A先生の昔話

ある中学校のA先生の話です。A先生は、新任5年目の独身の男性。最初は、ほとんどの生徒にそっぽを向かれ、学級崩壊を起こすほど状態でしたが、それを何とか乗り越えて、教師としてのやりがいや自信も生まれてきたころのことです。

 A先生は、その年2年生の担任でした。学級経営は順調で、生徒との人間関係も良好でした。そのクラスにBさんという女子がいました。Bさんは、多少感情の起伏が激しいところがあったものの、学習面にも部活動にも前向きに取り組んでいて、誰よりも学校生活を満喫しているように思えました。

 ところが、1学期も半ばに差しかかったころ、普段は明るく覇気のある彼女が、どうも最近、浮かない顔をするようになりました。A先生は、彼女の様子が気になっていました。

 ある日、A先生は生徒指導室でBさんとゆっくり話をすることにしました。

「最近何か嫌なことでもあったんか」

 そう問いかけても、最初は何も言いませんでした。

「そうか、それならいいんやけど、どうも最近あなたの様子がおかしいような気がしてなあ」A先生がそう言うと、まるで(たが)が外れたように急に泣き出したのです。そして、嗚咽の間に一つ、また一つと短い言葉をねじ込むように挟み始めました。

 今まで本当に仲の良かった父と母が、最近家の中で毎日怒鳴り合いの喧嘩をしている、原因はわからない。子どもの私には言えないことなのかもしれない。でも、わからないから余計に不安で、怖い。いがみ合い(ののし)り合っている声が、自分の部屋まで聞こえてくる。その(いさか)いは来る日も来る日も終わることがない。もう、どうしていいかわからない。でも、誰にも相談できない。このまま家庭が壊れてしまったらどうしよう、彼女の思いは切実でした。

 A先生は、何をどう答えてやればいいのかわからず、ただ聞くことしかできませんでした。

そして、彼女のつらい話を聞いているうちに胸が詰まり、自然に涙が(こぼ)れ落ちてきました。 

「そうか。それはつらいなあ」と言うのが精一杯でした。何の力にもなれない歯がゆさが全身に広がっていきました。

 その年の3学期。修業式が終わったすぐ後に、BさんはA先生のところにやってきました。最近は、ようやく両親の関係が良くなって、前のように落ち着いた家庭に戻っていると話してくれたそうです。そして、こう言ったのです。

「先生、ありがとうございました。あのとき、私、ほんっとに嬉しかったんです。私のために泣いてくれる人がいるんだと思うだけで、何とか頑張れる気がしたんです。」

 こういうのが、教師の醍醐味ってやつですかね。退職するまでの30年余り、A先生はこのことを決して忘れることがなかったのですから。

 (作品No.201RB)

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