中学3年生を担任していた秋、学校に一本の電話がかかってきました。電話の主は、かなり興奮していました。その男性は、私のクラスの男子生徒の父親。開口一番怒鳴るように言いました。
「お前が、うちの息子の担任か!」
「はい、そうです。」
「お前、息子の進路指導はちゃんとやっているんだろうな」
「はい、どの子にも同じようにやっています。」
「いい加減なことしたら許さんぞ。いいか、しっかり面倒見ろよ」
電話は一方的に切られました。
その父親の息子は、それほど勉強が好きなタイプではありませんでしたが、まじめに日々学校生活を送っていましたし、公立高校に合格するだけの学力もありました。なぜ、突然父親がこんな電話をかけてきたのか、その時はわかりませんでした。
ところが数日後、その父親の訃報が突然舞い込んできました。持病が悪化した結果の悲劇でした。その子は母親を幼いころに亡くしています。本人のショックはかなりのものでした。私は何度もその子の家に行き、励ましていました。しかし、祖母と二人暮らしとなった彼は、前にも増して寡黙になっていきました。
そして進路を決める最後の個別懇談で彼は、意を決したような表情で「俺、就職する」と私に告げました。大黒柱を失った彼の家庭は、祖母の年金に頼る生活でした。経済的に苦しい家庭を支えるための一大決心だったのです。そのころすでに高校進学率は9割を超えていました。15歳の身には辛い決断だったと思います。私は、彼の真剣さに押され、その思いを受けとめることにしました。
それから私は、彼の就職先を探しました。中卒で雇ってくれるところはなかなか見つからないだろうと考えた私はいろんな人に相談し、二つの工場を紹介してもらいました。一つは全国的に有名な企業の家電工場で、清潔かつ静かな職場で体力的にも負担の少ない職場でした。もう一つの工場は鋳造工場で、特殊な砂と薬品を扱っており、旋盤などの大きな機械音が鳴り響く、まさに町工場といった所でした。私は、前者の工場が無理なく働けていいのではないかと思いましたが、実際に働くのは本人です。私は彼を連れて両方の工場に見学に行きました。どちらの工場でも丁寧に対応してくださり、製造過程を間近に見せてくれました。
後日私は、彼に「どっちがいい?どっちも嫌ならそう言ってくれ」と聞きました。彼は、ほぼ迷うことなく鋳造工場を選びました。私は意外に思ってその理由を聞きました。彼は「鋳造工場の方が温かかった」と、いつものようにぶっきらぼうに、でもはっきりと答えました。見学に行ったときに油まみれの作業着を着た大人たちが、気さくに声をかけてくれたことが彼の決め手になったようでした。
周囲の友達が皆進学していく中で、さみしさを抱えていたのかもしれません。彼は労働条件よりも、人間としての温もりを選んだのです。
私は彼の家に行き、父親の位牌を前に手を合わせました。あの電話は、自分の死を予感した父親の最後で最大の愛情表現だったのだと思います。言い方は乱暴でしたが、自分がいなくなった後の息子の進路を命がけで私に託したのです。
私は、仏前で報告しました。
「お父さん、大丈夫です。息子さんはもう立派な大人ですよ。」
(作品No.222RB)