いいかげんな教育

最近では、さまざまな場面で「エビデンス」が求められるようになりました。「エビデンス」とは、「証拠、根拠、証明、検証結果」1)のことを指します。人びとを納得させたり、説得したりするときには、客観的な根拠は欠かせません。例えば、病院で医者が患者に「この薬がたぶん効くんじゃないかなあ。」などと「いいかげんな」言い方をしたら、患者は「この医者は本当に大丈夫か?」と不安になるでしょう。そして、今自分に施されている治療も科学的根拠や臨床的な裏づけ、つまり明確な根拠がないのではないかと不安になり、違う病院に行った方がいいかも…と思ってしまいます。患者は医師を信頼し、治療に「エビデンス」があると信じているからこそ安心して治療が受けられるのです。

こうした「エビデンス」は、医療の世界に限らず、さまざまな領域で広く重視されるようになりました。企業の活動においても、学術的な研究論文においても、なくてはならないものです。そして、それらの「エビデンス」の多くは客観的な数値に表されます。

しかし、世の中にはどうしても数値では測れないものもあります。教育の世界ではむしろそうしたものの方が重要であったりします。例えば、クラスの雰囲気がいいとか悪いとかというのは、教室内の二酸化炭素濃度のように機械では測定できません。しかし、不思議なことに雰囲気の良さは、教室前の廊下を通るだけで伝わってくることがあります。これを感じるには、ある程度の経験が必要だとは思いますが、10年もすればその空気感がわかるようになります。これが結構的を射ているのです。

ある先生が若いとき、先輩教師から次のように言われたそうです。

「「七」の力を持っている子には教師である自分が「三」だけ出し、「四」しか持っていない子には、反対にこっちが「六」を出す」2)

それが、子どもの可能性を最大限に引き出す秘訣だと恩師は言うのです。でも、どの子が「七」なのか「三」なのかを見極める確かな基準や根拠はありません。結局はその恩師は自分の経験や勘による「さじ加減」で判断しているわけで、考えようによっては非常に「いいかげん」な話です。でも、その恩師はこう続けました。

「わかるか。いいかげんってのはな、テキトーってことじゃないんだぞ。好(よ)い加減なんだ。」3)

この言葉をもらった先生は、この経験を自著の中で次のように振り返っています。

「コンピュータやアマチュアにはわかるはずのない、経験に培われたこの「いいかげん」の感覚こそが、プロの教員の専門性なのではないだろうか」4)

 私は、教育の世界にも「エビデンス」は必要だと思っています。近年では、子どもたちの支援のために、児童生徒の遅刻回数や保健室訪問頻度、忘れ物の頻度など細かな情報をデータベースにして支援に活用する「スクリーニング」の重要性が盛んに言われるようになりました。そうした客観的なデータを有効活用することで、教師による思い込みや決めつけに歯止めをかけ、それまで見えていなかったいじめや虐待の早期発見につながると言われています。そうした客観的なデータは、子どもたちを苦しみから救う一助になるでしょう。ただ、どんなに細かな情報を集めたとしても、それをどう分析し、どういう支援がその子を最も成長させることができるのかは、最終的に教員の判断に委ねられることになります。

 教師の「さじ加減」は、両刃の剣です。「いいかげん」になるか「好(よ)い加減」とするかは、豊かな経験とともに、それを共有できる教員同士の十分なコミュニケーション(同僚性)の密度によって決まるのだと思います。それが確保できたとき、「さじ加減」は数値に勝る根拠となるのです。(作品No.216RB)

1)コトバンク「エビデンス」より一部を引用

2)3)4)鈴木大裕(2016)『崩壊するアメリカの公教育』岩波書店、p66

面白い研究

最近、ペット型ロボットが流行っているそうです。近年のロボットはかなり精巧につくられていて、本物と遜色のないものも増えているようです。まあ、それでも大人ならロボットが生き物ではないことに気づくでしょう。たとえ、見た瞬間は生き物に見えても、ちょっと落ち着いて見れば見分けがつくはずです。

 でも、子どもならどうでしょうか。それも、就学前の幼児の場合、同じように識別できているのでしょうか。幼い子どもは、大人に比べて知識も経験も少ないので、もしかしたら精巧につくられたペット型ロボットを「生き物」と勘違いすることもあるかもしれません。

 この点について、ある人が面白い研究結果を発表しています。その人によれば、幼稚園に動物の形をした動くロボットを置いておくと、しばらくは何かを食べさせたり、話しかけたりするなど「生き物」として認識している行動を示しました。しかし、2週間くらいたつと誰も「世話」をしなくなりました。そこで、幼稚園の先生が「かわいそうだね。世話をしてやろうよ」と促しますが、それでもまったく興味を示さなくなりました。つまり、最初は動くロボットを生き物だと認識していた子どもはロボットを命を持たない「無機物」であることに気づき、おもちゃに飽きたときと同様、振り向きもしなくなったというのです。

 この実験に参加した幼稚園ではうさぎを飼っていたそうですが、子どもたちはうさぎの世話はずっと続けているそうですから、子どもたちは命あるものとそうでないものを(2週間はかかったものの)しっかりと区別することができたということになります。

 さて、この実験研究で興味深いのは、論文のまとめの部分で、子どもたちがロボットと生きたうさぎを区別する基準が「弱さ」だったのではないかという推論で締めくくられていることです。飼われたうさぎは誰かが餌を与えなければ生きていけません。子どもはうさぎの世話をすることで経験的にそのことを知っています。ところが、ロボットは世話をしなくても、ずっと同じ動きをします。自分の世話を必要としないロボットは、子どもにとってもかけがえのないものとはなりません。「弱さ」は、生き物を認識する重要な要素であり、生きていくためには何らかの世話や支えが必要であるという意味で、生きとし生けるものに共通している要素なのです。

 アメリカの哲学者ミルトン・メイヤロフは「他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである。」1)と言っています。メイヤロフは「ケア」の対象を人間だけに限定せず、他の生き物はもちろん、概念や事物にまで視野に入れていました。子どもが無心に小動物の世話をする(役に立つ)ことは、自分の存在が小動物にとってかけがえのないものであると感じることでもあります。その感覚によって、こどもは自分自身の存在価値を自覚することができます。

 子どもに限らず「ケア」する対象を持つことは相手の「弱さ」を受け入れることであり、同時に「ケア」する側にも自分の生きる意味を与えてくれることなのです。

自分にとってかけがえのない誰か(何か)がいるということ、それこそが生きる居場所であり、自尊感情の源だということを純粋な子どもは本能的に知っているのかもしれません。

1) ミルトン・メイヤロフ著、田村真・向野宣之訳(1987)『ケアの本質』(ゆみる出版)、p15

参考文献:坂田陽子(2020)「ペット型ロボットの疑似飼育は子どもの生物概念を発達させるか」、『発達心理学研究 第31巻 第4号』 183-189

(作品No.213RB)

桜が春に咲くということ

春になると桜が咲きます。誰もがそれを「当たり前」のことだと思っています。桜に迷いはありません(桜に聞いたわけではありませんが)。だから毎年同じ時期に同じ花を咲かせます。それは、あたかもそうすることが自分にとって最も美しい姿であるということを知っているかのようです。

 それに比べると人間は何をするにも迷ったり、悩んだりするものです。今日の夕食は何にしようかといった日常的なことから、どんな生き方をすればいいのかという哲学的なものまで、ありとあらゆる場面で迷い、悩みながら生きています。だから、桜のように「最適解」を持っている存在にあこがれるのです。

 北原白秋の有名な詩に次のようなものがあります。

「薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花咲ク 何事ノ不思議ナケレド」

 白秋も大いに迷い、悩んだ一人なのでしょう。自分にとって何が最も大切なのかがわかっていれば、こんなに悩むことはないのにという切実な思いが、桜(自然)への憧憬へと繋がります。自分にとっての「当たり前」が何であるかがわかれば、どんなに楽だろうと思います。

 けれども、私たちは桜のように生きることはできません。すべての人にあてはまる唯一絶対の「最適解」などあろうはずもなく、答えは、選ぶというより自分でつくりだすものだと言った方が正確かもしれません。となると、人間にとっての「当たり前」を考えることは非常に困難な作業です。だから人間は、今の自分が本来あるべき姿でないと感じて悩んだり、誰もが当たり前にできることができないと思って自己嫌悪に陥ったりするのです。私たちは、児童生徒に「当たり前」であることの大切さを訴えることが多いのですが、そんなとき「そうなれない自分」を責めてしまう子がいるかもしれないことを常に頭に置いておく必要があると思います。イギリスの哲学者、バートランド・ラッセル(1872~1970)がその著、『幸福論』の中で述べているように「なんびとも完全であることを期待するべきではないし、また、完全でないからといって不当に悩むべきではない」1)という前提で話をする責任があるのです。

 ただ、見方を変えれば、人間が迷ったり、悩んだりするのは、私たちがそれだけ自由な存在であるということでもあります。決められた「最適解」を持たないからこそ自由に生きることが可能性になるのです。選択する自由があるからこそ迷い、悩むのです。桜(自然)は悩むことはありません。でも、同時に選択肢もないのです。

 私たちは、悩んだり落ち込んだりしている子を見かけると、当たり前のように「そんなことで悩む必要はないよ」と声をかけます。でも、もしかしたらその子は、「やっぱり自分は〝そんなこと〟で悩むような弱い人間なのだ」と受け止めているかもしれません。 

 そういう子には「悩んでいるのはあなたが自由である証拠なんですよ」というメッセージが必要なのだと思います。

(作品No.212RB)

1)小川仁志(2021)『バートランド・ラッセBル幸福論 競争、疲れ、ねたみから解き放たれるために』NHK出版、p52

マルトリートメントを失くすために

非常に残念なことですが、教員による暴言や体罰といった〝不適切な関わり〟が連日のように報道されています。

 〝不適切な関わり〟のことを「マルトリートメント」と言うそうです。それは、「「大人の子どもへの不適切なかかわり」を意味しており、児童虐待の意味を広く捉えた概念」1)です。それを学校に当てはめて「教室マルトリートメント」と呼ばれることもあります2)

 いずれにしても、教師にとっては指導のつもりでも、暴言や高圧的な態度は子どもの心を思いのほか深く傷つけてしまいます。なかには、そうした接し方によって子どもが自ら命を絶つ悲劇、つまり「指導死」を生み出す危険性もあります。

 そうした教員は全体からすればごくわずかでしょうが、そのごくわずかな人によって学校や教師に対する信頼が損なわれてしまうことには忸怩(じくじ)たる思いを禁じ得ません。

 1960年から1970年ごろに活躍したアメリカの哲学者ミルトン・メイヤロフは、他者を一人の人格としてケアすることを「最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」3)とした上で次のように述べています。

「……もし相手が事実上成長していないのであれば、私は相手の要求に対応していないわけであり、したがってケアをしていることにはならないのである。」4)

教育も子どもの「成長」と「自己実現」を期するものです。メイヤロフの「ケア」は、まさに教育そのものであると理解すべきでしょう。

 私たちは子どもに、人として大切なことを伝えたいと願っています。どうすれば、最もよく伝わるのかと悩みます。そして、伝えたつもりが、実は伝わっていなかったということをしばしば経験します。そして、伝わらない子(何度言ってもわからない子)を否定的に見てしまいがちです(私もそうでした)。しかし、メイヤロフによれば、伝わったのなら結果として相手が成長しているはずだと断言するのです。メイヤロフの主張に従えば、伝わらなかったのは「伝わるように伝えなかった」ということなのです。非常に厳しい言葉です。私たちが伝えようと思っていることが子どもにしっかりと伝わる方法で伝えていたら、必ず子どもは成長するはずであり、その成長を実現させることで教師も成長するというのがメイヤロフの立場です。

 ただ、メイヤロフは完ぺきな人間でなければケア(あるいは教育)ができないと言っているわけではありません。ケアする対象(子ども)を「本来持っている権利において存在するものと認め、成長しようと努力している存在として尊重する」5)ことができれば、真のケアに近づくことができると述べています。

 学校におけるマルトリートメントを失せるかどうかは、私たちが子どもを人として尊重できるかどうかにかかっています。

(作品No.211)

1)文部科学省「養護教諭のための児童虐待対応の手引」(平成19年10月)第2章、p8

2)川上康則(2022)『教室マルトリートメント』、東洋館出版社

3)ミルトン・メイヤロフ、田村真・向野宣之訳(1987)『ケアの本質』、ゆみる出版、p13

4)前掲、p90

5)前掲、p13

「そもそも教」の信者として

とかく理屈っぽい人は嫌われます。そういう人は、すぐ「そもそも〇〇というのは・・・」と語りはじめます。そういう言い方は「そもそも論」と呼ばれて敬遠されがちです。私は最近まで学校現場にいましたが、そういう人が職員会議で手を挙げた瞬間、職員室の空気が一変するのを何度も経験してきました。

「得意の『そもそも論』が始まるぞ」という空気感。それも、長い時間かけた結果、ようやく結論が出ようかというときに出てくる「そもそも論」は、それまでの議論を振り出しに戻してしまいます。徒労感は半端なものじゃないでしょう。

「そもそも論」者は結構たくましいので、「理屈はいいから結論を言え」という冷たい視線を気にすることはありません。あなたは「そもそも教」の信者か? と思ってしまいます。そして「そもそも論」者は、「たいした仕事もできないくせに理屈だけは一人前だ」という烙印を押されることになります。みんな忙しい。ありがたくて役に立たないお説教を聞いている暇はありません。

 こんなことがありました。職員会議で校長が結論めいたことを発言したとき、一人の「そもそも論」者が反論を始めました。何とその校長、話が終わらないうちに一喝したのです。

「ぐちゃぐちゃ理屈をこねるな。黙っとれ!」

 気持ちがいいくらい、はっきりと言い切ったのです。校長の勢いに押された「そもそも論」者は沈黙するしかありませんでした。

「そもそも論者」を否定する人は、以下のような本音を持っています。

「偉い学者さんは、学校現場のことが全然わかっていない。だから、偉そうに理想的なことばかり言う。その割に、具体的にどうすればいいかについては何も語らない」。

 こうして「そもそも論」は、「現場」で否定され続けてきました。

 確かに今の学校には余裕がありません。学校にはすぐにでも解決しなければならない問題が山積みです。「いじめ」、「不登校」、「保護者対応」、「働き方改革」等々。そうした学校現場で教員たちが求めているのは、ありがたい説法ではなく、目の前で起こっている問題に対する具体的な方策なのです。

 世の中は多様化が急激に進んでいます。それは、「チーム学校」でまとまろうとする人からすれば多様化は面倒な現象でしょう。一人ひとりの個性を尊重しようとすると収拾がつかなくなるのは目に見えているというわけです。

「個」が最大限に尊重され、何でも自由にできる(ように思わされている)世の中は、選択肢が多くなるという利点もあれば、何を選べばいいのかわかりにくくなり、人びとを迷わせます。例えば、最近夢や目標が持てない小中学生が増えたと言われますが、それは選択肢の多さの前で子どもたちが立ち往生している姿です。

 また、多様化に対応しようとして、一つ一つの事象に一つ一つ具体的な対応策を考えるのは、まるでもぐら叩きのようなもので、教員は次から次へと現れる見知らぬ現象に振り回されてしまいます。教員はどんどん忙しくなり、教員志望者が全国レベルで激減し、学校は教員不足のためさらに忙しくなっています。

 それでも私は敢えて言います。「そもそも論」は学校を救う最終手段であると。何を隠そう私自身が「そもそも教」の信者なのです。一喝された教員とは私のことです。

 実は、現状を打破する原動力となる唯一の武器が「そもそも論」なのです。そもそも(出た!「そもそも論」)、教員が近視眼的にならざるを得ないのは、多様に広がる一つ一つの「価値」を俯瞰する視点を持てないでいるからです。そうした視点は、いわば多様化を包括するまったく別次元の世界を私たちに見せてくれます。今こそ、私たちは学校とは何か、公教育とは何のためにあるのかといった原点に戻ることが必要です。つまり、日々取り組んでいることに対して「そもそも」何のためにやっているのかと考え直してみること、それが「俯瞰する」ということなのです。

 多くの課題を抱え、その上に新たな取り組みを要求され続けている学校。このままでは、学校という組織そのものが崩壊してしまいます。目の前の事象に一喜一憂するのではなく、10年後、20年後の学校を俯瞰的にイメージした上で、今、ここで何が大切なのかを考えることが必要です。

 思い切った学校改革が急務ですが、そこで見えているものが枝葉末節であることに気づかないまま進めてしまえば、学校(公教育)は空中分解してしまいます。公教育を経済の理論で片づけようとする人たちの格好の餌食になるでしょう。

 すでに、改革を進めて「実績」を挙げたと主張する人の中には、学力の保障を学習塾に任せ、学校側が塾の邪魔にならないことが必要だと主張する人さえいます。それが本当に、未来を見据えた「俯瞰」から生まれたものなのか、未来を閉ざす枝葉末節に過ぎないのかを私たちはもっと丁寧に吟味していかなければなりません。改革は必要です。でも、拙速であってはなりません。

「そもそも教」の敬虔な信者としては、強くそう思うのです。

(作品No.210RB)