ゴジラ飛ぶ、天使が走る

授業中、集中できずに窓の外をぼーっと見ている子を時折見かけます。特に、南側の窓に最も近い席で、しかも後方に座っている生徒は授業に飽きたら何気なく窓の外を見るのです。私は、そういう生徒に注意するとき「おーい〇〇、窓の外にゴジラでも飛んでるのかあ」と、できるだけのんきな感じで声を掛けるようにしていました。すると、その子はちょっと恥ずかしそうにしながら素直に前を向きます。

私は新任の頃、生徒が少しでもよそ見をしようものなら烈火のごとく𠮟りつけていました。当然、教室の雰囲気は重く沈み込み、それ以降の授業は暗い雰囲気の中、無理やり進めることになります。さらには、そういう叱り方を続けていたせいで次第に生徒は反抗的になり、最後は学級崩壊状態になってしまいました。注意をすることは当たり前のことですが、もっとソフトなやり方はないかと思うようになり、その一つの方法としてゴジラに飛んでもらったわけです。

すると他の子から「先生、ゴジラは飛べないよ」と声があがります。私は待ってましたとばかりに「いやいや、ゴジラ飛べるんですよ」と答えます。実際、ゴジラシリーズの一つ「ゴジラ対ヘドラ」でゴジラは熱戦を吐きながら尻尾を丸めて、後ろ向きに飛ぶシーンがあります。そういう話を(授業中に不謹慎ですが)、黒板につたないゴジラの絵を書きながら説明してやると、生徒は授業の何倍もの集中力で私の話を食い入るように聞いています。

でも、なぜゴジラなのか?理由は大きく二つあります。

ます、誰もが飛べないと思っているものであることが大切です。「ガメラでも飛んでるのか」ではだめです。ガメラが飛べることは生徒もよく知っていますので、意外性に欠けます。「えっ」と思わせることで、よそ見した生徒だけでなく他にもいるであろう集中力が切れかけている子にも刺激を与えることができます。

もう一つの理由。これが非常に重要です。ゴジラは1954年に第一作が公開されました。その年、日本にとって非常に衝撃的な事件が起こりました。アメリカがビキニ環礁で実施した水素爆弾実験によって第五福竜丸を含めた多くの日本漁船が被爆し、いわゆる「死の灰」を大量に浴びてしまったのです。ゴジラは「身長50メートルの怪獣」で「人間にとっての恐怖の対象であると同時に、「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれました(ウィキペディア)。第一作の宣伝用のポスターにも「水爆大怪獣映画」と書かれています。

周知のとおり、日本は世界で唯一の被爆国です。その日本がアメリカから二発の原爆を投下されてから10年もたたないうちに、また同じアメリカから甚大なる核の被害を被ったのです。当時の日本人にとってはかなりの衝撃だったと思います。ゴジラはそうした日本人の反核、反戦の思いを背負って誕生したのです。

私は、ゴジラが飛べる話をした後生徒にそんな話をしました。生徒は単に面白がって聞いている段階を経て、真剣なまなざしに変わります。

さらに言えば、初めてゴジラが空を飛んだ「ゴジラ対ヘドラ」が公開されたのは1971年、ちょうど公害が社会問題になっているころでした。この映画で、ゴジラは公害の申し子ともいえるヘドラと戦います。ヘドラは当時問題になっていたヘドロをもじったものでしょうが、ゴジラが戦ったのはヘドラに象徴される日本の公害であったわけです。ネタバレになるので詳しいことは書けませんが、そのラストシーンはまだ小学生だった私にとっては、実に衝撃的なものであったのを覚えています。

というわけで、生徒を注意するとき、ただ厳しく叱責するのではなくできるだけソフトな言い方で、しかも一定の効果がある方法として私はよくゴジラに登場してもらっていました。(授業の脱線時間が増えたこともありましたが・・・)

もう一つ、ソフトな注意として登場してもらったのが「天使」です。出典は明らかではありませんが、場がしらけるような発言やウケねらいの発言が思うようにウケなかったときに「あ、今天使が走った」ということがあるという話をどこかで聞いたことがありました。神の使いである天使は人間を救うために存在しているので、ウケない話をしてしまった人を救うためにも現れる、みたいな話をどこかで聞いたことがあったのです。授業中に、ウケねらいで発言する生徒は結構いるものです。いわゆるちゃちゃを入れるとか、話の腰を折るといった発言です。単発の場合はさほど邪魔にはなりませんが、何度も続くと授業の妨げになりますから注意せざるを得ません。でも、教師が真っ向から𠮟りつけるのは芸がないような気がします。そこで、天使にご登場願うわけです。

生徒が何かウケねらいの発言をします。だいたい教師への質問形式で出現することが多いのですが、私は、何も答えず黙ったまましばらく間をとります。そして、おもむろに「実はねえ」(ここでもう一度間を取る)「今、天使が走ったんですよ。」と切り出す。そして(少し大きめの声で指をさしながら)「そこ、教室の後ろ、ロッカーの前」。何人もの生徒が思わず後ろを振り返ったりします。

そして天使が登場する意味を伝えます。登場するのが天使ですから、教室の雰囲気は重くなりません。ちゃちゃを入れた子も不思議と落ち着きます。要は、自分の言うことに何らかのリアクションがほしいだけですから、それで欲求は満たされるわけです。

次の時間も同じような発言を続けた場合はこう言います。「〇〇さん(ちゃちゃをいれる子の名前)、天使も忙しいんだから何回も呼んじゃいけませんよ」と言うことにしていました。そのうち、生徒同士で注意し合うときも「〇〇、天使呼ぶなよ」と言い合うようになってきます。要は、「うるさい、黙っとけ」という意味なのですが、言葉が言葉なのでさほどきつく聞こえません。結構効果的でした。ただ、特定の子に「今日の時間、思い切り天使呼べよ」とけしかける生徒が現れないように十分注意する必要はありますが・・・。

そう言えば、あるとき、いつものように「ゴジラでも飛んでるか」と声を掛けたとき、「そうなんです。ちょうどあの辺です」と指さすという強者もいました。まさに一本取られた感じです。笑うしかありませんでした。

(作品No.169)

好きこそものの・・・

好きこそものの上手なれと言います。野球が好きな人は誰に言われなくても練習するでしょうし、日曜大工が好きな人は毎日でも何か作っていたいと思うでしょう。好きだからこそ、それにかける時間が増えるので、当然経験も豊富になりますし、必要な知識や技術も自然に身につくでしょう。

 しかし、この「好き」ということが厄介なことになることもあります。以前県教委に勤務していたときの上司に、日本全国の城郭について大変造詣が深い方がいました。その人はお城の話をするときは実に生き生きとしていました。上下関係の厳しい世界でしたから、部下の私はそういう話をただ聞くしかありません。しかし、お城に全くといっていいほど興味がない私は、いかに嫌々聞いていることを悟られないようにするかに細心の注意を払っていました。そういう時間は実に長く感じます。

私たち教員の仕事は、話すことを抜きにしては語れません。話術に長けていることは大きな武器になります。「好きこそ・・・」の諺に従えば、話すことが好きな人は話術に長けていることになります。ところが、そう簡単にいかないのが難しいところです。

 精神科医で長年青少年の心のケアに携わってこられ、何度も学校に出向いて研修会の講師を務められた実績のある吉田脩二氏は教師の話し方について次のように述べています。

「いつも思うのだが、一般に教師は話が下手である。ただし、決して朴訥ではなくて、むしろ多弁である。多弁であるが内容が少ない。まわりくどくて、しかも断定しないから、結局は何を言いたいのかがわからなくなってしまう。」(吉田脩二・生徒の心を考える教師の会(1999)『不登校 その心理と学校の病理』、高文研、p201)

 実に厳しい言葉です。でも、あながち的外れとも言えないようにも思います。教員は一般の人に比べると話が好きな人が多いと思います。その方が長く教師をやる上では有利でしょう。また、経験を積むほどに話のコツがわかってきて「好き」になっていくということもあるでしょう。でも、「好き」になったときに気をつけなければならないのが、この「多弁」や「饒舌」です。

 かつて、尊敬する先輩(元中学校長)から教えられたことがあります。

「人前で話をするときに大切なのは、“何を話すか”よりも“何を話さないか”を考えることなんです」

 私たちが子どもや保護者、地域の人に話すのは「伝えるべきこと」があるからです。話し好きになることは悪いこととは言えませんが、話すこと自体が目的化してしまっては、本末転倒です。こうなると独りよがりの傾向、つまり教員の自己満足で終わってしまいかねません。特に、自分の好きなことや得意分野になるほど、あれも言いたいこれも伝えたいと欲を出し過ぎて、いわゆる「枝葉」が多くなり、最も大切な話の「幹」の部分がぼやけてしまいます。しかし、聞く側は「枝葉」の話をさほど聞きたいとは思っていません。

 つまり、わかりやすくて聞く人を引きつける話をするためには「捨てる勇気」が必要なのです。私は、指導主事や校長の立場でさまざまな人の前で話したり挨拶したりする機会をたくさんいただいてきましたが、自分が納得できる話ができたのは、ほんの数回しかありません。それは、私が「目の前の人が何を欲しているか」に寄り添いきれずに、自分が話したいことを優先してしまった結果なのだろうと思います。「自慢話」や「苦労話」が聞いていて面白くないのは、それが話し手が自分の満足のために話しているからです。置き去りにされた聞き手は、適当に相槌を打って聞いているように振る舞ってはいても、頭の中では他のことを考えているでしょう。

 それに気づかずに話し続ける醜態だけはさらしたくないと思ってはいるのですが・・・

(作品No.168RB)