褒めるということ

教員にとって、子どもをどう褒めて、どう叱るかは永遠の課題だと言われ、古くて新しい問題です。

中学校の教諭時代、私のクラスにMさん(2年生男子)という子がいました。口数は少ない子でしたが、非常にまじめな子でした。特に、掃除の時間では、周りの子がどんなにサボっていても、いつも黙々と掃除に取り組んでいました。

ある日、私は教室の真ん中で、周囲に聞こえるようにMさんを褒めました。

「Mさんは、いつ見ても手を抜かずにがんばってるなあ」と。

その瞬間、信じられないことが起こったのです。普段温厚で怒りをあらわにすることなどまずなかったMさんが、突然、ほうきをその場に投げ捨て、教室の隅で座り込んでしまったのです。その顔には「怒り」ともとれる表情が伺えます。状況から考えて、私が褒めたことが原因だというのは理解できましたが、それでもなぜこうなったのか、若かった私にはまったくわかりませんでした。

その日の放課後、家庭訪問をしてMさんのお母さんと話をしました。そのとき初めてMさんの気持ちがわかりました。お母さん曰く、

「あの子は、ものすごくまっすぐな性格でね。もうちょっと融通がきく子になってほしいと親の私でさえ思うことがよくあるんです。今日、帰ってきて話してました。自分はやるべきことをやっていただけなのに、あんな褒められ方をしたら、褒められるためにやっていることになってしまうって。そういう子なんです。」

子どもは褒められて喜ばないはずはないという私の思い込みが、Mさんの誇りを傷つけてしまったのです。

私たちは、子どもが何かよいことをしたら褒め、良くないことをしたら叱ります。それはそうした評価を積み重ねることによって子どもに少しでも正しい行動がとれるようにという教員の願いでもあります。そして、基本的には叱るより褒めることの方が大切だと思っています。でも、褒められる側に立った褒め方でなければ、私のような失敗をしてしまうことになります。小学校の低学年なら、ほとんどの子はみんなの前で褒めてやれば喜びますが、思春期真っ只中の子に同じように褒めても効果があるとは限りません。

冒頭のMさんのケースで言えば、失敗の最大の原因は、私に「邪(よこしま)な」考えがあったからです。私は、Mさんを利用して、他の子に「真面目に掃除しろ」というメッセージを送ろうとしたのです。これでは、本当に褒めたことにはなりません。私の邪な考えをMさんは即座に見抜いたのです。

子どもを褒めるときに大切なのは、その子が今何を考えているのか、どういう個性を持っているのかを踏まえておくことだと思います。当然、発達段階も視野に入れなければなりません。そして、発達段階は単純に年齢で決まるものではありません。そうしたことが頭にあれば、私の失敗は防げたと思います。Mさんのような子には、掃除時間以外にさりげなくMさんにだけ伝えるべきだったのです。

さて、ここで「褒める」」についてもう少し深く考えてみようと思います。

アドラーによれば、

「「ほめる」のは、相手が自分の期待していることを達成したときです。言ってみれば条件つきののごほうび。逆に期待に応えられないと、ほめるどころか失望を表現されて勇気がくじかれる可能性もあります。」1)

となります。

褒めることが「条件つきのごほうび」だとすると、私たちが考えなければならないのは、その「条件」が子どもにとって本当に価値のあることかどうかということです。私たちは得てして深く考えずに「これは良いことに決まっている」という常識にとらわれがちですが、これだけ社会全体に多様化が進んでいることを考えれば、いつまでも同じ価値が通用するかどうかはわかりません。また、私たちが正しいと考える価値は生きていても、そこから派生するさまざまな考え方が生まれていてもおかしくはありません。私たちは、社会の価値観の変化に積極的に目を向けなければならないと思います。

また、アドラーは

「人と比べて「ほめる」と、必要以上に他人との競争を気にするようになります。」2)

とも言っています。冒頭の私の失敗の原因は、まさにここにあります。

最終的にアドラーが大切にしたのは、「褒める」よりも「勇気づける」ことです。

「勇気づける」とは、あくまでも言葉を受ける側の立場に立って、その人の行為そのものを認めることで、その人の意欲を引き出そうとするものです。決して、結果だけを「褒める」のではありません。

例えば、テストで100点を取った子に「よく頑張ったね」と褒めたり、何かの大会で優勝した子を「すごい」と称えたりしますが、こういう数値や客観的な結果で表すことができるものは、簡単に他と比較できてしまいます。褒める側にその気がなくても受け止める側からすると、今後も他者と比較することで承認欲求を得ようとしてしまいます。

 100点を取って、褒めてもらおうと先生のところに飛んできた子には、100点を褒めるのではなく「あなたは、授業中にいつもしっかり話を聞いていたよね。それが素晴らしいんですよ」と、行為を確認することが大切だということです。そして、そういう認め方をするためには、普段から子どもの様子をしっかり見ていることが必要になります。

 行為を認めるということは、その子をまるごと承認するということです。だから、自尊感情は継続するとアドラーは言います。

東京都の私立中高一貫校、栄光学園の数学教員である井本陽久氏は、長い教員生活で紆余曲折した結果、ある時期から「子どもを叱らない」と決めたそうです。その代わりに子どもの存在を丸ごと受け入れようと決意して、今やカリスマ教師とまでいわれるようになりました。

栄光学園は、毎年東大合格者数がベスト10に入るほどの進学校ですが、井本氏は栄光学園だけでなく国内外の児童養護施設でも成果を挙げています。決して、学力の高い子や環境的に恵まれたこだけと関わっているわけではないのです。

私は、カリスマといわれる教員と同じようにしなければいけないとは考えません。そもそも、その人が本当にカリスマだとしたら、滅多にいないからこそカリスマなわけで、だれでもすぐに真似できるようなレベルならだれもカリスマとは呼ばないでしょう。また、中途半端なカリスマ(実際一部の人からしか認められていないカリスマも存在します)はかえって他の教員がやりにくくなることもあります。

でも、子どもを叱らなくても学力をつけることに成功している人がいることもまた事実です。井本氏の授業では全員が自ら進んで学習に取り組んでいると言います。

おそらく井本氏の子どもへの関わり方は「褒める」から「勇気づけ」に進化した結果生まれたものではないかと思います。

そのまま真似をする必要はないと思いますが、「勇気づけ」というキーワードを頭にいれておくだけで、子どもたちはきっと、いきいきとした表情を見せてくれるようになるでしょう。

そうなれば、教員の暴言や、不適切なかかわりなどとはまったく無縁の空間が、そこには広がっていくと思うのです。


1)永藤かおる著・岩井俊憲監修(2017)『図解 勇気の心理学 アドラー超入門』(ディ スカバー・トゥエンティワン、p36、中段)

2)前掲書、p36、下段

(作品No.185RB)

私見 「学校体験」の功罪

ベネッセ教育情報サイト(2022,11,10)は、文科省は令和4年度に実施した教員採用試験(以下、教採)の倍率をまとめています。それによれば、小学校の倍率は、2019年度で2.85倍だったのが、2022年度には、2.55倍に下がっており、57の道府県・指定都市のうち4分の3が3倍を下回ったとのことです。さらに、42の道県府、17の市県では1倍台にまで落ち込んでいます。

中学校は昨年度に比べると若干増加(0.3%増)していますが、2017年に7.4倍であったことを考えれば、2022年度の4.7倍というのは楽観できる数値ではありません。

 こうした事態を受けて国や自治体ではさまざまな改革案が出されています。そのうちの二つを取り上げて、私見を書いてみました。

 まず、教採の実施時期を早めるという改革についてです。一般企業の採用試験は教採よりも早い時期に行われてきたため、先に優秀な人材が奪われてしまいます。そうことを防ごうとする改革で、すでに実施した自治体もあります。

 しかし、これは本当に効果的なのでしょうか。早く採用が決まった人が、その後に一般企業から内定をもらって辞退する人がどの程度出るのかが気になるところです。

 これまでも、教採合格後に一定数の辞退者がいたわけですから、先に教採を実施しても辞退者が減るとは限りません。受験者が増えた分だけ辞退者も増えたのでは意味がありません。一般企業への就職を第一希望とする人にとっては、教採の時期に関わらず「滑り止め」でしかないのですから、実際に教職に就く人を増やせるかどうかはやってみないとわかりません。

 次に、文科省が力を入れようとしている改革に学生の「学校体験」の推進があります。教育新聞編集部(2022年2月21日)によれば、

「教員の養成・採用・研修の在り方を議論している中教審は2月21日、合同会議を開催。文科省は教職課程を見直すたたき台を提示し、教職課程の学生が大学3年後期か4年前期に学校現場で行う現在の教育実習を取りやめ、学校体験活動の活用を通じて、学生が学校現場での教育実践を段階的に経験する方向性を打ち出した。「理論と実践の往還を重視した教職課程」への転換と位置付けている」

 と、あります。文科省には、現行の教育実習制度を学校体験にシフトさせようとする考えているようです。

 この改革は、早くから学校現場を知ってもらい、受験生(学部生)の不安を取り除くとともに、実際に採用された後もスムーズに学校現場に馴染めるという効果を期待してのことでしょう。

 けれども、この改革は両刃の剣です。学校現場が魅力的であればこそ有効ですが、そうでない場合は逆効果になりかねません。

冒頭のベネッセ教育情報サイトによれば、早朝ボランティアなど勤務時間外の業務を体験することによって、逆に「自分には務まらない」と感じたという、実際に学校体験をした学生の声を挙げています。「やっぱり学校はブラックだった」と感じてしまったのでしょう。

 また、根本的な問題として、学部生が年に何度も学校現場に行くことで、もともと「学校しか社会知らない」若者が、これまで以上に閉じられた社会経験しか持てなくなってしまうのではないかという危惧もあります。あくまで私見ですが、学校に体験に来るような時間があるなら、海外旅行で見聞を広げるとか、学校以外のボランティア活動に従事するとか、学校では経験できないことをした方が、厚みのある教員になれるのではないかと思います。

 小中学生は、学校以外の社会を知りませんし、学校外の人とのかかわりも少なくなっています。これからの教員には、授業の技術だけでなく子どもたちを学校外の人たちとどうつなげるかが求められます。

 そもそも学校現場のことは、赴任すれば嫌でも覚えます。最初の数か月は、学校体験の効果があるかもしれませんが、長いスパンで考えると採用される側から見てもメリットは少ないのではないかと思います。

 教採の受験者を増やすためには、こうした小手先の変更では大きな効果は期待できないと思います。それよりも、国レベルで学校現場の働き方改革をもっと具体的に示す方が効果的だと思います。ブラックと言われる学校現場の状況を、学校体験で知られて「やっぱりブラックだ」と思われてしまえば、何のための改革かわかりません。

それなら、「今はブラックかもしれないけれど、数年後には、これだけ解消しますよ」という、具体的な方針を強くアピールする方がよほど効果的です。受験生が「えっ、ウソ!」とびっくりするようなインパクトのあるものを、国や文科省には打ち出してほしいと思います。それが、学生の希望につながります。

 例えば、現在文科省が進めている「不登校特例校」を、将来的にはすべての公立小中学校のスタンダードにするなんて方針はどうでしょうか。

 そうすれば、授業の時間数も減らすことができますし、児童生徒が自分の興味・関心・能力に合わせたカリキュラムを自分で組むことも可能になります。当然、教員は本来の業務に専念できる時間が確保できるでしょう。不登校も減ると思います。

 教採を受ける人が減っているのは、教員になりたいと思っている人が減っているからではないと私は思います。なりたいと思っていても一歩踏み出せないのは、学校の教育制度や働き方への不安が邪魔をしているからです。

 教採受験者の多くは、もともと教育に関心があり、子どもたちと触れ合うことが好きな人たちです。そうでなければ、教採が選択肢の一つに入っていないはずです。

今最も大切なのは、学生に「自分にもできるかもしれない」という希望を与えることです。

 (作品No.184RB)

幸せ行きのチケット

初めて、養老孟司さんの講演を聴きました。テーマは「しあわせに生きるために」。

養老先生というと、どちらかというと歯に衣着せぬ物言いをするというイメージがあったのですが、講演ではまったく違いました。85歳というご高齢であることもあるのかもしれませんが、とても落ち着いた話し方で、いつ始まっていつ終わったのかわからない感じがしました。かといって不快な感じはまったくなく、実に自然体なお話でした。

講演全体の中で、先生が言わんとされていたのは、人間が文明の発達によってさまざまな形で自然を管理しようとしてきたが、結局はそのしっぺ返しがいま起こっている。自然保護というけれど、そもそも自然なんて人間が保護できるものじゃない。南海トラフのような大きな地震も自然です。そんなもの保護できるはずがない。

世の中で幸せに生きていくために大切なのは、自分のことは自分でする(自立する)ことと、それに満足する(自足する)ことだということでした。

演が予想よりも早く終わったので、先生が「何か質問は?」と聞かれました。

たくさんの質問が出たのですが、最後の質問がとても興味深いものでした。その質問は「先生は、今の教育をどう思われますか?」

という、ごく普通の質問だったのですが、私はよくぞ聞いてくれたと思いました。しかも、先生の回答が素晴らしかった。先生曰く、

「学校では、子どもに遊ばせてやればいいんですよ。勉強なんてやめてね。フリースクールがやっているみたいに。なんか最近の教師は教育制度を維持するために仕事しているみたいになっています。子ども時代が幸せでなければだめですよ。先生の仕事は、子どもと関わることでしょ。もっと関われるようにしないと。

あと、体を使う教育をすべきでしょう。今は、子どもが遊べる環境がない。それを大人がつくらなきゃいけない。ただ、今の先生が遊んだ経験が少ないのが気になりますが。

遊ばせてもらった子は、その恩を感じて、人のために役に立ちたいと思うようになりますよ」

まさに、本質を突いていると思いました。公立の学校が「遊べる」場になるためには、受験体制や学歴重視、エリート教育などを根本から見直す必要があるでしょう。そういうものにしがみついている限り、公立学校の魅力は生まれません。

さすがに、授業を全部やめてずっと子どもを遊ばせるのは現実的に無理だとは思いますが、それでも最近では所謂「一条校」でもカリキュラムを柔軟にして、子どもたちが時間割を自分で決められるようにするなど、子どもの自己決定を最優先する学校が注目されるようになっています。文科省の「不登校特例校」なども、かなり柔軟です。

自分で考えて、自分でさまざまな問題やトラブルを解決する力を子どもたちにつけるには、一つ一つ教師が指示を出したり、禁止事項をたくさんつくったりするこれまでのやり方では、限界があります。

指示や禁止は、安全、安心を第一に考えてのことでしょうが、転ばぬ先の杖を大人が前もって準備し過ぎるのは、子どもたちから自立する権利を奪っているのかもしれません。

受験や成績で縛りつけて、必要以上に安全・安心な学校を維持するために命令や指示ばかりをくり返し、「最近の子どもは指示待ちばかりで、何も自分からやろうとしない」と嘆くのは、天に唾を吐くのと同じです。

これからの学校は、子どもたちが自分で決められる場面を少しずつ増やしていくことが大切です。受験や目で見える評定ばかりを重視しても、社会自体がもうそんなものを求めていないかもしれないのです。

そういう意味では、どこの学校に進学しようが、難関大学に入ろうが、幸せ行きのチケットは手に入らないでしょう。子どもたちに大切なのは「自分が大切にされた」という経験です。それは、子どもたちを「信じて任せる」場面を増やすことで生まれるものだと思います。

(作品No.183RB)

退職生活と不登校

退職して一か月ほど、まったくの無職の期間がありました。収入はなくなりましたが、時間だけは有り余るほどありました。最初のうちは、自分のしたいことを好きなだけできる喜びで満ち溢れていました。私の場合、辞めたらブログを立ち上げたいと思っていたので、その手続きやブログに載せる文章を書くことで、一日があっという間に過ぎていきました。

 でも、しばらくすると自分一人で活動することになんとなく違和感を覚えるようになりました。毎日、楽しいのですが、自分だけでやっていることには、どんな意味があるのだろうという葛藤のようなものが生まれたのです。

別に何かの試験に合格しなければならないわけでもないし、上司に課せられた仕事があるわけでもないのですから、自分が楽しければそれでいいと言えばいいのですが、それでも、何となく落ち着かないのです。それは、ある種の罪悪感に近いものでした。

 しかも、その罪悪感は自分に向けられた罪悪感とは少し違うのです。何か、人としてもっと根源的なもののような気がするのです。大げさかもしれませんが、それは生命体として生まれ落ちた時からもっている「何か」であるように感じたのです。説明できない直感のようなもので、怠惰を否定する社会の規範から生まれるような表層的なものではなく、何かにせっつかれるような気分なのです。

 そして、最近思い始めたのが、こうした私の感覚は、ひょっとしたら不登校の児童生徒の心情にも同じようなものがあるんじゃないだろうかということです。彼らの精神状態は、私のようにのんびりと過ごす老人の気分とは、その深刻さにおいてまったくレベルが違うものだとは思いますが、それでも共通点はあるように思うのです。

周知のとおり、不登校は年々増え続けています。実数はもちろんですが、これだけ少子化が進んでいることを考えれば、その増え方は尋常ではありません。今や中学校ではクラスの中で5~6人はいる計算になるといいます。

 ただ、逆の見方をすれば、他の34~35人は登校できているのです。それが、不登校の子にとってみれば、非常につらいことなのです。なぜなら、大半の子が当たり前にできていることが自分にはなぜできないのかという罪悪感がそこに生まれるからです。

 不登校の子どもにとって、世間は非常に気になる存在です。いくら「あなたはあなたのままでいいんですよ」と言われても、納得できません。むしろ、そんなことを言われたら「見放された」と感じてしまうでしょう。つまり、自分以外の「声」が頭の中で大きな声を上げて自分を否定していると感じてしまっているのです。自分の中にある「世間」が、自分を「何をやっているんだ」「もっとしっかりしろよ」とせっついてくる。それが、彼らの感じる最も重い重圧となるのです。

 私の抱いた感覚も、レベルこそ違え、自分の外側から「お前のやっていることは、本当に自分の人生にとって有益なことなのか」という「せっつき」の声が、つかみどころのない罪悪感を生み出しているのです。共通するものがあると感じたのは、どちらも「せっつかれる」感覚があるからです。ただ、私の場合はたとえ「せっつかれて」もその先にあるものは、自分のやりたいことをどうするかという希望へとつながるものです。それに対して不登校の子への「せっつき」は、自分を完全に否定されていると感じる「せっつき」です。そこが大きく違うところです。

 最近、不登校について書かれた本をいろいろと読みながら願うことは、自分の外から聞こえてくる「声」も、いつか必ず自分の中に蓄積されていくエネルギーによって、少しずつ小さなものになっていき、いずれはそれが自分の生きる指針となるということに気づいてほしいということです。

その気づきを得るのは、子どもだけではなかなか難しいでしょう。学校に「普通」に通っている子が、何も自分よりも偉いわけではない、同じ価値を持った人間なのだと思える環境を大人はつくっていくべきです。

 今、学校は、多くのことを背負いすぎています。それが、教員の疲弊につながっています。しかし、問題はそれだけではないのです。学校が、たとえ善意であったとしても、過剰に多くのものを抱え込んでしまったが故に、学校から外れたときに、自分には何も残らないのではないかと子どもは錯覚してしまうのです。

学校の相対化は必ずしも歓迎できるとは思いませんが、それでも、胸を張って既成の学校以外を選択できる社会の空気みたいなものが必要です。それには、ホームスクールも含めて、フリースクールなども、その学習内容に応じて学校として認めていかなければ、不登校の子どもの苦しみは消えません。国も「不登校特例校」(このネーミングもセンスがないと思いますが)を設置していますが、選択肢として市民権を得るには、まだ数が少なすぎます。

 また、既成の学校が選択肢の一つになることに拒否反応を示す教員は多いと思います。でも、苦しんでいる子どもを放置してまで、今の学校だけを学校とすることにどれだけの意味があるのかと思います。

 子どもたちに、多くの、そして「正規」の選択肢を与えることができれば(社会的に用意できていれば)、最初の学校に合わなかったとしても、しばらく休憩すれば身近にある別の学校に手を伸ばすことができます。それは、自分の罪悪感を消すための行為ではなく、積極的に「生」を求める行動としての選択になると思うのです。

とはいえ、私は、いわゆる新自由主義者が訴える(すでに実施されている)学校選択制には賛成できません。それは、必ずしも苦しんでいる子どもを救うために有益であるとは思えないからです。この制度には、学校を競争原理によって学校の質を向上させようとする意図が透けて見えます。競争は必ず結果を求めます。誰の目にも明らかな数値としての結果を学校に求める危うさが伴います。

不登校の子どもは、競争原理に決して馴染むことはないでしょう。比較や競争に耐えられないからこそ学校に足が向かないのです。

そこには、彼らを追い込んでいる「声」が大音量となって響いている気がしてならないのです。

(作品No.182RB)

制度疲労という難問への挑戦 その2

学校の制度疲労を克服するために大切なことの一つに、高校入試のあり方があります。

H県とS県では、高校入試に用いる調査書の考え方が180度違います。

まず、H県は本年度末の入試から、調査書の内容を大幅に削減する方針を示しました。各教科の評定以外は、部活動の成績や特別活動(生徒会)などの記録、欠席状況も記載しないとしたのです。そのうえで受験生には、自己表現を課します。プレゼンテーションなど生徒独自の工夫も受け入れるようです。

H県はもともと調査書そのものを不要なものと考えているようで、かねてから文部科学省に廃止の許可を求めてきたのですが、学校教育法施行規則という「法の壁」に阻まれて実現できないでいました。そこで、今回学業成績以外は姓名などの基本事項と学習の評定だけに記載事項を限定したのです。

対照的なのがS県です。読売新聞(11月1日付)が報じたところによれば、S県立高校では、部活の実績や生徒会活動などを点数化するそうです。本年度の進学説明会で明らかにしたとのことですから、本年度末の入試から導入するのでしょう。

ちなみに、学力テスト500点に対し、調査書の点数配分は、成績評定が210点、特別活動(部活動や生徒会活動など)に上限67点を配し、その他(英検2級以上、囲碁・将棋各四段以上など)としている。特別活動のうち生徒会活動については、生徒会長と副会長に限定しており、部活動については全国大会・県大会への出場、入賞、優勝などとされています。

(私の知るところでは、S県では各学校で比率が違うようです)

 さて、入試を実施するにあたって欠かせない条件とは何でしょうか。

 さまざまな点が挙げられると思いますが、ここでは、二つだけ取り上げます。

一つは公平性です。特定の受験生に不利になるような基準で選考することは許されません。公平性を担保するには、入試の合否を決める基準をあらかじめ公表することが必須です。内容は違っても、いずれの場合も問題はないように思います。ここには書きませんでしたが、H県も配点について公表しています。

もう一つが、中学校での学習活動を阻害する内容になっていないかということだと思います。そんなこと、入試に関係ないと言う人もいるかもしれませんが、入試で何が問われるかは、中学校の授業や特別活動に大きな影響を与えます。五教科の学力テストを課している点では両者共通していますが、それ以外のところでは大きく違います。どちらが中学校の教育にとって有益かという視点は欠かせません。

一見、特別活動や部活動などを合否判定に用いるS県の高校の方が、中学校での生徒の頑張りを広く視野に入れているという点で妥当性が高いように感じます。しかし、本当にそうでしょうか。

例えば、生徒会活動について言えば、生徒会長と副会長にならなければ原則加点されません。他の各員会の委員長レベルではだめだという根拠がよくわかりません。また、加点されるとなると、いざ生徒会長に立候補しようとしても周囲から「入試のためだろう」というやっかみが入り、立候補しにくくなるという事態が生まれるかもしれません。そもそも、生徒会活動は入試のためにするものではありません。その辺をどう考えているのでしょうか。

特別活動について研究している、ある大学教授に「特別活動というのは、絶対にこれだけはやらねばならないという制約がないからこそ、意義のある活動ができる」と聞いたことがあります。所謂「ひも付き」ではないところが、特別活動の良さだというわけです。体育祭のプログラムや合唱コンクールの楽曲には、制約がありません。そもそもそれらをやらなければならないという規制はありません。自由度が高いからこそ、そこに創意工夫が生まれるのです。純粋な活動を保障するなら、入試とは完全に切り離した方がリーダーである生徒会長ものびのびと活動できるのではないでしょうか。

部活動についても、全国大会出場などが挙げられていますが、個人でも団体でも同じように扱うのでしょうか。総じて団体競技の方が勝ち上がるのが難しいものです。団体競技は一人の思わぬミスによって上の大会に進めなくなることもあります。ミスをした生徒が、試合後も自責の念を長く引きずることのないように願うばかりです。生徒会活動と同じく、部活動も、勝つためだけにするものではありません。そもそも、全国大会や県大会といった大きな大会への出場は、生徒が成長するために必要な「手段」であって教育的な「目標」ではありません。生徒は「目標」と考えているかもしれませんが、顧問までが結果を「目標」や「目的」にしてしまえば、負けた瞬間に生徒に何も残りません。また、勝ち上がれなかったチームや個人を心からねぎらえる気持ちが育つとは思えません。

私の狭い知見によるものかもしれませんが、どちらかというとH県方式の方が入試のやり方としては妥当だと思います。もし、S県が生徒会活動や部活動を入試に結びつけることによって活性化しようと考えているとしたら、まさに本末転倒です。生徒同士が、互いに疑心暗鬼になる場面が増えるだけです。

(作品No.182RB)

 

児童生徒理解とは何か

以前から、生徒指導は「生徒理解に始まり生徒理解に終わる」と言われ、子どもの言動や振る舞いを細かく観察するのはもちろん、家庭環境、成育歴などできるだけ多くのことを情報として知っておくことが大切であるとされてきました。今でも、その基本は変わっていないと思います。

1981年(昭和40年)に当時の文部省が示した『生徒指導の手引き』では、生徒理解の対象を「能力」「性格」「興味」「要求」「悩み」「交友関係」「環境条件」など、かなり広い範囲に求めています。また、2010年(平成22年文部科学省)の『生徒指導提要』にも、次のような記述があります。

「児童生徒を多面的・総合的に理解していくことが重要であり、学級担任・ホームルーム担任の日ごろの人間的な触れ合いに基づくきめ細かい観察や面接などに加えて、学年の教員、教科担任、部活動等の顧問などによるものを含めて、広い視野から児童生徒理解を行うことが大切です」(p.2)

でも、いずれの記述も「生徒理解とは何か」について、直接説明しているわけではありません。いくら「多面的」「総合的」に「広い視野」から理解せよと言われても、私たちは児童生徒のすべてを理解することはできません。なぜなら、人は日々変化するものだからです。変化を続けるものを完全に理解することは理論上不可能です。それを「いつか、すべてを理解することができはずだ」と考えてしまうと、教師は何かあったときに「もっと理解できていれば」と悔やむことになります。

結論を言えば、「生徒理解」とは、児童生徒によって「この先生は、自分のことをわかってくれている」と感じる瞬間のことをいうのだと私は思っています。いや、それは方向が違うだろうと思われるかもしれません。でも、そう感じるのは私たちが「教師が生徒を理解する」という意識が強いからだと思います。

 教師がいくら児童生徒のことを十分に理解していると思っていても、子どもの方が「もっとわかってほしいことがある」と思っていれば理解したとは言えないでしょう。そもそも人が人を「完全に」理解するということ自体が不可能なのですから、大切なのは、一から十まで理解することではなく、まずは「私はあなたを理解しようとしていますよ」というメッセージを児童生徒に届けることです。

 そのメッセージを伝えるためには「相互作用」が必要です。多くの会話を交わし、一緒に作業するなどして、互いが互いをわかろうとし合える関係をつくることです。例えば、教師がAさんに言葉をかければ、その言葉によってAさんの物の見方や考え方に影響を与えます。つまり、厳密に言えば、Aさんは教師の言葉かけによって微妙に変化しているのです。その変化したAさんが、今度は教師に何かしらの反応を返します。それを受けて教師はAさんの新しい面を見つけます。そのとき、教師の方もAさんに対するイメージに微妙な変化が生まれます。これが「相互作用」であり、その繰り返しによってAさんは「先生は自分のことをわかろうとしてくれている」と感じるようになります。そして、最終的に「わかってくれる」という信頼関係につながります。

成育歴や家庭環境、交友関係を知ることはこうした「相互作用」が、より自然に進めるために重要なのです。

抽象的な書き方になりましたが、結局「児童生徒理解」とは、相互に分かり合おうとする関係のことをいうのだと思います。教師が教師の判断で「この子はこういう子だ」と結論づけた時点で「相互作用」は停止し、子どもはどんどんわからない存在になっていきます。

(作品No.96AB)

PTA問題を考える

最近、小中学校のPTAに対する「異議申し立て」が多くなっています。都道府県の中には、全国組織である日本PTA全国協議会からの脱退を決めたところもあります。毎年納入が実質義務化されている割に、その成果が実感できないからでしょう。

 そもそもPTAの起源はどこにあるのでしょう。このことについて日本PTA全国協議会のホームページには次のように示されています。

「日本のPTAは、米国教育使節団報告書から始まった」ものであり、「アメリカは、日本社会の徹底した民主化を図るため、戦後いち早く教育専門家を派遣し、その基盤となって社会を支えてきた教育について抜本的な改革を進めようとした。」「使節団は、昭和21年(1946年)3月に来日し、早くも4月7日に報告書を発表し」この中で、PTAに関し次のようにふれている。」

「教育といふことは、言ふまでもなく学校のみに限られたことではない。家庭、隣組その他の社会的機構は、教育において果たすべき夫々の役割を持っている。新しい日本の教育は、有意義な知識をうるために、できるだけ多くの資源と方法を開拓するよう努むべきである。」と、教育に果たすべき家庭の役割の重要性をうたっている。」

「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)はこうした基本方針を元に、一般成人に対して民主主義の理念を啓蒙することが、新生日本の政治基盤形成上、あるいは占領政策の目的達成上不可欠の要件であるとして重視し、そのための有効な方途としてPTAの設立と普及を奨励する方針を掲げた。GHQの方針を具体的に推進したのは、中央においてはCIE(民間情報教育局)、地方にあっては地方軍政部であった。CIEは文部省を通じて、全国的にPTAの指導、・支援を行ったが,地方では、地方軍政部の指導が大きかった。地方軍政部は制度的にはアメリカ太平洋陸軍総司令部に属するが、実質的にはGHQの下、地方段階で占領政策の実施に当たり、その状況を監視する機関として機能した。

任務の中には、民主的に創設され行動する専門協会とPTAの発展をはかること、PTA会合のために学校施設の利用を促進すること、が掲げられており、地方での実地のPTAの普及・指導に大きな役割を果たした。」(下線は引用者による)

 長い引用となってしまいましたが、ここに記載された内容には「努むべき」という表現でもわかるように、あくまでも「努力義務」だったと解釈するのが妥当でしょう。しかし、戦後すぐの段階でアメリカに盾突くようなことはできるはずもなく、全国の学校にPTA組織が広がったことは容易に想像できます。

 「努力義務」には強制力がありません。PTAの組織をつくることも、そこに加入することも任意であるわけです。この任意性が、PTA離れの背中を押しています。

つまり、PTAが任意の団体であるにもかかわらず、実質的には強制的に入会させられることに理不尽さを感じる人が増えてきたということです。多くの学校では今でも入会届すら求めていないでしょう。入学したら自動的に会員になるのが常識のようになっています。

それでも、PTA会員になってよかったと思えるとか、入会して当たり前だという共通認識があれば、問題にはなりませんが、今は、そのどちらもが揺らぎ始めています。それが、PTA問題の中核です。

例えば、PTA活動を行うには中心的となる役員を決める必要がありますが、共働きが増え、専業主婦の人が減ったことによって、PTA役員として決められた会議や行事の準備に駆り出されることが物理的に無理であったり、苦痛と感じたりする人が増えています。中には、PTAの会議に出席するために仕事を休まなければならないことも起きてきます。給与支払いが時給計算となるパート勤務などの場合は、特に拒否反応が強くなって当然です。近年の貧困化問題を考えても、家計に影響が出てしまう役員にはなりたくないというのが本音でしょう。また、親の介護などで夜の会議に出席できない場合も考えられます。

それでも役員は決めなければならないわけですから、そこに何らかの無理が生じます。学校によっては立候補者がいなければくじ引きによって強制的に決めるところもありますし、選挙の結果をもって有無を言わせず決定するところもあります。そうなると、決められた方は、押しつけられたと感じることになります。学校によっては、学級懇談会を開き、引き受けられない理由を表明できるようにしているところもありますが、これもなかなか難しい。どこまでを妥当な理由として認めるかという基準がはっきりしないからです。PTAの規約に詳細な基準を示している場合もありますが、それでも、他の人の前で家庭の事情を表明しなければならないとなると、かなりの苦痛です。「そんなこと理由にならないでしょう」という周囲の雰囲気の中で、泣きながら訴えざるを得ない人もいます。

また、個人情報保護法を盾に理詰めで抵抗する人もいます。個人情報はそれを求める者(組織や団体)が利用目的をあらかじめ対象者に明示することが義務づけられています。そのため、PTAが個人情報を得るためには、PTAが利用目的を明らかにしたうえで、独自に情報を収集するべきであるというわけです。PTAの活動を行うために学校から個人情報を得るのは漏洩に当たり、違法行為だという主張です。

PTA活動はこれまで、学校や教育委員会では十分に対応できない学校運営上の事柄を陰で支える役目をしてきました。登校時の児童生徒の安全を守るための見守り(立ち番)活動や公費では対応できない費用の捻出(備品購入を除く)などはそれにあたります。

また、PTA役員は保護者の代表として保護者の意見を学校運営に反映させる場としての機能を果たしてきたことも見逃せません。価値観が多様化する中にあっては、気づかないうちに学校と保護者の間の感覚のズレが大きくなってしまうこともあります。そんなとき、PTA会長や本部役員を通して学校に申し入れを行うことができるわけです。

そういう意義があることについて、これまで学校は十分に説明してきたでしょうか。PTAは学校が責を負う組織ではないとはいえ、どこか、PTAは「あって当たり前」、「保護者であれば会員になって当たり前」という意識があったことは否めないのではないでしょうか。もしかしたら、「最近の親は、学校に世話になっているという感謝の気持ちがない」と嘆いていた部分もあるのかもしれません。そうした姿勢が、社会の多様化や私事化の影響を受けて露わにされた結果、会員になりたくないという人が増えている原因の一つとなっているのではないかと思います。

対策としては、任意であることを前提にしながらもPTA会長や学校長が積極的にその意義を訴えることが、まず、第一でしょう。そして、組織のあり方を柔軟に考えることも必要です。

例えば、入学説明会において新入生の保護者に向けてPTAの存在意義を説明し、同意書を提出してもらうようにすることも考えられます。「そんなことをしたら、PTAに入らない人が増えて活動ができなくなる」という人もいるかもしれませんが、このまま何もしなければ、おそらく、今後数年から10年くらいの間に、さらに入会拒否が増えていくだけだと思います。今なら、まだ多くの人の賛同は得られると思います。先手を打つためにもすぐに実行すべきでしょう。

また、PTA活動をエントリー制にすることも考えられます。すでにある小学校では実践に移しているそうですが、行事や各種の取組ごとに協力者を募るというやり方です。これなら強制感は軽減されるでしょう。活動に協力する人が少なければ、意思を表明した人数で実行可能なことを考えればいいのです。

 ただ、このやり方は入会の任意性の問題を解決する手段とはなりません。根本的に改善しようとするなら、思い切ってPTAの看板を外し、「保護者会制度」にするという方法もあります。そもそもPTAの「P」は保護者、「T」は教員ですから、「保護者会」とすることで、学校から独立した組織であることが明確になります。そうすれば、活動は保護者が主体的に決めることができます。また、保護者である限り自動的に入会させられても違和感は軽減されるでしょう。小規模の学校では、創立当初から実施しているところもあります。

ともあれ、今、PTAの本質が問われています。PTAにしかできないことは何かについて、学校、教育委員会も含めて考え直す時期を迎えていることは確かです。

(作品No.181RB)

鳥の親心二つ

今から15年以上前のことです。知り合いとゴルフをしていたときティーアップをしようとしたら、不自然な飛び方をしている鳥が目に入りました。天敵にでも襲われたのか羽に傷を負っているようで、いまにも墜落しそうにフラフラと飛んでいます。パニックを起こしたようなすさまじい鳴き声も出しています。私は「大丈夫ですかね」と後ろにいたAさんに声をかけました。Aさんは、森林伐採のプロです。Aさんは、笑いながら言いました。「あれはわざとやっているんです」。

Aさんによると、これは鳥類の一部に見られる「偽傷」(ぎしょう)と呼ばれる行動で、翼を骨折して飛べないようにふるまったり、傷を負って飛べないでいるかのような動作をしたりして、巣への侵入者の注意を引き、卵やひなから外敵を遠ざけようとする行動なのだそうです。その話を聞いて、もう一度「演技」している親鳥を見ていました。「演技」をやめてまっすぐにどこかへ飛び去る姿を見た瞬間、私は、ただただ感動しました。

 もう一つ。

「親鳥は、巣立ちの時が近づくと、雛鳥にエサをあげなくなります。そうなると、おなかが空いてくるので、雛鳥も自分で飛んでエサをとりにいかざるを得なくなります。」(松尾英明2022『不親切教師のススメ』さくら社、p159)

鳥の種類にもよるのかもしれませんが、鳥は子どもの自立を促す方法を本能的に知っているというわけです。

 さて、人間の場合はどうでしょう。近年(と言ってもかなり前からですが)家庭の教育力が低下していると、まことしやかに指摘する人がいます。本当にそうなのでしょうか。

 教育社会学者の広田照幸氏は、1937年(昭和12年)の柳田國男の講演記録を根拠につぎのように指摘しています。

(柳田は)「親は教育の担い手としては「無力」であり、家庭は「教育の主たる管理者」ではなかった、というのである。「昔は家庭が責任をもってしつけや教育をちゃんとやっていた」という、今のわれわれが抱くイメージとちょうど逆のことが語られているのである」1)

「家族が直面していた多くの問題の中で、子供の問題は、優先順位が高くなかった。ましてや、子供のしつけや教育の問題は、簡単に無視できる程度のものだった。(中略)ろくに野良仕事もしないで子供のしつけや教育に時間をかける嫁がいたら、村中の笑いものになったはずである。(中略)乳幼児期における母親とのスキンシップが大切だとも考えられていなかったし、子供の成長や成功を自分の自己実現の一部とみなすような観念も希薄であった。」2)

 つまり、私たちがよく耳にする(あるいは口にする)「最近の家庭の教育力は低下した」という言い方は正しいとは限らないということなのです。

そういえば、高齢者の方から「昔は家に帰って、今日は先生に叱られたと親に不満を漏らすと“お前がわるいことをしたからだろう”と逆に厳しく叱られるから、学校で叱られたことは家では隠していた。」という話を聞くことがあります。言い換えれば「最近の親はなんでもかんでも学校に文句を言うが、昔は家でしっかりしつけていたものだ」というわけです。  

しかし、広田氏の指摘に当てはめれば、学校のことは学校に任せっきりにしていたというわけです。だから、ことさらに文句を言う必要もなかったのです。ただ、柳田國男が講演をしたころは、家庭よりも地域の「若者衆」などと呼ばれる地域組織の制約が厳しく、今と比べると地域には圧倒的な教育力(強制力?)は存在していたようです。そこで、若者は村独自のルールを叩き込まれたわけです。でも、それは「家庭」が子どもに教育しなくてもよかったことの裏付けにはなっても、家庭に教育力があったという根拠にはなりません。

このように考えてくると、今の家庭は教育力が衰退したのではなく、むしろ教育し過ぎ(子どもに関わりすぎ)なのかもしれません。些細なことでも学校にクレームをつけてくる親が増えたと言われますが、それは、親の子どもに対する関心が高まりすぎて「気になって仕方がない」からなのだと思います。かつてのように、子育てやしつけの優先順位が低ければ、親にとって子どもの言い分など「どうでもいい」ことと考えても当然です。だから、まともに受け付けなかったわけで、そのことを今の高齢者の方は「厳しくしつけられた」と振り返っているのかもしれないのです。そういえば私も、小さいころにはよく「子どもは黙ってろ」とか「大人の話に入ってくるな」と、一方的に叱られたものです。

昔の大人は、子どもを子ども扱いすることで、逆に子どもは冒頭二つ目に挙げた雛のように早く一人前の大人になりたいと思えたでしょう。でも、子ども時代は面白くないことや理不尽な扱いに耐えなくてはいけない面も多々あったと思います。逆に、今の子どもは、親がかまってくれます。子どもの訴えを聞いて学校に乗り込んでくる姿は、どこか冒頭一つ目の「偽傷」する親鳥に見えないこともありません。子を守るための必死の行動なのです。ただ、それによって子どもは一時的には平穏に過ごせるかもしれませんが、自立するタイミングを失いやすくなります。

親の対応の仕方は、社会全体の価値観や環境の変容にも大きな影響を受けます。昔のような接し方をすれば子どもは自立できるという単純な問題ではありません。昔、存在した「若者衆」のような地域社会の「受け皿」はもうないのですから、本当に効果を上げようとすれば、社会全体を昭和の初期に戻さなければいけません。そんなことはできるはずがありません。結局は、社会の現状に合わせて最適なものを模索するしかないのです。

今、学校に求められることは、子を思う親の心を十分に尊重した上で、子どもの自立を促すには何ができるかを考えることでしょう。社会の状況など現状を考えれば、子どもを見守りながらも、少しずつ子どもにかける手を引いていくことが必要です。

そして、最も大切なのは、どのタイミングで「偽傷」する親鳥になるか、どのタイミングでエサを与えない親鳥になるか、それを保護者とともに考えていく姿勢だと思います。

(作品No.180RB)

  1. 広田照幸(1999)『日本のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、p25)
  2. 前掲書、p28

「習っていない漢字はひらがなで書く」は意味あるか?

初めて小学校に勤務(教頭)したとき、どうも腑に落ちないことがありました。先生が「習っていない漢字は使わない」ということでした。確かに、習っていない漢字は読めないでしょうが、黒板に書くときに読み仮名を書けばいいだけのことではないかと思ったのです。私は、中学校で長く授業をしてきましたが生徒がすでに習っているかどうかなど、あまり意識したことはありませんでした(新出漢字は必ず1時間かけて覚えさせましたが)。

時々、各教室の授業を見させてもらっていましたが、教員が黒板に習っていない字を書くと、子どもの中から「先生、その漢字まだ習っていないよ」と声がかかります。指摘を受けた教員は「ああ、そうだったね」といって、わざわざ消して平仮名に書き直しているのです。

例えば、「登校」とかくとき、「登」という字を習っていないと「とう校」と書きます。しかし、こうした熟語は全体のフォルムも大切なのです。大人が、「とう校」というフォルムを見ると、かなりの違和感があります。どのみち、習うのですからそのまま「登校」と書いて、読み仮名を大きく横に書いてやればいいのではないかと思います。熟語の本来の姿を早くから見せた方が、日本語特有のフォルムがイメージしやすくなり記憶にも残りやすいと思うのです。また、ノートに写させるのなら「読み仮名を付けた感じはひらがなでもいいよ」と一言添えればいいだけです。

そうすることで先生の負担も大幅に減ります。先生が習っていない漢字を書けないとなると、どの漢字を何年生で習うかをすべて頭に入れておかなければなりません。ベテランの先生ならまだしも、新任の先生にはそれだけでかなりの負担になるでしょう。

その上、早い段階でできるだけ多くの漢字を見せることで、子どもたちは、自然に覚えるでしょう。わざわざ6年生で習う漢字だからといって、それまで目に触れさせないようにするのは、漢字を習得させる上でもマイナスなのではないかと思います。極端に難しい漢字でなければどんどん目に触れさせてやればいいと思います。

公立小学校教諭で多数の著作のある松尾英明氏は、

「「習った字しか黒板に書かない」を忠実に続けていると、配当表にある漢字以外は一切読めないということになる。」(『不親切のススメ』さくら社、2022、p34)

と指摘しています。

漢字は、読めるよりは読めた方がいいに決まっています。学習指導要領も、最低限必要なこととして学年別配当表を示しているわけですから、その学年で習うべき漢字を扱わないのは問題でしょうが、上の学年の漢字を覚えてはいけないなどと言っているわけではありません。松尾氏は低学年であっても「漢字のクイズ」として、河馬、駱駝、縞馬、土竜など絶対に読めないような漢字を示すこともあるそうです。実際に示すときには、「今日は、哺乳類シリーズだよ」など、テーマを設定する(これが考えるヒントとなります)そうです。子どもたちは、「普通はできないけど、できる子はすごいよ」という課題はとても好きです。

熟字訓までいかなくても、日常的によく耳にする漢字くらいは、学年配当表を気にすることなく、黒板や自作プリントに使ってやればいいと思います。その方が、漢字に興味を持つようになっていくと思います。毎日、決められた漢字を書き写すような宿題などしなくてもきっと書けるようになると思います。見たことのある漢字は、書くことへの抵抗も軽くするものです。

最低限のルール(学習指導要領に定められた内容)さえはずさなければ、いくらでも工夫することはできると思います。こうした思考は、学校の無駄をなくし、効率的な授業を構成するためにも大いに駆使すべきです。

(作品No.179RB)