不登校はマイノリティか?

「不登校は、もはやマイノリティとは言えない」

先日某市の市長が、ある研修会の開会挨拶で述べた言葉です。その市長は、自分の市内の不登校の人数を具体的に挙げながら、不登校児童生徒が急増していることに危機感を表明しました。全国でも不登校児童生徒の数は上昇の一途です。文部科学省が10月27日に公表した「問題行動・不登校調査」(全国の学校を対象。2021年度実施)によれば、「病気や経済的理由などとは異なる要因で30日以上登校せず「不登校」と判断された小中学生は24万4940人」で過去最多となっています。最も多いのが中学校で、中学生全体の4%を越えています1)。これは、コロナ禍の影響を差し引いたとしてもかなりの数です。「不登校」を単純に「問題」とすることには抵抗を感じますが、学校に行けないことによって多くの子どもたちが、悩み、苦しんでいることは確かです。市長が危機感を口にするのも無理のないことでしょう。

それにしても、4%というのは、かなりの数です。全校生徒500人の中学校なら20人が不登校となっていることになります。この規模の中学校の全校の学級数は13クラスあまりですから、各クラス1~2人いることになります。しかも、これはあくまでも平均値ですから、学校によっては3~4人くらいいても不思議ではありません。

ただ、見方を変えれば96%の中学生は登校できているのです。この96%の子どもたちはなぜ登校ができているのでしょうか。実は、それを考えることが不登校現象の根本的要因に迫るために欠かせない視点なのです。現在曲がりなりにも登校できているすべての子どもが、楽しく、充実した学校生活を送っているとは限りません。もしかしたら、大半の子は「グレーゾーン」に入る「不登校予備軍」なのかもしれないのです。

「グレーゾーン」とは、森田洋司氏が『「不登校」現象の社会学』(1991年、学文社)において、登校している子どもたちの学校に対する結びつきの強さ(ソーシャルボンド)は、個々に違っており、いつ不登校になってもおかしくない子どもが一定数いることを明らかにしたものです。そうした子どもたちは、学校に対する弱い絆しか持ち合わせていません。それが何に由来するのかを知ることが、すでに不登校になっている子どもたちへの支援策にもつながるのです。

こうした状況の中、教員は誰もが、不登校を減らすために全力を尽くしています。学級担任が密に連絡をとり、家庭訪問をし、スクールカウンセラーなどの専門家の力を借りながら、校内でのケース会議を開いて対応を協議するなど、可能な限りの対応を行っています。それでも、不登校生徒は増え続けています。なぜか。それは、多くの場合、学校の対応が不登校児童生徒に限られてしまっているからです。それが、対応の基本であることは確かです。また、一定の効果も上げてきたのも事実です。でも、対応を不登校の子にだけに限っていても状況を大きく変えることは非常に困難です。誤解を恐れずに言えば、それはある意味で「対症療法」にとどまっていると言わざるを得ません。つまり、不登校の要因を子どもの「個人」の中にのみ求めようとしては、根本的な要因に迫ることはできないのです。このことは、先に挙げた森田氏が約30年前に、すでに指摘していることです。

不登校に至った理由は、さまざまです。一人ひとり違うと言ってもいいくらいです。でも、大きな共通点があります。それが学校に対する抵抗感です。

その抵抗感の由来が、自分自身の気質の問題であるのか、教員に対するものなのか、友だちに関することなのか、あるいは学級というシステムそのものに対するものなのかは、生徒によって違うでしょうが、どの子にも学校に対する「抵抗感」は存在するのです。もし、何の抵抗感もないのであれば、おそらく登校できているでしょう。重要なのは、その抵抗感は、現在登校できている生徒たちの中にも存在しているということです。だからこそ、登校できている子がどういう理由で登校できているかを細かく分析し、学校に対してどのようなイメージを持っているのかを把握しておく必要があるのです。全校生徒にアンケートを定期的にとったり、教育相談の機会を増やしたりしながら、ぎりぎりのところでかろうじて踏ん張っている子どもたちから学ばなければなりません。そうした子が、今現在、学校に対してどんなことを感じているか、それを把握することがすべての生徒を救うことになるのです。

不登校の原因を登校できない子の中に求めても限界があります。なぜ学校に行けないかを明確に説明できる不登校生徒は多くありません。本人にもよくわからないことが多いのです。何だかよく分からないけれど教室が怖いと感じる子もいますし、何のために学校に行くのか分からなくなっている子もいるでしょう。いずれにしても、体が学校に向かなくなってしまってからでは、本人に冷静に自分を分析しなさいと言ってもできるはずがありません。

だからこそ、「予備軍」の生徒に教えてもらわないといけないのです。そのための第一歩として、瀬戸際に立っている生徒を見つけ出さなければなりません。そのとき初めて学校には、これまで見えていなかったものが見えてくるはずです。学校と生徒をつなぐ力、つまりソーシャルボンドのどこが弱くなっているのかが見えてくるのです。

一部の生徒を除いて、生徒は学校が楽しいと感じられれば学校に来ます。そう思えない生徒に、何がそう思わせてしまっているのか、私たちは謙虚に目を向けなければなりません。

こうしたことを進めれば、これまでの学校の常識を根本から見直さなければならない壁に当たるかもしれません。でも、それを恐れていては、おそらくこれからも教員は増え続ける不登校の対応に忙殺されていくでしょう。しかも、それは「本丸」ではない可能性が高いのです。もし、そうだとすれば教員はただ疲弊するしかありません。

持って回った言い方になってしまいましたが、結局は教員を始めとする学校関係者が、学校のあり方を根本から見直す覚悟をするしかないのです。不登校はもはや単なる「学校不適応」の枠組みではとらえられなくなっています。「不適応」と考える視点は、不登校の苦しみを最終的に個人の責任に委ねてしまうでしょう。なぜなら、「不適応」という言葉が学校が絶対的に正しいという意識によって支えられているからです。「正しい」学校には、適応すべきだという姿勢からは、自分たちのあり方や学校のあり方に目が向けられることはありません。

全校にアンケートをすれば、学校が混乱するだけだと思うかもしれません。解決しようのない問題が出てきたらどうするんだという人もいるかもしれません。でも、だからこそやるべきなのです。そこを避けているうちは、言われのない苦しみを一身に受けてしまった不登校の児童生徒を救うことはできないでしょう。そして近い将来、不登校がさらに増え、抜き差しならない状態になってしまったら(今でも十分深刻ですが)、学校の先生には任せておけないとして、公設民営化などによる市場原理の波に吞み込まれてしまうかもしれません。すでに公立学校離れは進んでいます。それは、必ずしも都市部に限ったことではありません。そうなれば、教育格差は今以上に広がります。そこに、教育の本質は残されているのでしょうか。

冒頭の市長の言う通り、もはや不登校はマイノリティではありません。「グレーゾーン」を含めれば、学校に抵抗感を抱く子どもたちは、すでにマジョリティなのかもしれないのです。

(作品No.178RB)

「考える」子どもをどう育てるか

小学校の教頭だったころ、中学年の習字の授業を初めて担当したときのことです。授業開始直後、一人の児童が前にやってきて「先生、半紙を忘れてきました」と私に伝えるのです。それまで中学校の授業しか経験のなかった私は、何が言いたいのかよく分かりませんでした。しかも、半紙を忘れたという事実を報告したあと、その場(教卓のすぐ近く)にじっと立ったまま何も言わないのです。要は、「私はどうしたらいいんでしょう。先生、指示をしてください」というわけです。私は、その子にあえて「で、どうするの?」と(優しく)尋ねました。

すると、その子はすごく驚いた様子で困惑しているのです。その姿を見て、またびっくりしました。おそらく、その子は先生にそういう言い方をされたことがこれまでなかったのでしょう。これまでの先生なら、多少のお説教を聞かされた後、予備の半紙をもらうとか、今日は誰かに借りて明日借りた分を返しなさいといった具体的な指示を受けていたのだろうと思います。つまり、その子は忘れ物をしたときはこうするものだということをそれまでに学習していたので、自分のやるべきことはやったと思っていたのです。それだけでなく、黙って隠していることを考えたら自分はきちんと対応できたという満足感さえも持っていたのかもしれません。とにかく、長年中学生を相手にしてきた私にはその子の表情や態度にかなりの違和感を抱きました。もちろん、子どもには何の責任もありません。それまでの指導にその子は忠実に従っているだけです。

私が、しばらく授業でそういう対応を続けていると、子どもは「忘れ物をしたので〇〇君に借りることにしました」と言うようになりました。別に都度の報告はいらないよとは思いましたが、突っ立っているだけのことを思えば、忘れ物をした自分はどうすればいいかを自分で考えて、授業が始まる前に友だちに交渉して忘れ物を確保しているのですから、大きな進歩です。社会に出ても、大事な会議で筆記用具を忘れたり、資料の一部が抜けていたりすることはあるでしょう。そんなときに、途方に暮れているようでは会社から「使えない奴」と思われても仕方ありません。臨機応変な対応が求められるのです。

ちょっと内容は違いますが、最近、インターネットのニュースで宿題の功罪が問われるようになりました。全員に同じ宿題を一律に課すことは非効率的であるだけでなく、一人ひとりの子どもにとって本当に必要な学習になっているのかを問われているのです。最近では多くの子が学習塾に通っていますから、塾からも宿題が出されます。そうなると、子どもにとってはかなりの負担になるわけです。まあ、学習塾は家庭で行かせているのだから家庭の責任であると言えばそれまでです。でも、本当にこれが必要なの?と思わせるような宿題を出されると不満を持つ子が増えても仕方ありません。本来一人ひとりに合った内容と量を考えて宿題とした方が、効果的なのは明らかです。

ただ、実際に一人ひとりに違う課題を出すとなると先生は大変です。ただでさえ「超」がつくほど忙しいのに、個々の理解度に合わせた宿題を準備する時間など捻出できるはずはありません。それに、一人ひとり課される量が違えば子どもは「不公平だ」と不満を持つでしょう。個々にレベルの違う宿題を準備し、しかも量までほぼ同じにするなど現実的に不可能なことのように思えます。

しかし、一律に出される宿題に無駄が多いのも認めざるを得ません。例えば、10個の新出漢字を覚えさせようとして、一つ一つ書き方(止め方や、はらいなど)、漢字の意味などを説明した上で、「10個の漢字をすべて10回ずつノートに書いてきなさい」という宿題を出したとします。漢字の得意な子は、もう授業中にマスターしてしまっています。それなのに、家で100字書かなければなりません。逆に漢字が苦手な子は10回ずつ単純に書き写すだけで頭に入るかどうか怪しいものです。教育はもともと予測不可能なものだと言う人もいる(広田)くらいですから、どのような宿題を出しても(宿題を出す前に)その効果を図ることは不可能です。とはいえ、先生の多忙化などの問題がクリアできるのなら、一人ひとりに見合った宿題を出す方が、子どもの力を伸ばすには効果的であることは明らかです。となれば、いかに教員の負担を最低限にとどめ、効果的なアイデアがあれば実行しない手はないことになります。

ここに一冊の本があります。タイトルは『不親切教師のススメ』(さくら社)。著者は公立小学校教諭の松尾英明氏。2022年8月に出されたばかりの本ですが、インターネットを中心に話題になっているので、すでにお読みになった方もいるでしょう。これは、宿題の出し方だけでなく、真に子どもの主体性を伸ばすにはどうすればいいかについて書かれた本です。いわゆる「指示待ち人間」ではなく、自分でやるべきことを見つけて前向きに学習に取り組めるようにするためには、教師が懇切丁寧に指導をすることはかえって仇になるという指摘です。目次をざっと見ただけでも「「楽しい授業」をやめる」「習字の掲示をやめる」「「してあげる」をしない」など、非常に刺激的です。私も、かねてから学校の先生や保護者は「転ばぬ先の杖」を出し過ぎると感じていました。ちょっと考えれば、自分で解決できることなのに周囲の大人が「失敗」しないように「お膳立て」をすることで、できるはずのこともできなくなるだけでなく「何で先に行ってくれなかったの」と文句ばかりを言ったり、自分は何もせず、ふんぞり返って「次、何するの」と偉そうに聞いてくる子どもを育ててしまっている可能性もあるのです。

反論もあるでしょう。「不親切な指導」なんかしたら、ただでさえうるさいモンペから、さらにクレームがくるじゃないかという見方もあるでしょう。宿題をもっとたくさん出してくれないと子どもは遊んでばかりになって困るという保護者もいるでしょう。けれども、私たちは保護者のために授業をしているのではありません。子どものためにしているのです。もし、子どもが家で自分から宿題や勉強をするようになったら、保護者も何も言わなくなるはずです。

そんなうまい話があるものかと思われるでしょう。私もそう思っていました。けれども、『不親切教師のススメ』には実に簡単な方法で、教師の手間もかからず、しかも一人ひとり違う宿題が出せるアイデアが紹介されています。つまり、授業中に小テストを実施し、子どもに赤で「〇つけ」をさせる。宿題は、自分の間違った問題をもう一度やることとし、家では青で丸つけをさせる、という方法です。これなら、理解度に合わせた宿題となります。

授業中の取組として秀逸なものとしては、蓑手章吾氏が示した「自由進度学習」というシステムがあります(『自由進度学習のはじめかた』学陽書房、2022、初版は2021)。教員が教室の前で説明するのは最初の10分程度で、後は各自が自分で決めた「めあて」について自学し、最後に「振り返り」をさせるという授業形態です。教師の説明時間が少なくなれば、その分一人ひとりに直接助言する時間が増えます。教師の机間指導は忙しくなりますが、個々の理解度は非常によくわかるやり方です。最初はあえて「めあて」を低く設定する子がいます。すでにできることを「めあて」にすれば楽だからです。そうすれば「振り返り」で「完璧にできた」と報告できます。しかし、蓑手氏はそういう子に「残念だったね」と声をかけるそうです。そして、今度は、「ぎりぎり達成できない「めあて」」を設定するように指示するのです。十分な机間指導によって、個々の理解度はよくわかっているからこそできる指示です。ほとんどの子はしばらくすると「ちょうどいい」目標設定ができるようになると言います。低学年では難しいかもしれませんが、高学年ならどの学校でも十分に実践可能だと思います。また、一人一台のタブレットが配布された今なら、学習アプリを使えば一人ひとりにプリントを印刷して配布する必要もありません。

周知のとおり、これからの教育は一方的に伝えられる知識をできるだけたくさん記憶するだけでなく、自分で考え、自分で判断する力の育成が求められています。顕著な経済成長も望めず、終身雇用制もほぼ崩壊してしまった現代社会において、ただ受け入れるだけの姿勢では、社会の中で生き抜くことは困難です。ここに挙げた方法なら、受験用の学力を確保しながら、自ら自分を成長させることができます。

それでもなお、そんなことは特別な条件のもとでしかできないと思われる人がいるかもしれません。先に挙げた蓑手氏は千葉大学教育学部附属小学校勤務の経験があります。「ほら、やっぱり特別な人じゃないか」と思うかもしれません。確かに、大学の附属小学校は、一般の公立小学校とは環境は違うでしょう。しかし大切なのは、こういう取組を自分の学校にあてはめて、何かできることはないかと考えることだと思うのです。本に示された内容をそのまま真似をする必要はありません。それぞれの学校がそれぞれの特徴があるわけですから、そのまま取り入れても成功するとは限りません。だから、できることから始めればいいのです。一番良くないのは、「あれは特別だ」と考えて何も変えようとしないことです。

そして、最も大切なことは、授業のやり方にしても、宿題の出し方にしても安直にスキルだけを取り入れようとしないことです。そこに、本来の学校のあり方とは何かを考える視点、大げさに言えば、教育とは何かという「哲学」的なことを考えないで始めると、どこかで行き詰まると思います。「哲学」に照らして、自分の学校や学級には何が必要なのかを考え、子どもの何を伸ばそうとするのかくらいは明確にした後に、できることから始めることが大切だと思います。とりあえずやってみようという精神も捨てがたいものはありますが、長く定着させるには、保護者や同僚にしっかりと意義を説明できる「構え」は欠かせないと思います。

(作品No.177)

拠り所探し

かつて、教職に就いて10年目の32歳のとき、近隣の大学に二年間内地留学させてもらいました。そのころの私は、学級経営も部活動もそれなりにはできるようになっていましたが、どうも説明しがたい違和感を抱くようになりました。こちらが熱意を持って真剣に訴えても生徒に「伝わっている」という実感が得られず、その空気感が教室に広がらないのです。暖簾に腕押し状態となることが多くなりました。そして、これは生徒に何か変化が起こっているのではないかと思うようになりました。端的に言えば、目の前の生徒が何を考えているのかがわからなくなってきたのです。

そんなある日、担任していた数人の生徒が、数日後に迫った夏季大会(部活動)に参加するかどうかを教室で友だちと相談し合っているのを目にしました。その子たちは控え選手でしたが、それでも3年生にとっては最後の大会です。参加しないってあり得ないだろうと私は思いました。教室には他の生徒も大勢いましたし、もちろん私もいました。こっそり相談するのではなく、堂々と、そして冷静に選択しようとしているのです。特に彼らが部活自体に不満を持っているわけではありませんでした。また、今のように部活動の加熱が問題になるようなことはほとんどなかったころの話です。その様子を見て、私の違和感は確信に近くなりました。何か得体のしれない大きな変化が起こっている、そう直感しました。ちょうどその頃、都市部での公立中学校離れが話題になっていたこともあり1)、私の違和感は次第に危機感に変わっていきました。私は変化の正体を見極めたいと思い、内地留学を決めました。

 内地留学の大学では、実にいろんなことを経験させてもらいましたが、最も「きつかった」のは、修士論文を仕上げるために何百ページもある専門書(日本語翻訳版)を何冊も読まなければならないことでした。とにかく難しくて、1ページ読むのに一週間くらいかかることもありました。ひどいときには一行読むのに一日かかることさえありました。それでも十分に理解することは困難でした。「本当にこれは日本語なのか」と思うくらい、私にとっては高いハードルだったのです。

しかし、ゼミの先生に指導助言を受けながら読んだ専門書の内容を根拠に研究を続けた結果、中学生の価値観は、外見上のファッションや持ち物に対する意味づけに教師と大きな差があったものの、人としてどうあるべきかという点については多くの共通点が見出されました。その研究は学校現場に復帰した後、生徒指導を中心にさまざまな場面で判断の拠り所となりました。不思議なことに、その拠り所の効果は年数を重ねても目減りすることなく、むしろ高まっていったのです。

近年の大学(学部)には、大学在学中に早くから学校現場ですぐに役立つような授業を増やす傾向があるそうです。学校現場に体験に行かせる「インターンシップ」的な実習(教育実習とは別枠)を単位認定し、積極的に実施する大学もあります。確かに、即戦力であることは学校現場にとってはありがたいことですが、何か違うような気がします。

教育社会学者で日本大学文理学部・大学院文学研究科教授の広田照幸氏は、自身の「教育の社会学」という授業の初回に次のように学生に話すそうです。

「私のこの授業は、採用試験にも対応していないし、教員になってすぐ日々の仕事に役立つものでもありません。でも、教員になってしばらくやっていくと、それまでのやり方でうまくいかなくなって行き詰まったり、どう考えればいいか分からないような事態に直面したりすることが、きっとあると思います。そのときには、私がこれから話をする講義の中の理論や概念や現状分析を思い出してみて下さい。考えをめぐらせるための材料が見つかるかもしれません。」(広田照幸(2019)『教育改革のやめ方』岩波書店、p188)

大学の教育がどうあるべきかなどと偉そうにいうつもりは毛頭ありませんが、大学には大学にしかできないことがあるはずです。即戦力となることを期待するあまり、学生が汎用性の高い拠り所を得る機会が奪われているとしたら、それは悲劇だと思います。学校現場は多忙です。一旦赴任すれば専門書を読むような時間はありません。また、読もうとしてもそうした本は相応の専門知識がないと理解できません。それはもう読解力の域をはるかに超えています。専門家のいる大学だからこそ読めるのです。

教員にとって熱意は欠かせないものです。しかし、熱意を十分に活かせる拠り所を持たなければ、これだけ多様化が進んだ社会に対応することは困難です。熱心に関われば関わるほど生徒との意識のズレが大きくなることもあります。現職となった先生には専門書を読む時間はないでしょうが、専門書でなくても教育に関する意義深い本はたくさんあります。専門書をわかりやすく解説している本もあります(漫画すらあります)。それらを入口にすれば、短い時間で「拠り所探し」は十分に可能だと思います。

「すぐに現場で使えるものは、すぐに使えなくなる」(前掲書、p181)。広田氏の指摘は的を射ています。

1)NHK教育プロジェクト・秦政春(1993 初版1992)『公立中学校はこれでよいのか』NHK出版(ネットなら数百円で買えます)

(作品No.176RB)

最近のSNS事情

チート1)、アカバン2)、クレクレ3)、代行屋4)・・・。若い人なら知っているのかもしれませんが、私は初めて聞く言葉ばかりでした。実はこれは、先日参加した講演会5)で聞いた言葉です。演題は「子どもを取り巻くSNSトラブルの現状と対処法について」、講師はNIT情報技術推進ネットワーク株式会社代表取締役篠原嘉一氏。最新のSNS事情を豊富な具体例を挙げながらテンポよく話される講師にぐいぐい引き込まれました。まあ、SNSに弱い私は話の半分くらいしか理解できませんでしたが。

冒頭に挙げた言葉は、オンライン上での「法的に問題のある行為やそれに対する処置」です。驚いたことに、これらに関わる小学3年生以下の子が急増しているそうです。トラブルの低年齢化は加速度を増しています。少し前、子どもがゲームに多額の課金をすることが問題になりましたが、課金の場合、最終的に保護者の口座から使ったお金が引き落とされるので、比較的早い段階で発覚します。しかし、最近では子どもたちがインターネットやSNSを使って「自力でお金を集める」ことができるのだそうです(これも違法行為です)。自分のスマホを持ち、自分の部屋(個室)があって自分でお金を集められるとなると、保護者もなかなか気づくことができないでしょう。子どもがゲームで使うお金をSNS上で提供する人は、それが違法行為であることを知っています。そして、提供した金銭が一定の額に達すると突然保護者に返金を要求します。しかも「子どもさんが違法行為をしていますよ」と脅して高額な金銭を要求することもあるそうです。

こういうことが起きるのは、子どもたちがリアル(現実社会)とバーチャル(仮想空間)の区別がつきにくくなっているからではないかと思います。講師の篠原氏も、近年スマホ決済が増えて、店舗でお釣りを受け取るという体験をしたことがない子どもが増えていると指摘されていました。現金には確かな手触りがあります。手にしたお金を使えば減っていくのが目で見えます。そうしたリアルな体験によってどのくらいのお金でどんなの物が手に入るのかを実感することができます。しかし、ネットのバーチャル空間では画面の数字が変化するだけです。そこには、紙幣の手触りも硬貨の重みもありません。

今、バーチャルの世界はどんどん広がっています。その流れは、もはや止めることはできないところまできています。今回の講演は青少年補導委員対象の講演でしたが、子どもがこれだけバーチャルな世界に生きている現状にあっては、リアルな世界で行っている日々の挨拶運動や補導活動にどれほどの意味があるのだろうさえ思ってしまいます。

でも、講師の篠原先生は最後にこう話されました。

「結局、子どもを守るために一番大切なのはアナログな人間関係なのです。子どもは、リアルな関係で愛情を感じた相手を裏切るようなことはしません。親子関係が良好であれば親を裏切ってはいけないと思うし、毎朝「おはよう」と挨拶してくれる人が自分のことを気にしてくれると感じれば、そういう人を裏切ってはいけないと思うようになります。」

 大人が常に、子どもにとって「信頼」に値するリアルな存在であるかどうかを意識することは、現状に対する特効薬にはならないとしても、必ず子どもに一定の「歯止め」をかける力になると思います。

1)コンピューターゲームで本来と違う動きをさせる違法行為。               2)オンラインのサービスで、運営者からユーザーアカウントを削除され利用を停止されること 3)オンライン上で金銭やそれに相当するものを他人からもらう違法行為。          4)ゲームのアカウントを渡してレベルを上げること。(いずれも、講演での説明に若干の加筆をしたもの。)                                   5)令和4年度 県青少年補導委員大会・研修会(令和4年10月26日)

オンリーワン

世界には一人として同じ人間はいないという意味で、すべての人はオンリーワンだと言われます。ただ、オンリーワンはナンバーワンに比べてわかりにくいものです。オリンピックで金メダルを獲った人や、何かの大会で優勝した人は誰の目にも明らかにナンバーワンであることがわかりますが、オンリーワンというのは、どこかつかみどころのなさを感じます。

それでもオンリーワンという言葉は魅力的な響きを持ちます。そこに、すべての人にはそれぞれに違った個性があるのだから「そのままの自分でいいんだ」という優しさが含まれているからでしょう。同時に、他の人と比べることの虚しさも教えてくれます。

でも、オンリーワンは直訳すれば「ただ一つ」という意味です。もし、自分の中に他の人にはない「ただ一つ」が見つけられなければ、自分はダメな人間じゃないのかと感じてしまうこともあります。思春期を迎えた子どもが、そういう自信のなさのために自己肯定感を下げてしまうことも少なくありません。この悩みは大人が考えている以上に深刻なもので、中には家に閉じこもってしまうケースもあるといいます。オンリーワンの個性を「持ちたい」と思っているときはいいのですが、「持つべきだ」という規範として受け止めてしまうと一種の圧力となります。この点について社会学者の土井隆義氏は次のように指摘しています。

「個性的な存在たることに究極の価値を置くこのような社会的圧力の下で、彼らは、自己の深淵に隠されているはずの潜在的な可能性や適性を見出そうとあせり、絶えざる焦燥感へと駆り立てられています。」(土井隆義2004『「個性を煽られる子どもたち』岩波ブックレットNo.633、p38 下線は引用者による)

思春期の子どもは「自分は何者なのか」と自問します。そのとき、「こうありたい」とか「こうあるべきだ」という自分像と、現実の自分とのギャップに悩みます。思春期の子どもが気難しくなりやすいのは、そういうギャップが解消できないもどかしさによって気持ちの波が激しくなるからでしょう。所謂アイディンティティ(自我同一性)確立に関わる悩みです。

さて、ここで一つの矛盾に気づきます。オンリーワンという概念に従って「ただ一つ」であることを実感しようとすると、必然的に他者との比較が必要になってしまうのです。自分の個性が「自分にしかない」ことを証明しようとすれば、比較対象となる他者がいないとできないからです。アイディンティティの問題で悩む子に「あなたらしく生きればいい」と言ってもなかなか伝わらないのは、そう言われた子が、自分らしさを(土井氏の指摘する)自分の中にあるはずの「潜在的な可能性や適性」に見出そうとしてしまうからです。つまり「個性」が自分の内側(生まれ持った資質など)のどこかにあるはずだと思ってしまうのです。しかし、そもそも人間は他者なくして「個性」をつくることはできません。オンリーワンという概念は非常に魅惑的ですが、個性をつくり上げるために欠かせない「他者」の存在を薄めてしまう危険性もあります。

他者と自分を比較して、劣等感を抱いたり、優越感に浸ったりするのは愚かな行為だと思います。しかし、世の中に自分と他者を比べないで生きられる人がどれほどいるのでしょうか。ましてや、子どもなら無意識に比べてしまっても責めることはできないでしょう。

私たちは他者と自分を比較することを「良くないこと」として否定するのではなく、その比較の仕方によっては、自分の「個性」を形成する大切な作業になりうると伝える方が、よほど説得力があると思うのです。「あなたの苦しみは、かけがえのない自分をつくるために必要なことなんですよ」というメッセージをどう伝えるかが大切なのではないかと思います。

そもそも、何に、どう悩むか、それも自分らしさの一つなのですから。

(作品No.97BA)

制度疲労という難問への挑戦 その1

今、学校が抱えているさまざまな問題は学校というシステムが制度疲労を起こしているところから生じていると思います。中でも公立学校における学級制度は明らかです。学校の基本単位として「あって当たり前」のものとして学校の中核に位置する学級ですが、多くの矛盾を抱え、深刻な問題を発生させているのに改革の手が入らず、そのことにとってさらに矛盾が大きくなっています。こうした学級はその存在を疑われることもなく、自明のものとされ、すべての公立学校で学級を編成することを前提とした教育活動が展開されています。

学級の法的根拠は実に曖昧です。学級とは何かという規定や定義はいったいどこに示されているのでしょうか。例えば、学級の編成等について定めた「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」(いわゆる「標準法」)の第三条(学級編制の標準)では「公立の義務教育諸学校の学級は、同学年の児童又は生徒で編制するものとする」とされていますが、ここに示されているのは学級の構成員に関する規定であり、学級そのものの規定でもなければ定義でもありません。「学校には学級を設置すること」といった文言はありません。また、学校を新たに作るときの基準となる「学校設置基準」にも同様の文言が書かれているだけです。新たに学校を設置する場合の基準(当然現存の学校が学校足りえる基準でもありますが)に、学級編成を義務づける文言がないのですから、素直(?)に読めば、学級編成を行わず単位制にすることも可能であることになります。当然、児童生徒の学習内容を規定する学習指導要領にも明記されてはいません。私の知る限りでは、現在の形の学級を法的に規定するものは、明治24年(1891年)に出された「学級編制等ニ関スル規則」しかありません。以下、その内容です。

(学級とは)「一人ノ本科正教員ノ一教室ニ於イテ同時ニ教授スヘキ一団の児童ヲ指シタルモノニシテ従前ノ一年級二年級等ノ如キ等級ヲ云フにアラス」

この「規則」が今も効力を持っているのかどうか判然としないのですが、今から約130年前の規則が今も生きているとしたら制度疲労を起こして当然です。

このように、法的な根拠が曖昧であるにも関わらず学級の構成員である児童生徒は、同年齢であるというだけで同じ学年とされ、自らの意志とは関係なく強制的に学級に振り分けられます。その上、よほどのことがない限り年度途中での学級変更も現実的には認められません。ここまで閉鎖的な空間というのは、現代の日本社会において他に類を見ないでしょう。個人の自由や選択の自由がこれほど保障されている日本の社会の中で、強制的に所属する集団を決めるのであれば、それ相応の理由や効果が法的レベルで示されないといけないはずです。しかし、学級の教育的効果については文科省の通知レベルでしか示されていません。にもかかわらず、学校に作成が義務づけられている指導要録には各学年における学級担任を記載する欄が設けてあり、学習指導要領や生徒指導提要も、学級編成を自明の前提としてその経営をどのようにすることが望ましいかが示されています。

私が、学級の法的根拠にこだわるのは。学級の閉鎖性によってじつにさまざまな問題が発生している現状があり、それらの問題が年々深刻なものとなっていると感じるからです。こうした指摘は私だけでなく、長年にわたって多くの専門家によって指摘されてきました。

超がつくほどの閉鎖空間では、いじめが発生しやすいこと、一旦発生したいじめが長期化しやすいこと、閉鎖空間に対する拒否反応によって登校できなった子どもたちが増えていること、あるいは学級担任による強引な学級経営によって(いわゆる学級王国)自主性が著しく阻害される危険性があること、自分で考えようとしない子どもが増えていることなどあげればきりがありません。それでも、学級は形を変えることなく100年以上も続いてきたのです。

ここ何年かで、公立中学校の大幅な改革を行ったいわゆるカリスマ校長の話がいくつか話題となりました。定期考査を廃止したり、校則を完全に撤廃したり、教員が一切叱らない方針を打ち出した校長もいます。また、最近では個々の生徒が自ら学習のめあてを考え自ら振り返りを行う「自由進度学習」(蓑手章吾『自由進度学習のはじめかた』学陽書房、2022年、初版は2021年)という実践(小学校)も報告されています。これなどは、かなり学級を柔軟に考えた素晴らしい実践だと思います。これまでの学級は、学級を単位とした一斉授業にこだわったがために、膨大な数の「落ちこぼれ」(落ちこぼし?)を生み出してしまいました。それに比べて「自由進度学習」は、個別に目標が違うわけですから他の子と比べられることはありません。また、めあては自分がぎりぎり超えることのできないレベルに設定するよう助言しているため、6年生でも2年生の算数に取り組む児童もいるそうです。このシステムは「きのうの自分を越える」ことを意識させることになり、子どもたちは成長する実感が持ちやすくなります。

これらの実践は、積極的に「今できる範囲で最大限のことをしよう」としたものであり、学級の閉鎖性を緩和する意味でも大きな前進であると思います。けれども、そうした優れた実践においてさえ、学級という枠組みは残されています。学級そのものを根本的に見直したわけではありません。

そもそも、明治24年に修得制の「等級制」を履修制の「学級制」に変更したのは、上級クラスに進級できない子どもの多くが退学してしまうという事態が生じたからだといわれています。また、「教育目標の変化、すなわち個々人の知育を中心に教育を行うことから、訓育、とりわけ日本国民としての一体性を涵養するための道徳教育を中心とするようになったことが、大きな理由とされている」(濱名陽子1983「わが国における『学級制』の成立と学級の変化に関する研究」、柳治男(2005)『<学級>の歴史学』講談社選書メチエ、p143より重引)という指摘の通り、国の方向転換という意味もあったようです。ただ、いずれにしても学制発布から20年弱で最初の制度疲労が起こったわけです。制度疲労を「制度や法律が運用されているうちに社会状況が変わり、実情とかみ合わずにうまく機能しなくなること」(コトバンク)とするならば、国が求めていた姿(近代化の推進)からの乖離が激しくなり、制度そのものの維持が困難になったために、思い切った制度改革をしたということです。時代背景は今と全く違いますが、「だめだ」と思ったときに素早く対応したという点においては評価できると思います。逆に言えば、ここまで社会とのずれが大きくなった現代の学校のシステムを放置していることは、国の怠慢であると言っても過言ではないと思います。

何が深刻な問題なのか、それは不登校という現象一つとっても明らかです。不登校の児童生徒は年々増え続けています。それを、個人の資質の問題であると片づけることはできません。数十年前なら、アメリカの「学校恐怖症」の流れで心理的な問題として見ることもできたかもしれませんが、今や不登校が「心の病」が原因の大半を占めていると信じている人はほとんどいないでしょう。不登校は明らかに社会的な現象であり、その現象は社会全体に広がった私事化による学校の相対化が根本的な原因であると私は思っています。確かに今でも神経症的な症状によって学校に登校できない子どもはいるでしょうが、それが生まれ持った特性が原因であるという例は相対的に少なくなっていると思います。

先述したように明治期に学級制に切り替えたときも、生徒の学校離れが引き金になっていました。それは相対化とは言えないでしょうが、生徒が学校から離れていくという意味では同じ現象です。「令和2年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」(令和3年10月13日(水)文部科学省初等中等教育局児童生徒課)によれば、中学校の不登校生徒は166,241人(平成28年度108,999人)に達し、中学生全体の5.6%(平成28年度3.25%)に及んでいます。平成28年度の同調査結果と比較すれば、その増加が著しいことは一目瞭然です。子どもの数が減っている中で不登校の数がこれだけ増えているのは、まさに緊急事態であると言わざるを得ません。この事態を生徒個人の資質に求めたり、教員の対応にのみ求めたりしても決して解決しないでしょう。明治期と同様、生徒が学校から離れていく今の事態を根本的に解決するには、学級という組織を自明のものと考えない改革が必要です。

私は今すぐに学級を解体することを主張したいのではありません。あまりに急速な改革を進めれば、学校現場に無駄な混乱を引き起こすにちがいありません。けれども、多くの苦しんでいる子どもたちを救うには、少しずつ学級の閉鎖性を緩やかに変えていく努力を国が先導して行うべきだと思うのです。

(作品No.174RB)

読書の種類

 教諭時代(中学校)、よくこんな会話をしました。私の専門教科は国語です。

保護者「先生、どうやったら子どもが読書好きになれるのでしょうか?」

私「どうしてお子さんを読書好きにしたいのですか?」

保護者「うちの子は国語が苦手なので、本を読むようになれば少しは成績が上がるんじゃないかと思うんです」

そこで私は若干残酷な言い方ではありますが、次のように答えます。

「残念なことですが、本を読むことが嫌い(苦手)な子が、中学生になってから受験のために本を読んでもほとんど効果はありません。本来読書は自分が楽しむためにするものです。受験のためとなるともうそこには「楽しみ」はありません。楽しいと思えないことはきっと続かないでしょう。私は、「本は読むべきだ」と思って行う読書はあまり意味がないと思っています。むしろ、そんなことを強制したらいまよりもっと本が嫌いになるでしょう。」

 でも、保護者の方をあまり失望させることも失礼ですので次のような助言はしました。

「目的が国語の点数を上げるためであるなら、読書よりも効果的な方法があります。そういう子が最も苦手とするのは長文問題です。だから、点数のことだけを考えるなら読書なんて無駄なことをせずに、長文読解の問題集を買ってきて(解答の解説が詳しいものが望ましい)一日15分~30分だけでいいからその問題に取り組ませてください。試験用の文章に慣れることに徹するのです。15分~30分としたのは、それ以上になればおそらく嫌になって続かないと思うからです。そして、自分で15分と決めたら15分経った時点で潔く諦めて解答と解説を見ればいいのです。それでも最初は「どうしてこれが正解なのかわからない」ということもあるでしょうが、続けているうちに問題のパターンと答え方のパターンが見えてきます。「また、同じ聞き方をしている」ということに気づくようになります。そうなればしめたものです。国語の問題に対する抵抗感が減っていき、継続する意欲につながります。それでも、結果が出るまでには半年くらいかかるかもしれませんが。」

 そして、最後にこう付け加えます。

「あくまでもこれは点数を少しでも上げるためのノウハウであって、読書好きになれる方法ではありませんよ」

生徒個々の「読書の経験」の時間格差は十数年生きている間にあまりに大きくなっています。もはや、追いつくことは不可能でしょう。

 当然授業でも受験対策はしていました。問題を解くコツみたいなものや過去問の傾向などを自分なりにまとめて生徒に伝授したこともあります。

ただ、国語が得意な者にとっては、漢字や諺など暗記する内容以外はほとんど受験勉強などしなくても一定の点数が取れてしまいます。文法問題も中学生レベルなら文法の勉強をまったくしていなくてもおおよその見当はついてしまいます。この差は大きい。

それに比べて苦手な子は、頑張りようがない部分もあるわけです。私の同級生が高校時代よく言っていました。彼は理数系のテストはうらやましいくらい点がとれるのですが、国語だけは偏差値が30点台でした。「国語の得意な奴はうらやましい。俺なんか何をしても点が取れない。」と嘆くのです。

生まれてからずっと私たちは日本語の社会で生きてきたのですから、その経験差はおそらくどの教科よりも大きいでしょう。家庭の読書環境によっても大きく左右されます。小さなころから親が図書館によく連れて行ったとか、読み聞かせをしたとか、そういうことも関係してくるでしょう。それを中学生になって受験があるからといって読書を始めても間に合わないのは目に見えています。先にも書いたように、そもそも読書は強制されればされるほど嫌いになります。だから、毎年「課題図書」が決められて読書感想文を書かせるなんて本当はナンセンスです。それは結局間接的に読書を強制しているわけです。

生徒には、読書について年度初めにいつもこんな話をしていました。

「読書の仕方には三種類あります。一つは精読、これは細かく丁寧に読むこと。同じ作者の本を続けて読むとか、同じテーマで違う作者のものを読むとかという読み方です。次に、濫読。手当たり次第に読む。そして、最後の一つが「積読」(つんどく)。タイトルを見て興味ある本を買ってそのまま「つんどく」。(間)つまり、積んでおく。積み上げて放置するということです。いつか読む気になったら読もうとキープしておくことです。」

 生徒たちは、「積読」と聞いて「そんなもの、読書って言えるの?」と聞いてきますが、タイトルが気になるということは何か自分の中で(無意識であっても)必要としている可能性があります。いつでも読めるように身近に置いておくのは意味あることです。

 もう一つ、生徒には「完読できなかったからと言って、それを悔やまないことです」とも言ってきました。読書が嫌いになる一つの理由に「最後まで読めなかった」という嫌な体験があると思うのです。そういう自分が嫌になるから、最初から読まなくなる。でも、100頁ある本のたった1頁しか読まなくても、そこで心に残るたった一つの言葉に出会えたら、それで本を手に取った価値はあると思います。そういう話を生徒にすると結構真剣に聞いてくれました。

 近年は、英語を小学校から授業に取り入れるようになりました。せっかくそれまでの英語活動で英語を楽しんできたのに、教科となればアルファベットがけけるように指導され、一定数の単語を覚えなければならなくなったのです。文科省は英語力の向上のためには早期からやらせるのが効果的だと考えているのかもしれませんが、現実的には、早期から英語嫌いを増やしています。その結果、国語ほど極端ではないにしても、中学校入学時にはすでに英語力に大きな差が出てしまっているのです。早くから始めれば始めるほど差は大きくなるのは当然です。どうも文科省の考えることは、一部のよくできる子を中心に据えているように思えて仕方がありません。私は逆に中学校でも英語活動的な内容に転換するほうがよほど英語嫌いをなくし、最終的にはコミュニケーション能力を向上させると思っていたのですが、非常に残念です。

ちなみに、子どもが読書好きになれる最も効果的な方法は?と聞かれたら、私は迷わずこう答えます。

「親が読んでいる姿を見せることです。」

読書好きな親のもとにいれば自然と子どもは本を手にするようになります。自分は読まないのに、子どもにだけ「読め」と言っても説得力はありません。

(作品No.173RB)

子どもと創るルール

現在、全国各地で校則の見直しが進められています。特に制服については、SDGsの5番目の目標に「ジェンダー平等を実現しよう」(GENDER EQUALITY)と掲げられているように、もはや、学校の規則の改革というレベルではなくなっています。そして、県内でも(あるいは市内でも)多くの学校が生徒や保護者の希望を取り入れて変革を進めています。こうした動きはこれからの学校のあり方を考える上で非常に重要です。

現代社会は多様化の時代だといわれます。それは、多くの価値観や個性があることを認めようとする社会全体の雰囲気のようなものによって支えられています。以前、このコラムでも書きましたが、世の中に唯一絶対の真理があるとはかぎりません。国や地域によって大切にする価値は異なりますし、同じ国にあっても一人ひとりの考え方はそれぞれに違います。社会の多くの人が同じ価値観を持ちやすかった時代は、それに従っていれば何とかなるという安心感を得ることもできました。そういう意味では人々の迷いは少なかっただろうと思います。その反面、マイノリティ(少数派)の価値は常に軽視されやすく、そこから生じる偏見や人権無視の言動によって苦しめられる人も少なくなかったでしょう。多様化はそういう人々の苦しみを救うという意味でも社会に大きな貢献をしていると言えます。

ただ、学校が多様化する価値すべてを受け入れることはかなり難しいでしょう。真っ向から対立する価値が同時に求められることもあります。だから、学校が何か一つの選択をしようとするとき、必ずそれに同意しない人は存在します。それでも、学校は何らかの判断をしなければなりません。ここが辛いところです。そこで学校はあらかじめ一定のルールを設ける必要があります。それがなければ、学校は混乱するだけです。しかし、そのルールそのものが一つの選択(価値)である限り、すべての人を納得させることはできません。

じゃあどうすればいいのか。

結局のところ、ルールを生徒と共に創り出すしかないと思います。これからは、学校が一方的に決めたルールを生徒に守らせるという図式は崩れていくと思います。冒頭に挙げた制服や校則の見直しも、これからは生徒の意見を取り入れることが必須になっていくでしょう。以前、スクールロイヤーの人(弁護士)に聞いた話ですが、校則は学校長の裁量権の中にあるけれども、そのルールの妥当性や決め方に不当な部分があれば、法的に問題が生じる場合があるそうです。

そもそも法的に問題でなくても、この多様化の時代に一方的に学校がルールを押しつけることはそう長くは続かないでしょう。

ちなみに、私が通っていた中学校では生徒会がかなりの力を持っていました。例えば、各部活動の予算は、総額こそ学校が決めていましたが、それをどう配分するかは生徒会の予算委員会で決めていました。運動部、文化部の代表者を集めて、生徒会執行部の出した原案に対して協議する場があったのです。今では考えられないようなことですが、決められた枠内で各部が予算争奪戦をやっていたのです。まさに喧々諤々1)たる会議となりました。例えば、野球部の主将が茶道部に対して「茶道って礼儀作法を学ぶためにやっているんだろ。だったら、本物のお茶なんか使わなくてもいいじゃないか(その分の予算を回せ)」という、それこそ「無茶」な意見が出ます。それに対して、茶道部も「お茶を使わない茶道はボールを使わない野球と同じですよ」などと反論していました。一応昨年度の予算との変動率の限界値は決めていたと思いますが、部員が大幅に減った部などは結構削られたりもしました。そこで決められた予算が実際に執行されていたのです。意外と遺恨を残すことはなかったと思います。中学生でも任せればそこそこやれるものです。

また、かつては子どもの世界には子どもたちがつくるルールが存在していました。そこは大人が介在しない世界でした。例えば、放課後高学年だけで野球をしていることころに低学年の子が来て、入れてほしそうにしていたとします。その子をどちらのチームに入れるかでもめます。自分のチームに入れたら不利になるのは明らかです。そこで、ハンデを考えます。その低学年の子が打席に立つときは投手がゆるい球(下手からふわっと投げる)を投げることにしたり、守備ではその子がゴロを取りさえすれば(一塁に投げなくても)アウトとするなど、その子を生かすために特別ルールを即興でつくります。そうすることでその子を遊びの中に入れてやることができます。このように子どもの世界ではルールは固定されたものではなく、そのときの状況によって絶えず変化するものでした。

これからの学校は、生徒に関わるルールは生徒が考えるようにする必要があるでしょう。その可能性を持たせることで、学校を自分たちの力で変えることができるという自覚が生まれます。そもそも服装や髪型などは教育にとって必須のものではありません。服装や髪型を自由にすれば学校が荒れるという人もいますが、それは幻想だと思います。かつての校内暴力が激しかったときのイメージで語っているだけでしょう。そもそも教員は普段から「見かけよりも中身で勝負せよ」と子どもたちに教えているわけですから、目に見える服装や髪型が変わってもやるべきことをしっかりやっていればそれでいいわけです。

自分たちでルールを決める過程で子どもたちはいろんなことを学びます。それこそ「学校が荒れる」と心配している先生をどう説得するかも考えさせればいいと思います。また、保護者が反対した場合はどう説明するか、生徒の意見をどういう手順でまとめるか、改正したルールを再度見直すシステムをどうやってつくるかなど考えなければいけないことは山ほどあります。その一つ一つが生徒にとって貴重な学習の場になるはずです。そして、自分たちが決めたルールだからこそ守ろうという意識も高まります。

最近の若者に政治離れが進んでいると批判的に言う人がいますが、それは小中高の12年間という長い時間を、変えられないルールの中で過ごしてきたがために「自分たちで変えよう」という意識が育っていないからです。若者を責めるのはお門違いだと思います。

(作品No.172RB)

1)喧々諤々:もともとは「「喧々囂々(けんけんごうごう)」と「侃々諤々(かんかんがくがく)」という別々の言葉が混ざった誤った表現」(辞典・百科事典の検索サービス – Weblio辞書 国語辞典)ですが、近年では十分に定着していると判断し使用しました。

―教員の不祥事について考える その2ー

前回、体罰やセクハラについて書きました。基本的に私はこういうことは厳しく「処理」すべきだと書きました。「処置」や「処罰」ではなく「処理」と書いたのは、できるだけ早くこういう教員を学校から切り離すよう粛々と事を進めるべきだと思うからです。

 ただ一つ気になることがあります。

 それは、最近、小学校の「荒れ」が増えていると感じることです。私の地域だけの傾向かもしれませんが、授業中立ち歩いたり、奇声を発したり、暴れたりする児童が小学校で目立ってきているのです。1980年代半ばがピークだといわれる中学校の「荒れ」が、今小学校で広がりつつあります。当時の中学校では、他の生徒を守るために(良い悪いは別として)、教員は少々手荒い手段を使ってでも体を張って止めに入っていました。そうでもしないと真面目に頑張っている生徒を守れなかったし、世間もある程度厳しい指導を求めていました。それほど学校の中は荒れ放題だったのです。

 でも、小学校における「荒れ」の場合、対応はかなり難しいと思います。時代も変わり、価値観も多様化しています。それは望ましいことです。でも、小学生が荒れた行動を起こした場合に、これといった対処法はいまだ確立されていません。

 マスコミは生徒が被害者になったときには大きく扱いますが、教員が生徒によって傷つけられたケースはほとんど報じません。例えば、特別支援学級の担任なら、おそらく日常的に児童から傷を負わされているでしょう。これは児童の暴力とは言えません。自分の感情をコントロールすることが苦手なために、暴れるという行動でしか表現できないのですから児童が悪いわけではありません。そこは誤解のないようにしていただきたいと思います。

 とにかく、突発的に起こす彼らの行動は一刻も早く収めなければなりません。そのとき「力づく」以外の方法で制止することは可能なのでしょうか。たとえ「力づく」であっても、暴れている児童の行動を制してやらないと、その子を加害者にしてしまいます。感情的になって投げた鉛筆やはさみの先が近くの児童の目に刺さるようなことが起きないとも限りません。それでもしその子が失明でもしたら、暴れていた子は一生その重荷を背負うことになります。暴れている児童に何らかの特性があるならなおさらです。特別な支援が必要な子は、これまで何度も何度も周囲から否定されてきた経験を持っています。だからもともと自尊感情が低いことが多いのです。その上、取り返しのつかないレベルで人を傷つけてしまったら、それこそ自責の念で自尊感情はボロボロになってしまい、立ち直れないほどの心の傷を負うでしょう。

 私はそういう子の保護者によくこんな話をしていました。「あなたのお子さんは、感情が高ぶったときに激しい行動を起こします。しかし、私たちにとってあの子は他と同じように大切なのです。だからこそ、私たちはご両親と協力して、あの子を絶対に加害者にだけはしてはいけないのです。」と。実際、そういう話をして、それまで子どもにほとんど無関心だった父親が、母親に子育てを任せっきりにしていた態度を改め、子どものためにいろいろと動いてくれるようになった例もあります。

 こうしたことは、通常学級でもたびたび起こります。教員はそうした場合、不安やときには恐怖すら感じながらも子どもと必死にかかわっているのです。近年、教員の働き方改革が話題になることが多くなり、過酷な状況の中で、新採用の若い教員が一年を待たずに退職してしまう事例が増えています。その主な原因は、教員の長時間労働だと言われていますが、本当の原因はそれだけじゃないのです。子どもへのかかわり方がわからず途方に暮れてしまっていることも大きな原因の一つなのです。

 しかし、「私は子どもが怖いから教員をやめます」などとは絶対に言えません。そんなことを言ったら周囲から何を言われるかわかったものじゃありません。明らかな不祥事を起こしてしまった教員には厳罰が必要ですが、真摯に子どもと関わろうとしている教員に一つでもいいから有効な方策を与えなければいけません。

 これを書いているときに、インターネットで次のようなニュースが流れました。

「5時間目の授業中、男児のクラス担任の女性教諭(54)が、「学級が落ち着かない」と職員室に連絡した。教頭が様子を見に行くと、男児が机に立てた鉛筆を手で払ったり、床に置いた水筒に座ったりしていた。教頭は口頭で注意をしたうえ、鉛筆を取り上げ、水筒を足で払って授業を受けさせようとしたが、男児が再び水筒の上に座ろうとしたので、腕を強く引っ張って廊下に連れ出し、放り投げたという。男児はその際、机やいすに足や背中がぶつかり、さらに放り投げられた際に尻餅をついたという。」(「小学校教頭が3年男児を放り投げる 愛知・東海市教委が謝罪」 10/4(火) 7:50配信 朝日新聞デジタル)

 市の教育委員会は、教頭の行動に行き過ぎた点があったとして謝罪の記者会見を行っており、当該教頭に対しても何らかの処分を考えているようです。

 しかし、ここに出てくる教頭は教員にとってはとてもありがたい人だったのではないでしょうか。教頭は教員のSOSを受けて、円滑に授業を保障するためすぐに教室に駆けつけています。管理職が駆けつけるということは「私が責任をもつ」という決意の表れです。いい加減な教頭であれば、他の教員を教室に「派遣」したり、忙しいことを理由に放置するでしょう。緊急事態だからこそ学級担任はSOSを出したわけですから、迅速な対応が求められるのに、まず校長に相談して指示を仰いでからでないと動かない教頭も少なくありません。校長に知らせておけば、何かあっても最終的な責任を自分が負うことはないからです。

 でも、この教頭はすぐに教室に駆けつけています。確かに、本人も言っているように「感情的」になって、児童の水筒を足で払ったり「放り投げる」(どの程度かはわかりませんが)行為はやりすぎだったかもしれません。でも、この事例を前回取り上げた高校の顧問(高校1年生に対して顎が外れるほどの有形力の行使をした顧問)と同じ俎上に載せることはできません。私が最も恐れるのは、単純に「なんてことだ、教諭だけでなく教頭まで体罰を平気でやっているのか。いったい学校はどうなっているんだ」という文脈でとらえられてしまうことです。また、「学級担任がどうして自分で収められなかったのか。50歳を過ぎたベテランが情けない。力量不足だろう。」と一蹴されてしまうことも危惧します。果たして、このケースの場合教頭が最後まで冷静であったとしても、根本的な解決方法はあったのでしょうか。

 報道内容から判断する限り、この児童はかなり反抗的な態度を示しています。それが「自分の水筒を足で払われた」ことに対する怒りだったのかもしれませんし、普段の学級担任との人間関係も影響しているかもしれません。報道内容だけでいろんなことを判断するには無理があります。また、いかなるときも教員が児童を悪者扱いするのは許されません。それでもあえて言うなら、こういう場合にどんな対処方法がこれ以外にあったのかということです。教頭を一方的に非難する人は、具体的な(有効な)手段を示さなければなりません。

 通常考えられる対応としては、駆けつけた職員(この場合は教頭)があくまでも冷静に児童に接し、少々荒っぽい児童の言動を前にしても声を荒げることなく対応し、本人の納得を得て教室以外の場所に連れていき、クールダウンの時間を十分にとってからじっくりと話を聞く時間を確保することでしょう。けれども、そんなことがいつもできるとは限りません。

 万一、今回のケースで児童が限度を越えた暴力行為に及びそうになった場合、教員に「力づく」以外の方法はあったのでしょうか。それさえ許されないとしたら教員は一体どうすればいいのでしょう。私なら、児童の背後に回って体を抱え込み、とにかく他の児童に被害が及ばないようにするでしょう。でも、これも「力づく」の一つです。後ろに回るのは、前から行けば当該児童の手や足の洗礼を受けてけがをする場合もあるからです。それを防ぐには背後から抱え込む必要があるのです。それでも児童は私を振り払おうとして必死になり、頭突きで私の顎をねらってくるかもしれません。実際に私はその洗礼を何度も受けました。小学3年生といえども全力で向かってこられれば、こちらも無傷でいられないのです。私たちは、暴れる児童のためにも絶対に大きなケガをしないようにしなければなりません。当然周囲の他の児童もケガをさせるわけにはいきません。

 学校現場の経験のない人にぜひわかってほしいのは、教員はどんなに児童から攻撃されてけがをしてもどこにも訴えるところがないということです。特に、体格的にも体力的にも優位である教員が幼い児童に責任を負わせるようなことはできません。その日収まっても次の日にはまた同じことが起こる可能性は十分にありますが、だからと言って教員は、その児童を翌日から教室に入れないわけにはいかないのです。その子にも学習権はあるのです。だからこそ、教員は苦しんでいるのです。

 こうした問題に対する有効な手段が成立しないのは、今の学級制度があまりに強固であるからです。明らかに制度疲労を起こしているのに、それに従うしかない状況がすべての原因なのです。

 今回の場合、教育委員会は立場上、謝罪するしかないでしょう。でも、実際は毎日のように教員は児童によって傷を負わされているのです。それを労務災害として訴える教員はほとんどいません。それは教員であることのプライドでもあるのです。子どものためなら少々のことは我慢しようという切ないまでの真摯な態度の表れなのです。だから授業中立ち歩いて授業の妨害をし、教員を教員とも思わない言動を繰り返し、教員から注意を受けるとパニックになって暴れ出すことがあっても「教員」として誇りをもって子どもに接しようとしているのです。それが正しいことかどうかはわかりませんが、せめてそういう教員の思いを受け止められる社会であってほしいと思うのです。そのためには、学級を普段からもっと柔軟に運用できるよう制度を整えてほしいと思います。

 だからこそ、そうした本質的な議論を一瞬で無駄にしてしまう、前回挙げたような「暴行」を確信的にやってしまう教員が許せないのです。そんなことをするから、学校は教師の資質や意識のレベルばかりを問われ続けた上に、正解のない問題を解き続けなければならないという悲劇が延々と続いてしまうのです。

(作品No.171RB)

「これは明らかに体罰である」という表現は存在しない

―教員の不祥事について考える その1ー

社会の中で体罰が問題視されたのはいつごろからなのでしょうか。今は誰に聞いても「体罰は良くない」と答えるでしょう。かつては「愛のムチ」だと言って容認していた時代もありましたが、今そんなことを言ったらそれこそ「愛の無知」と非難されるでしょう。

 しかし、依然として体罰はなくなっていません。つい先日もある私立高校で部活動の顧問が、試合当日にユニフォームを忘れてきた部員(高校1年生女子)の頭を殴り、それによって女子生徒の顎が外れるという大きな傷害を負わせました。しかも、そのまま5時間以上自分の側に立たせて罵詈雑言を浴びせ、次の日も臀部を減るなどの暴挙に出たというのです。生徒は精神的にショックを受けて学校に通えない状態であるということです。ここまでくればもう暴力を越えた暴行であり、生徒がケガを負った以上は「傷害罪」が適用されても何の不思議もないでしょう。いや、むしろそうすべきです。

 そもそも、これだけ連日のように教員による暴言や体罰が報じられ、教員が処分されているにもかかわらず暴行に及んだわけですから、明らかに「確信犯」です。今後、被害届が出されると思いますが、その前に学校は当該教員を懲戒解雇処分(私立高校ですから、理事長の判断でできるはずです)とすべきでしょう。被害者からすればそれでも足りないくらいです。とにかく、教師としての資格があるとは到底思えません。

 と、ここまで書いてきて読者の皆さんは「あれっ」と思われたでしょう。タイトルと内容が微妙にかみ合っていないんじゃないの?と。

 実は私は、現代においては有形力の行使(殴る、叩く、蹴るなど)としての「体罰」は存在しないと思っています。なぜなら、有形力を行使した時点でそれは「体罰」ではなく「暴行」だからです。「体罰」という言葉を使うから、どこか教育的配慮というニュアンスを残してしまうのです。

 私は以前、「体罰」について若干研究のまねごとをしたことがありますが、意外と「体罰」の定義は、はっきりしないまま放置されてきたのです。学校教育法第11条には、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。」とされていますが、そういう割には「体罰とは何か」という定義は示されていません。他の法規にも明記されていないのです。懲戒と体罰の境界については、通知レベルでしかありません。しかもそうした通知は、過去の裁判の判例をもとに書かれていることが多いのです。「体罰」とは何かという明確な定義を法的レベルで明示せず、最終的な判断を司法に委ねてきたという意味で、文科省の怠慢と言ってもいいのではないかと思います。

 私は「体罰」という言葉が使用できるのは、その行為が「体罰」かどうか微妙な場合に限られると思っています。例えば、何か良くないことをした生徒を別室に呼んで説諭しようとしたところ、説諭が終わらないうちに当該生徒がその部屋から勢いよく立ち去ろうとしたとします。教員とすれば「まだ話は終わっていない」と思って当然でしょう。そして、教員が生徒をその場に引き留めるために、逃げようとする生徒の腕をつかんだとします。そのとき、教員の手の跡が生徒の腕についてしまったといった場合、それを有形力の行使と言えるかどうかは微妙な状況となります。文科省は「有形力の行使」を体罰の筆頭のように扱っていますが、有形力を行使したらもう「体罰」の域を超えているのです。だから「体罰」という言葉が使えるのは、それが有形力の行使に当たるかどうかを見定める余地があるときに限って、「便宜上」用いられる概念だと思うのです。

 しつこいようですが、有形力の行使は明らかに暴行であり、相手がけがをすれば傷害罪のレベルになります。後は、その行為の程度によって処罰の内容が決められるだけです。だから、「これは明らかに「体罰」である」という言い方は、そもそも日本語として成立しないのです。こういう言い方をした時点で、暴行に教育的配慮という保護膜を施し、曖昧にしようとしているのと同じことです。

 そういう中途半端な部分を残している上に、有形力の行使をした教員は多くの場合懲戒免職とはなりません。それどころか暴力をふるった教員は、顔写真はもとより、名前すら公表されないこともあります。名前や顔を公表しないのは、ほとぼりが冷めれば他の学校などで教員として出直す道を残すためなのではないかと勘繰ってしまいます。そもそも、傷害罪を問われるようなレベルの暴力をふるっておきながら、私立学校なら理事長、公立学校なら都道府県教委の課長クラスら数人がテレビの前に立って深々と頭を下げること自体が不自然です。確かに採用したそれらの人の責任はあるでしょうが、これだけはっきりした事例であれば、本人も同席すべきでしょう。だいたい、一般企業に勤める人が無抵抗の同僚や後輩を顎が外れるくらい殴ってけがを負わせ、出勤できないほどの精神状態に追い込んでいる状況で、加害者が警察に連行されるかされないかくらいのタイミングで謝罪の記者会見などさせてもらえるでしょうか。刑が確定していないのに何を謝っているのでしょう。しかも、そこにいるのは上司なんてこと世間ではあり得ません。

 学校という組織は、教育委員会を含めて身内に非常に甘い。一昔前の校長は、何かしら不祥事があったときにいかにして当の本人を前に出さないかを一番に考えていました。それが職員を守ることだと信じて疑わなかったのです。そしてそういう校長が「親分肌」の校長として慕われてきたのです。今でも多くの校長がその感覚を残していますし、教員も守ってくれる校長を当てにしているところがあります。そして、「校長が何とかしてくれるだろう」という甘えた教員が生き残るのです。熱心にやった結果なんだから何とか助けてやるのが「親分」の役割だというわけです。

 私は、かつて教頭のとき暴言が止まらない臨時講師(当時は半年経過し時点で、一日空白をあけて再度採用するという制度でした)を校長と相談して更新しなかったことがあります。普通なら警察にでも捕まらない限り更新するのが通例です。しかし、あまりに目に余ったので校長と相談の上、決断しました。そのあと、本人はもちろん、同じ職場の同僚や地方議員、引退した元校長などから「自分の学校の教員くらい守れないのか」と罵声を浴びせられました(当時の校長はもっとひどかったでしょう)。その中には、私の中学校時代の恩師もいました。とても悲しかったのを覚えています。あんなに頼もしかった先生も現実が見えなくなっている、そのことがとてもつらかったのです。

 私は今でもそのときの判断は間違っていなかったと思います。有形力の行使こそなかったものの毎日烈火のごとく怒鳴り散らされ続けている子どもたちを放っておくことはできませんでした。子どもたちは、学級担任であるその教員の顔を見るだけで固まってしまうほど恐れていました。学校関係者から聞こえるのは非難の声ばかりでしたが、保護者からは感謝されました。そして、なにより子どもたちに笑顔が戻りました。職員を守っていれば、少なくともあと半年、子どもたちは死ぬ思いで登校を続けなければならなかったのです。

 昔はそれでも何とかなったかもしれません。でも、今は違います。そういう守り方をすればするほど不祥事を起こした教員にバッシングが集中し、それを許した校長に無数の矢が飛び、他の教員も信用を失い、学校不信は取り返しがつかないほど深刻になってしまいます。しかし、そういう管理職は今でもたくさんいます。まるで教員が第一に守るべきは生徒であるという基本を忘れてしまっているかのようです。

 また、私は小学校の校長をしていたとき、保護者からパワハラやセクハラまがいの言動で子どもが追い詰められているという訴えを受けました。私はそのときその教員にはっきりと宣言しました。「あなたは自分にはやましいところはないと言いますが、保護者が泣きながら訴えてきているのです。その事実を真摯に受け止めなさい。もし、明らかな証拠が出た場合には、私はあなたを守ることは一切しません。」と。

 その教員はちょうどその年、定年退職を迎えるタイミングでした。当然私よりも年上です。その教員はその後、私を「パワハラ校長として訴えてやる」と陰で息巻いていたそうです。しかし、私は教育委員会にいたので知っていたのです。その教諭が、10年ほど前に同じような問題を起こし、保護者が教育委員会に被害を訴えていたにもかかわらず、教育委員会は何の処罰も与えず、教員を転勤させるだけでうやむやにしていたことを。そして、そのときの記録が教育委員会のどこに保管されているかも知っていました。訴えればその資料を裁判所に提出するつもりでした。当然その教員も私が教育委員会にいたことは知っています。だから、どんなに息巻いていても絶対に訴えることはないという確信が私にはありました。その資料の内容が公になって一番困るのはその教員です。そうなれば、下手をすれば目の前の退職金すらすべて没収される可能性もあります。そこまで覚悟して訴えるほどの度胸がある人間なら、こそこそとセクハラまがいのことはしないでしょう。

 この教員を野放しにしてしまったのは10年前に厳罰(懲戒免職までは無理だったとしても)に処しなかったからです。そうしていれば、その後被害に遭う子どもを生み出すことはなかったかもしれないのです。そのツケを私は払わされたのです。こんな腹立たしいことはありません。だから、その学校に赴任が決まった時点で「どこかではっきりさせてやる」と決めていました。それまでの管理職は学級担任から外したり、固定された特別教室での授業に専念させ、できるだけ複数の教員を授業に配置するなどさまざまな手立てを打ってきたようです(複数の学校をたらいまわしにされていたようですが)。加配もさほど多くなかった当時は慢性的な人員不足でした(今も解消されていませんが)。学校現場にとって、これほど迷惑な話はありません。また、児童が特別教室と一般の教室移動の行き来する場合も必ず別の教員を先導させるなど校内のルールも変更したそうです。何より、セクハラ疑惑があることを他の教員は知っているわけですから、何かあれば職員全体が管理職に攻撃の矢を向けることも考えられます。そうなると学校は空中分解してしまいます。

 実際、私がその学校に赴任するまで何度も怪しい雰囲気があったそうですし、保護者から苦情も結構あったようです。しかし、それまでの管理職は、総じて腫れ物にさわるように対応してきました。真っ向から攻めることを避けてきたのです。だからいつまでたっても同じようなことをいろんなところで起こし続けて、そのたびにしらを切り続けてきたのです。

 私がその教員に宣言した際、同席した教頭が終わったあと若干心配そうな顔で「あそこまではっきり言う校長には出会ったことがない」と言われました。そして、その話は職員の間に広がりました。「今度の校長は本気だ」という雰囲気が生まれました。だから、問題が起きたとき躊躇なく私に報告してくれたのです。私は保護者の了解を得て、その日のうちに本人を呼び出して宣言したのです。自慢みたいになってしまいますが、そのスピード感は大成功だったと今でも思います。ちょっとでもためらう様子を見せたら、職員の気持ちは離れていくに違いないと思いました。だから、本人との対応も管理職だけで行いました。学級担任をはじめ他の教員を介入させることはしませんでした。そんなことをしたら、同席した職員にどんな被害が及ぶかわかりません。

 実は、私はその学校に赴任してすぐに、セクハラ疑惑の教員を校長室に呼び出して「宣戦布告」をしていました。本当はそこまでしなくてもよかったのですが、本人が私の顔を見るたび「再任用頼みますよ」としつこく言ってきたのです。正直、頭にきました。「ああ、やっぱり何も反省していない」ということがはっきりしたのです。私は校長室で言いました。「私がこの学校に来たのは、あなたを無事に定年退職させるためだ。しかし、それはあなたのためではない。あなたが無事に定年退職するということは、あなたが何も問題を起こさなかったということだ。どうか私の期待に背くことはしないでほしい。」

 その教員はかなり不満そうな表情で、どうしてそんなことをわざわざ言われなければならないのかと反論してきましたが、「今、私が言ったことがすべてです。」として取り合いませんでした。先に書いたように、案の定問題は起こりました。本人は最後まで否定を続けました。本当は私はその教員に辞めてほしいと思っていたのですが、しばらくして被害者側の保護者があきらめてしまいました。これ以上、事を大きくしないでほしいと言ってきたので処分までは至りませんでした。夫婦そろって校長室に来られたときのご両親の苦渋の表情が忘れられません。親としては、これ以上事が大きくなれば本人(娘)がさらに傷つく。もし、被害者として名前が知れるようになったら娘のためにはならないとおっしゃったのです。そこまで言われて、一緒に最後まで戦いましょうとはさすがに言えませんでした。でも、私の対応には感謝してくださいました。結局その教諭は最後まで勤め上げました。教育委員会にも始終情報を伝えていましたが、明確な証拠がないため具体的な対応ができなかったという事情も分からないではないので、特に教育委員会にいやごとは言いませんでした。

 教員の不祥事は、子どもが被害者となっていわれのない苦しみを与え、学校に対する信頼を失墜させるだけではありません。こういうことが続けば、今の学校が抱えている問題の本質すら曖昧にしてしまうのです。

 私は、現在の学校の多くの問題は学校の制度疲労が原因だと思っています。まじめな教員ほど、制度疲労を起こした学校制度と現実に起こる問題との狭間で苦しんでいます。特に、学級制度はもう限界に達しています。学級は、明治24年(1886年)の「学級編成ニ関スル規則」で初めて法的根拠を得ました1)。今もこれを根拠としているかどうかはわかりませんが2)、このときにそれまで採用されてきた「等級制」を廃止してほぼ今の学級の形が成立しました。100年以上同じシステムが続いているのですから「制度疲労」が起こっても不思議ではありません。とにかく、強制的に所属する学級が決められ、それを変更する要求はよほどでない限り認められない超閉鎖的な空間の中で、いじめられた子が行き場を失い、不登校の子が復帰するきっかけを失っています。教員はその子を何とかしようと懸命に頑張りますが、いじめにしても不登校にしても学級制度があまりに頑強であるために解決の道は閉ざされているのです。学級がせめてもう少し柔軟な組織であれば、普段から子どもたちにさまざまな居場所をつくることができます。大学では深刻ないじめは小中高に比べて非常に少ないといわれています。それは、集団が固定されていないからです。自分と合わない者がいても、嫌がらせをしたとしても、それが限定された場と空間で済むからこそ問題は深刻化しないのです。強固な学級制度のままでは、いじめられた子の戻るところは元の学級しかありません。悲劇的なのは、そういう子どもたちが学級に入れないことを次第に自分の責任だと自分を責めるようになることです。こんな理不尽が許されていいはずはありません。

 だからこそ、本来ならば、文科省はもちろん、教師や生徒、教育委員会、そして保護者や地域が一丸となって、本当の意味で子どもにとっていい学校(学級)とはどうあるべきかを考えなければならないのです。それなのに、犯罪まがいの行為をする一部の教員がいることで、本質的な問題を論じることが困難になってしまいます。つまり、「システムがどうのこうのという前に、教員の問題行動を何とかする方が先だろう」とか「教員の責任をシステムせいにするのは詭弁だ」という見方が広がってしまうからです。そういう意味でも、明らかに有形力の行使をした教員は、即刻公の場に出し、警察に介入してもらって徹底的に捜査するべきです。学校の中だけで対応しようとするから、問題を長く引きずることになり、さらに学校不信は深刻なもとになって、本当に必要な議論ができなくなってしまうのです。

 いまや学校は、一部の問題教員にかまっているような余裕はありません。冷たい言い方かもしれませんが、教員を特別視することなく、一般の人と同じ手順で「処理」すべきです。

 ただ、一つ気になることがあります。それは、次回に。

  1. 寺﨑昌男・平原春好編(2002)『新版教育小事典』(学陽書房、p37)
  2. この点についていろいろ調べたのですが、いわゆる標準法も学習指導要領も当然生徒指導提要も学級の定義は明治24年の「学級編成ニ関スル規則」以外には見つけられませんでした。そこで、文科省に直接電話して聞いてみたのですが、後ほど私の携帯に電話しますと言われて、もうそろそろ一か月が経とうとしています。

(作品No.170RB)