癒されるということ -「読み語り」の被包感-

私は、研修所に勤務していたとき「読み聞かせ」の講座を担当していました。そこで、子どもの生活文化研究家の梓 加依(あずさ かい)先生と出会いました。

 中学校現場しか経験のなかった私には、「読み聞かせ」などまったくの無縁のものでした。不遜にも「この講座は、若輩の指導主事に任される〝軽い〟講座なのだろう」と思っていました。しかも、講師の梓先生はとてもこだわりの強い方で、講座のたびに大量の絵本を研修所に送ってくる人でした。そして、事前に研修する部屋を下見に来られて一冊一冊置く場所を指定されるのです。どのみち、1回の講座で読める本なんてたかが知れてるのに、なぜこんなに大量の本が必要なのか、下準備に付き合うだけでも大変でした。その上、運転免許をお持ちでなく遠方から高速バスで来られるので、毎回インターまで車で送迎しなければなりません。だから、この講座があるときには他の仕事がほとんどできない状態でした。

 ところが、最初の講座で180度意識が変わりました。

 講座は、「読み聞かせ」の基本をまとめた短いビデオを2本見た後、簡単な注意事項-本の持ち方など-を先生が説明され、受講者(ほとんどが小学校教諭)が、部屋いっぱいに並べられた絵本の中から一冊を選びます。そこには、「自分が誰かに読んで聞かせたい」と思う本を自分で選ぶことを先生が重視されていたからでしょう。大量の本にはそういう意味があったのです。そして、少人数のグループ内で互いに「読み聞かせ」を実演し、各グループから選ばれた代表者が全体の前で実演し、それに対して講師が助言する、これが講座の流れでした。

 助言の内容は実にコンパクトなもので、さほど「すごい」と思えるようなことはなかった(先生、ごめんなさい)のですが、グループ毎の「読み聞かせ」から代表者の「読み聞かせ」へと進むにつれて、少しずつ会場の空気が変わっていくのです。どこか懐かしいような、温かい空気が流れ始めるのです。

 そして、極めつけだったのは最後に梓先生が自ら行う「読み聞かせ」でした。私は、びっくりしました。大人の私、それもこの講座にさほど思い入れもなかった私でさえ、体の中から熱いものが込み上げてきたのです。今、これを書いているときでさえ、そのときの感覚がよみがえってきて涙しそうになります。

 当然、梓先生の読む技術が高かったこともあったでしょうが、それよりも「誰かに読んでもらう」ということが、ものすごく心地の良いものなのです。

 それは、読み手と聞き手が本を通してつながっている世界でした。それが頭ではなく、肌で感じられるのです。先生が読み始めたときはまだ、読み手が聞き手を惹きつけようとしている意図を感じるのですが、聞いているうちに、聞き手は読み手と本が醸し出す世界に自らその身を委ねていくのです。そして、同時に包み込まれるような感覚が体中に広がります。「癒される」というのはこういうことなんだ、そう思うと私は不覚にも自然に涙がこぼれそうになりました。

 講座が終わり、片づけをしながら、私の「癒され」体験について先生に話しました。先生は子どものような表情になって「そうでしょ。本ってすごい力があるんですよ」と満面の笑顔で答えてくださいました。そして、こんな話をしてくださいました。

「でもねえ、私は、「読み聞かせ」っていう言い方があまり好きじゃないんですよ。本当は「読み語り」だと思う  んですよね。「読み聞かせ」というとどうしても「読んでやっている」というイメージになるでしょ。読み手が本の世界に没頭して「語る」。それだけでいいんですよ。余計なことはいらないんです。」

 先生は自著の中で「絵本は誰のもの?」という見出しで次のように述べています。

(研修などでいろんな人に本を読むと)「この絵本の読み語りで、大人の教師や学生たちから「とても癒された、楽しかった」「絵本がこんなに素晴らしい資料だとは思わなかった」「絵本は子どもだけのものじゃない」といった感想がたくさん出てきたのです。お母さんたちも子どものために読んでもらっているのに、自分が楽しかったといってくれます。私も仕事として絵本と関わってきましたが、絵本を楽しみ、絵本に癒されてきました。」1)

 この「癒され」感は、ボルノウが「教育を支えるもの」として最も重要とした「()包感(ほうかん)」(雰囲気)につながるものだと思います。

 絵本に限らず、本は今どんどん電子化されています。聞くところによると電子書籍は紙書籍よりもコストがかからず、売れ残りや返品のリスクがないため、出版業者にとってはありがたい存在なのだそうです。また、近年では朗読のプロが読む電子媒体も増えています。それも貴重な存在でしょう。でも、体ごと包み込まれる感覚が生まれるのは、そこに「読み手」という生きた人間が存在するからです。

 どんなに上手に読んだとしても、読んでいるのが「AI」だったら、梓先生のいう「読み語り」は成立しないのです。

(作品No.202RB)

1) 梓 加依・吉岡真由美・村上理恵子(2011)『介護とブックトーク』素人社、p6

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