将来、看護という仕事は簡単にAIに取って変わられるだろう」2)

 主客二元論的思考とは、「主体(看護師)と客体(患者)という二つの対立概念を基礎に世界を理解しようとする認識論」3)のことで、看護師が主体となって患者を分析しようとする態度のことを指します。

 つまり、この態度は情報を集めるだけ集めて病状を正確に把握しようとしてはいるものの、看護師が患者を一方的に理解しようとしている姿であり、本当に相手(患者)に寄り添ったものとは言えないのではないかという指摘です。西田氏はさらに、「(ケアする相手に)「対象」という語を用いている時点で、ケアの相手を物象化(モノ化)」4)しているのと同じだと断じます。看護師にとって患者は、あくまでケアする相手であり、医学的に分析する「対象」ではないのです。

 以前紹介した哲学者のメイヤロフも「ケア」とは、「最も深い意味で、その人が成長すること。自己実現することをたすけること」5)と定義しています。そしてそれは、相互に成長し合う関係でなければならないと指摘しています。教師にとって主にケアする相手は児童生徒ですが、西田氏やメイヤロフの指摘に従えば、私たちが「理解する教師」と「理解される子ども」という「二元論的」な視点をもった時点で、相手はわからなくなるということになります。

 ちなみに、メイヤロフのいう「ケア」は原文では「On caring」であり、現在進行形として示されています。これは、児童生徒理解が現在進行中でしか成立しないということを示唆するものだと私は思っています。                   (作品No.218RB)

1)西田絵美(2022)『ケアの気づき-メイヤロフの「ケア論」がひらく世界-』ゆみる出版、p35

2)前掲、p36 3)前掲、p32、引用中( )内は引用者による 4)前掲、p38、引用中( )内は引用者による

5) ミルトン・メイヤロフ著、田村真・向野宣之訳(1987)『ケアの本質』(ゆみる出版)、p13

参考:文部省(1981)『生徒指導の手引き』、p55

「きしむ車輪は油をさしてもらえる」

アメリカのことわざに、「きしむ車輪は油をさしてもらえる」(The squeaky wheel gets the grease.)というのがあるそうです。意味は、困ったことを自ら発信すれば(言葉にすれば)話を聞いてもらえて、助けてもらうことができるという意味です。いかにも自己主張が重要視されるアメリカらしいことわざです。

さて、日本の学校に視線を移したとき、自分の「車輪」がきしんでいてもなかなか言葉にできない子どもが増えているように感じます。特に小学校高学年や中学生くらいになると、いじめられていても、声に出せばさらに事態が悪くなることを恐れて口を閉ざしてしまうことも少なくありません。それが積もり積もると、学校に来づらくなってしまうこともあるでしょう。深刻なケースでは、自分の部屋にかけてある制服を見るだけで体が硬直してしまう子もいるそうです。

なぜ、そこまで本音が言えない子がいるのか。そこには、複雑な要因が絡み合っていて簡単に説明できるものではありませんが、恐らくそうした子たちは、自分の「きしみ」を周囲の大人は十分に受け止めてくれないと感じているのではないかと思います。自分の苦しみを吐き出すためには、「苦しみを受け止めてくれる」という信頼が必要です。

学校という場に限定すれば、最も身近な大人は教員です。「信頼」というと大げさに聞こえるかもしれませんが、要は「話しやすい」雰囲気を醸し出せているかどうかということです。人と人が全面的に信頼し合える関係になるにはかなりの時間がかかります。でも、信頼のもとになる「話しやすさ」なら、明日からでも表に出すことはできます。

そんなに難しく考えることではありません。以前、このコラムでも少し触れましたかもしれませんが、教員である自分に「子どもを丁寧に扱っているか」と問いかけるだけでいいのです。名前を呼びすてにしていないか、緊急事態以外に大声を出してはいないか、軽はずみに体を近づけたり触ったりしていないか(パーソナルスペースを守っているか)、プリントを渡す時に投げつけるようにしていないか、また、受け取るときに生徒の顔を見ているか、他のことをしながら子どもの話を聞いていないかなど、ちょっとした自分の所作を積み重ねればいいのです。その積み重ねは「信頼貯金」1)として子どもの心に貯まっていきます。

分刻みでやることが山積みの中で、そんなこといつもできるとは限らないと思うかもしれません。でも、私たちが意識していることは必ず子どもには伝わるものです。教師も人間ですから、いつも完ぺきであることなどできません。でも、何とか自分を変えようとする姿勢さえ伝われば、必ず子どもは私たちに自ら大切なことを話し始めるに違いありません。

子どもには「きしむ車輪」でいてほしいと思います。そのために私たちにできることは、自分の最も尊敬する人に接するときと同じように、子どもに接することだと思います。そうすれば所作は自然に丁寧になり、子どもの反応が変わり、それを見てさらに子どもを大切に思う気持ちが私たちの中に育っていくと思うのです。

1)「信頼貯金」:「この大人は自分を理解してくれる大人かもしれないという信頼の期待値。信頼貯金が貯まっていない生徒が自己開示することはなく、逆に貯まっていれば聞かなくても話してくれる」(居場所カフェ立ち上げプロジェクト編(2019年)『学校に居場所カフェをつくろう!』明石書店、p13脚注)