以前、このコラムでもご登場願ったことのあるS教授(当時)に関する話です。
私はS先生のゼミに入っていました。私が内地留学した教職大学院では、2年間で修士論文を書き上げないと修了することができません。1年目にテーマを決め、2年目に本格的に調査や執筆作業を行うのが通例でした。
とはいえ、すぐに研究テーマが決められるわけではないので、S先生は「まずは、テーマにつながる内容で、今、関心があることをまとめてきてください」とゼミ生にレポートを課しました。一緒に考えましょうというスタンスは、いかにも優しく温厚なS先生らしいと感じました。
ところが、その温厚な先生を私は激怒させてしまったのです。先生は私の書いたレポートに対してこう言われたのです。「あなたのやろうとしていることは教育ではない!」
私はかなりのショックでした。研究テーマの根本的な見直しを求められるかもしれない、そうなれば、私がここに来た意味がなくなってしまう。まさに、途方に暮れたのです。私の書いたレポートは、当時注目を集めていた教育社会学系の著作をベースに書いたもので、学校の現状を有体に示そうとした内容となっていました。純粋に「教育愛」を追究してきた先生は、一つ間違えば子どもを悪者にしかねないとして、私のレポートを完全否定したのです。
それから、しばらくして先生の研究室に入ったときのことです。先生はたまたま不在でした。ふと見ると先生の机には真新しい本が積み重ねてあります。おそらく研究費で購入された本でしょう。私は、いったい先生はどんな本を読んでいるのだろうと気になって、不在なのをいいことにそのタイトルを覗いてみました。すると、そこに積み上げられていたのは、なんと、私がレポートの参考文献に挙げた本ばかりだったのです。
びっくりしました。あれほど否定したのになぜ? と驚きました。でも私は、普段の先生の言動を思い浮かべて、すぐに理解しました。「先生は、自分のことをわかろうとしてくれている」。今後、私の研究テーマについてこのまま否定するにしても、いくらか認めるにしても、とにかく私がなぜこれらの本に魅かれたのかを、実際に読んでみて確かめようとしてくださったのです。そして、ゼミが進むにつれて私の本意を理解してくださり、全面的にバックアップしてくださいました。
修士論文を書き上げたとき、この話を先生に打ち明け、お礼を言いました。先生は「いやあ、最初、とんでもない人がゼミにきたと思いましたよ。」と笑っているだけでした。その後、先生は自分の論文に私の研究結果の一部を引用してくださいました。これは、引用するに値するという評価をもらったということです。
誰かに寄り添うためには、その人を理解しようとする姿勢が欠かせません。S先生にとっては、私の「研究力」など取るに足らないものだったと思いますが、それでも同じ目線に立って私という人間を信頼し、理解しようとしてくださったのです。
ここに示した、S先生の私に対する関わり方は、私たちが日々行っている子どもへの接し方(寄り添い方)にも大いに通じるものがあります。
「子どもは、教育者が彼について描く像に従って、また教育者が彼の中におく信頼に応じて、みずからを形づくるのである」1)
子どもをどこまで「信用」するかは、非常に難しい問題です。子どもは時に嘘もつけば、ごまかしもします。でも、人として「信頼」することはできると思います。
子どもは「…為しうるぎりぎりの限界まで試そうとする自然な願望をもっている」2)存在だとボルノウは言います。
これを信じることができるかどうか、そこが「信用」と「信頼」の境目なのだと思います。
(作品No.199RB)
1) O.F.ボルノウ、森昭・岡田渥美訳(1989)『教育を支えるもの』黎明書房、p115
2) 前掲書、p111