学校では、年に何回か個別懇談があります。そこで保護者から、こんな話が出てきます。
「ウチの子は、何回言っても自分から勉強しようとしないんです。先生からも何か言ってやってください。」
しかし、真剣に訴える保護者の横で子どもは親を睨みつけています。「余計なこと言わないでくれ」という気持ちがありありと窺えます。
そういうとき、学級担任としてどんな言葉をかければいいのかと迷います。保護者に寄り添えば、子どもを叱らねばなりません。しかし、そうすると、おそらく家に帰ってから親子喧嘩が始まるでしょう。逆に、子どもに寄り添えば、「先生なんだから、もっと厳しく叱ってくださいよ」と保護者は不満に思うでしょう。
いずれにしても難しい選択です。ただ、いろんな調査やアンケート結果などをみると、「勉強しなさい!」「宿題したの?」といった言葉は、親に言われて嫌だと思うベスト10には入っているようです。親からすれば、放っておけばいつまでたっても勉強しようとしないから心を鬼にして言っていると主張するのですが、言えば言うほど子どもは勉強しなくなっていきます。その姿を見て、また同じ叱責を繰り返してしまうのでしょう。
ある人に聞いた話を紹介します。
「自分は、親に一度も『勉強しろ』と言われたことはありません。父親に至っては、勉強しよ うと部屋に行こうとする私に『まあ、もちょっと一緒にテレビ見ようや』とか『なんか話しようや』などと声をかけてきて、夕食後のリビングに引き留めとようとするのです。それは、私が受験生だった中学3年や高校3年のときでも同じでした。」
反抗期真っ盛りだった彼は、父親に引き留められると、逆に強く「俺は勉強するんだ」と思ったと言います。
「今思えば、あれは親父の『策略』だったんじゃないかと思いますよ。反抗期で、しかも天邪鬼だった私の性格を利用して、わざと引き留めようとしていたんじゃないかと。」
なるほど、そういう手もあったかと思いました。人は強制されると逆に意欲を削がれてしまうものです。
結局、彼はその後、高校も大学も第一志望の学校に合格し、就職試験もすんなり受かりました。お父さんの作戦勝ちだったと言えるかもしれません。
でも、それだけではない気がします。それで、彼にもう少し詳しい話を聞いてみました。
彼のお父さんは昭和の初めに生まれた人で、「俺は尋常高等小学校1)しか出ていない」と言っていたそうです。とはいえ、当時としては高等小学校は尋常小学校6年間(義務教育)の後に「進学」するものだったので、他の子より長く小学校に在籍したことになります。
卒業後は、軍需工場で働いたそうです。もともとその工場は全国でも有名な企業だったのですが、戦況の悪化により軍需工場化し、人手が足りなくて若者を勤労動員で集めることになったようです。そして、数年後に終戦を迎え空襲にも遭わなかったため工場は残り、運よくそのまま就職することができたそうです。お父さん曰く「俺は運が良かった。あの頃は入社試験すらなかった。今なら、こんな大きな会社に勤めることは(自分の学歴からすれば)できなかっただろう」と、事あるごとに話していたそうです。
ここからは、私の想像ですが、そのお父さんは学歴に対して、ある種の開き直りのようなものがあったのではないかと思います。学歴はなくても努力次第で家族を養ってきたという自負があったのでしょう。経済成長が右肩上がりの時代だったということもあるでしょうが、たとえ自分の子どもが勉強しなくても、人生、何とでもなるというふうに腹を据えていたのでしょう。だから、もし「策略」が裏目に出ていたとしても、それはそれで一つの人生だと息子を受け入れるだけの度量があったのだと思います。
先行きが見えにくい現代社会において、このお父さんのような腹のくくり方は難しいのかもしれませんが、それでも結局は子どもを信じるしかないのです。それは、今も昔も変わらないと思います。
親が焦れば焦るほど、子どもは思わぬ方向に進んでしまうような気がします。親が必要以上に焦らなくてもいい社会。そんな社会であればいいのですが。
(作品No.209RB)
1)正式には、「高等小学校」です。「尋常高等小学校」は、明治40年、尋常小学校が4年から6年に延長されたことに伴い、名称が「高等小学校」に変更されました。お父さんが「尋常高等小学校」に通ったとすると、明治時代に生きていたことになり、つじつまが合いません。恐らくお父さんの勘違いだろうと思います。