遠くから見る その2

全国5か所(和歌山、福井、山梨、福岡、長崎)に展開する「きのくに子どもの村学園(学園長:堀真一郎氏)」では、教科書にとらわれない学びが中心で、宿題もテストもない。通知表は数字による評定ではなく、その子の伸びているところを文章で記述する。30年前の1992年、和歌山県の北東の端、橋本市の山中でスタートした学校です。私立ですが、学校教育法に定められたいわゆる「1条校」でフリースクールではありません。「どうせ小学校だろう」思われたかもしれませんが、ここは小中一貫校です。

 同様の「自由」を掲げた私立学校は、全国を探せば結構ありますが、圧倒的に私学が多いのは、制度の縛りが少ないことが大きな理由の一つでしょう。公立中学校なら県立高校の入試制度を県教委が細かく定めていますし、入試問題の大半が選択式です。選択式問題はどうしても知識を問う内容に偏りがちです。そのうえ、複数志願制を導入しているところでは、A高校からB高校へ点数が知らされることがあるため、採点はできるだけ客観的なものでないと公平性が保てません。読解力や情報処理能力を問う工夫はされているようですが、それも限界があります。大学入試で記述式を取り入れると言っていた文科省が直前になって実施を断念したのも客観的な採点が難しいからです(初めからわかっていたことだと思うのですが・・・)。

 本年度の高校入試選抜要綱を作成するにあたって、県教委は事前に各地区の中学校長会に意見を求めました。いい機会だと思って当地区の回答は私が書きました。内容は「中学校の教諭は多くの制約の中でアクティブラーニングや探究的な学習に誠意を持って取り組んでいるが、どんなに工夫を凝らした授業をしても、生徒や保護者の多くが公立高校進学を希望している限り、特に3年生では入試問題に対応できる授業を実施せざるを得ない。いくらコミュニケーション能力等が高くとも入試の点数には反映されないような状況では、そういう力をつける授業は「やり損」だと考える教員を納得させることは容易ではない。せっかく小学校で、多くの体験活動を取り入れ、幅広い学力をつけようと努力しているのに、それを十分に発展させる時間がない。何より、教員のモチベーションが上がらない。早急に対応しないと文科省のいう「学力」を身に付けることは到底できない」という内容で文書を提出しました。今の県の入試制度は学習指導要領の理念とあまりにも乖離が大きいと感じます。

 なかなか変わらない公立高校入試とそれに制約される公立中学校では、知識優先の授業から脱するには限界があります。それでも(条件は大きく違っても)、私は冒頭に挙げた「子どもの村学園」のような学校から吸収すべきものはあると思います。その一つが以下に示す堀学園長の言葉です。

「大人はよく子どもに、“自由にやってごらん。でも責任は自分で取るんだよ”と言います。それは、ある意味脅し文句でもあるのです。子どもの村では、“自由にやってごらん。責任は大人が取るから”と言うのです。子どもなりに考えて、勇気を出してやったことも、うまくいかないことだってあります。そこで、“自分で決めたんだから”“一体何やってるの”と言うのは、“どうせ失敗すると思って見ていた”のと同じことです。」(宿題も校則もない「自由にやってごらん。責任は大人が取るから」授業も子ども任せ 「先生」のいない学校 2/12(土) 13:01配信 週刊女性PRIME 下線は引用者)

 この考え方には賛否両論あると思います。でも、少なくともこういう考え方もあるという「気づき」を私たちに与えてくれます。その「気づき」が、私たちを「褒めるために指導する(叱るを含む)」という教師の原点に帰してくれます。原点に公私の別はありません。

(作品No.31HB)

※ちなみに、県教委からは何も回答はありませんでした。あるわけないか・・・。

遠くから見る

これまで学校において当たり前とされていたことの真偽を確かめるためには、一旦「学校から離れる」という経験が大いに役に立ちます。「学校を離れるなんて、そうそうできるものじゃない」と思われるでしょうが、実際に離れなくてもいいのです。視点だけを学校の外に向け、「遠くから見る」視点を持つ機会をつくればいいのです。それなら、誰にでもすぐにできます。その視点は、学校や教師としての在り方を客観的に見ることにつながります。方法は簡単です。学校現場以外の人が書いた学校や中学生に関する本や調査、研究に触れることです。

今、学校が変わらなければいけないという論調の本は実に多く出版されています。それらの本が必ずしも学校現場の実態を正確に理解しているとは限りません。それでも、「大学の先生や研究者が書いた本なんて、どうせできもしない理想論に過ぎない」と思って、読まないのはもったいない話です。1冊の本を読んで、その中のわずか一行でも「その通りだ」とか「なるほど」と思えることがあれば、それだけで読んだ価値はあります。そして、学校の外から学校を分析している本を読むことは、私たちに「学校から離れた」視点を与えてくれます。その視点は、今自分のやっていることを、いい意味で相対化させてくれます。信念をもって教育にあたるというのは大切なことですが、それ以上に重要なのは、その信念が正しいのか、正しいとすればどうやって生徒に正しく伝えるのかということです。そのとき、今の中学生や若者がどういう意識を持っているかをきちんと分析してくれている本は貴重な存在となります。時間をかけて精密な調査や分析をするような時間は私たちにはありません。それをやってくれている人がいるのですから利用しない手はないと思うのです。

最近読んだ本の中にこんなことが書かれていました。

「・・・大事なことは、さまざまな「現場」(教育行政の現場、教育研究の現場、子育ての現場、社会教育の現場など)の知見を、お互いに持ち寄り、交換し、活かし合うことだとわたしは思います。「現場を知らずに・・・」という言い方は、その機会を自ら捨て去ってしまうことだと思います。もうちょっと言うと、「現場を知らずに」と言う先生にわたしが密かに思うのは、その先生の言う「現場」というのは、あくまでもその先生が経験してきた、ほんの何校か、何クラスかの「現場」にすぎないんじゃないか、ということです。その限られた経験をもって「現場」一般を語ってしまうのは、ちょっと乱暴なんじゃないかとわたしは思います。」(『「学校」をつくり直す』苫野一徳 河出新書 2019 p8-p9 引用文中下線部は私が著者の主張の他の部分から抜粋し、付け足したものです。ちなみに、苫野氏は熊本大学准教授、専門は哲学、教育学です)

私はこの文の内容をすべて受け入れているわけではありません。この人は、哲学、教育学が専門ですが、最近の教育論の中心になっているとも言える教育社会学は、特定の現場で起こっていることが社会の縮図であり、それを細かに分析することに意義を認めるものです。そういう意味では、限られた現場を語ることにも大いに意味はあると私は思います。

でも、私はこれを自戒を込めて読みました。自分たちの「現場」や「経験」を大切にする姿勢が、もし「独善」に変わってしまったら、あるいは「自信」が「過信」となってしまったら、見えるはずのものが見えなくなることもあるんじゃないかと。(作品No.11HB)

ややこしい話

「下の写真は何を映したものでしょう?」と聞かれたら、ほぼ全ての人が「リンゴ」と答えるでしょう。「ほぼ」と言ったのは、「わかりきった質問だ。さては答えはリンゴじゃないな」と考える人を想定したからです。

さて、ここに映ったリンゴ(?)が実際に目の前にあったとしたらどうでしょう。「見ればわかる。色も形もリンゴそのものだ」という人もいるでしょう。でも、それは紙で精巧に作られた偽物かもしれない。「じゃあ、持ってみれば」という人もいるでしょう。リンゴにはリンゴなりの重さというものがある。でも、リンゴと同じくらいの重さの物は他にもあります。決め手に欠けます。「それなら、食べてみれば?」。見た目もリンゴ、重さもリンゴ、味もリンゴとなれば、それはリンゴ以外には考えられない。でも、現代の技術をもってすれば、カニなしのカニカマと同じようにほとんど同じ味のものを作ることはおそらく可能でしょう。いったい私たちは普段どうやってリンゴをリンゴとして認識しているのでしょう。

 この問題に明解な答えを出したのがドイツのフッサール(哲学者)です。フッサールは「「リンゴが在る」からリンゴが見えるのではなく、「リンゴが見えるから」リンゴがあると思うのだ」とし、リンゴとは何かという細かい定義(色、形、味、成分など)を突き詰めていくことはあまり意味がないと考えました。つまり、絶対的な真理を想定せず「どんな場合に私たちは(それがあると)思っているのか」を最終的な根拠としたのです。簡単に言うと、見ている人がそれをリンゴだと思うからリンゴはリンゴであるというわけです(ややこしい)。見ていない人からすればリンゴは存在しないのも同じですから。 

一つの物がそこに存在し、それがどういうものかはそれまでの経験などに基づいた人間個々の意識(定義)によって決められます。そして、互いに「これはリンゴだよね」「そうそうリンゴだよ」という共通了解があって初めて「リンゴ」という言葉が成立するのです。だからこそ、「リンゴ」と聞くと誰もがおおよそ同じようなイメージを抱くことができるのです。そして、時には「よく見返したり人とも確認し合ったりする中で、「あ、やっぱりまちがっていました」ということになる可能性」もあるのです。これが大切なことです。真実は一つとする一元論から脱するためには、この共通了解しか術がないということです。

 フッサールのこうした考え方は、現象学的還元と呼ばれ長い間批判に晒されました。それは、それまでの哲学が真理を前提にしていたのに対し、その前提そのものを否定したからです。しかし今、現象学は世界的に認められ、教育界にも大きな影響を与えています。

私たちが、生徒を理解しようとするとき、同僚の先生や先輩に「あの子はどう理解すればいいのでしょう」と意見を交わし合います。それこそが互いの共通了解の形成過程なのです。そしてその過程を重ね続けることで初めて、日々変化を続ける生徒を互いに共通理解(了解)する瞬間に出会えるのです。(作品No.23HB)

(※印の「 」内は、『知識ゼロからの哲学入門』p124-p127竹田青嗣+現象学研究会、2008,6,25、幻冬舎からの引用)