鳥の親心二つ

今から15年以上前のことです。知り合いとゴルフをしていたときティーアップをしようとしたら、不自然な飛び方をしている鳥が目に入りました。天敵にでも襲われたのか羽に傷を負っているようで、いまにも墜落しそうにフラフラと飛んでいます。パニックを起こしたようなすさまじい鳴き声も出しています。私は「大丈夫ですかね」と後ろにいたAさんに声をかけました。Aさんは、森林伐採のプロです。Aさんは、笑いながら言いました。「あれはわざとやっているんです」。

Aさんによると、これは鳥類の一部に見られる「偽傷」(ぎしょう)と呼ばれる行動で、翼を骨折して飛べないようにふるまったり、傷を負って飛べないでいるかのような動作をしたりして、巣への侵入者の注意を引き、卵やひなから外敵を遠ざけようとする行動なのだそうです。その話を聞いて、もう一度「演技」している親鳥を見ていました。「演技」をやめてまっすぐにどこかへ飛び去る姿を見た瞬間、私は、ただただ感動しました。

 もう一つ。

「親鳥は、巣立ちの時が近づくと、雛鳥にエサをあげなくなります。そうなると、おなかが空いてくるので、雛鳥も自分で飛んでエサをとりにいかざるを得なくなります。」(松尾英明2022『不親切教師のススメ』さくら社、p159)

鳥の種類にもよるのかもしれませんが、鳥は子どもの自立を促す方法を本能的に知っているというわけです。

 さて、人間の場合はどうでしょう。近年(と言ってもかなり前からですが)家庭の教育力が低下していると、まことしやかに指摘する人がいます。本当にそうなのでしょうか。

 教育社会学者の広田照幸氏は、1937年(昭和12年)の柳田國男の講演記録を根拠につぎのように指摘しています。

(柳田は)「親は教育の担い手としては「無力」であり、家庭は「教育の主たる管理者」ではなかった、というのである。「昔は家庭が責任をもってしつけや教育をちゃんとやっていた」という、今のわれわれが抱くイメージとちょうど逆のことが語られているのである」1)

「家族が直面していた多くの問題の中で、子供の問題は、優先順位が高くなかった。ましてや、子供のしつけや教育の問題は、簡単に無視できる程度のものだった。(中略)ろくに野良仕事もしないで子供のしつけや教育に時間をかける嫁がいたら、村中の笑いものになったはずである。(中略)乳幼児期における母親とのスキンシップが大切だとも考えられていなかったし、子供の成長や成功を自分の自己実現の一部とみなすような観念も希薄であった。」2)

 つまり、私たちがよく耳にする(あるいは口にする)「最近の家庭の教育力は低下した」という言い方は正しいとは限らないということなのです。

そういえば、高齢者の方から「昔は家に帰って、今日は先生に叱られたと親に不満を漏らすと“お前がわるいことをしたからだろう”と逆に厳しく叱られるから、学校で叱られたことは家では隠していた。」という話を聞くことがあります。言い換えれば「最近の親はなんでもかんでも学校に文句を言うが、昔は家でしっかりしつけていたものだ」というわけです。  

しかし、広田氏の指摘に当てはめれば、学校のことは学校に任せっきりにしていたというわけです。だから、ことさらに文句を言う必要もなかったのです。ただ、柳田國男が講演をしたころは、家庭よりも地域の「若者衆」などと呼ばれる地域組織の制約が厳しく、今と比べると地域には圧倒的な教育力(強制力?)は存在していたようです。そこで、若者は村独自のルールを叩き込まれたわけです。でも、それは「家庭」が子どもに教育しなくてもよかったことの裏付けにはなっても、家庭に教育力があったという根拠にはなりません。

このように考えてくると、今の家庭は教育力が衰退したのではなく、むしろ教育し過ぎ(子どもに関わりすぎ)なのかもしれません。些細なことでも学校にクレームをつけてくる親が増えたと言われますが、それは、親の子どもに対する関心が高まりすぎて「気になって仕方がない」からなのだと思います。かつてのように、子育てやしつけの優先順位が低ければ、親にとって子どもの言い分など「どうでもいい」ことと考えても当然です。だから、まともに受け付けなかったわけで、そのことを今の高齢者の方は「厳しくしつけられた」と振り返っているのかもしれないのです。そういえば私も、小さいころにはよく「子どもは黙ってろ」とか「大人の話に入ってくるな」と、一方的に叱られたものです。

昔の大人は、子どもを子ども扱いすることで、逆に子どもは冒頭二つ目に挙げた雛のように早く一人前の大人になりたいと思えたでしょう。でも、子ども時代は面白くないことや理不尽な扱いに耐えなくてはいけない面も多々あったと思います。逆に、今の子どもは、親がかまってくれます。子どもの訴えを聞いて学校に乗り込んでくる姿は、どこか冒頭一つ目の「偽傷」する親鳥に見えないこともありません。子を守るための必死の行動なのです。ただ、それによって子どもは一時的には平穏に過ごせるかもしれませんが、自立するタイミングを失いやすくなります。

親の対応の仕方は、社会全体の価値観や環境の変容にも大きな影響を受けます。昔のような接し方をすれば子どもは自立できるという単純な問題ではありません。昔、存在した「若者衆」のような地域社会の「受け皿」はもうないのですから、本当に効果を上げようとすれば、社会全体を昭和の初期に戻さなければいけません。そんなことはできるはずがありません。結局は、社会の現状に合わせて最適なものを模索するしかないのです。

今、学校に求められることは、子を思う親の心を十分に尊重した上で、子どもの自立を促すには何ができるかを考えることでしょう。社会の状況など現状を考えれば、子どもを見守りながらも、少しずつ子どもにかける手を引いていくことが必要です。

そして、最も大切なのは、どのタイミングで「偽傷」する親鳥になるか、どのタイミングでエサを与えない親鳥になるか、それを保護者とともに考えていく姿勢だと思います。

(作品No.180RB)

  1. 広田照幸(1999)『日本のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、p25)
  2. 前掲書、p28

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