前回のコラムで中学生が道徳の授業を面白くないと感じるのは「最初から答えが決まっえている」というのが、その大きな理由だと書きました。それを打破するためには生徒の心を揺さぶる発問が必要です。私は過去に何度か「赤ん坊」という言葉を使って揺さぶりました。以下にいくつか例を挙げてみます。
(ここに挙げる例は、今から20年~30年前に実践したものです。そのため、「障害」という言葉など現代にそぐわないものも含まれています。また、授業の内容については、具体的な資料が残っていないものも多く、私の記憶を頼りに書いている部分も多々あります。もし、この記事を参考に道徳の授業を実践しようとされる場合は、現代の価値観や目の前の児童生徒の状況に合わせて適切にアレンジを加えていただきますようお願いいたします。)
1 障碍(障害)ということ:「障碍者(障害者)問題の「問題」とは何か」(中学生対象)
授業者「障害がある人というのはどういう人のことをいうの?」
生徒「何かできないことがある人のこと」「車いすを使っている人のこと」「目が見えない人」など
授業者「なるほど。それでは生まれたばかりの赤ん坊は障害者ってことかな?」
生徒「・・・(いや、そういう意味ではないんだけどなあという表情)」
授業者「車いすを使っていれば障害者だという意見もありましたが、私が交通事故にあったとして一か月間車いすを使ったら、その間は障害者ってことかな?」
授業者「目が見ない人という意見もあったけど、かなり視力の弱い人はどう?いやっぱり障碍者?」
この授業で私が生徒に考えてほしかったのは、健常者と障碍者とを区別することにどれほどの意味があるのかということでした。どんな人でも得意なこともあれば苦手なこともあります。苦手というだけなら努力である程度カバーできるでしょうが、それが努力してもどうにもならないものであったなら、何らかの支えや援助によって補うのは当然のことです。視力の弱い人なら眼鏡をかけて補うことや、うまく歩けない人が車いすを使って移動するのは何も特別なことではなく、必要だから使っているのです。
当時は「障碍者」差別が今以上に多く、生徒の中にも障害のある子に対して露骨に差別的な発言をする子もいました。もちろん優しく手を差し伸べようとする子もいましたが、それでも「~してあげる」という意識は見え隠れしていました。そういう生徒の意識に揺さぶりをかけたくて授業をしました。
2 人間の条件
授業者「社会科か理科の授業で勉強したかもしれませんが、人間はサルが進化したものだといいますよね。そのとき、人間である条件って教えてもらいましたか?」
生徒 「二足歩行ができる」「言葉が使える」「火が使える」・・・
授業者:「なるほど。じゃあ、赤ん坊は人間じゃないってこと?」
生徒 「・・・(そういう意味じゃないんだけどなあ)」
ちょっと乱暴な発問だったとは思いますが、「1 障碍(障害)ということ」と同様、生徒は「・・・(そういう意味じゃないんだけどなあ)」という反応を示してくれました。「そうじゃないんだけどなあ」と思いながらも、うまく言葉にして表現することができない。だから、「本当はどういうことなんだろう」と考えるようになります。この後の授業展開は、授業者の事前準備と当日のコーディネート能力が必要になりますが、とりあえずこの反応が出た時点で授業のねらいの大半は達成できたと思います。なぜなら、このとき子どもたちは「障碍」や「人間」といった言葉の概念を無意識に再構成を始めた証拠だからです。
ステレオタイプに物事を決めつけてしまうことは、さまざまな偏見のもとになります。よくわかっていると思っていることや当たり前だと思っていることを少し広い視野で見直したり、深く考えたりするきっかけを与えることが道徳の授業では特に大切です。そういう一工夫によって「どうせ答えが初めからわかっている」という虚無感のようなものを越えることができると思います。最終的に、障碍があってもなくてもみんな同じ人間なんだというゴールに行きつくとしても、あえて少し遠回りをさせることが必要です。その途中で「えっ」とか「なるほど」といった驚きや感動がなければ、ステレオタイプの認識に刺激を与えることも、自ら考えさせることもできません。
次の機会には、小学生対象の例も挙げようと思います。