「寄り添う」の肝

一人ひとりの子どもに寄り添える教師になりたい、誰もがそう思っているでしょう。でも、さまざまな理由で、なかなか思うようにいかないものです。実際に子どもに「寄り添う」ためにはどんなことが大切になるのでしょうか。

 まず一つ目は、メタな視点を持つことです。「メタ認知」については、以前にも書きました。物事を「俯瞰」する視点は全体を見るために重要であるだけでなく、私たちの冷静な判断を促してくれます。目の前の子ども行動を表面的に見ていると「何度同じことを言わせるんだ」という気持ちにさせられます。しかし、(気持ちの上で)少し距離を置いて、この子の行動の背景には何があるんだろうと考える(これが俯瞰するということです)ことで、冷静にその子を見ることができます。それはその子をありのままに捉える視点でもあります。「俯瞰」しなければ「一部分」しか見えません。また、自分(教師)が正しいと思っていることをすぐに伝えずに、まず相手の話を聞く心の余裕も生まれます。

 この「俯瞰」は、その子が何を望んでいるのかに気づかせてくれることもあります。それがわかれば対応の仕方も自ずと見えてきます。同時に、子どもの変化にいち早く気づくこともできるようになります。

 他に大切なこととして、「さりげなさ」があります。「寄り添う」というと、いつもそばにいてじっくり話を聞くというイメージがあるかと思いますが、物理的な距離は必ずしも必須の条件ではないと思います。遠くから送られる教師からのアイコンタクトだけでも、救われる子はたくさんいます。私は、現役の教諭時代、担任した生徒が卒業するときに言ってくれたことを思い出します。その子は、真面目で極端に無口な子でしたが、家庭のことで深く悩んでいました。

「先生が、廊下なんかですれ違うときに、いつもほんのちょっと私の方を見て目で合図のようなものをくれたのが、とても嬉しかった」

「寄り添う」というのは、とても大切なことです、けれども、あまり大げさに考えすぎると、子どもにとっても負担になることもあります。また、教師の方が寄り添えていないという自己嫌悪に陥ってしまいかねません。

 最も重要なことは、たとえ相手が子どもであっても、対等な一人の人間として尊重しているかどうか、それが「寄り添うの肝」です。人間というのは不思議なもので、こちらが相手をどう思っているかは、自然に伝わることが多いものです。それは、数値で客観的に示せるようなものではありませんが、だれしも経験していることでしょう。自分が「児童・生徒」として見られているか、「人」として見られているか、子どもは敏感に感じ取っています。そのセンサーの精度は、教師から見て「問題」の多いとされる子ほど高くなります。

「一人ひとりがちゃんと自立して、両足が大地に着いた状態で両隣の子どもたち、仲間と手を取り合う。つぶあん状態。(中略)僕はつぶあんが好きなのよ。口に入れたとき、つぶつぶが口にあたるの。あれが個性を主張しているようで、愛おしくなる。こしあんもおいしいんですが、つぶれちゃってるでしょう。」1)

「尾木ママ」こと尾木直樹氏2)の言葉です。

対等な「人」として子どもを見るということは、その子の個性を尊重するということでもあります。そして「寄り添う」とは、「あなたのことを大切に考えていますよ」というメッセージを届けることです。ちゃんと届いているかどうかは、子どもにしかわかりません。でも、届けようとする姿勢は必ず伝わると私は信じています。

1)「〈ミニ講演〉「個」に寄り添う教育」法政大学教職課程センター長(当時)2013年。

2)尾木直樹:早稲田大学大学院客員教授、法政大学キャリアデザイン学部教授、法政大学教職課程センター長・教授などを経て、2017年4月から法政大学特任教授。2019年から法政大学名誉教授。これまでに200冊を超える著書を上梓。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

高校球児の「一息」

偏屈だと思われるかもしれませんが、私は大差をつけられて負けているチームの最終回の攻撃の中に、高校野球の魅力が凝縮されていると思っています。近年の野球では、5点くらいの点差なら1イニングで追いつくことがないとは言えませんが、それ以上の点差になると最終回に逆転することはかなり困難でしょう。選手もそれはわかっています。それでも、球児は全力を尽くします。諦めているような素振りは見せません。それは、わずかな可能性に望みを託しているということもあるでしょう。でも、それよりも私が感じるのは、彼らは今このときを永遠のものとしようとしているのではないかと思うのです。もうすぐすべてが終わる、でも今この瞬間は終わっていない。

 最終回は必ず終わりを迎えます。無得点なら長くても10分15分くらいで終わるでしょう。特に、二死で打席に立った選手にとっては、次の一球で終わるかもしれないのです。アルプスに陣取った人にとっても最後の力を振り絞っての応援となります。その瞬間は、そこにいるすべての関係者にとって時間軸を超えた「永遠」のときとなります。

 高校野球に対する批判も数多くあることは承知しています。熱中症アラートが出ているような炎天下でも試合は行われます。すり鉢状の甲子園球場ではグランドは40度を軽く越えることもあるでしょう。今年の大会では、試合中に足がつってしまう選手が相次ぎました。そうした中で野球をさせることへの是非は問われるべきでしょう。他にも、勝利至上主義に走る学校への不信感や、行き過ぎた指導としての体罰の問題、また、越境入学など、さまざまな問題を孕んでいます。それでも、高校野球が人々を惹きつけて離さないのはどうしてなのでしょうか。

 禅の教えに「一息(いっそく)に生きる」というのがあるそうです。それは、一回呼吸をする、その一瞬一瞬を大切に生きるという意味です。人間は、過去の事実を変えることはできないし、未来はまだ見えていません。人間には、現在を全力で生きることしか許されていないのです。

 大量点差の最終回、取られた点数をなかったことにはできません。未来は見えていないとはいえ、結果だけを考えればもう目の前に迫っています。それでも、球児たちは「一息」に生きるのです。だからこそ、球児の姿勢に私たちは感動を覚えるのです。

 今後の高校野球がどのように変わっていくのかはわかりません。それこそ未来は見えないのです。それでも、今このときを「永遠」に変える生き方を体現してくれる球児の姿だけは、誰にも否定することはできないでしょう。少しでもいい環境で、球児に「永遠」の場を与えられるために何が必要なのか、それを考えるのは大人の役目なのかもしれません。

 これまで多くの感動を与えてくれた高校球児への恩返しとして。

(作品No.160RB)

「善意」と「正論」

令和4年5月2日NHKクローズアップ現代で、アスリートのメンタルの問題を取り上げていました。入院経験のある私にとっては非常に興味のある内容でした。萩野公介さんや鈴木明子さんといったトップアスリートといわれた方々が、不当な誹謗中傷によっていかに苦しい思いをされたかが実によく伝わってきました。

 私が何よりも注目したのは、番組中の国際大学の山口真一准教授のコメントです。それは、山口准教授が、批判や誹謗中傷する側の心理について、「俺の中ではこういう決まりがある、こうであるべきだという個人の価値観の強要」1)があるとして、それを「『俺理論』」1)と呼んでいるというくだりです。そして、「本人は悪意がないんです。だから『自分は正しいことを言っている』と思っていることが誹謗中傷の実態でして、『自分が正しい』と思っているからこそ厄介なんです」1)と続けられました。

 これを聴いて私は耳が痛い思いをしました。自分が若いときの生徒(生活)指導は、まさに「ダメなものはダメだ」という「正論」ありきでの指導だったのではないかと思ったからです。悪意を感じるSNS等での誹謗中傷と、生徒(生活)指導を同じ土俵で論じるのは極端に過ぎるかもしれませんが、「自分が正しい」と思っていることを相手に押し付けるという点では同じ根を持っているような気がします。そして、考えました。私は「指導」する目の前の生徒が私に思いを伝える機会を十分に与えていただろうかと。私も山口氏の言う通り、悪意は全くありませんでした。むしろ、その生徒に正しい考えを持ってもらおうという「善意」で「指導」をしていました。「正論」はたいていの場合こうした「善意」に支えられています。しかし、ことさらに「正論」を持ち出すことは一つ間違うと相手をねじ伏せてしまいます。なぜなら「正論」を言われた生徒は十分に考ええる余裕もなく「自分はだめな人間なんだ」と思い込んでしまい、何も言えなくなってしまう可能性があるからです。「善意ほどやっかいなものはない」2)と言われる所以です。

 そういえば30年以上前、初めて不登校の生徒を担任したとき、一番対応に困ったのが保護者でもなく本人でもなく、近所に住む「世話焼き」タイプのお年寄りでした。あるとき家庭訪問をするためにその生徒の家の近くを歩いていたとき、一人のご老人がすっと近寄ってきて「〇〇さんのところの息子は学校に行ってないと聞いてね。私が、親御さんにこんこんと話しておきましたよ」と得意げに話されたことがありました。そのご老人には、多少の功名心のようなものはあったかもしれませんが、悪意はなかったと思います。しかし、その後当事者の母親が地域でいづらくなってしまったのです。

 良かれと思って行ったことでも逆の受け止め方をされることがあります。アスリートに対する誹謗中傷は、「正論」を装ってその実悪意に溢れているということもあるでしょう。決して教師の「正論」や「善意」と同等に扱うことはできません。けれども、私たちが本当に生徒の成長を願うのならば、最初から「正論」を振りかざすことだけは避けたいところです。そして、私たちの用いる「正論」が生徒の将来のどこにつながるものなのか、根拠のない「俺理論」となっていないか、常に確認する習慣を身に付けることは必要だと思います。

(作品No.100RB)

1)「日本選手への「誹謗中傷」と「過度な批判」ツイート、東京・北京オリンピック中に計「2200件」(NHKクロ現調査)」5/2(月) 8:00配信 ハフポスト日本版

2) 「不登校新聞」479号2018/4/1不登校50年「善意ほどやっかい 精神科医・高岡健さん【不登校50年/公開】」https://futoko.publishers.fm/article/17646/

野球の神様

教諭時代、16年間野球部の顧問をさせていただきました。私は、中学時代は野球部でしたが控えでしたし、高校の野球部は故障が原因で中途退部しました。大学ではソフトボール部で、チームは毎年のようにインカレに出場していましたが、レギュラーには結局なれませんでした。もちろん野球の指導については素人ですし、実績(戦果)にも目立ったものはありません。わずかにあるとすれば、10年連続で一つ上の大会に駒を進めたくらいのことくらいです。でも、一つだけ自分の中で誇りにしていることがあります。それは、姑息な手段を使うことや、相手チームの選手を危険にさらすようなラフプレーだけは絶対にさせなかったことです。

顧問時代、勝つためなら手段を選ばないチームにたくさん出会いました。例えば、ホームでのクロスプレーの際、スライディングをする走者が捕手のミットの先端を狙ってスパイクを立ててくるチームがありました。ミットの端にスパイクを当てて捕手のミットからボールをこぼさせようとするわけです。練習試合ということもあり、私は特に抗議はしませんでした。でも、試合後部員を集めて言いました。「ああいうプレーを高等な技術だと思うようなチームには絶対にしたくない。あのスライディングは一つ間違えば捕手の顔面や手首にスパイクの刃が当たって大けがとなる。何より、たとえ敵であっても同じ野球をする仲間だ。自分のことしか考えない野球がしたいと思うのなら他のチームでやってくれ。」と。

他にも、いわゆるクイックピッチを繰り返す投手にも出会いました。監督の指示です。クイックピッチとは打者が構えるのを待たずに、捕手からの返球を受け取ってすぐに投球することで、打者はタイミングを合わせることができません。ルール上もボーク(危険球の一種)扱いとなります。ただ、クイックピッチの判断は微妙なところがあります。ボークになるかどうかのギリギリのタイミングで投げさせているのです。それでも野球の理念に反することは確かです。その理念とは、正々堂々と戦うこと、相手をだますプレーはしないことです。クイックピッチは打者の不意を突くことであり、正々堂々を旨とする野球の理念に反します。また、ベンチのサインを窺っている打者に投球が当たると非常に危険です。通常の死球なら、当たりそうな投球に対して打者は一瞬体に力が入り、万一当たっても被害が最小限にとどめることができます。しかし、不意を突かれての死球は体に緊張感がないため、大けがにつながりやすいのです。投手が牽制球をする際、必ず軸足でない方の足をまっすぐ投げる塁に向けて踏み出すことがルール上義務付けられているのも、同様の理念に基づくものです。それは、走者に対して牽制球を予告するという意味があり、打者に投げるふりをして突然牽制球を投げるのは走者をだますことになるからです。こうした理念によって野球は紳士的なスポーツとして成立しているのです。

私は、相手の顧問に「あれは、クイックピッチじゃないですか?」と指摘しました。しかし、その顧問は「地区の大会でも何も言われていない」と聞く耳を持ちませんでした。

さて、先述のクイックピッチを続けた投手は、どんな気持ちでマウンドに立っていたのでしょうか。指示した監督はいったい野球を通じて何を伝えようとしていたのでしょうか。生徒が「嫌だけど監督が言うから仕方がない」と思っていたのならまだ救われます。でも、その子が「これはいい方法だ」と勘違いしていたとしたら、人をだますことを覚えるために野球をやっているようなものです。

野球は、実によくできた競技です。どんなにすごい投手であっても、稀代のホームランバッターであっても決して一人では勝てません。また、それぞれの個性に合わせた出番が用意できます。仮にチームで一番足が遅くても、バッティングがよければ代打で出場できます。逆に守備も苦手、打つのも苦手だけど、足が速ければ代走で出場可能です。状況判断に長けた者は三塁のランナーコーチで活躍できます。少しでも野球を知っている人なら、三塁のランナーコーチがどれだけ重要なポジションかおわかりだと思います。

他にも、相手投手の気持ちを考えて打席に立つことも求められますし、的確な状況判断も必要です。仲間のミスを最小限にするため、野手は一球一球、打球や送球のカバーに走ります。人として学ぶべき要素がふんだんに含まれています。野球は人生の縮図だと思います。

「甲子園に行けるチームと行けないチームがあります。行けないチームには野球以外の部分で何か足りない部分があるのだと思っています。そういうことを野球の神様は見逃してくれないんです」

阪神・淡路大震災直後の1995年にセンバツ大会でベスト8進出を果たし、地元神戸に勇気を与え、チームを通算8回も甲子園に導いた神港学園の前監督北原光広氏から直接伺った言葉です。

今、部活動が地域に移行されようとしています。全国的に教職希望者が激減している状況では、教員の業務改善を実現するためにも避けられないでしょう。でも、どんな形で移行されるにしても、これまで学校部活動で大切に積み上げてきた「子どもの成長」を支援する姿勢だけは確実に受け継ぐものであってほしいと心から願います。(作品No.157RB)

「マルトリートメント」を克服する教師

最近、『教室マルトリートメント』(東洋館出版社、2022)という本を読みました。著者は、東京の特別支援学校主任教諭の川上康則氏。マルトリートメントとは、「不適切なかかわり」全般を指す言葉で「「マルトリートメント」(不適切な関わり)という概念そのものは、海外ではチャイルド・マルトリートメント(child maltreatment)という表現で広く知られて」(同書p2)いるそうです。malは「悪い」、treatmentは「扱い」を指し、総じて「不適切な養育」「避けたいかかわり方」(同書p15)となります。欧米や国際社会では広義の子どもへの不適切なかかわりすべてをさす概念だといいます。これが教室で行われた場合「教室マルトリートメント」(川上氏の造語)となります。

例えば、「やる気がないんだったら、もうやらなくていいから」とか、「勝手にすれば」といった突き放した言い方や「誰に向かってそんな口のきき方をするんだ?」といった質問形式で子どもを追い込む言い方です(同書p35)。川上氏はこうした言い方を「毒語」と命名しています。

まず私が驚いたのは、この本を書いた人が特別支援学校の先生であるということです。本来なら、最も子どもに寄り添う姿勢が求められる校種でさえ、こうしたことが起こっているのです。まさに一般の小中学校では言わずもがなでしょう。

非常に残念なことですが、私の経験からしてもこのような教師の言葉は日常的に使われていると言わざるを得ません。それどころか、こういう物の言い方を一つの技術として若い教師が引き継いでしまっているのが現状です。ごく普通の言い方としてまかり通っています。もし、「こういう言い方が問題になっていますよ」と先生方に伝えたら、「じゃあ、言うことを聞かない子をどうやって指導するんですか」と食ってかかられるかもしれません。そのくらい(あくまで私の肌感覚ですが)当たり前の光景となってしまっているのです。

最近、教師の暴言が問題になっています。有形力の行使でなくても「体罰」として扱われるようになりました。しかし、殊、中学校においては部活動を中心に生徒の人格を否定するような暴言も未だなくならず、それによって深く傷つき、不登校になってしまう子も増えています。それは、直接怒鳴られた子だけではなく、周囲の子にも多大な影響を及ぼしています。クラスの中で大声で叱責される子を見て恐怖心が生まれ、担任が怖くなって学校に行けなくなる子も少なくありません。その事実をどう受け止めればいいのか。「最近の生徒は普段から叱られていないからだ」とか「耐性が欠如している」とかいう教師もいます。しかし、実際に苦しんでいる生徒がいるという事実を私たち教師は認めなければいけません。

今、傷つきやすい子が増えているのは確かでしょう。傷つきやすいから弱いというのではなく、子どもの感性が変わってきているのです。「怖い」と感じる基準は個人によって違います。「怖さ」を感じるセンサーが敏感になっている子が増えたということではないかと思います。そしてそれは、社会全体が変わってきている結果でもあります。そう考えると、この問題は学校だけで解決できるものではありません。

最も効果的な方法は、教員に時間的な余裕を与えるシステムを構築することだと思います。例えば、学級担任を二人制にするとか、必ず複数で授業に入るとかというシステムが実現すれば、子どもの変化に気づきやすくなるでしょう。しかし、そんなことはすぐにはできません。ただでさえ教員不足ですし、予算もかかります。一教員には、手が出せません。

ならば、まずは教師自身の視点を変えるしかありません。その視点とは、物事を「俯瞰」することです。目の前で起こっていることだけに注目するのではなく、その背景にまで視野を広げることです。そして、今まで自分の中にある「子ども像」を一旦、括弧に入れてみることです。自分の子ども像は経験があるほど変化させにくくなる面があります。しかし、それは時として、子どもをありのままに見る目を曇らせる原因にもなります。「私の経験から言って、この子がわがままなのは親の愛情不足だ。」と決めつけるのは簡単です。でも、その答えは、目の前の子に十分に寄り添ってからしか出せないものです。最初から自分の側に答えを持ってしまうと、そこから抜け出せなくなり、一旦否定的に評価してしまった子に対しては、いつまでも否定的な見方をしてしまうことになります。

 寄り添うというと、ずっとそばにいてじっくり話をきいてやるというイメージが先行しがちですが、物理的な距離は必須の条件とは言い切れません。遠くから送られてくる教師のアイコンタクト一つで、子どもは寄り添ってもらっていると感じることはできます。要は、「指導を行なう立場の前提として、「何を言うか」「何をするか」よりも「どんな態度でその子の前にいるか」(同書p31)が大切なのです。

 これまでは、学校に対するまなざしが学校を支える力となっていました。しかし、今は必ずしもそうとは限りません。少しでも何かあったら学校に文句をいってやろうと、手ぐすねを引いている保護者も少なからずいます。子どもも社会の多様化の影響をまともに受けているので、「なぜ、自分がやりたいと思ったことができないんだ」という発想になりやすくなっています。その姿は、いかにもわがまま勝手に見えます。そうした状況を考えれば、まさに教師受難の時代なのかもしれません。

私たちは今まさに問われています。「あなたは、こういう時代の教師としてどうあるべきだということをどのくらい深く考えていますか」と。これまでの指導法が通用しないからと言って、子どもや保護者を悪者にするのは、「思考停止」状態になっている証拠です。どんなに探しても「正解」は見つからないのかもしれません。でも、何が、より「正解」に近いかを考えているかどうかは、確実に子どもに伝わると私は思います。

寄り添うことができる教師とは、「正解」を知っている教師のことではなく、子どもたち一人ひとりにとっての「正解」とは何かを、深く考えている教師のことだと思います。

(作品No.156RB)

絵画教室で感じたこと

先日、生まれて初めて小学生対象の絵画教室を参観しました。テーマは風景画かポスターのいずれかを子どもが選ぶというものでした。参加児童は高学年を中心に20名弱というところでしょうか。子どもたちは夏休みの絵の宿題に助言を求めて集まっていたのです。

テーマが複数ある上に子どもたちはそれぞれに違う絵を描いているわけですから、助言する方も大変です。しかし、70代の元小学校教師の講師は一人ひとりに的確な助言をしておられます。そこからは、かなりの経験や技術、アイデアをお持ちの方だということが伝わってきます。

ただ、気になったのは子どもが鉛筆で描いた下書きに容赦なく「ダメ出し」をして、あっさりと消しゴムで消してしまうのです。子どもにとっては、自分がそれなりに一生懸命考えて描いた下書きをいとも簡単に消されてしまうのですから、当然意気消沈してしまいます。中には明らかにふてくされてしまっている子もいます。講師さんはそんな子にもお構いなく、消しゴムを走らせながら「なぜ、駄目なのか」を一方的に説明しています。しかし、一旦ふてくされてしまった子どもは聞く耳を持ちません。体を横に向けたまま憮然とした表情です。講師さんにとっては「間違いは間違い」という確固とした信念があったのでしょう。けれども最後に、講師さんがしびれを切らして、ポスターの中の言葉(例えば「火遊びはダメ」など)のレタリング(下書き)をあっという間に描いてしまったのです。子どもはもうただ茫然と立ち尽くすしかありません。

私は、「ああ、この人が現役の教師だったころはこういう指導が当たり前だったんだろうなあ」と感じました。それにしても、レタリングまで講師が描いてしまったら、それはもう子どもの作品ではなくなってしまいます。絵の指導など一度もしたことのない私には、何も言う権利はないのかもしれませんが、いくらそれが「正しい」描き方だとしても、果たしてそれが教育的に「正しい」のかと疑問を抱かずにはいられませんでした。いきなり消された子どもからすれば、自分自身を否定されたような気になったかもしれません。

そんな様子を見ているうちに、私には別の思いが浮かんできました。確かに、否定された子は自信をくじかれてしまってはいるでしょうが、これは「本物」のレタリングを目の前で見る貴重な機会なのかもしれないと思ったのです。ここに集まった子どもたちは特別に絵の勉強をしているわけではありません。絵の才能を伸ばすために専門の先生について勉強している子はいません。目の前であっという間に素晴らしいレタリングが仕上がっていく過程を見て、あるいは出来上がったレタリングを目の前にして「すごい」と思ったに違いありません。もしかしたら、こんな経験は今後二度とないかもしれません。次に自分で何かを描くときに役に立つこともあるでしょう。

 近年の学校教育では、自ら課題を見つけ、自ら考え、課題を解決する力が重視されています。所謂「探究」する力です。私もその理念には賛同する一人です。理想の教育を語る多くの専門家や研究者も、「型」にはめる教育は良くないと警鐘を鳴らしています。しかし、それを本当に実現するための具体策については多くを語ってくれません。また、語ったとしても大抵は、教師の授業に対する考え方や、教授法レベルの考え方にとどまっているように思います。けれども、この問題の本質は、そういうところにあるのではなく、学校というシステムそのものが制度疲労を起こしていることから生じているのです。義務教育において本当に、自ら考える子どもを育てようとするなら、今の学校の枠組みから抜本的に考え直さなければいけないと思います。

例えば、高校入試のシステムを変え、入試問題の内容を子どもの創造力を試す問題にすれば、中学校の授業は変わらざるを得ないでしょう。また、学力も認知能力も大幅に差のある子どもたちが、学年・学級という枠に強制的に集められています。「探究」的な学習や「アクティブラーニング」といった理想を重視して日々の授業を行えば、まさに「できる子」しか実質的に参加できない授業になってしまう可能性もあります。基礎をしっかりと身につけていない、あるいは何らかの理由でそれができない子に対して、いくら「探究」的な授業を展開しようとしても難しいでしょう。そうなると、「できない子」は基礎学力すら身につけられないまま、今まで以上に置き去りにされてしまうことになりかねません。レタリングの技法の基礎を知っているからこそ、それを自分の発想に合わせて表現する絵が描けるわけです。

前回の学習指導要領の改訂のときだったと思いますが、「習得」「活用」「探究」を螺旋状に捉えて授業をすることが示されました。この考えは、現行の指導要領よりもわかりやすかったと思います。今、さまざまな要因で努力しようにもできない環境にいる子どもが増えています。極端な言い方かもしれませんが、学年の枠を超えて生徒の「習得」(基礎的な知識や技能を身につける)の場面を意図的に作り出すことが必要だと思います。総合的な学習の時間は、「探究」的な活動がメインになることが多いのですが、「探究」の過程で「習得」の不十分さが見つかったときには、すでに学習した内容を振り返る時間を設定することが必要でしょう。そのためには、総合的な時間の授業では時間がかかり過ぎるテーマではなくポイントを絞った内容にして、「習得」に帰る時間の余裕を持っておくことが必要だと思います。もし、可能であるならせめて月に一回くらいは学年の枠を取り除いた「習得」の時間を設定するのもいいと思います。「探究」の授業は、調べ学習や体験活動とイコールではありません。

「探究」が「探究」であるためには、それに必要な「習得」と「活用」が必要です。そこにいつでも帰れる状態にしておかなければ、理想は絵にかいた餅になってしまいます。

(作品No.155RB)

「ほんまかいな」学

今回は、私の勤う務していた学校(小学校、中学校ともに)で自校の先生方に実際に配布したものをご紹介します。これまでに、投稿した内容と一部重複するところもありますがご了承ください(一部修正しています)。

以前、ある会(校内)で「これからの教育に必要なものをボードに書ホワイトボードに書いてください」と言われました。急なことだったので慌てたのですが、咄嗟に浮かんだのが「ほんまかいなと思うこと」という回答でした。これは、今までやってきたことを一旦立ち止まって「ほんまかいな(本当にこれからもそれで良いのか?)」って見直すと意外と新しい発見があるということです。かの、「ルビンの壺」も、見えるのは本当にカップだけか?と疑う(視点を変える)からこそ、向き合う二人の顔が浮かび上がってくるのです。

こういう視点は、クリティカルシンキングと言われ、「本当にそうか?」「他にはないのか?」など、今まで持っていなかった視点で対象を見つめる視点として、PISA型「読解力」が流行った頃に特に注目されました。今まで当たり前にやってきたからそれでいい(今までと同じ視点で対象を見ることに疑いを持たない)と思うと、新しいアイデアが出てこないばかりでなく、今までやってきた本質的な意義すら見落としてしまうことになりかねません。

また、クリティカルは「批判的」と訳されることが多いのですが、これは若干誤解を生みやすい。正確に言うと単なる批判ではなく「建設的な批判」という意味であり、どちらかというと「吟味」のほうが意味としてはしっくりきます。目の前の対象が本当に必要なのかどうか、改革できる部分はないかと「吟味」するために、これでいいのかという目で見てみましょうということです。

その視点を持つためには、自分の価値観を一旦保留する必要があります。これを現象学ではエポケー(判断停止、判断保留)と言います。

例えば、インドの人はカレーを手で食べることがありますが、これを日本人がはじめて見れば、違和感を持つ人もいるでしょう。それは、日本で生まれ育ってきた者には、素手でごはん食べるという習慣がなく、むしろ行儀が悪い「良くない」こととして周囲の大人から躾けられてきたからです。でも、手でご飯を食べているインドの人に向かって「なんという非常識な」と思ってしまったら、インドの文化やそこに生きてきた人々を理解することはできません。私たちは、日本の常識や文化は一旦保留して、そこにどんな意味が込められているかを考えてこそ相手を理解することができるのです。

また、「江戸時代は強固な身分制のため職業選択の自由がなくて、当時の人は不幸だった」という命題に対してそれが本当かどうかを確かめようとするとき、現代に生きる者は、まず「自由は人間の不可侵権利だ」という価値を一旦保留(判断停止)する必要があります。そうしないと、「そんなもの不幸に決まっている」と決めつけてしまう恐れがあります。でも、当時の人たちに「自由=不可侵の権利」という視点がそもそもなかったとしたら、あるいは職業は選べるものだという選択肢すら頭になかったとしたらどうでしょう。おそらく、魚屋の子は小さい頃から魚屋である親の姿を見て育ち、自分が跡を継ぐつもりで仕事を覚えていったでしょう。そして、少しずつ自分でもできることが増えていくことに喜びを感じていたことは容易に想像できます。かつて、エイリッヒ・フロム(ドイツの社会心理学者)が、自著『自由からの逃走』で「人は自由が多すぎると逆に束縛を求める存在だ」と指摘した通り、選べないからこそ迷うことがなく、多様な自由が保障される現代より幸せだったかもしれないのです。

私たちは、日々生徒やその保護者に接していますが、その言動がどうにも理解できないと思うときがよくあります。そんなとき、インドの人を理解するときと同じように、江戸時代の人々の願いに思いを馳せるときと同じように、一旦、学校の常識や教育の「当たり前」を封印する必要があると思います。私たちは、ついついこれまでの指導観や人物観を強く持ちすぎて、偏見や臆見、憶測を十分に捨て切れなくなることがあります。相手や対象物を「色眼鏡」でみてしまうことがないかどうか、常に振り返る必要があると思うのです。

学校教育の例も一つ挙げておこうと思います。「不登校」についてです。不登校はかつて登校拒否と呼ばれていました。日本における登校拒否の研究は、アメリカの「学校恐怖症」の研究を基礎として始まっており、学校に来られないのは何かしらの(心理的な)病気であるとして、子どもや保護者に対するケアが行われました。その実績は教育界に大きな影響を与え、多くの苦しむ子どもたちやその保護者を救ってきました。

それに対して「ほんまかいな」と異を唱えたのが、当時大阪市立大学の助教授だった森田洋司氏です。森田氏は自著『「不登校」現象の社会学』(学文社1991)の中で、不登校(当時は登校拒否)を社会的な現象として捉え、できるだけありのままに分析し、子どもが学校に来られなくなる原因は、必ずしも個人的な要因にとどまるものではなく、社会的な価値観の変化が大きく影響していることを明らかにしました。組織や会社などを公的なものと捉えていた価値観が相対化され、個人の幸福を優先する現象(私事化)が社会全体に広がっている。その相対化は当然学校にも向けられ、学校は何を置いても登校すべものだという考えが薄まってきた。そのため、子どもや親は学校を「行くか、行かないか」といった選択可能なものとして捉え始めているというわけです。これは、学校関係者に少なからず衝撃を与えました。森田氏は、私たち学校に警告を発したのかもしれません。つまり、子どもたちが登校する必然性を創造する(子どもにとって楽しい学校、行きたいと思える学校など)努力によってつなぎ止める工夫をしなければ不登校現象はさらに深刻になると。その後「不登校」は、全国的に急速に広がり、森田氏の指摘は残念ながら的中していると言わざるを得ません。

森田氏の研究は、「どうして、ほとんどの子どもたちは学校に来ることができているんだろう」という視点から始まりました。それまでの研究は「どうしてこの子は学校に来られないのか」という視点から為されていましたから、まさに、真逆の視点です。登校拒否を個人の問題として捉えていれば決して生まれなかった発想です。その後、森田氏はいじめ問題の研究にも取り組み、「いじめる側」と「いじめられる側」という対立構造で語られることが多かった問題に、「観衆」や「傍観者」という新たな視点を入れて、いじめを支える四層構造を解明しました。今では、いじめ問題を考えるときの常識になっています。これもそれまでの常識を一旦外し「ほんまかいな」という視点を現状に向けることで真実をあぶり出したのです。

こうした考え方は、様々な学問領域で用いられています。社会学、現象学、現象学的社会学などの世界ではもうずっと前から言われてきたことなのです。でも、これまで教育についてこれらの学問があまり深く関わってくることはありませんでした。つまり、研究対象として学校を扱うことが少なかったということです。それは、教育学の内容が多くの国民や教員の納得のいくものであって、疑いようのないものだったからであり、社会全体でその価値を支えていたからだと思います(学校のことは先生に任せておけばいいという時代)。誰もが当たり前だと信じる強固な価値観は、強固であるが故に誰もそれを疑うことなく「ほんまかいな」という視点を持つこともなかったのだと思います。

これまで日本には疑う余地のない「勤勉」という価値がありました(今でも多くの人が肯定するでしょうし、私もこの価値を否定するつもりはありません)。しかし、社会は変化し、終身雇用制が揺らぎ始め、「24時間働けますか」と言われながら、毎日毎日残業で家庭も顧みず、全てをかけて会社のために働いてきた人たちが次々にリストラの憂き目に遭う、なんともやりきれない現象が起き始めます。こうなると次の世代の若者が、同じようになりたくないと考えるのは無理のないことです。そして、人々にとって「勤勉」という価値は、次第に絶対的なものから相対的なものへと移行し始めます。つまり、私事(ワタクシゴト)を重視する人が増えていったのです。かつて、デートを理由に残業を断る若者が「責任感がない」とか、今さえよければいいとする「快楽主義」だとして非難されたことを覚えている人もいるでしょう。それは、若者のそうした姿が、大人にとっては解消しなければ(なくさなければ)ならない「問題」として映ったからでしょう。これは、「まじめ」や「勤勉」が崩壊していくことに強い危機感を抱いた大人たちが、徹底してこれまでの価値観を守ろうとした現象であるとも言えます。

しかし、若者は本当に間違っていたのでしょうか。相対化がもたらした社会の「私事化」は、見る角度を変えれば、人として豊かな生き方って何だろう(会社人として生涯を終えることが幸せなのか)、ちょっと立ち止まって考えてみようという人が増えた証拠でもあります。思えば私たち教師も、長年に渡って子どもたちに、お金や地位だけが全てじゃない、人として豊かな人生を送ってほしいと願ってきました。相対化現象が広がる中で、皮肉にも私たち教師の教えを若者が体現したのかもしれません。

社会がどんなに変わっても子どもの本質は変わらないと言う人がいます。その人たちが言うように、インターネットやSNSなどの情報機器がどんなに発達しようが、AIがどんなに進化しようが、人が大切にしなければならないことは変わらないのかもしれません。でも、かつてグーテンブルグが活版印刷を考案した(諸説有りますが)とき、世界の価値観は本当に変わらなかったと言い切れるでしょうか。ベルが電話を発明したときはどうだったでしょうか。恐らく、それまで信じられなかったようなことが当たり前になり、それによって人の考え方や価値観も大きく影響されたと思います。何が起こっても子どもは変わらない。だから、教育も変える必要はない。これは、教育に携わる者の「傲慢」かもしれません。少なくとも、私たちはプロとして「本当に今のままでいいのか」という自省は重ねていかなければならないと思います。

参考:とんでもない「ほんまかいな」を一つ紹介。1960年、フランス歴史学フィリップ・アリエスという人が『<子供>の誕生』という本を刊行し、子供大人の一線を当然視し、学校教育制度を当然視する現代の子供観に対して疑義を呈しました(「ほんまかいな」の視点です)。アリエスは、中世ヨーロッパには教育という概念も、子供時代という概念もなく、 7〜8歳になれば、徒弟修業に出され大人と同等に扱われ、飲酒恋愛も自由とされたと述べています。つまり、ヨーロッパにおいて子供という概念はもともとあったものではなく、学校教育制度が生み出したものであることを示したのです。

「人は変わり続けるからこそ、変わらずにいられる」

これは、カナダ出身のシンガーソングライター、ニール・ヤングさんの言葉で、松任谷由美さんもコンサートなどでよく使われるそうです。まさに、これからの教育にぴったりの言葉だと思います。教師個人としても、一人の人間としても、学校全体としても、あるいは日本全体の教育としてもこの視点はとても大切になってくると思います。

私は、どんなに時代が変わろうと教育(学校ではありません)の神髄は同じだと思います。これだけ「ほんまかいな」の視点が大切だと力説していたくせに、矛盾しているじゃないかと思われるかもしれません。そうではなく、本当に大切なもの、変わらない教育の神髄を守るためにも、私たちは変化に敏感である必要があるのです。今までの価値観で新しいものを否定することで、逆に一番大切なものも失う可能性があるのです。

今、私たちには、教育の本質を見極めるために自分たちのやってきたことをしっかりと吟味することが求められています。エポケーという概念も、ニール・ヤングさんの言葉も、今まで気づかなかった真実の在処をきっと教えてくれると私は信じています。本当に大切なものは子どもたちが安心して成長できる環境を整えることから始まるのだと思います。(作品No.94HB)