「足りない」ということ

今から数年前、100人ほどが集まる講演会に参加したときのことです。テーマは「地域のつながり」。いわゆる参加型の講演会で、いくつかのグループに分かれ、あらかじめ用意されたペンでコメントを書いたり、はさみで紙を切ったりといった簡単な作業が盛り込まれていて、なかなかおもしろい講演会でした。でも、どうもしっくりこなかったことがありました。それは、はさみやペンなどの道具については、「適当に取りに来てください」と全体に声をかけるだけで、配ってくれなかったことです。その上、全て大幅に数が足りないのです。  

こうなると誰が道具を取りに行けばいいのか、何人に一つの割合で道具があるのかなど、わからないことだらけです。正直「気が利かない講師だ」と思ってしまいました。おそらく会場にいる多くの人が同じように感じていたと思います。

 そんなわけで、私たちは最初どうしたらいいかわからないまま黙って座っているだけでした。しかし、そのうち「まず数を数えようか」と誰かが言い出し、配り始めると「そちらの方は足りていますか」とか「私は使い終わりましたので、どうぞ」など、あちこちから声が聞こえるようになりました。

 そして、講演会の後半、講師さんが静かな口調でこう言われました。

「『足りない』って、人をつなげるんです」

「なるほど」と思いました。そうです。講師さんは「わざと」道具を少なめに準備し、細かな指示をしなかったのです。「ペンやはさみが全員分あれば、貸し借りのための会話は必要ありません。お互いのことを気遣う必要もありません。でも、何か足りないものがあるからこそ、人間はそれを何とかしようと知恵をしぼり、協力し合うことができるんです」

私は、ほんの少しでも講師さんのことを悪く思ってしまったことを恥ずかしく思いました。

そう言えば、「天国と地獄」のたとえ話を聞いたことがあります。どちらもごちそうが目の前にたくさん並んでいるのですが、使える箸がとても長くて自分で掴んだものを自分の口に運ぶことが出来ないのです。地獄では、それを何とか自分だけおいしい物を食べようと必死で自分の口に持っていこうとするのですができません。ところが、天国ではみんなニコニコしておししい料理を食べているのです。それは、周囲の人に「何が食べたいですか」と聞いて遠くにある食べ物を箸で掴み、その人の口に運んでいるのです。これなら、多少箸が長くても食べることが出来ます。自分のことしか考えない地獄の世界とは大違いです。

教諭時代、一般の人(教員以外の人)から「あなたは何を教えているんですか」と、よく聞かれました。いつも私はその問いに戸惑いを感じていました。「国語を教えています」と答えればいいんですが、何とも言えない違和感のようなものがつきまとうのです。それは、「教える」という言葉が教師から生徒への一方向のように聞こえるからです。一方向のみの「教える」は、生徒にとっては受容するだけのものになります。また、一方向による授業は常に与え続けなければなりません。次第に生徒たちは「次に何が必要なんだろう」と考えるのではなく、「次は何を渡してくれるだろう」と受け身になります。そして、受け身になった生徒は、与えられたものが不十分だと感じると、「あれがない」「これがない」「だからわからない」と不平を持ちます。そもそも、自分では何もしない人ほど他人に安易に文句を言うものです。子どもたちがそんな人間にならないためにも、私たちは子どもに最初から多くを与えすぎないこと、転ばぬ先の杖は最小限にとどめること、これからの教育では、とても大切なことになっていくと思います。

(作品No.48HAB)

「子どもはみんな金平糖」

昔 (30年以上前)、部活動の練習中にダラダラしている生徒に「やる気がないのなら帰りなさい」と言ってしまったことがあります。今なら暴言と言われてもしかたがないでしょう。しかも、「帰りなさい」と言いながら、本当はその場に残って一生懸命にやりなさいという言外の意味を込めていたのです。所謂「ダブルバインド」です。生徒は私の意図がわかっているから、ただただそこに立ちすくむしかない状態に追い込まれてしまいます。今思えば、どうしてそのとき生徒を近くに呼んで、「今日はどうしてそんなに動きが悪いのか」くらいのことは聞いてやれなかったのかと思います。

子どもは一人ひとり違った個性を持っています。おとなしい子や活発な子、集中力が持続する子もいれば、長続きしない子もいます。素直に指示を聞く子がいるかと思えば、一回一回「めんどくさい」とか「だるい」とかいう子もいます。また、本を読むのが大好きな子もいれば、とにかく体を動かすことが好きだという子もいます。一人として同じ個性は存在しないといっていいでしょう。私たちは、それぞれの子どもに最も響く言葉を選んで声を掛ける必要があります。

 けれども、子どもを集団で指導しています。一人ひとりに寄り添って、じっくり話を聞き、その子に合った言葉を見つけていくのは至難の業です。時間的な余裕もそうそうあるわけではありません。教師というのは実に大変な仕事です。(そういうことを世間の人にもっとわかってもらいたいと思います)。その上、私たちには、決められたカリキュラムを決められた期間(学年)に完了することが義務付けられています。学習指導要領が法的な根拠(学校教育法第33条、学校教育法施行規則第52条)を持っている限り、その責から逃れることはできません。

 そのため、授業が予定より遅れているときには何とか教科書のここまでは授業を進めないといけないと焦ることがあります。特に、中学校では定期考査があるので、テスト範囲までは何が何でも進めなければ、公平なテストが実施できません。私も教諭時代「この時間が勝負だ」と猛スピードで授業を進めてしまうことが何度もありました(反省しています)。でも、そうした「焦り」が、思わぬ負の効果を生み出すことがあります。

 最近「マルトリートメント」という言葉が注目されています。「マル」(mal)は「悪い」、トリートメント(treatment)は「扱い」という意味で、合わせると「不適切なかかわり」p2ということになります。また、そこには必要な賞賛を与えないことも含まれます。これを教師にあてはめると、「体罰やハラスメントのような違法行為として認識されたものではないけれども、日常的によく見かけがちで、子どもたちの心を知らず知らずのうちに傷つけているような「適切ではない指導」(川上康則著『教室マルトリートメント』(2022、東洋館出版社、p1)となり、世界保健機構(WHO)でも「チャイルド・マルトリートメント」として「子どもの心身の健康・発達。対人関係などに害をもたらすこと」と定義されています。

川上氏によれば、マルトリートメントには「やる気がないんだったら、もうやらなくていいから」「勝手にすれば」「すきにすれば」「何回いわれたらわかるの?」(同書p35)などといった教師の言葉かけ(川上氏はこれらを「毒語」としています。)が含まれるそうです。そして、そういう「毒語」を発してしまう背景には、教師の「焦り」があると指摘しています。

では、私たちは子どもたちをどのように見ればいいのでしょうか。そのヒントになるのが東京都小学校学級経営研究会2010年で示された「子どもはみんな金平糖」(前掲書p155重引)という視点です。金平糖はとげのような突起がたくさんあります。これを子どもにあてはめると、私たちはこの突起を削って丸くしてみんな同じように行動させようとします。これは、集団の規律を守るためには、ある程度必要なことです。いじめが最も起きやすいのは規律がなく無法地帯となってしまった学級だと言われるように、それぞれのわがままを認めていたら収集がつきません。また、  

どの子に対しても同じように接しようとするとどうしても我慢させないといけない場面を避けられません。でも、この突起をその子の個性だと考えれば、実は個性を削り取っている可能性もあるのです。

そこで、すべての子どもに同じように接し、個性を重視するためには、とげの多い金平糖の突起部分を削るのではなく、それをすべて包み込む円の中に入れるイメージを持てば、ばかなり違ったものになるというわけです。「金平糖」を囲む円は学級全体が個性を互いに認め合える雰囲気のことです。同時に、教師が一人ひとりをありのままに認めようとする視点でもあります。これだけでは抽象的で分かりにくいですが、教師が言葉や所作の端々に一人ひとりを大切にしているという気持ちを表していけば、学級の規律を崩すことなく、この雰囲気はつくれるのではないかと思います。

 具体的には、子どもが当たり前のことをしたときに「ありがとう」と言うだけで教室の雰囲気は大きく違ってきます。また、子どもの呼び捨てをやめるのも効果的な方法です。子どもを呼び捨てにすると、その後に続く言葉がどうしても厳しくなったり、命令口調になったりします。「〇〇(子どもの名前)!」と大きな声で言った後に「△△してください」とは言いにくいものです。テストや通知表を手渡すときも無言で投げ出すように渡すのではなく、「はい、どうぞ」と一声かけるだけでも、もらう方のイメージは随分違ったものになります。そうした教師の一つ一つの言葉や所作によって、子どもは自分たちが大切にされているという空気を感じます。そういう空気感を大切にしたいと思います。

 かつて、県の研修所に勤務していたとき、当時の所長に、ある資料の提出を依頼されて届けたとき、両手を首の下あたりで合わせて「ありがとう」と言ってくださいました。その所長は、ほんの些細なことでも自分のために何かをしてくれた人には、同じようにされていました。教育行政の世界は厳格なタテ社会です。上位下達が当たり前の世界で研修所のトップが、なりたての指導主事に手を合わせて礼を言うなどまずあり得ません。しかもその人は県の教職員課長まで経験された方でした。当時の私からすれば雲の上の人です。そのとき、私は、駆け出しの身でありながら「大切にされている」と感じました。仕事には厳しい方でしたが、とても温かいものを感じました。

(作品No.151RB)

無駄なことができる人

適応障害と診断されて3か月療養をとっていたとき、本当に何も手に付きませんでした。ひどいときは、目の前のコップをとるエネルギーさえなかったことがあります。そこまでひどくなる前でも、新聞を読んだり、それまで興味があったはずの本を読んだりすることができないときもありました。とにかく前向きな気持ちが湧いてこないのです。

 私は、そういう経験を通して、人から見て「無駄だ」と思うようなこと、たいして何の役にも立ちそうにないこと(その人にとっては意味のあることなのだろうとは思いますが)ができるのは、自分の中に不安な気持ちがないからだと気づきました。そういうことができる人は、いろんな意味で気持ちに余裕がある人なのだと思います。

 心が弱っているときというのは、自分の視線がすべて自分の内側に向いてしまいます。自己嫌悪が激しくなり、他の人を見ると今の自分はなんでこんなに情けないんだろうと思ってしまいます。それが怖いから視線を外に向けることができなくなります。でも、自分の中をいくら探しても自信の持てるものが見つからない。だから、余計に自分が嫌になる。何をしても無意味だと感じてしまいます。でもそれは、意味のあることを求めすぎている裏返しでもあるのです。意味のないことをすれば、自分自身が意味のない存在だと確認することになるからです。

 例えば、上司が部下に指示を出すとき、指示の内容だけを伝えればそれでことは足ります。でも、ほんのちょっとユーモアを交えて指示が出せることができる人はすごいと思うのです。そのちょっとしたユーモアは、ある意味「無駄」なのかもしれません。そんなことを言うより正確に指示が出せる方がいいのかもしれません。でも、そのちょっとした「無駄」によって、部下にしてみれば上司に親しみを覚え、何かトラブルを抱えていても相談しやすくなるでしょう。まあ、そのユーモアが上司にとってユーモアでも部下にとっては嫌味に聞こえることもあるので注意が必要だと思いますが。

 子どもというのは、そういう意味では無駄のかたまりなのかもしれません。大人にとっては何の意味もないような物を一生懸命集めたり、一つの物をいつまでも眺めていたりします。授業中も興味がなくなれば、すぐに手遊びを始めたりします。

 ダンゴムシを集めたり、泥だんご作りに夢中になったりするのは、ある意味「無駄」なことのように見えます。時間割が厳密に決められた学校の中では、休み時間に懸命になってダンゴムシを探している子も、チャイムと同時に教室に入らなければなりません。大人にとっては、ダンゴムシを集めることよりも、次の授業に遅れないようにさせることが意味のあることであり、際限なく続けるダンゴムシ集めは「無駄」なのです。

 でも、もしかしたらそのダンゴムシ集めからその子は小さい生き物の不思議さを学ぶかもしれません。大人にとっての「無駄」が子どもにとっても同じように「無駄」だとは言い切れないのです。

 私はよく思います。夢のような話ですが、せめて、たまには、一日中それぞれの子どもが学校の中で自由に過ごせる日があってもいいのではないかと。一日中寝転んでいてもいいし、一日中友達と鬼ごっこをしてもいい。そんな日があってもいいのではないかと。今、子どもたちは道草すら許されません。不審者から子どもを守るためには一斉登校、一斉下校の方が安全です。それは確かにその通りです。実際に被害に合った子どももいるわけですから仕方ありません。だったら、学校という安全な場所で月に一回くらいは完全フリータイムを作ってやりたいと思うのです。特に小学生の間はそんな時間があってもいいのではないかと思います。

 小学校に勤務していたとき、虚言癖のある子がいました。その子は、いつも叱られていました。親からも先生からも。でも、毎朝学校には明るい笑顔で登校してきていました。そして、毎日のように登校中に見つけたバッタやヤモリなどを大事そうに持ってきていました。一度は鹿の角をもってきたこともありました。そのときの顔は実に生き生きとしていました。私はその様子を見て、必ず声を掛けるようにしていました。「今日は何が見つかった?」それだけでその子はとても自慢そうにいろいろ話をしてくれました。そういう子にとって、本当に自由な一日があればどんなに生かされるだろうと思うのです。本当に夢のような話かもしれません。でも、工夫次第でできないこともないのではないかとも思います。自分が勤務しているときにできなかったくせに、何を偉そうにと言われるのは覚悟のうえでそう思います。

 子どもの「無駄」に見える行動は、大人にとっての「無駄」であり、決して子どもが認めた「無駄」ではないのです。「無駄」をしているときの子どもの視線は必ず外に向かっています。心が弱っている子にはできないのです。

(作品No.87RB)

ドリーム・ハラスメント

『大学で学生の支援を行う高部大問は、若者たちが「「夢」に押しつぶされていく実態を「ドリーム・ハラスメント」と名づけた。「高校でキャリアの講演をしたとき、ある学生は「夢を持つことを強制されている」と高部に訴えた。「小学生のときに夢を具体的に決めるように強制されて以来、将来の夢という言葉が嫌い」「夢が無いことがそんなにダメなのか」「夢に囚われずに生きたい」というのが若者の本音だという。これはいわば「夢のファシズム」で、現代の若者は、大人の社会が「夢をもたせよう」とすることをハラスメント(虐待)と感じているのだ。』(橘玲,『無理ゲー社会』,小学館新書,2021,6,p28 一部重引)

にわかには受け入れられない内容です。特に、「夢のファシズム」という表現はさすがに極端に過ぎると感じます。しかし、以前「遠くから見る」ことも必要だと書きました。まさに教育に携わる者にとって、この文章ははるか遠くからのメッセージと言えるかもしれません。私たちは、子どもたちに夢を持ってほしいと願ってきました。夢があれば目標が決まり、目標が決まれば日々の努力につながる、そう思って励ましてきました。

 つまり、教師が「あなたの将来の夢は?」と聞くのは、生徒が自分の生き方を考えるきっかけにしてほしいと願ってのことです。何も強制しているつもりはありません。例えば、一生懸命サッカーに取り組んでいる子が「将来Jリーグに入りたい」という夢を持っていたとして、その子の夢を教師が知ることで、応援してやりたいと思ったり、「楽しみにしているよ」と声をかけてやったりすることができます。こんなことさえハラスメントと言われたのではキャリア教育なんて事実上不可能であるかのように感じます。

ただ、このような「遠くからのメッセージ」からでさえ、学ぶべきものはあると思います。一つは、現時点で生徒が夢を持っていないことを容認する余裕を持つこと、もう一つは、自分の物言いがステレオタイプになっていないかを顧みることです。

私は、大学を受験するときですら将来何になるのか決めていませんでした。私が「文学部」を選んだのは「文学部」という響きに憧れ、興味があっただけです、父親からは「文学部なんか出ても就職がないし、社会で役に立たん」といって反対されましたが、文学部は国語の教員免許が取れると知ると、あっさりと認めてくれました。そもそも中学生くらいで将来の夢をはっきりと持っている方が少ないと思います。「ゆっくり考えればいいよ」と言える余裕があれば、この大学生も「強制された」とは思わなかったでしょう。

もう一つのステレオタイプの言い方について。この方が重要です。ステレオタイプとは、多くの人に浸透している固定観念や思い込みのことで、国籍・宗教・性別など、特定の属性を持つ人に対して付与される単純化されたイメージのことを指します(例えば、最近の若者は礼儀を知らないなど)。私たちは、自分の経験に沿って何が大切かを判断しています。しかし、それはあくまでも自分の判断であって相手の判断ではないのです。私たちは、「夢は持つべきだ」というステレオタイプの物言いではなく、「夢を持つっていいな」と思えるメッセージを届け続けることが大切なのだと思います。

現代は、選択肢が多くなった分、逆に一つに決めることが難しい時代です。中学生にとって夢を持ちにくい時代になったといえるのは確かでしょう。そうだとしたら、私たちは、そうした子どもたちの「生きづらさ」のようなものにもしっかりと寄り添う必要があると思います。

(作品No.47HB)

出さなくてもいいものだからこそ、学級通信には意味がある

私は教諭時代、毎年学級通信を出していました。多いときは、年間260号くらいになったこともあります(数が多いからいいというものでもありませんが)。学級通信を出す最大の目的は、担任の考え方や学級の様子を家庭に伝えるためだと言われますが、私にとってはそれだけでなく、忘れっぽい私の防波堤でもありました。日程表や事務的な連絡も紙で渡すことによって、言い忘れ防止にもなったのです、

でも、それ以外にも多くの効用があります。以下に注意事項も含めて、主なものをまとめてみました。あくまで私の個人的見解としてお読みください。

第一の効用は、出すことによって生徒を細かく見る習慣が身についたことです。これが実に意義のあることだと思います。学級通信は、生徒の様子を伝えるのが中心になりますので、生徒の姿から「ネタ」を探すのが一番です。しかも、後々まで残る「紙」で渡すのですから、悪いことは書けません。自ずと生徒の良いところを探すようになります。そして生徒の良いところを見つけるのが楽しみになります。その姿勢が生徒に伝わり、互いの良好な信頼関係の基盤となります。ただ、中学生の場合、どんなに素晴らしい行動であっても、名前を出されるのを嫌う傾向があります。最悪の場合、書かれたことで、からかわれたり、いじめられたりするきっかけになる可能性もあります。そうなると書かれた生徒は、その後、積極的に行動できなくなってしまいます。私は、良いことであっても名前を伏せるようにしていました。それでも、本人は自分のことだとわかります。「先生は、こんなところも見てくれているんだ」という安心感を与えることができます。名前を出すのは、部活動の成績や合唱コンクールの指揮者、伴奏者、係の割り当てなど、客観的な事実に限っていました。ただ、小学生、特に低学年では逆に名前を出した方が本人も保護者も喜んでくれるのかもしれません(小学校での担任経験がないので、これは想像でしかありませんが)。ただ、その際には年間を通じてどの子も同じように(一定の子に偏らないように)書くことが必要だと思います。

他に、自分の実践記録になるという効用もありました。通信はかつて自分が同じような場面で何を考えていたのかを振り返ることができます。それを見返すことで新しいアイデアが生まれる経験を何度もしました。今はパソコンで作ることができるようになりましたから、データとして残すことも簡単です。今でも「手書き」にこだわっている人もいます。パソコンにはない独特の温かさや自分らしさが表現できる効果は見逃せません。それでも、写真に撮るなどして、電子データとして保存しておくことをお勧めします。

また、保護者と出会ったときに、まず「いつも通信ありがとうございます」という話から入れるのも大きな効用の一つでした。保護者との会話が感謝の言葉で始められるのは、学級経営に絶大な効果を生み出します。クラスを大事にしているという姿勢を伝えるには最適な方法だと思います。通信を出すのは義務ではありません。あくまでもプラスアルファなのです。やらなくてもいいことだからこそ感謝してくれたのだと思います。

私が有り難かったのは、当時通信を出さない先生から何もクレームがなかったことです。「そんなに出したら、出さない担任が非難されるじゃないか」というようなことは一言も言われませんでした。当時の中学校では、出しているクラスがあまりなかったからかもしれません。とにかく、義務だと考えると出す方もしんどいし、嫌だなあと思いながら出している通信を読んでも面白くないでしょう。もともと、学級通信は無理して出す必要はないのです。通信以外の形で(自分の得意な方法で)伝えられればそれでいいわけです。

そして、書くときに忘れてはいけないのは、紙は残るということです。その頃も学級通信に提出物の状況を載せたり、問題行動についてあからさまに書いたりする人がいましたが、よくもそんなことができるなあと思いました。私は、良いことは「残る」通信で、悪いことは残らない(生徒の記憶には残りますが)口頭で伝えるようにしていました。さまざまな効果のある学級通信ですが、記憶だけでなく「記録」としていつまでも残るという怖さは自覚しておく必要があります。

また、出すと決めたら年間を通じて継続して出し続けることが大切です。そのためにはできるだけ短時間に作成することです。時間をかける「大作」は年に数回、「ここぞ」というときだけでいいと思います。私は、出し始めたときは、一枚書くのに2時間くらいかけていたこともありましたが、数年後からは、30分以内(そのうち10分程度で書けるようになりました)で書くと決めました。その方が長続きします。途中で挫折すると、それだけで、読む側の信頼を失うことになりかねません。途中でやめるくらいなら初めから出さない方がましだと思います。実際、新任のときに一学期の途中で学級経営がうまくいかなくなり、途中で出すのをやめたら、学級懇談のときにかなり厳しく保護者からお叱りを受けました。「先生が、やり始めたことを途中でやめるってどういうことですか!」と。

他にも、自分が出張で一日学校にいないときに生徒の手に渡るようにしたこともありました。これが意外と効果的で「こんな日にも出るんだ」と生徒は驚きとともにとても喜んでくれました。いつも自分たちのことを大切に思ってくれているんだという気持ちで受け止めてくれます。

忙しいなかで定期的に学級通信を出すのは大変かもしれませんが、出し方によってはローコストでハイリターンなものにすることができます。大切なのは、無理をしないこと、自分が楽しむことです。繰り返しになりますが、学級通信は「出さなくてもいい」ものです。必須の業務ではありません。でも、そうであるからこそ、効果的なのです。

(作品No.49HB)

「足りない」ということ

今から数年前、100人ほどが集まる講演会に参加したときのことです。テーマは「地域のつながり」。いわゆる参加型の講演会で、いくつかのグループに分かれ、あらかじめ用意されたペンでコメントを書いたり、はさみで紙を切ったりといった簡単な作業が盛り込まれていて、なかなかおもしろい講演会でした。でも、どうもしっくりこなかったことがありました。それは、はさみやペンなどの道具については、「適当に取りに来てください」と全体に声をかけるだけで、配ってくれなかったことです。その上、全て大幅に数が足りないのです。  

こうなると誰が道具を取りに行けばいいのか、何人に一つの割合で道具があるのかなど、わからないことだらけです。正直「気が利かない講師だ」と思ってしまいました。おそらく会場にいる多くの人が同じように感じていたと思います。

 そんなわけで、私たちは最初どうしたらいいかわからないまま黙って座っているだけでした。しかし、そのうち「まず数を数えようか」と誰かが言い出し、配り始めると「そちらの方は足りていますか」とか「私は使い終わりましたので、どうぞ」など、あちこちから声が聞こえるようになりました。

 そして、講演会の後半、講師さんが静かな口調でこう言われました。

「『足りない』って、人をつなげるんです」

「なるほど」と思いました。そうです。講師さんは「わざと」道具を少なめに準備し、細かな指示をしなかったのです。「ペンやはさみが全員分あれば、貸し借りのための会話は必要ありません。お互いのことを気遣う必要もありません。でも、何か足りないものがあるからこそ、人間はそれを何とかしようと知恵をしぼり、協力し合うことができるんです」

私は、ほんの少しでも講師さんのことを悪く思ってしまったことを恥ずかしく思いました。

教諭時代、一般の人(教員以外の人)から「あなたは何を教えているんですか」と、よく聞かれました。いつも私はその問いに戸惑いを感じていました。「国語を教えています」と答えればいいんですが、何とも言えない違和感のようなものがつきまとうのです。それは、「教える」という言葉が教師から生徒への一方向のように聞こえるからです。一方向のみの「教える」は、生徒にとっては受容するだけのものになります。また、一方向による授業は常に与え続けなければなりません。次第に生徒たちは「次に何が必要なんだろう」と考えるのではなく、「次は何を渡してくれるだろう」と受け身になります。そして、受け身になった生徒は、与えられたものが不十分だと感じると、「あれがない」「これがない」「だからわからない」と不平を持ちます。与えすぎないこと、これからの教育では、とても大切なことの一つだと思います。(作品No.48HA)

研究者について

大学における研究に対して学校現場の私たちは、学校現場を知らずに「しち難しい」ことや、できもしない理想ばかりを語っているという思うことがあります。しかし、今大学の変革はかなりの勢いで進んでいます。以前に比べて学校現場に役立つ研究が多くなされています。大学教授も積極的に学校現場に入るようになってきました。つまり非常に実践的な研究が行われるようになってきたわけです。でも、本当にそれでいいのかとも思うのです。

かつて、兵教大でお世話になったS教授が「最近はどうも目先のノウハウばかりを追いすぎている。評価ばかりがうるさく言われて学校現場は大変だろう。数値(結果)で表せない部分にこそ本当の教育があるんだがなあ。」と、つぶやくようによく仰っていました。某県では全国学力学習状況調査を実施する直前に何度も生徒に模擬試験を受けさせることもあると聞きます。平均点が全国で上位となる「結果」を求め過ぎるとこのような本末転倒なことが起きてしまいます。私が勤務していた県立教育研修所も実践中心の研修がほとんどでした。まあ、研究所ではなく研修所なので仕方がないのですが、「研究」部門も実践的なもの以外はなかなか研究紀要に乗せられることはありませんでした。学校現場に戻ってすぐに役立つもの、教員や県民のニーズがあるものでないと講座としても成立しません。「役に立つ」という「結果」を求めることは悪いことではありません。でも、「結果」だけを求めると、結局その場しのぎになる可能性もあります。

こう考えたとき、私は研究を専門とする方々には「すぐには役に立たなくても、必要なこと」もじっくり深めていただきたいと思うし、私たちも研究者に「役に立つ」ものを求めすぎないことも必要なのかもしれません。研究者が研究者らしくせず、学校現場以上に学校現場らしいことを考えてしまうのは非常に勿体ない話だと思います。

学校現場が、「使える」知識や技術を求めるのは当然のことです。でも、研究部門には理論的なリーダーシップをとるという重要な役割があるはずです。例えば教育とはなにか、生きる力とはどのようなものかという根源的な問いを徹底的に極めるのは大学等の研究部門でしかできないのです。兵教大の元学長の佐藤修策先生が当時のパンフレットに「理論と実践の融合」を掲げておられたのは、それぞれの立場でそれぞれのできることを精一杯やったうえで、相互につながらなければ意味がないという信念があってのことだと思います。 

現場で長年勤めていると、「本当にこれでいいのだろうか」という壁にぶつかることがあります。その壁を乗り越えるためには、しっかりとした「理論」が必要です。その理論が拠り所となって、初めて自分の指導方法を検証することができるのです。その拠り所を提示するはずの大学があまりに現場寄りになってしまえば、この先、現場の教師が本当に迷ったときに何を頼ればいいのか、いよいよ分からなくなります。

学校現場の殺人的な忙しさの中では、根源的な問いにじっくり向かい合う時間など到底ありません。そういう問題こそ研究する立場の人たちが「役に立たない」という批判を恐れず、徹底的に研究をしてほしいと思います。そして、それを私たちにわかりやすく示してくれることが本当の意味で学校現場にとって有益だと思うのですが・・・。(作品No.44HB)

職員の不祥事に対するクライシスマネジメント その2

前回の続きです

4 保護者への対応

 今は、緊急メールなどで保護者に一斉に連絡することも簡単になりました。保護者会の日程が決まればできるだけは早く知らせることです。実際に説明会の内容をどうするかはそれからでも遅くありません。この連絡が遅れれば遅れるほど、保護者の中に不信感が広がってしまいます。今やSNSでこうい情報(不祥事があったこと)はあっという間に広がります。学校への不要な問い合わせを抑える意味でも迅速に行うべきです。

厄介なのは、「学校はどう責任を取るつもりだ」と名を名乗らずに怒鳴り散らすような電話です。マスコミで報道されるとすぐにそういう電話がかかってきます。こちらが100%悪いとわかっているから言い放題です。そんな電話は取らないのが一番かもしれませんが、なかなかそうはいきません。学校には、不祥事に関係ない内容の電話もあるからです。また、バタバタしているなかで思わずとってしまうこともあります。そういう電話に対してはとにかく言いたいだけ言わせておけばいいのです。「名前」を言わない時点で、無責任なわけですから、まともに相手にする必要はありません。ひたすら謝り、詳細は説明会でさせていただきますとだけ伝えれば十分です。

5 保護者会について

 事件が発覚したのが平日であれば、その日の夜には実施するのが理想です。そうしないと、次の日子どもたちが登校してきます。何もしないまま子どもと向き合うのはよくありません。事件の発覚が放課後、それも遅い時間だとどうしようもないこともありますが、それでも翌日には実施すべきでしょう。

 保護者会には、必ず市町の教育委員会にも同席してもらいます。それも、課長クラスの人でないと意味がありません。指導主事レベルにしてしまうと責任のとれない者(指導主事は管理職でありません)がきてどうするんだと、火に油の状態になりかねません。また逆に教育長まで呼んでしまうと、今度はその後の切り札がなくなってしまいます。やはり課長クラスの人に同席願うのが一番でしょう。 

司会進行は教頭が行い、説明と質疑への応答は校長が行うべきです。事の経過(事実の確認)は教育委員会からでもいいし、教頭でもいいとは思いますが、校長が前面に出ることで、保護者に対する謝罪の気持ちが伝わりやすくなります。万一、校長が失言してもそこは教育委員会がフォローしてくれます。とにかく、誠意を伝えることが一番です。

 また、職員はよほどのことがない限り全員出席すべきです。何も発言する必要はありませんが、全員が参加することで学校全体の問題としてこの事態に臨んでいるという誠意を示すことができます。服装もスーツなどフォーマルなものとすることが大原則です。特に発覚の翌日以降に開催する場合は「準備できたはずなのに」と保護者は思います。「こんな事態に、なんであんないい加減な服装で・・・」と思われたらどうしようもありません。

なかには、「こういうときは管理職だけで対応すべきだ」と主張する職員もいますが、だいたいそういう人は、保護者会が不調に終わったときには真っ先に管理職批判を始めます。また、自分はまるで部外者のような気でいるものです。そいう人にこそ説明会という、一種の修羅場に近い現実を見せておくことが必要です。事態は、こんなに深刻なのだということを実感をもって経験することが再発の防止にもつながります。

 もう一つ大切なことは、説明会を終えるタイミングです。これは進行役の教頭にしか判断できません。校長に「この辺で・・・」と言わせては絶対にいけません。意見が出尽くしたり、今後の方向性がみえてきたりした時点できっぱりと「今日はありがとうございました」と言い切ることです。教頭が「今だ」と思ったタイミングが保護者の感覚とズレていたら、場内はざわつくでしょう。そんなときは、校長が「教頭先生、まだ、意見が出尽くしていませんよ」といえばいいのです。

 前回から2回にわたって書いてきました。これが「正解」だとは思いません。危機対応というのは、原則はあってもそれを実行する人のタイプでも微妙に変わってくるでしょう。また、自分が教頭なら、校長と意見が異なるようなとき(例えば、電話はいっさい出るなとか)には、非常に動きにくくなることもあるでしょう。反対に自分が校長で教頭が思ったように動いてくれないと、事態をさらに混乱させることもあるでしょう。最後はケースバイケースとしか言えないのかもしれません。

ただ、私が幸運だったのは、県教委にいたときに上司に危機対応の経験が豊富な方がいて、細かく教えてもらっていたことです。今回書いた内容も、実際に危機対応にあたったときも、ほとんどその上司に教えてもらったことです。最初に事件を知ったとき、一瞬目の前が真っ暗になるほどショックを受けましたが、その後すぐにその上司の言葉が浮かんできました。

「とにかく、まずは記録を取れ」。

それで、かなり落ち着きました。何をすればいいのかがわからないほど辛いことはありませんから。

仕事にはとことん厳しい上司でしたが、今は感謝しかありません。

(作品No.150RB)

職員の不祥事に対するクライシスマネジメント その1

職員の不祥事はあってはならないことです。しかし、管理職がどんなに注意していてもすべて防げるとはかぎりません。明らかな犯罪行為では、学校が言い訳ができないので地域住民やマスコミも攻撃しやすくなります。子どもが命を落とすような事件に比べれば、まだましとはいうものの、対応を間違えば学校の信頼は一気に崩れてしまいます。この手の話に関するリスクマネジメント(事前にリスクを減らすこと)は、しばしば紹介されていますが、クライシスマネジメント(事後の対応)の具体についてはあまり語られることはありません。そこで、今回は、2回に分けて私の経験も踏まえながらリスクを最小限にする事後の対応をまとめてみました。

1 記録を細かく取る(教頭、校長ともに)

 これは、どんな危機的状況にも共通することですが、事が起こった直後から絶えずノートと筆記用具を手許から離さず持っておき、できるだけ細かくその場で記録をとることです。そのときに大切なのは、必ず日付、時刻を書くことです。明らかな不祥事の場合、できるだけ早い時期に保護者への説明会を開かなければなりません。そのときに、いつどんな流れで学校が事実を知ることになったのか、それに対してどんな対応をしたのかが曖昧であると、それだけで不信感につながります。学校が即座に対応したことを知らせるためにも時系列に整理しておくことが重要です。

ときには、その日のうちにニュースがネットやテレビに流れることもあります。そうなると職員を始め、予想外の反応が次から次へと起こります。そんなバタバタしているなかで記録をとるなんて無理だと思われるかもしれませんが、急な事態で管理職までもが冷静さを失っては職員が浮足立ってしまいます。細かな記録(メモ)をとることで、何をどうしたらいいかと焦る自分の気持ちを落ち着かせる効果もあります。時間があればエクセルなどを使って記録を入力しておくと、あとで簡単に時系列に並べることができます。

 また、誰が、いつ、何をしたか(されたか)、電話の相手の氏名と対応した者の名前なども細かく記録することが大切です。記録は原則として教頭がとることになるでしょうが、できれば校長や教務主任などにも可能な範囲で記録を残すよう確認しておく必要があります。一人では、重大な内容が抜け落ちる場合があります。

2 職員への対応

 事情のよくわかっていない(不祥事の事実さえも知らない)職員が電話に出ると思わぬ情報漏れにつながることがあります。やはり窓口は一本化することが大切です。窓口は原則として教頭に一本化するのが妥当でしょう。また、休日の場合はメールやラインを使って、いつでも学校に出て来られるよう職員に連絡しておくことも重要です。その場合は服装もフォーマルなものを持参するように伝えておきましょう。

  また、職員の動揺を鎮めることも大切です。職員を招集した際に、最初に冷静に行動するように指示をします。私の場合は次のように言いました。「どんな困難も必ずいつか収束します(自信はなかったのですが、あえて語気を強めて言いました)。今大切なのは、収束した後に職員の間に「しこり」を残さないことです。互いを責め合うような発言だけは絶対に謹んでください」。実際、こういう事態が起こると対応の仕方で意見が分かれ、職員の中にぎくしゃくした空気が流れやすくなります。せっかく事態が収集したのに、ぎくしゃくした関係が残ってしまったら、その後の学校経営に大きな影響を与えかねません。

3 マスコミ対応

学校関係者にとって、マスコミは大きな脅威となることがあります。いきなり電話がかかってきて、不祥事を起こした者に関する聞き込みをしてきます。そいうとき、マスコミには何も言うなとか、電話には一切出るなという校長もいるようです。しかし、そういう対応をすれば、マスコミは学校に直接やってくることになります。電話ですむところを押しかけてこられたら、余計に事態は複雑になります。こういうときほど冷静に対応しなければいけません。つまり、マスコミ側の立場に立って考えてみるのです。おそらく、電話をかけてくる記者は、上司の指示で動いています。記者であっても人間です。学校が今回の騒動で混乱していることくらいはわかっています。「仕事」として電話をかけてくるのです。その記者に対して、「何も言えない」の一点張りでは、相手の神経を逆なでしてしまいます。こういうときほど、マスコミを味方につけてやろうというくらいの冷静さが必要です。特に、不祥事を起こした者の基礎情報、例えば、性別、年齢、校務分掌、学年所属などについては、学校が知らないはずがありません。そのレベルまで言わないとなるとマスコミ側は「隠蔽」を疑います。そうなると余計に攻撃がひどくなります。意外に思われるかもしれませんが、マスコミ対応の基本は「ウソをつかない」、「隠さない」ということです。そういう姿勢で対応すれば、記者の方から「先生も大変ですねえ」と、こちらをねぎらうような言葉が出ることもあります(実際、私は電話の最後にそういわれました)。

ただし、まだよくわかっていないことは「わからない」とはっきり言うべきです。多分こうだろうということは絶対に言ってはいけません。また、校長でないと判断できない場合は、「〇時くらいには校長が戻りますので、もう一度おかけ直しください」と、こちらの誠意を見せたうえで、一旦電話を切り、時間を稼ぐことも大切です。だいたいこういう事態のとき校長は警察や教育委員会に呼ばれて事情聴取をされることが多いので、どうしても不在がちになります。トップがいない間に「判断」をしてはいけません。マスコミにウソをつかないというのは、あくまで客観的な情報の提供であって「判断」ではありません。

蛇足ですが、普段から地元の新聞社に学校の前向きな取組を知らせるなどポジティブな記事の提供をしておくことも必要です。また、地元の新聞記者や会社の電話番号をあらかじめ学校の電話に登録しておくと、ナンバーディスプレーで確認できます。電話を取る前のほんの一瞬のことですが、相手が誰かわからないで出るより、はるかに落ち着いて対応できます。

(次回は、保護者対応と保護者説明会の進め方について書こうと思います)

(作品No.149RB)

地域のまなざしと働き方改革

エピソード その1

「先生、A町なんて停留所ありませんよ」

私は当時野球部の顧問でした。A中学校に練習試合に行ったときのことです。A中学校は車でも30~40分かかるところにありましたので、私は道具を自分の車に積んで移動し、生徒たちは、電車と路線バスを乗り継いで現地に向かいました。電車を降りた駅でA中学校の最寄りの停留所を確認して彼らはバスに乗り込みました。ところが、いつまでたってもその名前の停留所がなく、結局、終点まで行ってしまったというのです。バスから降りてきた部員はどれも不満顔です。仕方なく数十分かけて歩くことになりました。私は約束の時間より遅れることを相手の監督に伝えに行くために車を走らせました(当時は携帯電話がありませんでした)。しかし、初めて行く学校だったので場所がよくわかりません。そこでたまたま公民館の掃除をしていたおばさんに出会い道を尋ねたところ、丁寧に教えてくださったうえに、事情を聞いてわざわざ生徒を車で迎えに行ってくださいました。それどころか、近所の人にも伝えてくださり、何人もの人が「運んでやろう」と車を出してくださったのです。

 初めて行ったA中学校。見知らぬ土地の、見知らぬ人からの温かいやさしさが身に沁みました。

エピソード その2

転勤して間もないころ、学校のすぐ近くに住んでいる人と話をしているときのことです。その人は中学生のことを「学校の子」という言い方をされました。その人だけでなく、何回かこの言い方を耳にしました。

私は、その言葉から、地域に根差した「学校」の「子」だから地域の中で大切にしようというニュアンスを感じ取りました。同時に、少々のことは大目に見てやる、でも度を越したときにはしっかりと叱ってやろうという雰囲気がまだ残っているのを感じました。自分の子どもではなくても「学校の子」が困っているなら手を差し伸べてやろうという懐の深さが地域にはあったのだと思います。

働き方改革のめざすところ

この二つのエピソードがあってからすでに30年以上が経過しました。地域の学校に対するまなざしも大きく変わりました。こういう「牧歌的」な雰囲気はもう期待できないのかもしれません。また、今後、学校の働き方改革が進んでいくなかで、地域とのつながり方の見直しが俎上に載せられるときが必ずくるでしょう。学校のスリム化は喫緊の課題なのです。でも、そうであるからこそ私たちは、どんなまなざしが学校に寄せられているのかを敏感に察知し、スリム化した後の学校にあっても地域から支えられる準備を今から始めないといけないと思います。

「牧歌的」な教育はもう古いという人もいます。本当にそうでしょうか。私は逆だと思います。学校は本来「牧歌的」であるべきです。優しさを基盤として、子どもと一緒にじっくりと自分の生き方を考えるためには「牧歌的」な雰囲気が必要なのです。学校の働き方改革は、教育を「牧歌的」なものに戻すために必要なのです。抱えきれない重荷を背負わされて、時間的にも精神的にも追い込まれているような状況を一日も早く改めなければ、教師はじっくりと子どもと関わることはできません。学校の時間がゆったりとした流れになることで、余裕をもって地域にも関われるようになるのです。私たちは、本格的に改革が進む前である今こそ、丁寧に地域との信頼関係を築いておかなければなりません。そうでないと「学校の先生だけが楽をしている」という誤解を生むことになりかねません。学校や教育行政の変わり方によっては、「牧歌的」な学校に戻れる可能性は十分に残されていると思います。

(作品No.118RDB-2)