生徒理解の本質

令和4年12月、『生徒指導提要』(以下『提要』)が10年ぶりに改訂されました。最初の『提要』が平成22年に出されるまでは、『生徒指導の手引き』(1981年、当時の文部省発行、以下『手引き』)が生徒指導の指針とされていました。しかし、学習指導と生徒(生活)指導は「車の両輪」といわれてきたにもかかわらず、41年もの間、生徒(生活)指導については全く手つかずの状態だったのです。これだけ間があくと、学校の実情に合わなくなってしまいます。

 例えば、『手引き』では、子どもを理解するために必要な情報として、生徒の氏名や住所や出欠状況、学業成績などはもちろん、乳幼児における病気やそのころのしつけの状況や家庭の社会的、経済的状況に加え、両親の関係が和合的かどうかまで知ることが必要だとされています。また、家族内で子どもがどんな扱いをされているのか(無視や偏愛はないか)といった家族関係の詳細な部分や、本人の情緒的な問題や習癖(過敏性、爆発性、気分の変異性、精神的な打撃を受けた経験の有無など)、友人関係、知能など、理解の対象は実に49項目にもわたっていました。これは、そのころの児童生徒理解が、いかに多くの情報を集めるかを重要視していたことがわかります。しかし、現代の私たちからみれば、そこまで、子どもの情報を集めることを求められるのは違和感を禁じ得ません。

 この違和感を説明するのに、以下に示した新潟県立看護大学臨床看護学領域(母性・助産看護学)准教授で教育学博士でもある西田絵美氏の見解が参考になります。看護の世界の話ですが、教育の世界、特に児童生徒理解に通じる内容として非常に重要な示唆を与えてくれます。

「……「相手の存在やその状態」の把握を、相手の属性や背景などの諸要素を一つずつ取り上げて分析し解釈する。つまり、人間を要素や部分に分割し、それらを総合して相手を理解しようとする……」1)

「このような思考は、まさしく主客二元論的思考に則ったものである。そして、これがエビデンス(根拠)に基づく科学的な看護と考えられている。この方法を間違いなく実施しようとすれば、膨大な知識が必要となる。それは、あらゆる情報をコンピュータ-に入れ込んで、スイッチを押せば情報処理された結果が出てくるようなものである。看護師がこのような思考しかできないのであれば、近い将来、看護という仕事は簡単にAIに取って変わられるだろう」2)

 主客二元論的思考とは、「主体(看護師)と客体(患者)という二つの対立概念を基礎に世界を理解しようとする認識論」3)のことで、看護師が主体となって患者を分析しようとする態度のことを指します。

 つまり、この態度は情報を集めるだけ集めて病状を正確に把握しようとしてはいるものの、看護師が患者を一方的に理解しようとしている姿であり、本当に相手(患者)に寄り添ったものとは言えないのではないかという指摘です。西田氏はさらに、「(ケアする相手に)「対象」という語を用いている時点で、ケアの相手を物象化(モノ化)」4)しているのと同じだと断じます。看護師にとって患者は、あくまでケアする相手であり、医学的に分析する「対象」ではないのです。

 以前紹介した哲学者のメイヤロフも「ケア」とは、「最も深い意味で、その人が成長すること。自己実現することをたすけること」5)と定義しています。そしてそれは、相互に成長し合う関係でなければならないと指摘しています。教師にとって主にケアする相手は児童生徒ですが、西田氏やメイヤロフの指摘に従えば、私たちが「理解する教師」と「理解される子ども」という「二元論的」な視点をもった時点で、相手はわからなくなるということになります。

 ちなみに、メイヤロフのいう「ケア」は原文では「On caring」であり、現在進行形として示されています。これは、児童生徒理解が現在進行中でしか成立しないということを示唆するものだと私は思っています。                   (作品No.218RB)

1)西田絵美(2022)『ケアの気づき-メイヤロフの「ケア論」がひらく世界-』ゆみる出版、p35

2)前掲、p36 3)前掲、p32、引用中( )内は引用者による 4)前掲、p38、引用中( )内は引用者による

5) ミルトン・メイヤロフ著、田村真・向野宣之訳(1987)『ケアの本質』(ゆみる出版)、p13

参考:文部省(1981)『生徒指導の手引き』、p55

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