新しい学習指導要領が始まって数年が経過し、主体的・対話的で深い学び(いわゆるアクティブラーニング)が少しずつ学校現場に浸透しつつあります。新型コロナウイルス感染拡大の影響で思うようにできないことも多々ありますが、子どもがこれらの力を身につけるために、小集団活動を積極的に取り入れ、話し合い活動を活発化させようと取り組む事は、変化の激しい社会を生き抜く子どもを育てるために非常に重要なことです。
一方、講義式による一方向的な授業展開は、アクティブな授業の対極にあるものとして否定的に語られることが多くなりました。明治の学制発布から続けられたこの授業形態は、今では知識を注入するだけの詰め込み教育の典型として揶揄されるようになったのです。
ただ、なんとなく私には違和感が残ります。
「たとえば私は授業中、絶対に生徒を当てないと決めているんです。ペアワークもさせません。そういうのが苦手な子が一定数いるので。ただ私の話を聞いて、英語に興味をもってくれればいいと思っています。最初の授業でそう話すと、みんな安心してくれます」1)
これは、東京にある目黒日本大学高等学校通信制課程の先生の話です。この先生は、生徒たちに発言や発話を促すことすらしないそうです。それは「受け身でもいいから、英語を楽しいと思ってほしい」と願ってのことだといいます。最近の通信制高校には、かなりの割合で中学校時代に不登校を経験した子がいます。そうした子の多くは、活発に発表や意見交換をするのが苦手で、「いつ指名されるか」「指名されてわからなかったらどうしよう」と他の子以上に考えてしまう傾向があります。だから、あえて発言を求めず、発表も強制しないことを宣言した上で授業をするのです。
公立の小中学校と高校、それもスクーリングでしか体面で授業をしない通信制高校とでは条件が大きく違うので単純に比較はできませんが、私たちが注目すべきなのは、この先生が目の前の生徒の個性や心の状態に応じた授業展開を考えていることです。この学校でもアクティブな授業を行うことは不可能ではないでしょう。けれども、中学時代にそうした授業についていけずに不登校になった生徒に強引にアクティブさを求めてしまえば、せっかく入学した通信制高校も続けるのが嫌になってしまいます。
講義式の授業が批判される本当の理由とは、教師のペースで一方的に授業を進めてしまうことによって、目の前の生徒一人ひとりの個性や理解度が視野に入らなくなることにあるのだと思います。
そもそも主体的、対話的で、深い学びというのは必ずしも活発な意見交換の場だけで培われるとは限りません。この先生の授業によって、それまで緊張感や自己嫌悪の感情が邪魔をして授業に集中できなかった子たちが、自分で考え、教科書の文言と懸命に対話し、深く思考することができる環境が整うのであれば、それでいいわけです。
「活動」はあくまでも主体的な学習のための手段です。アクティブラーニングの成果は、一人ひとりの個性(性格など)と理解度を通して個々に違った形で表れます。それを十分に発揮できる環境をいかにつくり出すかを考える方がはるかに大切です。
例えば、小集団での人間関係によって「活動」が一部の子どもにとって苦痛な場となっている場合には、柔軟にグループを編成し直すことも必要でしょう。また、グループ内での発言は少なくても、振り返りを書かせることは「深く」考えている子に表現の場を与えることでもあります。ときには(本人の了承を得て)そういう子の意見や答えの出し方などを全体に紹介する機会を設けることで、子どもは自信を持つこともあると思います。私たちには、知識を伝えるだけでなく、環境を含めて授業をコーディネートすることが求められています。
(作品No.189)
1)おおたとしまさ(2022)『不登校でも学べる 学校に行きたくないと言えたとき』集英社新書、p349