「先生はうちの子を見捨てるんですか」

初任で初めて担任した最初の学級懇談会でのことです。7月ころだったでしょうか。懇談時間が終わりに近づいてきたとき、ある保護者から質問が出ました。

保護者「このクラスに校則違反や服装違反の生徒はいるんですか」

私「いえ、そういう生徒は今のところいません」

保護者「そうですか・・・」

次の瞬間、別の保護者(母親)が唐突に声を挙げました。それは発言というより叫ぶような声でした。

「先生は、うちの息子が違反ズボンをはいているのを知っているはずです。あんなにはっきりした太いズボンなのに・・・。なんで、そんなこと言うんですか!」そして、大粒の涙を流しながらこう言ったのです。「先生は、うちの子を見捨てるんですか!」。

 実は、そのときすでに私のクラスは学級崩壊寸前でした。指示はまともに通らないし、取っ組み合いの喧嘩している生徒を止めても収めることさえできない状態でした。

 最初の保護者の質問を聞いたとき、違反していた一人の男子生徒の顔が浮かびました。しかし、正直に言えばそこから学級のひどい状態についての話題になったら収集がつかなくなると思い、思わず嘘をついてしまったのです。その頃の私はいっぱいいっぱいの状態でした。

 その後、クラスはまさに坂道を転げ落ちるように崩壊していきました。当たり前です。誠実さのない担任を生徒も保護者も信頼するはずはありません。

 3学期の最後の学年懇談会の後、学級ごとに保護者が集まったとき、私は学級を壊してしまったことを謝りました。そのとき、一人の保護者(母親)の方が「先生は、まだ若いんですから、これからまたがんばればいいじゃないですか。」と、集まった他の保護者の前で声をかけてくださいました。救われた思いがしました。

 学級がどんなにひどい状態であっても、日ごろから逃げずに向き合っていれば、こんなことにはならなかったはずです。

今思い出しても顔から火が出るくらい恥ずかしい話です。でも、この経験があってこそその後30年以上にわたって教員生活が続けられたのだと思います。最後に救いの手を差し伸べてくださった保護者の方とともに、叫ぶように訴えてくださった保護者の方にも心から感謝しています。(作品No.113RB)

こんなこともあります

S中学校に勤務していたときの話です。私は野球部の顧問でした。生徒も保護者もとても熱心で、厳しい練習をしてもクレームはほとんどありませんでした。逆に「先生、うちの子が練習後に帰ってきた姿を見たが、ユニホームがあんまり汚れてないじゃないですか。本当に練習したんですか。」といった「もっと頑張れ」的な声がほとんどでした。もともと野球が好きな私にはうれしい「クレーム」でした。

そんなある日の昼休みでした。キャプテンのTさんが私のところに来てこう言いました。

「部員の〇〇君が、先生のいないとき、たいした理由もなくときどき練習を休んでいます。注意しても聞きません。どうしたらいいですか?」

Tさんは、キャプテンとしてチームの雰囲気を壊すような行為は許せないと感じていたのでしょう。でも、うまく伝わらない。真剣な訴えでした。

以下、私とTさんとの会話です。

私「Tさんは、野球部になぜ入りましたか?」

T「僕は、野球が好きだから入りました」

私「そうか。じゃあ、あなたはときどき休むその子を、うらやしいと思ったことはありますか。そして、練習に参加して損をしたと思ったことはありますか?」

T「そんなこと思ったことはありません」

私「そうですよね。じゃあ、その子に言ってやってください。練習は楽しい。やれば必ずうまくなる。参加しないなんてもったいないぞって。」

Tさんの表情がパッと明るくなりました。そして、私の元から走るように去っていきました。きっと、少しでも早くその子に伝えたかったのだと思います。

こんなこともあるんです。だから教師はやめられない(辞めた私がいうのも変ですが)。

(作品No.117RB)

ICTと教師の正念場

吹奏楽の定期演奏会に行きました。コロナ禍での開催で不安もありましたが、開会前に舞台袖を通ったとき、袖で出番を待つ生徒のほどよい緊張感と、それをかもし出す素直さに触れてとても心地よく感じました。また、私の姿を見つけて口々に「校長先生、ありがとうございます。」と声をかけてくれました。とても爽やかな気持ちになりました。 

演奏会は終始温かい雰囲気に包まれていました。顧問の人柄もよく出ていて優しい空気が会場全体に広がりました。演奏がよかったのは当然ですが、マスクをして、いじめで自殺したある生徒(本校ではありませんが)が作詞した歌をステージ上で歌う生徒たちの姿にも感動しました。真心を込めて何かを伝えようとし、それが伝わる瞬間を経験することはこんなにも感動的なのです。これこそが学校の本当の魅力なのだと思いました。そして、何から何までコロナで中止にすることにも違和感を覚えました。生徒の命を守るためには仕方がないことも重々わかってはいますが、このままでは学校の「らしさ」が薄まっていくような気がしました。

 学校は変わらないといけない時期を迎えています。皮肉にもコロナ禍によって一人一台のタブレット普及が加速し、一年以上早まりました。これからの時代に「個」の学習や成長を支えるには欠かせない取り組みです。ただ、ICTは人間同士の相互のふれあいをどこまで保障できるのでしょうか。それは、そうした視点とある種の危機感を同時に持ってICTの導入を考えている大人がどれくらいいるかで決まるような気がします。

私は、昨年度(令和2年度)から2年間、市の情報化推進委員会に代表校長として参加しました。その第一回目の委員会で私は次のように話しました。

 「タブレットの活用の推進は、待ったなしのところまできています。でも、これが浸透するまでの間に、学校の存在意義をしっかりと考えておかなければいけないと思います。私たちは、この取組が学校教育の根幹に関わるものになるという意識を持たなければなりません。」

 ICTは一人一人の生徒の効率的な学力向上に大きく貢献するでしょう。また、進みゆく情報化社会の中で、たくましく生き抜く子どもたちを育てるためにも積極的に取り組まなければなりません。不登校の児童生徒が増えている中、そうした生徒への学力保障のためにも有効となるでしょう。また、「使いこなせない」ことも許されなくなります。しかし、同時に私たちは、あくまでも「個性」や「自分らしさ」が他者との相互作用によってはじめて成立するということや、生身の人間同士がかかわりあうことの重要性をどこまで地域や保護者に「学校にしかできない魅力」として訴えることができるかを考えておかなければいけません。この取組が、教師が教師の手で「登校しなくてもいい学校教育のシステム」を生み出す可能性もなくはないのです。それが本当に子どもたちにとって豊かな人生の礎となるのかどうかを真摯に考えなければいけません。私たち教師にとっての正念場はもうそこまできています。特に公立学校は、学校に通いたい、通わせたいと思わせる魅力が創り出せるだろうか。子どもたちの心のこもった演奏を聞きながらそんなことを考えていました。令和3年8月28日初稿、後日改

(作品No.118HB)

Y先生の「寄り添い方」

今でも月に1回、かかりつけ医に通っています。主治医のY先生は物腰がやわらかで、自然体で話を聞いてくださいます。相槌の打ち方も絶妙で、こちらの言うことをしっかりと受け止めてくださっているのがよく伝わってきます。私の話を途中で遮ることは絶対にありません。そして、私が話し終えたら、ほんの少しの間を取って(この間が実に心地いい)、ゆっくりと、そして静かに私の状況を診断してくださいます。診察時間は5分か10分のほんの短い時間ですが、とても気持ちが落ち着きます。

 Y先生は、診察室に患者を迎えるとき、必ず立って迎えてくださいます。そして、診察が終わって部屋を出るときも必ず立って見送ってくださいます。 

私は、過去にいろんな病院に行きましたが、立って迎え、立って送り出す医師に出会ったことがありません。多くの場合、病院の先生は最初から最後まで座ったままです。中には、診察室に入ったときに全くこちらを見ない人もいます。でも、Y先生はいつも変わらぬ対応です。もちろん他の患者さんにも同じように接しておられます。ほんのちょっとのことですが、これだけで患者側からすると自分は本当に大切にされているんだなあと実感できます。

 そういえば昔、ある先輩の先生に教えてもらいました。「職員室でプリント一つ配るのも、机の上に向きや位置を考えて置きなさい。直接手渡すときはできるだけ両手で渡しなさい。誰にでもできることです。」若いときは、「そんなこといちいちできませんよ」と心の中で思っていましたが、最近になってようやくその大切さがわかってきました。こうした丁寧な一つ一つの所作が相手に「私はあなたを大切に思っていますよ」というメッセージとなって伝わるのです。

 生徒に対しても同じだと思います。何か問題が起こったときにどんなに丁寧に接しようとしても、普段の所作が生徒にとって「ぞんざいなもの」として映っていたら、決して心を開くことはないでしょう。

 最近、教師による暴言がよく話題になります。かつて星野富弘さんが仰っていたように、「言葉は辛抱強い生き物」です。一度相手の心を傷つけてしまったら、それが体のどこかに染みついていて、ある日突然姿を現し、その人を深く落ち込ませることもあります。いわゆる「トラウマ」のような状態です。でも不思議なことに、活字にしたら暴言としか思えない言葉を生徒に発しているにもかかわらず、生徒に慕われ、信頼されている先生もいます。その違いは、普段のその先生の生徒に対する所作と大きく関係しているのだと思います。つまり、普段の所作によって、その先生の温かさが日常的に生徒に十分に伝わっているのです。

 私は、決して暴言を容認するつもりはありません。どんな教師でも使ってないけない言葉は使ってはいけないと思っています。でも、もし私たちが常に生徒を一人の人間として大切にする気持ちを持ち得ているなら、暴言は存在しないとも思うのです。そして、その気持ちは目に見える形で生徒に示さないと伝わりません。

 教師はときに、生徒に対して厳しく注意を促さなければならないことがあります。そういうときに、しっかりと伝えたいことが伝わるかどうかは、そのときの言い方だけの問題ではないと思います。子どもたちの感性は大人が考えるよりずっと鋭いものです。特に自分に自信が持てないでいる子どもたちならなおさらです。彼らは私たちの一挙手一投足を実によく見ています。自分に「寄り添」ってくれる人なのかどうか、それが彼らにとって最大の関心事なのです。

 Y先生は私に「寄り添われる」ことの心地よさを教えてくださいました。(作品No-99B)

若い先生は「楽」をする?

最近、意識して歩くことが多くなりました。退職して毎日が日曜日状態になったので運動不足解消のために始めました。歩いていると、いろんなことが頭に浮かんできます。その日は、若い頃に聞いた、ある落語家の言葉を思い出しました。

 「最近、健康のためにジョギングをやる人が増えているそうです。中高年以上の年齢の人がやるのには何も思いませんが、若い人でやっているのをみるとどうかと思います。だって、若い人は基本的に体力もあって元気です。若者が健康のためにジョギングするなんて信じられない。」

 若い人は、どうやったら楽ができるかを考えるのが普通だと私は思います。「楽」というとさぼっているかのように聞こえるかもしれませんが、そうではなく「合理的に考える」という意味です。すべての若者がそうだとは言いませんが、無駄なことはしたくないと思うのが普通の姿だと思うのです。

 最先端の流行や考え方を取り入れるのも若い世代です。新しいものへの好奇心が旺盛であり、それを行動に移すことへのためらいも少ない。また、同じことをするなら、短時間で終わらそうとする合理性もあります。私のような年配の世代からすれば、そういうところに危うさを感じたり、単に楽をしようとしていると受け取ったりしがちです。そして、「最近の若い奴は・・・」と愚痴ったりもします。

でも、こうした若者の特性は、さまざまな場面でさまざまな改革を推進する原動力になるのも事実です。最先端の技術をいち早く取り入れようとするのは、同じ仕事をどれだけ短時間でできるかという意識があるからです。大げさな言い方かもしれませんが、世の中の進歩はそうした若い人の感覚によって生み出されてきた一面を否定することはできないと思います。

 確かに、何でもかんでも楽をすればいいとは思いません。しかし、時間をかけることそのものに意義を感じているベテランよりははるかにましです。

 市教委で勤務していたとき、かつて市が独自に実施していた教師自作の「夏の友」(正確な名称は覚えていませんがたぶんこんな名前だったと思います)という夏休みの宿題の冊子を復活させようとする動きがありました。当時学校教育課の課長だった私は、市長同席の予算委員会で財政の責任者(役職名は忘れました)から「なぜ、あれ(「夏の友」)を復活させないんだ」と、ほぼ恫喝に近い言い方をされました。財政の責任者の言い分はこうでした。「教師が楽をしようとばかりしていてどうするんだ。子どものためにもっと汗をかけ」

 しかし、かつて実施していた「夏の友」は、単に教師が問題を作成すれば済む問題ではありませんでした。設定した問題の一つ一つに対して著作権の許諾を得る必要があったのです。教員が校種別、教科別等にチームを組んで問題を作成し、その一つ一つに教育委員会は著作権者に許可をとる手続きをしていました。例えば、国語の長文問題をつくるとすれば、その元になっている文について著作権上の許可が必要になります。その文を使って、どんな設問をし、どんな答えを正解とするかを含めて許可が必要となります。作者の意図と違う解答例を出せば当然却下されます。許諾が得られなければ問題作成は最初からやり直しです。膨大な労力です。ならば、問題文自体から作ればいいというかもしれませんが、それでは文学的に価値のある作品は使えません。子どもたちが教科書以外の名文に出会える機会を奪うことになります。

 それでも何らかの効果があるならいいですが、さほど効果があるものではありませんでした。私は、その委員会に出席する前に、他の課の課長から「夏の友」の復活について指摘されることをあらかじめ聞いていたので、過去の冊子の内容や当時の予算、その効果を調べてみました。すると、はっきりしたのです。「夏の友」は、十年間ほど継続して作成・配布していましたが、その十年間の全国学力学習状況調査を調べてみると、最初の数年は平均解答率がなんとか横ばい状態でしたが、最後の方では明らかに下がっているのです。 

 しかも皮肉なことに、実施をやめた次の年に大きく向上していたのです。おそらく「夏の友」と学力(あくまでも全国学力学習状況調査上の数値ですが)は、ほとんど関係がないことが容易に想像できました。しかも学校現場の先生方に聞いてみると「あんなもの、ちょっとできる子なら一日あれば充分終わらせることができる」というのです。実施に要する予算は一回の実施で300万円以上。たった一日のために、しかも何も効果も確認されていないのにもかかわらず、それだけの予算を毎年計上していたのです。そんな状況をしっかり検証もせず、財政の責任者は市長の前で堂々と「汗をかけ」という精神論をぶつけてきたのです。その委員会で、「なぜ実施しないのか」と聞かれたら、実施していたときの「負の成果」について主張しようと資料は準備していました。しかし、私に反論する時間は用意されませんでした。

 当時すでに、ほぼ同額の予算でインターネットを活用し何度でも繰り返し使えるドリルが作成でできるソフトもあり、近隣の教育委員会ではすでに導入していました。私は、予算案を出すときにそのソフトの導入を請求しましたが、却下されました。「また、楽をしようとしている。何度言ったらわかるんだ」というのがその理由でした。

 どうすれば子どもたちの学力が向上するのか、「子どもを真ん中に置いて」考えれば、労力ばかり多くて大した効果がないものを無理して実施するより、簡単にできて、しかも効果が上がるものを導入するのは当然のことです。しかし、時間をかけて苦労しないものは教育とはいえないとする古い価値観が、せっかくの好機を逃すことになったのです。犠牲となったのは他ならぬ子どもたちです。 

先にも書きましたが、何でもかんでも楽をすればいいとは思いません。先生が手を抜いている姿を子どもたちが見れば、先生への信頼も失うでしょう。でも、楽をすることと手を抜くこととはまったく違います。「夏の友」の編集担当になった学校現場の先生方は、多くの時間を作成のために奪われてしまいました。もし、何度でも繰り返し使えて、理解度によって簡単にその子に合ったプリントが手に入るソフトを使っていれば、編集に携わった先生方はその分、子ども一人一人に細やかに寄り添う時間が確保できたはずです。

 ちなみに、数年後私が課長をやめた次の年、例のソフト導入が決まりました。何年かかけて市内全小中学校で使えるようになりました。なんてこった・・・     (作品No-85RB)