「名言集」の名言

書店に行けば名言集の類いの本は山ほどあります。ネットを検索したらもっと膨大な数の名言が検索できます。話のネタや通信のネタに使えるものがあればと思ってよく利用しますし、本もそこそこ買いました。でも、いわゆる「名言集」というのは、意外と使いにくいものです。例えば、100の名言が掲載されている本で「これはいい」と思えるのは数個あれば良い方です。中には「買うんじゃなかった」というものもあります。最近では、この手の本を買うときには、ぱらぱらと頁をめくって一つでも「これは」と思うものがあるかどうかを確認するようにしています。一冊に一つでも「これはいい」と思える言葉があれば買った価値はあると思うからです。自分にとってしっくりくる言葉でないと人には言えないし、自分がなるほどと思わないのに人に伝えることはできません。

私にとって最も効果的なのは、自分の記憶の中で「そういえばあんなこと言っている人がいたなあ」というおぼろげな記憶からキーワードを探し、ネット検索して具体的な人名や正確な言葉、出版元等を調べるというやり方です。そうやって選んだ言葉は、結構しっくりきます。

ネットは膨大な量の情報で溢れています。暇つぶしに見るときは良いですが、そうでないときは、目的を持っていないと情報の波の中で溺れそうになります。当たり前のことですが、私の中で長い間記憶に残っているということは、それだけ、自分にとって意味のある言葉だということです。名言集のコピペは所詮借り物でしかないわけです。

それでも時には、名言集やネットの中にも「これはいい」という言葉を見つけることがあります。でもよく考えると、その言葉はもともあった自分の考え方を後押ししてくれるものだったり、記憶に残った言葉と結びつけられたりするものです。結局、自分の記憶や経験(読書を含む)、または考え方と結びついて納得できる言葉だからしっくりくるんだと思います。しっくりきていないのに伝えるのはなんだか嘘をついているようで気持ち悪い。(と言いながら、何となくネットを見ているときに、「あっ、そういえば」と気づくこともありますから、なんとなく見ることがまったく無駄かというと、そうとは言い切れないですが。)

そして、全く自分の考えと違う言葉に出会ったときは、逆にその中身をできるだけ詳しく確認したくなります。もしかしたら、真逆の考えが新しい発見(経験)を生み出してくれるかもしれないと思うから。(作品No.22HB)

「弱い者」について

ある学校のことです。その学校の生徒が知的障害のある人をからかったということが、校長の耳に入りました。校長は、たいそう憤慨し、すぐに全校生徒を集め訓話を行いました。そこで、その校長は怒気を強めてこう言いました。「弱いものをいじめるのは、人間として最低の行為だ。絶対に許せない。」と。

その校長は、自分の学校の生徒が非人間的な行為をしたことを非常に重大なことと捉えて、まさに真剣に生徒に訴えたわけです。この思い自体を否定することはできません。しかし、生徒の中には違和感を覚える者もいました。それは、校長が障害のある人を「弱い者」と断定したからです。

一般に「障害者問題」というとき、障害者に何か問題があるわけではありません。仮に、障害のある人が弱い立場に立たされているとしたら、それは、周囲の偏見や不十分な環境にこそ「問題」があるわけです。「弱い者」という言い方には、どこか「上から目線」を感じます。そうした考え方を掘り下げていけば、障害のある人に対して何かをして「あげる」、という意識が心の奥にあるのではないかと思います。この校長に悪気があったとは思いませんが、一昔前の古い価値観が染みついていたのではないかと思います。この人が若かったときは、「障害のある人=弱い人」という暗黙の了解があったのかもしれません。

どんな人間でも、得意なこともあれば、苦手なこともあります。極端なことを言えば、100mを10秒以下のタイムで走るアスリートに比べれば、私などはカメのようなものです。それを誰も障害とは言いません。また、私は最近、歳のせいで細かい字がよく見えなくなってきましたが、それも障害と言われることはありません。でも、視力が2.0の人に比べれば、見え方が制限されています。私よりもっと視力の弱い人は、眼鏡をかけますし、腰が悪い人はコルセットを巻いたりして自分のできない部分を補おうとします。歩くのが困難な人が車いすを使うのも同じことです。部分的に弱い面をもっていることはあるでしょうし、弱っている人はいるでしょう。でもそれは、現時点でできないことがある、あるいはできなくなった人がいるというだけなのです。そもそも、「弱い」という言葉はあくまでも相対的にしか使えないはずです。

また、弱い面を持っていることを「良くないこと」と決めつける姿勢にも違和感が残ります。自分の「弱さ」を自覚することで、他者に優しくなれることはよくあることです。

 体だけではなく、心も同じです。「昔ならこのくらいのことで弱音を吐く生徒はいなかった」と何万回ぼやいても、ほとんど意味はありません。目の前の生徒がそうであると思うなら、その子ができることを少しでも増やせるように支えるしかない。「弱音」を吐く子どもをいったん受け入れたうえで、かけがえのない自分の「良さ」に気づくようにするにはどうしたらいいかを考えていくしかないのです。決して簡単なことだとは思いませんが、少なくとも私たちがその方向を見ていなければ、くじけそうになっている生徒に寄り添うことはできません。

 偉そうに言っている私自身、これまで多くの生徒を否定してきました。生徒にためにいつも十分に寄り添ってきたかと問われたら「NO」と言うしかありません。でも、そういう経験を思い起こすたび私に沸き起こるのは、取り返しのつかない「悔い」ばかりです。誰もが「弱い」面を持っている、頭では十分わかっていたはずなんですが・・・。(作品No.30HB)

働き方改革で大切になること

ある県で、令和5年度採用分の教員採用試験の倍率が、ついに1.0倍となりました。事態は本当に深刻です。最大の原因は、長すぎる教員の勤務時間にあります。働き方改革は、すでに現職教員の意識改革でどうにかなる段階ではありません。思い切った業務削減の方向で考え直さなければ、近いうちに学校は立ち行かなくなるでしょう。文科省は土日の部活動を外部委託する方針を打ち出していますし、学校への留守番電話導入もかなり広がってきました。しかし、今後、根本的な改革として給特法の改正や勤務契約の明確化などが急務であると思います。

そうした状況にあって、私たち現職の教員にとって、今ここで必要なこととはどんなことでしょうか。今までのやり方を見直し、できるだけ無駄のない仕事の仕方を工夫することも大切です。行事の精選も必要です。また、同じ仕事をするにしても必要以上にこだわりすぎないことも必要かもしれません。また、積極的に現在の勤務状況のおかしさについて主張することも大切です。現場が黙っていたら、教員採用試験の倍率低下はさらに深刻なものになるでしょう。

でも、今一番やらなければいけないのは授業力の向上だと、私は思います。

「何で?」と思われるかもしれませんが、近い将来、働き方改革の成果によって仕事量が減ったとき、私たちに問われるのは「授業で生徒を惹きつける力」であり、「確実に学力を身に付けさせる指導力」となるでしょう。これまで部活動は(その経営がうまくいけば)、授業や学級経営に大きなプラス効果を生み出してきました。それは、部活動の顧問と部員との信頼関係が他の学校生活にも大きな影響を与えてきたからです。また、留番電話導入などによって放課後の保護者対応が減るかもしれませんが、保護者や生徒の視線は、より授業に向けられることになると思います。私たちの本務は授業ですから、当たり前と言えば当たり前なのですが、これからは今まで以上に、高い授業力が求められるのは間違いないと思います。

ブラックとまで言われている教員の職場を改善するのは急務です。若い人たちが一人でも多く教職に就きたいと思えるようにしないと、大変なことになります。でも、過渡期に働く教師が頭に置いておくべきことは、今までよりも確実に生徒や保護者との接点は少なくなるということです。それをどうやって埋めていくかを、改革が進んでいない今だからこそ考えておかなければいけないと思います。今でさえ、学校に対して理不尽な要求をしてくる保護者が後を絶たない状況です。今後、部活を外へ出し、行事を減らしたり外部委託したりするなかで、これまで以上に不平不満を言ってくる保護者は増えるでしょう。少なくとも改革がある程度進み、定着するまでの間は保護者の不安も大きくなります。その不安がクレームとして学校に寄せられることになることは容易に想像できます。今は改革が遅々として進んでいないように見えますが、恐らく今後どこかの時点で加速がついてくるときがきます。そうしたときに私たちに残された武器は、確かな授業実践と子どもや親と真摯に寄り添う姿勢だけとなります。授業は学力向上を目的とすると同時に、今まで以上に生徒と接する貴重な時間となるのは必定です。子どもや親との限られた接点ともなるその時間を、いかに濃密なものにできるか、その力を今からつけておくことが、最も大切なことだと思います。

忙しすぎて本務である授業研究をする暇すらないような今の状況は、すぐにでも改善しないといけません。それは、制度に関わる問題を多く含んでいますから、文科省をはじめとする行政の仕事です。甘いかもしれませんが、いくらなんでも教職志望者がこれだけ激減しているのに、国が何も手を打たないはずはないと思います。だからこそ、改革が一通り進んだ後のことを今から考えておく必要があると思うのです。(作品No.45HB)

エポケー

クリティカルシンキングというのを聞いたことがある人も多いと思います。「本当にそうか?」「他にはないのか?」など、今まで持っていなかった視点で対象を見つめることです。これは、対象をありのままに見ようとするときには、なくてはならない視点です。今まで当たり前にやってきたからそれでいいと思うと、新しいアイデアが出てこないばかりでなく、今までやってきたことの本質的な意義すら見落としてしまうことになりかねません。

クリティカルは「批判的」と訳されることが多いのですが、これは若干誤解を生みやすい。正確に言うと単なる批判ではなく「建設的な批判」という意味であり、どちらかというと「吟味」のほうが意味としてはしっくりくると思います。目の前の対象が本当に必要なのかどうかと「吟味」するために、「これでいいのか」という目で見てみましょうということです。そして、その視点を持つためには、自分の価値観を一旦「保留」する必要があります。この「保留」を現象学ではエポケー(判断停止、判断保留)と言います。

例えば、インドの人はカレーを手で食べることがありますが、これを日本人がはじめて見れば、違和感を抱く人もいるでしょう。それは、日本で生まれ育ってきた私たちには素手でごはんを食べるという習慣がなく、むしろ行儀が悪いこととして周囲の大人から躾けられてきたからです。でも、手でご飯を食べているインドの人を前にして「なんという非常識な」と思ってしまったら、インドの文化やそこに生きてきた人々を理解することはできません。私たちは、日本の常識や文化は一旦「保留」して、そこにどんな意味が込められているかを考えてこそ相手を理解することができます。学校の常識や教師としての「当たり前」も時には一旦「保留」し、その意義を考えることも必要だと思います。

 さて、学校現場を支える理論は教育学だという常識もかなり前から変わっています。例えば、スクール・カウンセラーは、導入当時「生徒を甘やかす」として学校現場の抵抗感が強くありましたが、今では常識、というより学校教育は心理学なしでは語れません。また、有名な「いじめの四層構造」を解明した森田洋司氏は、専門が教育社会学です。教育学が多くの国民や教員の納得にとって疑いようのないものと捉えられていたときは、社会全体にその価値を支える「まなざし」(学校のことは先生に任せておけばいいなど)があり、他の学問領域からすればあまり強い関心が寄せられてこなかった面もあるのでしょう。逆に、他分野からの関心が高まり、教育を研究対象とする学問分野が広がったのは、学校教育の「吟味」が必要だとする見方(クリティカルな視点)が増えたからでしょう。

インターネットやSNSなどがどんなに発達しても、AIがどんなに進化しても、人が大切にしなければならないことは変わらないのかもしれません。でも、かつてグーテンブルグが活版印刷を考案した(諸説ありますが)とき、社会は大きく変わったはずです。電話が発明されたときもそうでしょう。何か便利なものが発明されるたびに、それまで信じられなかったようなことが当たり前になり、それによって人びとの考え方や価値観も大きく変わったと考えるのが自然だと思います。何が起こっても教育の本質は変わらない、だから、教師も変わる必要はない、私にはそう言い切る自信はありません。(作品No.24HB)

参考:1960年、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが『<子供>の誕生』という本で中世ヨーロッパには教育という概念も子供時代という概念もなく7〜8歳になれば、徒弟修業に出され大人と同等に扱われ飲酒も恋愛も自由とされたと述べています。ヨーロッパにおいて子供という概念はもともとあったものではなく、学校教育制度が生み出したものであることを示したのです。これも、クリティカルに物事をみる視点から生まれたのだと思います。

「子どもを真ん中に」-子ども家庭庁設置に期待すること-

ちょっとびっくりしました。昨日、岸田総理が答弁で「子どもを真ん中に・・・」という言葉を使ったのをテレビで見たからです。このブログは「こどまん通信」。「こどまん」は、子どもを真ん中に、の略です。光栄だと感じればいいのか微妙なところですが。

私の勉強不足だとは思うのですが、どうも「子ども家庭庁」の中身が今一つよくわかりません。各省に分かれていたものを一つに総合して司令塔を一元化することによって、施策の実行が迅速に行われることにつなげようという主旨なのかとは思うのですが、スッキリしない点もあります。

例えば、幼稚園はこれまでどおり文科省の管轄に残るそうです。幼保の連携を考えれば思い切ってどちらかで一つにする方がいいような気がします。

でも、期待することもあります。それは児童虐待への対応です。児童虐待は、保護者の意識や倫理の問題だとされることが多いのですが、じつはそうとは言い切れません。児童精神科医で臨床心理学者の滝川一廣氏は、虐待の問題について次のように述べています。

「たまたま幸運に恵まれた我々が、恵まれなかった親たちの失敗を一方的に「虐待」と名づけて糾弾するのは果たしてこころあることなのか」

「そもそも子育ての不調を相談すれば直ちに「虐待通告」をする(しなければならない)専門家のドアを困っている親たちが叩くだろうか。」

そして、滝川氏は生後最初の二年間に虐待死や虐待が集中していることをふまえ、「0歳~一歳の育児を社会がしっかりと護ることさえできれば、<虐待死>ひいては<虐待>は激減する」として「子どもを本当に護りたければ、何よりも「育児を護る」、すなわち「育児に取り組む親を護る」ことこそ真っ先にしなければならない」と主張しています。国は2000年「児童虐待の防止等に関する法律」を制定し通告の義務を明確化(このとき社会福祉法も改正された)、その後2020年4月に改正し、親の虐待行為を体罰とすることで歯止めをかけようとしてきました。いじめの定義を広いものに変更してきたのと同様に、虐待の早期発見を確実に行うために、問題を拾う「網」を広く細かくしてきたのです。それはそれで間違っているとは言えません。しかし、滝川氏の言うように、虐待は必ずしも親の無責任や倫理観の乏しさから生じるとは限りません。経済格差がすすみ、貧困家庭が増加していることを考えると、まず必要なのは福祉を充実させて本当に困っている親を支える制度を確立することでしょう。早期発見は重要ですが、根本の原因をなくす施策を展開しなければ通告数は増えても、本当に困っている人がその膨大な数の中に埋もれてしまうかもしれません。

また、通告を受ける専門機関(子ども家庭センターなど)もその通告数の多さゆえに十分な対応ができなくなります。実際、多くの専門機関はすでにパンク状態になっており、学校が早期に発見して通告しても「まずは市町の児童福祉に相談してください」など、いわゆる「門前払い」とせざるを得ないことが多くなりました。

こういう実態を考えたとき、今回の「子ども家庭庁」には、虐待を早期に発見するだけでなく福祉の面での十分な支援策を講じてほしいと思います。再び滝川氏の言葉を借りれば、「「児童虐待」という否定的概念とそれに基づく摘発型の対策」が「問題解決の足枷」になっている面は否定できません。また、福祉領域において「障害」の「害」を問題にする視点があるのなら、虐待の「虐」も表現を変えて「育児困難」や「子育て不安」として捉えることが必要だという滝川氏の見解は、実に的を射ていると思います。

「子どもを真ん中に」という言葉を首相が使ってくれたのはありがたいことです。だからこそ本当に子どもが真ん中に置かれる社会をつくるために、実態に即した施策を打ち出してほしと願ってやみません。(作品No.135RB)

(参考・引用文献)滝川一廣「基調論文<虐待死>をどう考えるか」『子ども虐待を考えるために知っておくべきこと』日本評論社こころの科学2020年10月1日発行、pp2-29)

名刺と肩書き

名刺にこだわる人は結構いるもので、名前や住所、職場と役職以外に地元の写真を入れたり、メッセージを入れたりする人もいます。インターネットが始まったころ、URLを入れるのがかっこいいと思っている人もいました。カラフルな名刺を好んで使う人もいます。確かに、そういう名刺は印象に残りやすいと思います。現役時代、名前と学校名、所在地や電話番号しか書いてない私とは雲泥の差です。

 そんななか、究極の名刺に出会いました。名前しか書かれていないのです。それをもらったとき、「ほー、こういうパターンもあるのか」と思いました。その人曰く、「私は私という人間そのもので勝負したいと思っています。肩書で私という人間を判断してほしくない」というのが「名前のみ名刺」を作った理由だと自信たっぷりに仰いました。世の中にはいろんな人がいるものだと思いました。相手の肩書によって物の言い方や態度を変えるのはよくないというのも一理なくはない。でも、かなりの違和感がありました。

 それから何年か経って、ある校長先生からこんな話を聞きました。私が県教委に出るときの所属校の校長だった人です。「指導主事になったら、名刺は必ず多めに作っておきなさい。中でも役職は非常に大切です。なかには、名前だけの名刺を作って悦に入っている人がいるが、自分の身を明かさないことは、相手に対してこれほど失礼なことはないし、実に無責任な態度です。指導主事の名刺を渡すということは、県の職員として責任をもって対応しますという意思表示でもあるのです。」なるほどと思いました。名前なしの名刺を受け取ったときの違和感の正体はこれだったのかと納得しました。

 また、その校長先生は指導主事になろうとする私へのアドバイスとして「当たり前のことですが、自分が作成した文書には必ず自分の名前を書くこと。上司の代わりに出す文書であっても最後に担当者の自分の名前を書くこと」とも言われました。

 つまり、自分の名前を出すということは、責任の所在を明確にするということです。ごくまれにですが、学校だよりに〇〇学校長とだけ書いて自分の名前が書かれていないものを見かけます。インターネット(ホームページ)に上げるときに消すというのならまだわかりますが、保護者や地域に紙で配布する文書に名前を書かないのはどうかと思います。書かれたものというのは、口頭と違って後に残ります。そこに何か問題があれば、書いた者の責任が問われます。配布したものが確たる証拠になるからです。だから、できれば誰が書いたかわからなくしておいた方がいいという下心がはたらくのです。その気持ちがまったくわからないわけではないですが、名前を明記することによって書くときに細心の注意を払おうとする姿勢につながるのも事実です(その割には私の学校だよりはミスが多くて何度も出し直しをしましたが・・・)。

 肩書きを書かない名刺を作って相手に渡す人は、結局は肩書きにこだわっているように思うのです。最初隠しておいて、後で「えっ、あの人そんなすごい人だったの?」と言われることを期待しているような気がするのですが・・・。考えすぎでしょうか。

「努力」の扱い方

「努力することは大切だ」というのは、誰もが認めることでしょう。私も学級担任や部活動の顧問として何度も子どもたちに訴えてきました。そんなとき「努力は必ず報われる」という言葉をセットにしていました。そうしないと説得力がないからです。でも、「努力」と「報い」をセットで語ることにはずっと違和感がありました。「本当に努力は必ず報われるのか」というためらいです。

 ちょっと古いデータではありますが、2007年にベネッセ教育総合研究所が行った「学習基本調査」によると「日本は、努力すれば報われる社会だと思うか」という問いに、「そう思う」と答えたのは、小学生68.5%、中学生54.3%、高校生45.4%、大学生では42.8%だったそうです。年齢が上がるについて肯定的な意見が減少しているのは、少しずつ、現実が見えてくるということでしょうか。それにしても、中学生の半分近くが努力は報われないかもしれないと考えているというのは、無視できないデータです。

これは、私の推論にすぎませんが、こうした傾向は「努力は報われる」というときの「報い」の意味を「目に見える結果」に求めすぎてきたからではないかと思います。

 高度経済成長の真只中であれば、今、努力すれば将来必ず自分にとって素晴らしい人生が待っていると信じることができました。だから、大人たちの「今ちゃんと勉強しておかないと将来困ったことになるよ」という言葉もそれなりに現実感を持って伝わったのだと思います。しかし、バブルの崩壊で経済がほとんど成長しなくなり、滅私奉公の精神で会社に忠誠を尽くしてきた人がリストラの憂き目にあう悲劇があちこちで起きました。終身雇用というゴール(結果)を信じて真面目に勤めてきた人たちにとっては、努力や勤勉を否定された気がしたでしょう。そう考えれば、人びとが先のことよりも「今」を充実させたいと考えるようになったのはごく自然な流れといえます。少し前に「リア充」という言葉が若者を中心に流行ったのもそうした生き方を肯定するものだったのだと思います。若者はいつの時代でも時代の空気を最も敏感に受け取って生きています。それは、職業人としてだけでなく、個人としても豊かな人生を築いていきたいという前向きな感情でもあります。こうした生き方に対して「目先のことばかり考えてどうするんだ」と彼らに説教しても、おそらく何も伝わらないでしょう。 

私は、努力することの大切さを否定したいのではありません。むしろ、今まで以上になぜ努力は必要なのかを子どもたちに訴えていく必要があると考えています。ただ、これまでのように「目に見えるご褒美のため」として意味づけるのではなく、「今」の自分を充実させるために必要なのだと訴えるべきだと思います。

 

オリンピックに3大会連続出場を果たした、あるトップアスリートはこう言っています。

「たとえ結果が思うように出なくても、努力は無駄だったと思ってはいけない。何かに向かっていたその日々を君は確かに輝いて生きていたではないか。それが報酬(ごほうび)だと思わないか。」

 私たちは、部活動などで大きな大会に出場したり、好成績を上げたりした生徒やその部に対して、あまり深く考えることなく「よくがんばったね」と言います。でも同時に、そうした「目に見える結果」が出せなかった子どもたちに、どういう言葉が用意できるかを考えておかなければいけません。それを準備した上で、「結果」を残した子どもたちに賞賛の言葉をかけることが大切だと思います。努力は結果を伴うから意義があるわけではないのです。

「目に見える結果」を「報酬」とする考え方は、ときに子どもたちを追い込んでしまいます。経済的格差や貧困が問題視され、ヤングケアラーと呼ばれる子どもたちが増えています。努力できない環境のなかで生きざるを得ない子が増えているのです。しかも、ある研究によれば、皮肉にもそういう子どもたちの生活満足度が上がっているといいます1)。それは「結果が出ないのは自分の努力が足りないからだ」と受け入れて、報われることを端から考えてもみないからだというのです。そうした自己責任としての努力観を子どもたちに内面化させたのは、他ならぬ私たち大人です。私たちは「努力しなければ結果は得られないよ」という、どこか否定的なイメージを伴う言い方から、「努力は自分の人生を豊かにしますよ」という前向きな言い方に変えていく必要があると思います。

(作品No.134RB)

1)土井隆義(2021)『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』岩波ブックレット(初版は2019)

不易と流行

名探偵のコナン君の決め言葉は「真実はいつもひとつ」。劇場版ではオープニングの最後にコナン君が登場し、この台詞を言うのが恒例。かっこいい言葉です。でも、ひねくれた性格の私は、この台詞を聞くたびに思うのです。本当に真実は一つなのかと。

 例えば、世界にはさまざまな宗教が存在します。日本では、八百万の神という言い方があり神はいたるところにいますが、神は唯一で絶対だとする宗教も多々あります。そうした宗教や国にとっては神の言葉は絶対的な真実(真理)です。その言葉を拠り所にして、自分たちの考え方が正しいかどうかを判断したり、行動に移したりしているわけです。信心の程度には個人差があるにせよ、迷ったときや切羽詰まったときには頼もしい存在となるでしょう。でも、考えてみればおかしな話です。本来なら唯一絶対の神は一人(?)であるはずです。複数いた時点ですでに「唯一絶対」ではないわけです。そうすると、唯一絶対の神を信じれば信じるほど、他の神を否定せざるを得ないことになります。時にはそれがテロや戦争という大惨事につながってしまう危険性をも孕んでいるのです。

 こうした「特定の問題や現実の事象をただ一つの原理で説明しようとする考え方(精選版 日本国語大辞典デジタル)」を「一元論」と言うそうです。一元論的なものの考え方は、正しいとする内容が明確でわかりやすい半面、他を受け入れない怖さもあるのです。

 今回テーマは「不易と流行」。教育の世界では手垢がつくほどよく使われる言葉です。一般的に「不易」はどんなに時代が変わっても不変なもので「真実」に近い意味で使われます。それに対して「流行」は、そのときどきの流行りであり、いつか廃れるものというイメージがあります。これまで教育の世界ではどちらかというと不易の方が重要視され、流行は軽んじられる傾向にありました。どんなに世の中が変わっても変わらないものがある、それを伝えるのが教育の神髄だと。でも、それももしかしたら「一元論的」なのかもしれません。

 もともと不易と流行という言葉は、松尾芭蕉の俳諧論書である『去来抄』で使われたのが最初だと言われています。その一節には、「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」とあります。解釈にはいろいろあるようですが、「不易と流行を同じ位置に置くからこそ、確かな基盤に基づいた新しい芸術が生まれる」という意味です。私なりの解釈をするなら新しいものを取り入れなければ不易は不易であり得ないということです。

 カナダのシンガーソングライター、ニール・ヤング(Neil Young)の言葉に「変わり続けるからこそ、変わらずに生きてきた」というのがあります。歌手の松任谷由実さんもよく使う言葉だそうです。進化という真実は、人が変わり続けたからこそ得られたのです。

 ちなみにコナン君の名誉のために申し上げておきますと、彼の言う「真実」は「客観的事実」という意味ではないかと思います。真犯人は誰で、どんなトリックを使ったかという「事実」は変えられない。その変わらない事実に至るために、おそらくコナン君は、事件のないときも常に新しい情報を収集し、不断に観察力や洞察力を進化させ続けているのだと思います。突き止めた「事実」を「解決しない事件はない」という真実につなげるために。

(作品No.15HAB)

きょろきょろする

今回は、県の教育委員会にいたときに上司や先輩から教えてもらったことの中から、学校現場でも役に立ちそうなものをいくつか紹介します。

1 最初はいつもきょろきょろしていなさい

 仕事に慣れていないうちは、絶えず周囲を見なさいという意味です。他の人が何をしているのかを視野に入れていないと、自分の課(学校なら学年など)の重要な課題を見落としてしまいます。慣れないうちはどうしても自分の仕事のことばかり気になります。でも組織の一員として力を出すためには、慣れていないときほど周りをきょろきょろと見て情報を集める努力が必要だということです。

 上司が自分以外の課員に話をしているときも耳だけは、その話に傾けておくようにも言われました。そのときは関係なくてもどこかで役に立つこともあります。ときどき、その上司が話の途中で突然「あなたはどう思う?」と意見を求めてくることがあります。そのときに「聞いていませんでした」ではだめだと言われました。所謂「アンテナを高くせよ」という意味です。それは、広く情報を集める効果を上げるだけでなく、自分の仕事に必要以上に「根を詰めない」方策でもあるのです。

2 仕事は7割で上に回せ(皿回しの理論)

 指導主事は一人でいくつもの仕事を任されます。多いときは大小合わせて10件くらいの仕事を抱えることもあります。そんなときに、一つ終わってから次の仕事へ移ろうなんて考えていると最後の方に回した仕事が進まず、気がつけば締切が過ぎていたということもあります。複数の仕事を抱えているときは、「皿回し」の要領で、どの皿(仕事)も少しずつ回していくのが効果的です。そうしておけば、どの仕事もある程度進んだ状態になり、大きなミスを防ぐことができます。また、違う仕事をすることで気分転換になり、効率があがることもよくあります。

一つの仕事に完璧を求めすぎると、行き詰まりやすくなります。例えば、研究授業のための指導案の出来具合は、7割くらいで止め、学年部の検討会に出せばいいのです。その方が、多くの意見を吸収しやすくなります。そして、結果的にその方が指導案作りの時間が少なくて済み、しかも良い授業ができます。特に、苦手な仕事ほど早い段階で先輩に相談したり、会議に提案した方が効率的でミスも減ります。

3 上の人に相談するときは、自分の案を3つ考えてから行く。

 これはかなり難しい。学校で言いえば10年くらいの経験があって初めてできることだと思います。「3つ」の内訳は以下の通り。一つは自分の一押しの案。二つ目が、一押しの案が通らなかったときの妥協案(ここまでは譲れるという腹案をもっておく)。三つ目は絶対にやりたくない(してはならないと思う)案。自分の一押しの案を実現しやすくするために、根拠となる資料を用意しておくとさらに効果があります。校長の性格や反応の予測ができるとさらにいいでしょう。なかには、敢えて不十分な案を持っていき、上司にそれを指摘させることで上司が気分よく自分の案を受け容れてくれるように事を運ぶ持っていく強者もいました(学校現場ではあまりお勧めできませんが)。

4 まず、ゴールを決め、そこから逆算して今日までのラフスケッチを描く。

 まず、その仕事をいつまでに仕上げないといけないのかというゴールを決めます。そして、仕上げるために必要なことをランダムに書き出します。その後、時系列にやることを並べます(私はよくエクセルを使って並び替えていました)。大雑把なもの(ラフスケッチ)で十分です。すると、それぞれにどのくらい時間がかけられるかが見えてきて、最初の取りかかりをいつにすべきかが見えてきます。逆にまず何をやろうかとスタートから考え始めると、自分でも進捗状況と締め切りのバランスが見えなくなって焦り、慌てた結果、大きなミスにつながることもあります。

(作品No.38HB)

心が不安定な子どもたち

 このコラムは以前書いた「高原の風景」の続編としてお読みください。

最近、「荒れた」学校が少なくなったと感じます。「高原の風景」にも書きましたが私が本校の教諭だったころは、服装違反はもちろん、あちこちで喧嘩していたし、窓ガラスの割れ方もひどいものでした。消火器を廊下に放出する者もいたし、ひどいときには中庭をバイクで走るという暴挙に出る「元気者」もいました。

そう考えると、今の生徒は実に素直でまじめです。授業中に抜け出す生徒もずいぶん減りました。同じような傾向は近隣の中学校でもみられるようですが、私が最後に勤務した中学校ではかつては結構な荒れ方をしていましたが、今は授業中の集中度はどこの学校にも負けないくらいになりました。反面、不登校や精神的に不安定になりやすい生徒が増えていると感じます。これも近隣の中学校に共通した傾向です。

 なぜ、「元気者」的な生徒が減り、心が不安定な生徒が増えたのでしょう。簡単に答えが出せる問題ではないですが、そこには「自己肯定感」が大きく影響しているように思います。社会学が専門の土井隆義氏は、次のように指摘しています。

「直感に根拠づけられた純粋な自分は、一貫性を保ち続けることが難しくなる。その時々の気分に応じて、自分の根拠も揺れ動くからである。だから彼らは、その不安定さを少しでも解消し、不確かで脆弱な自己の基盤を補強するために、身近な人びとからの絶えざる承認を必要とするようになる」

 簡単に言うと、かつては社会全体にある程度あった「これが正しい」という価値が薄まったために、自分の行動の根拠を自分の中に求めなければならなくなりました。でもその根拠は自分だけがそう思っているだけかもしれないので、非常に不安定で脆弱なものにならざるを得ません。だから絶えず「あなたは正しい」「あなたはよくやっている」と身近な誰かに言ってもらわないと不安でしょうがない、ということです。そうした承認を得るためには、周囲からできるだけ浮かないように絶えず空気を読み続けなければいけません。浮いてしまうと友だちからの承認が得られなくなり、さらに自信を失うことになります。土井氏の分析によれば、最も身近にいる友だちから承認を得られなかったり、教師から些細なことで注意されたりしただけで、まるで全人格を否定されたように感じる子が増えているのは、社会規範などの拠り所を失って子どもたち(若者)の自己肯定感が低下したからだとしています。

 逆に、校内暴力を続けていた生徒は、尾崎豊さんの「15の夜」の歌詞を借りるまでもなく教師を社会の体現者としてとらえ、社会への反発として行動していたとも考えられます。社会に確固たる価値観があるからこそ反発も可能となります。いわば、彼らの反発は彼らなりの正論と自信の証だったということもできます。

 かといって、価値観の多様化をいまさらもとに戻すことはできません。それに、価値観が多様化することによって、多くの自由が与えられ、すべての子どもが平等に扱われるべきだという考え方も広がりました。固められた価値観に苦しんでいた子にとっては希望でもあるでしょう。価値観の多様化は、社会全体が自由と優しさを求めた結果だとも言えるのです。

 こう考えてくると、私たちは目の前の生徒たちに対してどのように関わればよいのかが少しだけ見えてくるような気がします。拠り所がなくて不安でしょうがない生徒が増えたのなら、時間はかかっても、何度も何度も承認のメッセージをタイミングよく送り続けるしかないと思います。私たちが送った言葉がたとえ一つでも子どもたちの「拠り所」となることを信じて。(作品No.14HB)

※尾崎豊(1965年-1992年〉:日本のシンガーソングライター。青山学院高等部中退。1983年高校在学中にデビュー。10代のころ「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、「10代の教祖」などと呼ばれた。シングルデビュー曲「十五の夜」に「校舎の裏 煙草ふかして 見つかれば 逃げ場もない」という歌詞がある。