適応障害と診断されて3か月療養をとっていたとき、本当に何も手に付きませんでした。ひどいときは、目の前のコップをとるエネルギーさえなかったことがあります。そこまでひどくなる前でも、新聞を読んだり、それまで興味があったはずの本を読んだりすることができないときもありました。とにかく前向きな気持ちが湧いてこないのです。
私は、そういう経験を通して、人から見て「無駄だ」と思うようなこと、たいして何の役にも立ちそうにないこと(その人にとっては意味のあることなのだろうとは思いますが)ができるのは、自分の中に不安な気持ちがないからだと気づきました。そういうことができる人は、いろんな意味で気持ちに余裕がある人なのだと思います。
心が弱っているときというのは、自分の視線がすべて自分の内側に向いてしまいます。自己嫌悪が激しくなり、他の人を見ると今の自分はなんでこんなに情けないんだろうと思ってしまいます。それが怖いから視線を外に向けることができなくなります。でも、自分の中をいくら探しても自信の持てるものが見つからない。だから、余計に自分が嫌になる。何をしても無意味だと感じてしまいます。でもそれは、意味のあることを求めすぎている裏返しでもあるのです。意味のないことをすれば、自分自身が意味のない存在だと確認することになるからです。
例えば、上司が部下に指示を出すとき、指示の内容だけを伝えればそれでことは足ります。でも、ほんのちょっとユーモアを交えて指示が出せることができる人はすごいと思うのです。そのちょっとしたユーモアは、ある意味「無駄」なのかもしれません。そんなことを言うより正確に指示が出せる方がいいのかもしれません。でも、そのちょっとした「無駄」によって、部下にしてみれば上司に親しみを覚え、何かトラブルを抱えていても相談しやすくなるでしょう。まあ、そのユーモアが上司にとってユーモアでも部下にとっては嫌味に聞こえることもあるので注意が必要だと思いますが。
子どもというのは、そういう意味では無駄のかたまりなのかもしれません。大人にとっては何の意味もないような物を一生懸命集めたり、一つの物をいつまでも眺めていたりします。授業中も興味がなくなれば、すぐに手遊びを始めたりします。
ダンゴムシを集めたり、泥だんご作りに夢中になったりするのは、ある意味「無駄」なことのように見えます。時間割が厳密に決められた学校の中では、休み時間に懸命になってダンゴムシを探している子も、チャイムと同時に教室に入らなければなりません。大人にとっては、ダンゴムシを集めることよりも、次の授業に遅れないようにさせることが意味のあることであり、際限なく続けるダンゴムシ集めは「無駄」なのです。
でも、もしかしたらそのダンゴムシ集めからその子は小さい生き物の不思議さを学ぶかもしれません。大人にとっての「無駄」が子どもにとっても同じように「無駄」だとは言い切れないのです。
私はよく思います。夢のような話ですが、せめて、たまには、一日中それぞれの子どもが学校の中で自由に過ごせる日があってもいいのではないかと。一日中寝転んでいてもいいし、一日中友達と鬼ごっこをしてもいい。そんな日があってもいいのではないかと。今、子どもたちは道草すら許されません。不審者から子どもを守るためには一斉登校、一斉下校の方が安全です。それは確かにその通りです。実際に被害に合った子どももいるわけですから仕方ありません。だったら、学校という安全な場所で月に一回くらいは完全フリータイムを作ってやりたいと思うのです。特に小学生の間はそんな時間があってもいいのではないかと思います。
小学校に勤務していたとき、虚言癖のある子がいました。その子は、いつも叱られていました。親からも先生からも。でも、毎朝学校には明るい笑顔で登校してきていました。そして、毎日のように登校中に見つけたバッタやヤモリなどを大事そうに持ってきていました。一度は鹿の角をもってきたこともありました。そのときの顔は実に生き生きとしていました。私はその様子を見て、必ず声を掛けるようにしていました。「今日は何が見つかった?」それだけでその子はとても自慢そうにいろいろ話をしてくれました。そういう子にとって、本当に自由な一日があればどんなに生かされるだろうと思うのです。本当に夢のような話かもしれません。でも、工夫次第でできないこともないのではないかとも思います。自分が勤務しているときにできなかったくせに、何を偉そうにと言われるのは覚悟のうえでそう思います。
子どもの「無駄」に見える行動は、大人にとっての「無駄」であり、決して子どもが認めた「無駄」ではないのです。「無駄」をしているときの子どもの視線は必ず外に向かっています。心が弱っている子にはできないのです。
(作品No.87RB)