小学校から高校まで、ほとんどの学校に学級という組織は存在します。高校の中には単位制を導入しているところもありますが、公立の小中学校となると必ず学級はあります。この学級を単位としてすべての授業は行われていますし、教員の配置も学級数によって規定されています。私たちは学級をあって当たり前だと思っていますから、それを疑うことはありません。学校におけるほとんどの教育活動を学級ありきで考えます。そこで、教員はその学級をいかに子どもにとって有益なものとするかを工夫するのです。
しかし、学級という組織は根源的に大きなジレンマを抱えていることも事実です。そこには、規律と自主という二つの相反するベクトルが存在するからです。
まず、規律についてですが、学級は第一に授業の単位として、同年齢の者が強制的に決められた学級に属し、決められた席に座り、基本的に教員の指示を受け入れなければなりません。時間割も固定され、自分で教科を選択することもできません。そうしたルールを子どもたちに守らせることによって、現在の授業は成立しています。効率的な学習活動を行うにはこうした規律を明確にしないと収拾がつかなくなります。学級を官僚組織的だという人もいます。それほどに学級というシステムの規律は厳しいものです。生徒を管理するという意味では効果的で無駄がないシステムであると言えますが、この規律は時に子どもたちの自由な発想や考え方を制御してしまう面も否定できません。
そうした中で、学級には子どもたちの主体性や自主性を高めることも求められています。学習指導要領でも、自ら考える力や自ら判断する力、あるいは課題解決能力や表現力を涵養するように求めています。これらは規律とは相いれないことが多く、教員はその間で苦しむことになります。つまり、自由に意見を言わせれば子どもたちの自主性は伸ばすことができますが、それをやりすぎると決められたカリキュラムがこなせなくなります。また、自由とわがままの区別がわかっていない子どもによって学級が常にざわついてしまい、授業が思うように進まなかったり、効果が薄れたりしてしまうということも起こります。
そのため、教員にはこのジレンマの狭間で微妙な匙加減が要求されることになります。そして、よく言われるように「自主的であれ」と命ずるというなんとも矛盾した指示を出さざるを得ません。命令されて発揮する自主性はあくまでも教員の想定内でしか発揮できなくなります。ほんとうの意味での自主性は育ちません。
特に、高校受験を控えている中学校では、受験に対応できる力を身につけさせながら同時に主体的な能力を伸長するという非常に困難な状態に教員は置かれることになります。もし、学校が「読み、書き、そろばん」といったいわゆる「3R’s」だけを徹底すればいい組織であれば、事は単純なのですが・・・。「3R’s」といったところまで限定しないとしても、各教科の内容の理解だけですむなら教員の立ち位置は明確になります。
学制発布から150年になりますが、もともと学級は等級制だったそうです。つまり、学習の理解度に応じた能力別編成であったと言われています。だから、試験をクリアしないと上のクラスに進級できないし、逆に能力が高ければ飛び級も可能となります。それが、今の学級性に変わったのは明治24年です。理由は、なかなか試験に合格できない者の退学が増えたために、制度を維持しにくくなったからだと言われています。近代化を推し進めようとする国家としては、退学者が増えることは大きな問題だったのでしょう。そして、同じ年齢の者を同じ学年とし、退学させない方式をとったわけです。
また、子どもたちの序列化を批判的にとらえる人たちによってこの新しい制度は支持されるようになります。そして、所謂児童中心主義や近年の新自由主義的な教育観が学校の常識となっていきます。そうなってしまうともはや学級そのものは議論の対象にさえならなくなります。あまりに当たり前すぎて是非を問う対象とならなくなったのです。
そして、学校は教科の授業だけでなく生活全般にわたって目を配らせる必要が生まれてしまいました。現在問題となっている「ブラック」な学校のもとはここにあるのだと思います。登下校から休日の過ごし方まで学校がなんらかの指示を出さなければ世間は納得しないようになりました。学級を当たり前のものだと思う視点は、学校の業務を増やし、しかも教員の視点を目の前の問題にのみ集中させる効果を生みだしたともいえるでしょう。
そうした中で、私たちにできることは、今やっている教育活動を見直し、今後学校がどうあるべきかを考えることでしょう。何かを見切らなければ抱えすぎた問題の多さに学校は逆に周囲から見限られてしまいます。地域や保護者の要求に耳を傾けることは大切なことですが、本来学校がやるべき業務とそうでない業務をしっかりと区別しながら一つ一つの問題に対処することが必要となります。
以前、文科省によって本来学校が請け負う必要のない業務をまとめた一覧が公表されたことがありましたが、そういうことをもっと積極的に世間一般に広報してほしいと思います。一つの学校だけがやっても、簡単につぶされてしまいます。
まずは、学級というシステムを当たり前のものとすることに疑問の目を向けることが必要だと思います。そうすることで、学級はもっと柔軟に機能させることができると思うのです。
(作品No.167B)