電話っ子

自宅に初めて電話がやってきた日のことです。いわゆる「黒電話」。ある日、たまたま私一人で留守番をしていたとき突然電話のベルがなりました。予想以上に大きな音に口から心臓が出るかと思うくらいびっくりしました。恐る恐る受話器をとると、いきなり男の人の声が聞こえてきました。その男性は電話口の私にこう言いました。「〇〇さん(父の名前)はいらっしゃいますか」私は、首を振りました。何度か同じ質問をされた後、電話の男性は「お留守なんですか」と聞いてきたので、私は頷きました。それでも電話の声はまた「お留守ですか」と聞いてきます。ちゃんと答えたのに・・・と思いながら、私はさっきより大きく首を縦に振りました。電話の男性はついに諦めて「また、かけます」と言って電話を切ってしまいました。そこでようやく気づきました。電話では顔が見えないんだ、いくら大きく頷いても相手には伝わらないんだ、ということに。今では信じられない話ですが、そのくらい電話は当時の私にとって未知の世界のものでした。

今や、電話はスマホに代わり、親が赤ん坊をあやすかわりに動画を見せたりすることも珍しくありません。そうした環境が子どもにどんな影響を与えるのか私にはわかりません。様々な悪影響も懸念されているところです。

 でも、この前とても興味深い文章に出会いました。「心理学から考える「現代の」いじめ問題」というタイトルの小論です。その中に、今から40年以上前の1979年に読売新聞社婦人部に書かれた記事から次のような文が引用されていました。

「いまの子どもたちにとって、テレビと同様、電話も物心ついたときからのおなじみ。足にたよらず、電話にたよる行動形態が身についた“電話っ子”なのだ」1)

 筆者は「この文章の「電話」を「スマホ」に入れ替えると、そのまま現代の状況が書かれているかのようである」と述べています。「足にたよらず」という表現から、電話ばかりかけている子どもを否定的に評価している様子が伺えます。

 かつて、新入社員が「今日はデートですから」と言って残業を断ることが話題になりました。上の世代から、無責任だとかやる気がないとされました。でも、今では滅私奉公的な働き方に社会は否定的になり、自分の時間を大切にすることは人生を豊かにすると肯定的に捉えられるようになりました。終身雇用制が崩れ、懸命に会社のために尽くしてきた人がリストラの憂き目にあう時代を経て、社会全体の仕事に対するまなざしが変わってきたのです。

 そもそも「問題」というのは、それを「問題」と捉える人によって「問題」になるわけです。人は分かりにくいものに出会うと、それを「問題」と捉える傾向があります。「最近の若い奴は・・・」という物言いはその最たるものでしょう。若者が「わかりにくい」と感じられるとき、上の世代の人は自分たちの価値観を脅かされる不安を感じます。その不安から身を守るためには、「わからない」相手を否定するのが最も手っ取り早いわけです。

 私が校長だったとき「今年の新任は、当たり前のことさえもできない」「やる気があるのかどうかも怪しい」というベテラン教師からの苦情を何度も聞いてきました。そういうとき私は、何ができていないのかを具体的に確認し、新任の先生に指導してきました。でも、最後に必ずこう言うことにしていました。「これからの学校を背負っていくのはあなたのような若い世代です。おかしいと思ったことや疑問に思ったことがあれば必ず言ってください。経験を積んだ人の言うことがいつも正しいとは限りません。」

 世の中が変わり、価値観も多様化している中にあって、若い先生の感覚は宝です。膠着した学校の在り方を変えるには、今の社会から最も影響を受けている若い人の感覚を積極的に受け入れる姿勢が必要です。そういう新陳代謝を当たり前にしなければ、学校はいつか世間から孤立してしまいます。

 自分の足を使わないと危惧された「電話っ子」は、今50歳を越えています。その世代がいま「スマホっ子」を批判しているというのは、何とも滑稽な話です。(作品No.132RB)

1)小寺朋子「心理学から考える「現代の」いじめ問題」竹田敏彦監修・編(2020)『いじめはなぜなくならないのか』ナカニシヤ出版、p47

本屋でないとできないこと

私は本屋に行くのが好きです。理由は二つ。一つは、世の中が今何に注目しているのかを感じるため。専門書を中心に置いている書店ではなく、幅広いジャンルをそろえている本屋に行き、タイトルだけを眺めます。これだけで、結構世の中が今どっちに向かっているかがわかったりします。世の中の動きを感じることができます。

もう一つの理由は、自分の興味がどこにあるのかを確認するため。「この本がほしい」と思っているときはインターンネットで買いますが、本屋に足を運ぶときは、ほしい本があるときとは限ません。数多い本の背表紙(タイトル)を順に眺めているとなぜか目に留まる本に出会います。自分に必要なことを教えてくれたり、そのとき考えていることにヒントを与えてくれたりすることもあります。

インターネットではなかなかこうはいきません。自分の興味のあるものだけを検索をしていると、ご親切なことに「あなたにお勧めの本」などと勝手にコーナーができていたりします。そういうのを見ると天邪鬼の私は、逆に本屋に行きたくなります。私はそれだけじゃないという軽い反発もあるからかもしれません。

ネット販売は、検索して注文までほんの数分で完了することができます(しかも安かったりする)。そして、早ければ翌日には届く。こうなれば、本屋に行く必要はない。でも、そこにはあまり「偶然」は存在しません。偶然に出会った本が、自分の考え方や生き方に決定的な影響を与える「必然」に変わることはあまり期待できないと思います。

大学に入学したばかりのとき、帰省のため大学のある山梨から東京に出たとき、以前から興味のあった「八重洲ブックセンター」に立ち寄りました。「冷やかし」程度の気持ちでした。実際にそこにいた時間も30分足らず。この書店は8階建てのビルすべてが本で埋め尽くされています。開店初年度(1978年)の入店者数は約1000万人、売れた本は約500万冊であったと言われています。今でも在庫数120万冊を誇ります。それだけ膨大な数の本の中から、私は本当に「偶然」に一冊の本(写真集)に出会いました。その本によって私は教師になろうと決めました。まさに運命的な出会いです。それが『写真集・教育の再生をもとめて 学ぶこと変わること』(林竹二、1978年、初版、筑摩書房、湊川高校授業 カメラ:小野成志 秋山宏行 西川範之)。神戸湊川高校で大学教授の林氏が、定時制に通う生徒に対してソクラテスやプラトンなどの話を交えて「人間とは何か」という最も哲学的な授業を展開した様子が経時的に写真に収められていました。そこには最初まったく興味を示さなかった生徒が授業が進むにつれて表情が変わり、頬杖をついていた手を外し、最後は食い入るように前を向く姿が示されていたのです。私は、その場で動けなくなるくらいの大きな衝撃を受けました。授業というのはこんなにも人を変える力があるんだ、と。

当時の湊川高校の教員、西田秀秋氏は「もうアカンかなあ」と諦めていた生徒が、林先生の授業を契機に「まるごと人が変わる」事実を目の当たりにし、「人となるために如何にせねばならないか」を「学問で得たものを精緻に練りあげ、無駄の一切をはぶいて(心の琴線に)迫る授業」から授業の力を実感し、日々の授業の改善に挑んだと言います

このままだと書店はどんどん減っていくでしょう。ネット販売を利用していながら言うのもおかしな話ですが、どうか、本屋さんには、頑張ってほしいと願うばかりです。

※日本教育学会第79回大会 The 79th Annual Conference of Japanese Educational Research Associationラウンドテーブル「林竹二の求めた「教育の再生」―兵庫県立湊川高校での「自己の再造」―企画者:吉村 敏之(宮城教育大学)司会者:吉村 敏之(宮城教育大学)報告者:松本 匡平(ヴィアトール学園洛星中学校高等学校) 報告者:吉村 敏之(宮城教育大学)」2020.8.24~28 引用部分は、文意を損なわない程度に修正を加えた。

(作品No.25HB)

「ね」と「か」

コンビニで煙草を買う。レジの後ろにあるたばこには、番号が付されていて「〇番の煙草をください」と言うと、その番号のところから煙草をとってくれます。そこまでは、何の違和感もありません。ところが店員の中にはこういう人がいます。「これでよろしいですね」。語尾が「ね」なのです。この「ね」は、相手に確認を求める「ね」です。文法的に間違っているわけではありません。でも、何か違和感があります。どこか「上から目線」な感じがします。それは、本当に間違いないですよね、あなたがそう言ったんだから「ね」。

たいしたことではないとは思うから、文句も言わず「はい」と答えてその煙草をもらいますが、「これでよろしいですか」と語尾を「か」にしてもらうと気分は全く違うのにと思います。それは、同じ確認でも疑問の形で聞かれるだけで、こちらの意見を聞こうと言う姿勢が伝わってくるからです。この場合の「ね」は、答えを強要される圧迫感があります。たかだかひらがな一文字のことですが、相手が抱くイメージは大きく変わります。(店員の方は、「ね」を使うことで丁寧に話しているつもりなのだとは思いますが・・・)

この「ね」は、相手のミスや言い間違えを指摘したり、その間違いを攻撃したりするときにも使われます。「あなたは前にこう言いましたよね。あれはウソだったんですか」というときの「ね」。(ただし、「ね」は使い方によってとても温かい響きを持ちます。「よくがんばったね」の「ね」、「元気でね」の「ね」など)

かく言う私も教諭時代,、なかなか約束を守れない子どもを前にして、つい「何度言ったらわかるんだ」と怒気を込めて叱ってしまったことが何度もあります。そんなとき子どもは、こちらの怒りの前に完全に萎縮し、何も言えなくなって固まっていました。卒業して何年も経ってから「実はあのときちゃんとした理由があったんです」と、その子から聞かされたことも数知れず・・・。情けない話です。

他に相手に不快な感じを持たせてしまう例として。電話対応での「うん」があります。相手が親しい人ならいいですが、そうでなければかなり「ぞんざい」な言い方に聞こえます。まさに目線が「上から」です。以前、勤務していた学校で苦情の電話に対しても「うん」を使う人がいました。これは、冒頭の「ね」よりはるかに罪が重い。「はい」と相槌を打てば相手は何とも思わないのに「うん、うん」と言えば、相手は「何て偉そうな対応をするんだ」と逆上することになりかねません。こういう対応をする人に注意をしたら「癖ですから仕方ないです」と言われたことがありました。その時点でアウトです。自分の癖なら相手が不快に思おうと関係ないという、その姿勢が相手を怒らせるのです。「ね」も「うん」も程度こそ違え相手に対して「高圧的」であるという意味では同じです。

今、学校には子どもたちに「寄り添う」姿勢が求められています。社会の多様化が進み、これまで拠り所となっていた規範(当たり前と思われていたこと)が崩れていく中、多くの子どもたちが何を拠り所にすればいいのかわからなくて悩んでいます。彼らに残された唯一の拠り所は自分に寄り添ってくれる誰かです。

「超」がつくほど忙しくなった学校で、子どもたち一人ひとりに「寄り添う」のは簡単なことではありません。でも、語尾を一文字変えるくらいなら、ほんの一瞬です。こうした「一瞬」に込められた教師の思いは、子どもたちに「寄り添っているよ」というメッセージとして必ず伝わります。それが子どもたちの「安心感」につながり、ひいてはいじめなどの問題発生に歯止めをかける力にもなると思うのです。(作品No.12HB)

「折り合い」

野球界で「怪物」というと松坂大輔氏ですが、昔、私の住む近隣にもかなりの怪物がいました。

その「怪物」に出会ったのは20年以上前の県大会新人戦の3回戦。私はS中学校の顧問でした。1回戦で4番の出会い頭の本塁打で1-0で辛勝。2回戦は、それまでノーヒットの子がサヨナラヒット。勢いに乗って3回戦に臨みました。勝てばベスト8。地区大会から失点0で勝ち上がっていたので、ワンチャンスさえものにすれば、勝算は十分にあると思っていました。そこに「怪物」が現れたのです。その怪物の名はK。私は投球練習を見て「なんだこいつは」と思いました。普通、中学生の投げるボールは手から離れる瞬間に、どのくらいの高さにくるかくらいはベンチからみていても見当がつくつくものです。ところが、「これはワンバウンドになる」と思う球が、低めでグイっと伸びてストライクゾーンに入ってくるのです。「これは打てん」と思いました。何度かセーフティーバントを試みましたが、守備も抜群。絶妙のバントもあっさりアウト。そのうち、無失点だったエースが失策絡みで一挙4失点。最終回二者連続二塁打で何とか一点を返すのがやっとでした(よく打ってくれた)。

そのK選手、県内のH高校を経て、ある年高校生ドラフト1巡めの指名でプロに入団。2年後に初先発初完封を記録。その後故障に苦しみ、思うように勝ち星を重ねることができませんでしたが、11年もの長い間プロに在籍していたのはすごいことです。

K選手もそうですが、どんなにすごい素質を持っていても、あるいはイチローのようにストイックに努力を続けられる人でも、どこかで「折り合い」をつけなければならないときがきます。つまり、方向転換する(引退するなど)日が必ずくるのです。私たちは、子どもたちに夢を持てと言い、君たちには無限の可能性があるとも言います。それはウソでも間違いでもありません。でも、時にはこの「折り合い」についても触れてやるべきなんじゃないかと思うのです。プロを夢見る野球少年は全国で何万といるでしょうが、夢が叶うのはほんの一握りです。そのほとんどが、どこかで方向転換を余儀なくされます。でも、その方向転換を「折り合い」とするか「諦め」とするかでは大きく違います。「折り合い」は「意見の違いのある場合など、互いに譲り合っておだやかに解決すること」で「諦め」は「仕方がないと思い切ること」(ともに精選版日本国語大辞典Weblio辞書より重引)。「折り合い」は妥協という意味でも使われますが、それだけでなく、その後どう生きるかという葛藤やそこから生まれる今後の見通しを含んでいます。何よりもそこには自分にしかできない「納得」が含まれています。それが次への一歩につながるのです。

私は夢を持って頑張っている子どもたちに、いつか諦めるときがくるという話をしろと言っているわけではありません。でも、悩んだり迷ったりしている子に「折り合い」のつけ方を一緒に探そうと言うことはできると思います。「折り合い」には納得が含まれますが「諦め」にはすべてを否定しかねない怖さを感じます。

夢や目標を持てない、得意なこともない、そんな自分を弱いと感じ、自らを全人格的に否定してしまう。そのために自己肯定感が持てない若者が増えているといいます。おそらくそれは、ありのままの自分を受け容れられず、いつまでも自分の心に「折り合い」が付けられないために、次の一歩が出なくなっているからではないかと思うのです。

(作品No.20HB)