私たちはなぜ、髪が長くなると理髪店や美容院に行けるのでしょうか?(まあ、普通の人はこんな疑問は持たないと思いますが)。それは、理髪店に対する信用があるからです。理髪店の人は、様々な刃物を持っています。はさみや、かみそりなど悪気があれば凶器になるものをもっているわけです。それでも、私たちは髪を切りに行くことを不安だとは思いません。そこには、「店員さんが、その刃物を持って自分に切りつけてくるようなことはしない」という信用があるからです。厳密に考えれば、そこに根拠はありません。こうこうこうだから刃物を凶器にすることはないという、最近はやりの言葉でいえば「エビデンス」は明確にはないのです。それでも信用するのは、社会や人間に対する信頼があるからです。「普通そんなことは起こるはずがない(そんな人はいない)」という信頼があるからです。もし、少しでも「ひょっとしたら傷つけられるかもしれない」と思ったら二度といけなくなります。そういう疑いを持たない、ある意味絶対に近い信用があるからこそ、私たちは安心して身をゆだねることができるのです(ときには、途中で居眠りをすることさえできます)。
このことを学校にあてはめれば、学校というシステム(社会と言ってもいい)や教師に対する信頼が十全であれば、生徒は安心して身をゆだねられるということになります。しかし、それは簡単なことではありません。多様化の時代にあってはなおさらです。
でも、この問題は今に始まったことではありません。1950年ごろに活躍したドイツの教育哲学者ボルノウ(1903-1991 ドイツ生まれ)は、当時すでに次のように指摘しています。
「教育者という職業は、彼に求められる信頼に対して、たえず過大な要求を課せられている点で、大きな困難を担っている。ここにしばしば教職に特有の悲劇が生まれる。多くの教育者が、あまりにも早く気むずかしくなり、疲れ切ってしまうのは、まことにもっともなことである」1)
私たちは、保護者や地域からの理不尽な要求を、近年始まったことだと思い、昔はこうじゃなかったと感じることも多いのですが、実際は、長きにわたって教職という仕事に課せられた課題なのです。
ボルノウの指摘が本当だとすれば、私たちの先輩たちも同じ悩みを抱えていたことになります。そして、その都度乗り越えてこられたからこそ、今があるのです。気休めにしかならないかもしれませんが、そう考えるとほんの少し肩の荷が下りたような気がするのは、私だけでしょうか。
1)『教育を支えるもの』O・F・ボルノウ著、森昭・岡田清美訳、1993.3.15新装5刷、黎明書房、p124)(新装初版は1989.3.10) ちなみに「教育を支えるもの」というこの本のタイトルは、直訳すれば「教育的雰囲気」(風土のようなもの)となるのですが、情緒的・感傷的な基調を漂わせる「雰囲気」との混同を避けるべきだとするボルノウの意図を汲んで、訳者によって「教育を支えるもの」とされました。かなり読み応えはありますが、若い先生にはぜひ読んでほしい名著です。教育の根本的な問題(「あらゆる効果的な教育にとって欠くべからざる根底をなす情感的条件と人間的態度」(同書p31)について考えるには、最高の一冊です。現代の教育にも十分通用し、将来迷ったときの拠り所となってくれます。